インターバル

 初めての小説を書いて一ヶ月後。

 綱渡は『小説野獣』の編集長、虎尾に電話で呼び出された。多分、この間書いた小説のことだろうと思う。何かモデルにした人物からクレームでもついたのかも知れない。まさか名誉毀損で告訴なんてことにならないか? 綱渡はちょっと重たい気分で門松書店の文芸誌『小説野獣』編集部に顔を出すことにした。そっと、そっと、扉を少し開けてみる。状況偵察だ。偵察だ。見てみると、綱渡が日頃出入りしているところ。つまり“流行の先端を追い越す”、男性情報雑誌『スピンオフ』編集部とは違って、文芸誌の『小説野獣』編集部はこじんまりして妙に静かだった。編集者の数も少ないようで座席は『スピンオフ』の三分の一もなかった。そして編集部員は誰もいなかった。『スピンオフ』編集部のあの狂気に満ちた喧騒に慣れている綱渡にはこの静寂が身に馴染まなくて、とっても敷居が高いのであった。さらにそおっと扉を開けてみると、目の前に虎尾編集長がいた。思わず扉を閉め直して、後ろにオオカミがいないかどうか確かめる。前門の虎、後門の狼である。当然、いるはずはない。ニホンオオカミはとっくに絶滅している。そんな、全く意味のないことを考えていると、虎尾が僕に気付いて呼んだ。

「綱渡君、何をしている。早く来たまえ」

 虎尾はいかめしい顔をして声をかけてきた。その声は重低音で耳に響く。どう考えても怒っているようにしか聞こえない。綱渡は恐怖に慄いた。ここはケツ巻いて逃げ出そうか。

「どうした? 腹でも痛いのか」

 虎尾が尋ねて来る。はい、あなたに怒られるストレスと恐怖で十二指腸に穴が開きましたとも言えず、処刑台に引きずられる死刑囚のようにトボトボと処刑台、いや編集長席に近づく。教誨師はいないのか。すると、

「この前はありがとう。これはお礼だ。少ないけど取っておいてくれ」

 虎尾が封筒を差し出した。お金をいただけるんだ。お小言をいただくのかと思った。でも、まだ安心はできない。ご用心、ご用心。

「ありがとうございます。で、小説の評判はいかがでしたか? 散々でしたか?」

 恐る恐る綱渡が聞くと、

「うん、可もなく不可もなしという感じだ。でも俺は素人にしてはよくできてる方だと思うよ。もうちょっと評判が上がってもおかしくないと思った。俺は及第点をあげるよ」

 虎尾は初めて笑った。別に怒ってたわけじゃないんだ。そういう地顔なんだ。綱渡は心底ホッとした。

「だけどさ、『悲恋』っていうタイトルはおかしいと思うぜ。二人は愛し合っていたんだから、『悲愛』の方が良かったんじゃないかと俺は思った。でも君のオリジナリティを尊重して、そのままにしておいた。俺は作家を尊重する編集者なんだ」

「ありがとうございます。でもそんな時はジャンジャン変えちゃってください」

 と言ってから自分の言葉の無意味さを悟った。もう小説を書くことはないんだった。これ一回の約束だった。なので、

「お褒めに預かって恐縮です。では、これで失礼します。ごきげんよう。さようなら」

 と言って出て行こうと思ったその背中に、

「まだ俺の話は終わってないぞ」

と虎尾が声をぶつけてきた。ちょっと痛い。

「えっ? まだ何かご用ですか」

 綱渡が振り返ると、先ほどと違って気持ち悪いほどの笑顔を見せた虎尾がいた。

「実はな、南野圭子先生は復帰したんだが、今度は伊佐坂幸太郎先生がぎっくり腰で寝込んでしまってまた雑誌に穴が開きそうなんだ。すまないがまた一本、明日までに書いて来てくれないか?」

 虎尾の笑顔には気を付けなくてはならない。今後、注意しよう。綱渡は心にメモした。

「でも、この間の一本だけだって、約束したじゃないですか。だいたい、こんな時のためのストックの小説はないんですか?」

 綱渡は率直に聞いた。

「おう、よくぞ聞いてくれた。実はな、この編集部に緊急用の小説のストックはない。全くない」

「ええっ!」

「というのも前任の編集長、鳥越が集団社の『小説プレアデス』に引き抜かれた時に、作家ごと持って行ってしまったんだ。鳥越の奴、汚い真似をするよな。そうは思わないか! ちくしょう」

「そうですね、そんなのありなんですか? 情報漏洩で訴えたらいいのに」

「著作権者は作家だからな。作家が引き上げるというのだから、こっちは文句ひとつ言えない」

「しかし、鳥越さんって方、人望あるんですね。作家を根こそぎ持ってかれるなんて、普通は考えられません」

「それは言ってくれるなよ。俺だってライトノベルの作家になら、人望あるぞ。だから彼らに一般文芸を書くよう勧めてるんだが、どうしても魔法とか、モンスターとかが出てきちまう。そういう性分なんだな」

「でも、昨今では一般文芸として売り出すライトノベルもあるじゃないですか? 『なんとか古書堂』とか『なんとか珈琲店』とか」

「おいおい、俺が前にいたのは月刊誌『ドラゴンボーイ』だぞ。剣と魔法とモンスター。それから勇者とお姫様がメインじゃないか。現代にいる主人公がみんな異世界に行っちまう」

「なるほど」

「だから正直、困ってんだよ。なあ、後生だからもう一回助けてくれよ」

「うーん」

「ギャラは弾むからさ。それにまた単行本を出したっていい」

「本当ですか。今、プロ野球の横浜マリンズの監督について書いてる原稿が出来上がりつつあるんですけど」

「いいじゃん。それで行こうよ。だからお願いするよ」

「約束ですよ」

「任せとけ。書籍部には貸しがたっぷりある」

 こうして綱渡は二本目の小説を書くことになった。


「さて、次は何を書こうか」

 家に帰った綱渡はパソコンの前で呻吟していた。ノンフィクションのデータならいくらでもある。しかしそれを小説にするとなると話が違う。人物の名前を変え、性別を変え、職業を変え、場合によっては事件を起こした人間を善、被害者を悪にしなければならない。ありもしない出来事をでっちあげるのも肝要だ。まかり間違って、プライバシーの侵害を訴えられたら大変だから、そこのところは慎重を期さねばならない。あれ、気付けば、もう夕方だ。綱渡はパソコンのスイッチを消して、毎日のルーティンである、ねこのエサやり、ねこトイレの掃除、夕食、入浴、読書をこなした。どんなにピンチの時でもこの一連の習慣は守る。泊まり込みの取材以外の時は、きっちりやらなくてはいけない性分だった。そして十二時。

「おやすみなさい」

 としっかり就寝した。午前三時に目を覚ます。

「さあ、やりますか」

 綱渡は腕まくりして、パソコンに文字を打ち込み出した。小説作法はあんまりよくわからないが起承転結、序破急とどっかで聞いた法則に基づいてやればいいのだろう。その辺は行き当たりばったりで行こう。どうせ素人だ。責任は虎尾編集長にある。ビクビクするのはもうやめよう。ああ、それにしても横浜マリンズの監督の本、ちゃんと出版してくれるんだろうな。本が出て印税が入らないと生活がちょっと厳しい。

 妄想ばかりが続いて、指が全く動かない綱渡であった。 

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