悲恋

 僕は死に場所を探している。

 もう車で一時間も走っただろうか。時計など見る余裕もなかったのでわからない。

 景色はいつの間にかギラギラした都会の喧騒から静かな田園地帯の広がる世界に移っている。だが僕の心はそれをあえて捉えようとはしなかった。というか目に入るのを拒んでいた。やがて遠くに山並が見えてくる。そこに行けば望みのものがあるかもしれない。そう、死に場所だ。

 助手席には弘子がいた。弘子は車に乗ってから一度も口を開いていない。黙ったままだ。僕は弘子に死ぬ事を伝えていない。おそらくは無理心中という事になってしまうだろう。だけど、弘子は、僕たちが死ななければならない事を僕の表情から、薄々感じているようにも感じる。だから、あるいは理由をきちんと告げれば、は自らも死を選んでくれるかもしれない。僕は自分のこの手で弘子を殺したくない。今だって弘子を愛している。けれど愛しているからこそ、二人は死ななければならない。僕は自らに課せられた運命を呪った。

 車は山道に入った。死に場所はまだ見つからない。


 昔の話をしよう。僕が初めて弘子を見つけたのは高校に入学した年の五月だった。その時、僕は窓際の席に座ってぼんやりと校庭を眺めていた。授業は英語の時間で、僕は残念なことに入学早々、英語で良い成績を取ることを諦めていた。そりゃあ単語を覚えることくらいは簡単だ。なんどもノートに書きとればいい。短い文章も例文集で公式を暗記すれば読解できるし、英訳もできた。実際、中学時代は英語が得意科目の一つだった。しかし、関係代名詞という、悪魔が出てきて僕はちんぷんかんになってしまった。文中に疑問形であるはずのWhatやらWhoが文中に現れるのがまずおかしい。でも存在しているならまだいい。それがなぜか省略されて消えてしまう。教師はそれを類推せよと言うが、僕にはそれが出来なかった。勉強不足と言われればそれまでだが、僕には自分に英語の才能がないと感じられた。だから授業を放棄した。だから教科書の後ろに、ミステリー小説を隠して読んでいた。もちろん、日本の作家の本だ。いくら翻訳されていても、外文の小説は読まない。なぜなら登場人物の名前が覚えられないからだ。一番頭にくるのが、ロバートがいつの間にかボビーになったり、エリザベスがリズに変わったりすることだった。それも何の断りもなしに。何でロバートがボビーなんだ。納得いかないので、海外ミステリーはこの世にないものとして、日本のミステリーを読み漁っていた。とにかく英語というものは僕にとって鬼門だった。

 だから、あの日も教師に隠れてミステリーを読んでいたのだ。この教師も嫌いだ。その高圧的な教え方は、ただでさえ英語に辟易している僕からやる気をすべて奪い去った。その時、読んでいた本の作品名は忘れてしまった。僕はその頃、狂ったように本を読み漁っていたから、いちいち題名なんか覚えちゃいない。それはともかく、授業をサボって読書していた僕はミステリーに読み疲れて、目休めと気分転換に窓の外を見た。僕は一年六組だが、校庭では同じ一年の三、四組が男女に分かれて体育の授業を行っていた。男子は走り幅跳びを砂場で飛んでいる。同じ中学出身の見知った顔がいた。そして女子は砲丸投げをやっていた。僕の目は体操着姿の女子に目が行く。そういう年頃だから当然だろう。勘弁してくれ。僕の目はまず、三組の瀬戸さんに向かった。瀬戸さんは身長百七十センチ近くある大柄だが中肉でファニーな面立ちだった。多くの男子生徒が入学早々から憧れていたが、まだアタックした奴はいないらしく特に決まった男子はいないようだった。砲丸を投げる姿も様になっていて格好良かった。僕はその頃百七十二センチの身長だったから、身長はなんとか釣り合う。チャンスはあるな、と妄想していた。瀬戸さんとは学年委員会で一緒になっていて、瀬戸さんが委員長、僕が副委員長で、親しくなれる可能性はあったのだが、何せ、僕は人見知りが激しい性分なので、自分から積極的に言葉をかけることはなかった。だいたい人前に出るのが好きでないんだ。そんな僕がなんで学年委員になったかというと、違う中学から来た丸山という男子生徒が唐突に僕を推薦したからだ。僕はその時、唖然とした。喋ったこともない丸山が何で僕を指名したのかは今でも謎だ。結局丸山とは卒業まで一回も会話したことがなかった。だから丸山のその時の心理を推し量ることは出来ない。まあ、そんなことはどうでもいい。校庭では、瀬戸さんの次に中肉中背の女子が砲丸を投げた。僕はちょっと驚いた。彼女は左腕で砲丸を投げたのだ。実は僕も左利きなので、すぐ、彼女に親近感を覚えた。髪は軽くカールしていた。パーマがかかっているのか天然なのか僕には分からなかった。僕は軽い天然パーマなので彼女も天然だったらいいのにとなぜか思った。彼女は投げ終わると女子の最後列に立った。親しく話す友人もいないようだった。孤高としている。僕はそれまで瀬戸さん一本やりだったが、妙に左利きの彼女が気になった。はっきり言ってしまえば美人だったからだ。そこはかとなく、高貴なオーラが出ている。名前も知らない美しい少女、それが弘子だった。

 英語の授業が終わると僕は早速動いた。自分にしては珍しいことだ。三組には小学校からの旧友、波江がいた。中学からバンドに熱中し、ドラムを叩いている。僕はといえば音楽が全く苦手で、中学時代、音楽の時間に、ソプラノリコーダーもアルトリコーダーもまともに吹けなかった。嫌な思い出だ。だから高校に入って実技の授業が音楽か美術の選択だと知った時、迷わず美術を選んだ。絵なら誰だって描けるだろう。そういうわけで、浪江とは高校に入ってから、少し疎遠になっていたのだけど、好奇心に勝てずに少しでも情報を得ようと、僕は三組に乗り込んだ。

「波さん」

 僕は彼を呼んだ。

「おう、どうした。俺はまだ着替え中だぞ」

 波江は以前と変わらず、親しげに話しかけてくれた。

「実はさ、お前のクラスに左利きの女子がいるだろ」

「ええと……ああ、沢口弘子だな」

「沢口って言うんだ」

「なんだ、惚れたのか?」

「そういうわけでもないんだけれど」

「じゃあ、やめときな。あいつは札付きのワルだっていうぜ」

「えっ?」

「中学時代はスケバンのトップだったらしい」

「でも、この学校に入ったんだから、頭は悪くないだろ」

 僕の高校は県下でも五本の指に入る、進学校だ。

「悪賢いのかもな。とにかくオススメはできないよ。それに男嫌いだって噂があるからな。誰とも喋らないし」

 そう言うと、波江は着替えを終え、スティック片手に教室を出て行った。

 沢口弘子という名前は分かった。しかし、元スケバンで悪賢い女という余計な情報まで受け取ってしまった。自分と同じ、左利きで、髪にウェーブ。そんなこととで共感してしまったが、自分には手に負えない女。僕は沢口弘子は諦めて、やっぱり瀬戸さんにアタックするべきかなと思った。


 しかし、一週間後、運命を左右する、事件が起こった。

 それは僕が職員室に向かう廊下をぼんやりと歩いていた時だった。突然、職員室のドアがガタンと開き、誰かが急ぎ足で出てきた。沢口弘子だった。その顔を見た僕は驚いた。彼女は泣いていた。なぜか知らないけど泣いていた。その泣き顔が僕の男心を妙にくすぐった。泣きはらした弘子は僕の顔を思わずじっと見つめると、一瞬驚いた顔をして、その後そっと僕にしがみついた。ほんの一瞬のことだった。僕も軽く背中を抱いた。しばらくして、僕の胸から顔を上げると、「ごめん」と言って僕から離れ、廊下の向こうに走り去って行った。ほんの数十秒のことだったと思う。だけど、僕には永遠の時の流れに感じられた。胸の鼓動がいつまでも高まり、このまま死んでしまうんじゃないかと思った。すると、職員室から社会科の後藤先生が出てきて僕に、「顔が赤いぞ。熱でもあるのか? 平気か?」と気遣ってくれた。この先生はなぜか僕のことがお気に入りで、何かと僕を引き立てようとする。要するに贔屓だ。僕を学年委員会の副委員長にしたのもこの先生だ(僕は全然、やりたくなかったけど)。先生の行為はありがたいが、そういう、贔屓みたいなことは勘弁して欲しかった。僕は先生のロボットなんかになりたくないのだ。だからとりあえず、「大丈夫です」と言ってその場は済ました。しかし実際には大丈夫じゃなかった。僕は次の日から一週間高熱を出して寝込むことになった。なんのことはない。流行りの風疹だった。


 学校に復帰した昼休み、弁当を食べようとしていた僕の目の前に、沢口弘子が現れた。その瞬間、騒がしかったクラスが波を打ったように静かになった。みんな知ってるんだ、弘子の中学時代を。世間知らずの僕だけが何も知らないでいた。弘子は開口一番「この前は、ごめん」と謝ってきた。これで二度目の謝罪だ。「いいんだ、僕がああいうことに慣れていなかっただけだから」と僕は答えた。

「慣れてないんだ?」

 弘子が真顔で聞く。そして、

「モテるかと思ってた」

 と意外なことを言った。

「まさか、恥ずかしいけど、女の子の手も握ったこともない」

 僕は正直に答えた。

「ふうん」

「ところで、聞いてもいいかい?」

 僕は悩んだ末に聞くことにした。そして、小さい声で、

「なんで、なんであの時泣いてたの?」

 と尋ねた。

「それを聞くのね」

 弘子は冷たい笑顔を見せた。やっぱり聞いちゃいけなかったか?

「この前のお礼に教えるわ。柏原に中学の時のことをちょっとね、言われた」

「クソ柏原か」

 体育科の柏原はイヤミで暴力的で尊敬の全くできない、校内の嫌われ者だった。

「まあ、中学時代、グレてたのは事実だからいいんだけど。この高校に入ってからもカツアゲとかしてないかって、あることないこと言われて」

「そうなんだ」

「でも大丈夫。あたし、高校に入ったら環境も変わったし、真面目になるって決めたから」

 そう、整った顔で言う、弘子に向かって、僕は勇気を出して励ました。

「負けるなよ。僕がついてるよ」

 その時の僕の顔は真っ赤だったと思う。

「ありがと。でも無理しなくていいのよ。あたしに味方すると、何かと不利になるから」

 そう言うと、弘子はクラスから、ひらりと出て行った。

 そのあとが大変だった。クラス中の男子(丸山はいなかった)に一部女子が僕の席に押しかけてきて、「お前、沢口とどういう関係なんだ?」とか「付き合ってんのか? あのアバズレに」などと僕を質問攻めにした。中には聞くに絶えない誹謗中傷もあった。彼女と同じ中学の奴だった。僕は憤然として「付き合ってない。この前ちょっと困っていたところを助けただけだ。それに沢口はアバズレなんかじゃない」と叫んだ。その剣幕に押されたのか、僕の周りに集まった男女は席を離れていった。だがひそひそと話す耳障りな声があちこちで聞こえる。僕が学校で癇癪を起こすのはこれが初めてだった。


 それから僕と弘子は『半交際』の状態になった。日頃、僕は硬式テニス部、弘子はバスケット部と演劇部を掛け持ちして、多忙を極めていた。だから、放課後にどこかにしけこむなんてことはなかった。ちなみに、僕はスポーツはどちらかと言えば苦手だった。得意だったら、硬式野球部に入って、甲子園を目指してる。テニス部に入ったのは単に『チャラそう』だったからである。しかし、入ってみると、実情は違った。毎日、十キロのランニング。厳しい筋トレ。なまった僕の体は悲鳴をあげる。こんなことなら硬式野球部に入ればよかった。などと思ったりもした。でも僕は硬式テニス部から逃げなかった。今思えば不思議だ。その後の人生、逃げてばかりだからだ。その時、僕は僕なりに熱血したのである。初めはてんでお話にならなかったけれど、猛練習のおかげで、みるみる上達していった。嬉しかったし、少し自信がついた。

 練習が終わると、僕は自転車で帰宅する。その途中で、同じく部活を終えた弘子が待っている。一緒に帰るためだ。学校で落合わないのは「変な噂、立てられたくないから」という弘子の発案だった。要領の悪い僕は部活の後始末に手間取るため、いつも弘子を待たせた。それに対し弘子は文句一つ言わない。彼女だってバスケット部と演劇部を掛け持ちして大変なはずなのに、僕を待たすことなんて一度もなかった。一度、「どうして掛け持ちなんて大変なことをするんだ?」と僕が聞いたら、「両方やりたいんだから仕方がない」と弘子は答えた。彼女の体の中には激しい情熱があるんだ。それを昇華させるには一つの部活では足りないのだ。僕はそう思った。道中の会話はそれくらいで、だいたいは無言で自転車を漕ぐ。それでも僕は嬉しかったし、楽しかった。そして別れ際、「また明日ね」という弘子の声を聞くのが無上の喜びだった。


 困ったことが起きた。あの瀬戸さんが、僕に交際を求めてきたのだ。学年中の、いや学校全体の憧れ、瀬戸光子さんである。僕は正直に言うと悩んだ。昔から好意を持っていた女子だ。それに学年委員会では委員長と副委員長として、協力して仕事に当たっている。無下に断ったらその関係にもひびが入る。だが、やっぱり僕の一番は弘子だ。浮気をするのは嫌だ。僕は、

瀬戸さんに「友達としては付き合えるけど、恋人にはなれない」と告げた。瀬戸さんは大人だった。「なら親しい友達で」ということになった。玉虫色の決着である。しかし、話はそれでは終わらなかった。弘子の耳に、『瀬戸さんが僕に交際を申し込んだ』という話が入ってしまったのだ。弘子は僕に「瀬戸さんが好きならあたしのことは構わないでいい」とあの冷たい顔で言ってきた。僕は怒った。「僕の好きなのは沢口だけだ。他の女子の話なんか、聞きたくない」と。すると弘子は泣いた。あの時以来だ。そして「今の話、信じていいの?」と泣きながら聞いてきた。「もちろんだ」僕は力強く答えた。この時からやっと『半交際』から普通の交際になった。でもまだプラクティスラブだ。そこから先に進むのはちょっと怖かったのだ。


 そんな交際が続き、僕らは三年生になった。

 僕らは進路を決めなくてはならなくなった。僕は歴史が好きだ。だからK大学の文学部史学科を希望した。それから本が好きなので図書館司書の資格を取りたいと思っていた。それに教職試験に受かれば、司書教諭になれる。理想は、歴史学者、駄目なら司書教諭、それも駄目なら高校の歴史の教師になろうと思っていた。弘子はN大学の芸術学部を受けるという。「将来、何になるのか?」と尋ねると、「大学に入ってから決めるわ。芸術って言ったってたくさんあるから」と答えた。「これからは少し、疎遠になるね」僕が言うと。「心さえ繋がってればそれでいい」と弘子は答えた。

 そこまでは問題なかった。衝撃を受けたのは瀬戸光子さんが、僕と同じ、K大学の文学部文学科を受けるというのだ。もし二人とも合格したら、いくら広いキャンパスと言え、偶然出会うこともあるだろう。そしたら「食事でも」ということになるのは目に見えている。次に会う約束もするだろう。二人の仲が親密になるのは目に見えている。遠くの恋人よりも近くの友人だ。僕は欲望を抑える自信がなかった。

 そして春、三人は希望の大学に合格した。それが良かったのか悪かったのか、その時の僕には分からなかった。


 大学に入って二ヶ月、僕は一般教養の授業の連続に退屈していた。本格的な歴史の授業は三年生になってから。分かってはいたけれど、この時間がとてももったいなく感じていた。だからその日も授業を適当に聞き流し、「昼飯は何にしようか」と考えながらボーッと校内を歩いていた。

「ねえ」

 誰かが、僕の方を叩く。瀬戸さんだった。かつて自分が妄想した筋書き通りの展開である。

「お昼まだでしょ。一緒に食べよう」

 瀬戸さんは屈託のない笑顔で僕を誘う。瀬戸さんはそのすらっとしたボディーとファニーな笑顔でキャンパス中の話題をさらっていた。寄ってくるハエどもも多いと思うが、強力なハエ叩きで退治しているようだ。僕はそのことを知ってはいたが、あえて彼女に近付こうとはしなかった。いや、意識して避けていた。自分の感情が狂うのが目に見えていたからだ。しかし、出会ってしまった。

 ランチの最中僕は学問の話題を並べて、話が変な方に行くのを避けた。しかし、「ねえ、大学生になったんだから居酒屋にでも行ってみない?」と瀬戸さんが明後日の方向の話をし、僕はなぜか断ることができなかった。弱い心だ。せいぜい「僕らまだ未成年だよ」という抵抗を試みたが、「身分証明書を見せるわけじゃないんだし。堂々としていればいいのよ」という言葉に押し切られ、夜の約束をしてしまった。弘子は今日、大学の仲間と食事をするという。特に支障はない。

 僕らは無難なところでチェーン店の居酒屋に入った。僕は酒に弱い。日本人特有の酒を分解する酵素がない口だ。せいぜい中ジョッキ二杯が限界だ。一方、瀬戸さんはいわゆる『うわばみ』で最初から焼酎の水割りやらホッピーのセットを頼んでいる。僕はなるべく酔うのを避けるため、食べることに集中した。しかし、「ねえ、飲みが足りないよ」と瀬戸さんは僕に、未知の領域、中ジョッキの三杯目を追加する。僕の顔面はリンゴのように赤くなり、意識が朦朧としてきた。いや、意識が完全に飛んだ。

 気づいたら、ファッションホテルのベッドに寝ていた。横には裸をシーツに隠した瀬戸さんがいた。

「初めてだったの?」

 瀬戸さんが言った。

「うん」

「沢口さんと済ませていると思ったわ」

 そう言うと瀬戸さんはバッグから煙草を取り出し、紫煙を履いた。意外だった。

「瀬戸さんは?」

「高校時代に」

「だ、誰と?」

「誰だっていいじゃない」

「えーっ」

 まさか瀬戸さんがそんなにご発展だとは思わなかった。

「でも、好きな人とするのは、今日が初めて」

 僕は全然愛し合った記憶がなかった。だから出来たのだろう。

「ねえ、沢口さんとはもう疎遠なんでしょ。あたしと付き合わない?」

 瀬戸さんは昔断った話を蒸し返してきた。

「ええと、ごめん。それは出来ない」

 僕は必死に、断った。

「どうして?」

「沢口には特別なシンパシーを感じている。どこか僕と似てるんだ。安らぎを感じるんだ」

「でも、今日私と寝たことが知れれば、彼女、身を引くわよ」

「頼む、このことは内緒にしてくれ」

「それは男の勝手だわ」

「勝手でもなんでもいい。とにかく沢口は特別なんだ」

「……」

「分かってもらえないか」

「いいわよ。分かってあげる。今日は貴方を試してみたの。沢口さんとの間に割り込む余地があるかどうか。でもないようね。やっぱりあたしは貴方とは友達でしかないのね」

 瀬戸さんは悲しげに言うと、煙草をまた吸った。

「今日のことは夢。貴方、沢口さんを幸せにしなくちゃ駄目よ」

 瀬戸さんはそう僕に告げると、まだ長い煙草をもみ消し、服を着て出て行った。「ここの支払いはお願いね」そう言い残しながら。

 僕は今後、一生酒を飲まないぞと決め、財布の中身を見た。なんとかホテルの料金を支払えそうなので安堵した。

 それから僕は都合のつく限り、弘子と会った。それは一種の贖罪の気持ちからだった。そしてプラクティスラブの誓いを破り、弘子と関係を持った。弘子は普段の冷静さと異なり、激しくて情熱的だった。そのことに驚くとともに、彼女の中で燃える炎の熱さを感じた。それは体内に宿るエネルギーだ。この娘には何か大きくて強いものがある。僕は、それを支え、邪魔にならないようにしなくてはならない。と誓った。

 ある時、僕は気まぐれに尋ねた。

「どうして、クソ柏原にいじめられた時、僕に抱きついたの」

 すると、弘子は答えた。

「あなたは、あたしに似たところがあるから」

 それの意味することがわかるのはしばらく後になってのことだ。


 大学を卒業し、僕は東京の某私立高校の司書教諭になった。狭き門だった。司書教諭の募集をかけている学校は少ない。でも司書教諭の資格を持っている人は山ほどいる。僕がそれになれたのは運が良かったからだ。それだけだ。そして、そのことに良運を使い果たしてしまったとも言える。歴史学者の夢は、古文書解読というものにとどめを刺され散った。あのぐにゃぐにゃの文字が僕には全く読めなかった。よって件の如しである。一方、弘子は演劇の道に進み、劇団に入った。そこは超ロングランのミュージカルを連発する、大劇団だった。そこで、弘子は劇団の主宰の目に止まった。新人なので小道具の手入れなどの激務をこなす傍ら、発声練習やダンス、芝居の基本を徹底的に叩き込まれているらしい。連絡は夜遅くの電話だけだったが、欠かさず掛かってきた。疲れているだろうに、それをおくびにも出さず電話口で話をする弘子。話は劇団のこと中心だったがそれはそれで、幸せだった。

 弘子は間もなく、ミュージカルの主役に抜擢され、成功を収めた。ものすごいスターになった。テレビ番組からのオファーも多数あったが、彼女はすべて断った。僕と会う時間を作るためである。劇団の主宰は僕の存在に激怒した。「今すぐ別れろ」と弘子に迫った。しかし弘子は断った。主宰との軋轢が生まれてはもう劇団にはいられない。弘子は退団した。自らの夢を捨ててまで、僕を選んでくれたのだ。僕は嬉しくもあり、申し訳なくも思った。


 弘子との結婚を真剣に考えた僕は、疎遠であった実父にそのことを連絡した。

「ならば、一度連れてきなさい」

 それだけ言うと実父は電話を切った。

 僕と実父の関係は決して良好ではない。名前は出せないが、実父は小説家ではっきり言えば売れっ子作家である。テレビなどにもよく出演し、その時の姿は温厚で真摯に見えるが、家庭においてはそうではなかった。作品を書くのに呻吟し、ものに当たり、母に当たる。そして別宅に女を作り、すぐに家出をする。僕も何度も意味もなく折檻され、暴言を浴びた。その中でも許せないのは僕をお腹に宿して、つわりに苦しむ、母を見捨て、新しい女を作って二年も失踪したことだ。だから僕の出産に父は立ち会っていない。一歳になって初めて僕を見たのである。そして一言、「俺には似てないな」と言って、母を悲しませた。母は僕が十歳の時にくも膜下出血で死んだ。その時も実父は別の女の元に居て、葬式に姿を現さなかった。母方の親戚は怒り、母の骨を実家の墓に入れた。そして僕も母方の親戚に引き取られた。実父が放蕩をやめ、落ち着いてきたのは六十歳を過ぎてからだ。母の親戚や、僕に詫びを入れ、高校生になった僕を引き取った。だから、表面的には、僕ら親子の関係はうまくいっているように見える。しかし、僕の心の中にある、実父への怒りは消えていない。

 当初は弘子を実父に逢わす事すら躊躇われた。しかし、表面上は良好な関係の親子だ。学費だって出してもらっている。ここは腹の中の怒りをグッと堪えて、顔合わせをしよう。それに実父の性格も落ち着いてきている。息子の結婚相手と会えば、さらに親としての自覚が生まれてくるかもしれない。そんな期待をしていた。馬鹿だった。


 弘子の次の休みの日、僕は彼女を連れて、実父の元へ行った。実父の家は広大だ。彼はここに一人で住み、お手伝いさんを雇って暮らしている。実父は寿司の出前を取らせ、上機嫌で僕らを迎えた。弘子の顔を見るまでは。

「初めまして、沢口弘子です」

 弘子が、挨拶をし、実父が返答しようとして彼女の顔を見た時、「はっ」とした顔をしたのを僕は見逃さなかった。だがそれを僕は「あまりに美人だから驚いた」ぐらいにしか思わなかった。

「よく来たね」

 実父は重々しい声で言った。

「ありがとうございます」

 弘子が答える。何もない普通の光景だ。その裏にあんなことがあるなんて気付く方がおかしい。

 会話は僕一人が饒舌になって話していた。実父は一人、酒を飲み、弘子が注ぐ。

「ありがとう」

 実父の目に涙が浮かんだように見えた。息子が彼女を連れてきたのが、そんなに嬉しいのか。僕はますます饒舌になった。そんな言葉の接ぎ穂に、実父が、

「お母さんは元気かい」

 と弘子に聞いた。僕が、その言葉の異常さに気づいたのはだいぶ後になってからだった。

「母は、あたしが中学に入る前に病気で亡くなりました」

「それから?」

「親戚の家に引き取られましたが、折り合いが悪く、あたしは荒れました。そのあと別の親戚の元に行き、そこでは親切にしてもらい、大学まで行かせてもらいました」

「そうか……苦労したんだね」

「いえ」

 なんだか、ギクシャクしてきた。実父の悪い部分が出る前に、おひらきにしよう。僕は思い、

「今日は僕たち用事があるんだ。この辺にしよう」

 そう言うと、席を立った。


 僕は酒を飲んでないので、車の運転は出来る。とりあえず、弘子の借りているアパートに、彼女を送った。

「用事なんか、何もないじゃない」

 訝しがる弘子に、

「父は狂人なんだ。長くいると、嫌な思いをする。そうなる前に離れたほうがいい」

 と僕は正直に話した。

「でも、有名な小説家じゃないの」

「狂人だからこそ、ヒット作が書けるんだ。天才と狂人は紙一重なんだ」

「へえ」

 僕らは弘子の部屋に行き、そして愛し合った。


 翌日、実父から電話があった。珍しいことだった。

「どうしたの?」

 僕が聞くと、

「あの娘は駄目だ」

 実父は叫ぶように言った。

「な、なんでだよ」

 僕が怒って言うと、

「理由はない。理由はないんだ」

 そう言って実父は一方的に電話を切った。いつもの気まぐれだと僕は思い、無視することにした。

 実父からの電話は執拗に続いた。最初のうちは怒号をあげ、まるで脅迫のようだった。僕は無視した。すると今度は、

「悪いことは言わない。彼女だけはやめてくれ」

 と哀願するようになってきた。

「どうして、どうしてなんだ。理由を言ってくれよ」

 僕は不安になって聞いた。彼女の何が問題なんだろう。すると実父は、

「理由は言えない」

 と言って電話を切った。

「何なんだ!」

 腹の立った僕は実父の元を訪ねた。実父の真意を聞くまでは帰らない。その理由いかんでは実父との縁を切ってもいいと思った。

 出かける間際、弘子から電話があった。

「話したいことがあるんだけど」

「分かった。ちょっと用事を済ませたら、君のアパートに行くよ」

「なるべく早く来て」

 弘子は甘えたような声で言った。珍しいことだ。


 実父の家に行くと、お手伝いさんが出迎えた。

「お父様は執筆中で、今は誰ともお会いになりません。私も取り次ぎを控えています」

 お手伝いさんが冷たく言い放った。その言葉に怒りの倍増した僕は、お手伝いさんを払いのけ、

「直接会う!」

 と実父の書斎に乗り込んだ。ノックもせずに入る。

「お前か」

 実父は意外にも冷静に僕を迎え入れた。

「話がある」

「俺もだ」

「なんで彼女を拒む」

 僕は怒鳴った。

「本気で彼女を好きなのだな」

「当たり前だ」

「じゃあ、本当のことを話そう」

 実父は僕を居間へ誘った。そしてお手伝いさんに、

「しばらく、買い物でもしてきてくれ。帰りはなるだけ遅いほうがいい」

 と言って、お手伝いさんに一万円札を渡した。

 僕は我慢できなくなって叫んだ。

「本当のことって、なんだ!」

 実父はソファーに腰掛けると、煙草を取り出して一服した。その時僕は不覚にも瀬戸さんのことを思い出した。こんな時にどういうことだ。馬鹿っ!

「あの子はなあ、沢口弘子って娘は」

 実父は煙草の煙を吐くとこう続けた。

「悦子の娘だ」

 よく分からなかった。

「そして、俺の子だ」

「えっ?」

「沢口弘子は俺と悦子の子だ。顔を見てすぐ分かった。つまりお前の異母妹だ。兄と妹は結婚出来ない。実際には俺は沢口弘子を認知していないから戸籍上、婚姻は可能だ。だが、血が濃すぎる。子供が生まれたら、何らかの支障が起きる可能性が高い。俺はお前たちのために言っている。別れろとな。本当のことはこれだけだ。あとは二人でよく話し合って別れろ」

 そう言うと実父は立ち上がり、書斎に消えた。灰皿に火を消してない煙草の灰がポトリと落ちた。

「いもうと……」

 僕はつぶやくしかなかった。そして、テーブルにあった煙草の箱から一本取り出し、吸った。ヘブンスター、強い煙草だ。非喫煙者の僕はむせ返った。でも吸う。意地でも吸ってやる。実父は言った。認知してないから戸籍上は婚姻できると。ならば子供は作るまい。弘子と二人で暮らせるなら子供は必要ない。そうだ、弘子にはこのことを内緒にしよう。そして、どこか遠くで結婚すればいい。

「そういえば、弘子、話があるって言ってたな」

 僕は実父の家を離れ、弘子のアパートに向かった。


 弘子はいつになく、穏やかな顔をしていた。

「やあ」

 挨拶をしながら僕の頭の中は『異母妹』という言葉が渦巻いていた。左利き、軽い天然パーマ、それに同じ匂い。共通点が多すぎる。それらを強引に引き剥がす。

「話があるって言ってたね。僕にも話したいことがあるんだ」

 僕は遠くの街に行って結婚し、新しい生活を始めようというつもりだった。しかし、弘子の一言が僕の心を崩壊させた。

「赤ちゃんが出来たみたい」

 目の前が真っ暗になった。これでもう、僕たちは結婚出来ない。もし、ここで堕胎を勧めたら、真実を話さなくてはならない。そうしなくても出生前検診で医師に子供が支障を持って生まれることを告げられ、結局は堕胎を勧められる。その時にも、やはり真実を告げねばならない。

「どうしたの? 顔が真っ青だけど」

 弘子が聞く。その彼女の手を取り、僕は玄関を出て、彼女を強引に車に乗せ、スタートさせた。

(死のう)

 とっさに思った。弘子も一緒に……


 僕は死に場所を探している。

 もう車で一時間も走っただろうか。時計など見る余裕もなかったのでわからない。

 景色はいつの間にかギラギラした都会の喧騒から静かな田園地帯の広がる世界に移っている。だが僕の心はそれをあえて捉えようとはしなかった。というか目に入るのを拒んでいた。やがて遠くに山並が見えてくる。そこに行けば望みのものがあるかもしれない。そう、死に場所だ。

 助手席には弘子がいた。弘子は車に乗ってから一度も口を開いていない。黙ったままだ。僕は弘子に死ぬ事を伝えていない。おそらくは無理心中という事になってしまうだろう。だけど、弘子は、僕たちが死ななければならない事を僕の表情から、薄々感じているようだ。だから、あるいは理由を告げれば、は自らも死を選んでくれるかもしれない。僕は自分のこの手で弘子を殺したくない。今だって弘子を愛している。愛しているからこそ、二人は死ななければならない。


 死に場所はまだ見つからない。


 

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