エピローグ 幽霊じゃなくても、嘘を吐く -A Liar without Ring-

 事件に関する話はひとまず終わった。警察からは連絡があり、あと小一時間もしないうちに、別荘に到着するらしい。

 警察には事件の顛末をすべて正直に話すことに決まっていた。状況が明確なので、取り調べも厳しくはならないだろう。詠の目論見通りに事が進んでいる。

「燈馬」

 真崎たちは部屋に引き上げていた。もうここに用はない。警察から解放され次第、東京に帰るつもりだった。そのために、今は荷造りの真っ最中だった。

「何?」

 真崎は顔を上げずに答えた。

「あれはどういうこと? まったく納得がいかない!」

「さあ? 知らないよ、そんなこと言われても……」

 真崎は肩を竦めた。詠の表情がいよいよ険しくなった。真崎は目を逸らし、荷物を詰める作業に戻りながら、口を開いた。

「とどロッキーのトド以外の部分みたいな顔になってるよ」

「ただのシルヴェスタ・スタローンだわ、それは」

 詠は表情を変えずに言った。

「良いから、答えなさい」

 詠は真崎の顔に手をかけ、無理矢理自分の方を向かせた。そのままがっちりと顎を固定される。

「そうだねえ」

 真崎はのんびりと言いながら、詠に目で合図を送った。

「先に、片付けるべきことがあるね」

 部屋の扉の方を視線で示す。一瞬きょとんとしたが、詠はすぐに小さく頷いた。それから忍び足で扉の方に歩いて行く。そして一気に扉を引き開けた。

「うわあ!」

 支えを失い、つんのめって部屋に転がり込んできたのは、彩乃だった。床の上に膝をつく。

「まったく……」

 詠はそのすぐ横に仁王立ちになった。

「お仕置きが必要ね」

「ど、どうして判ったの?」

 彩乃が少し声を震わせる。真崎は思わず噴き出した。

「自分で言ってたじゃない。廊下が軋むとか、扉が薄いとか」

「あ、そっか……」

 ぽん、と手を合わせて彩乃は納得した。詠は腕を組んで、床に座ったままの彩乃を見下ろした。

「さて、どうしてくれましょうか? 私たちの話を立ち聞きなんて、とても許されないわ」

「ごめんなさい。その、どうしても気になったので……」

「何が、いえ、誰のことが気になったのかしら?」

 詠はにっこりと笑顔を浮かべた。

「それは、その……」

「その?」

「まあまあ」真崎は口を挟んだ。「彩乃さんは、とりあえず美咲さんのところに行った方が良いよ。まだ、ちゃんと話をしていないだろう?」

「……はい」

 彩乃は少し不満そうだったが、ちゃんと頷いた。

「色々話さなくちゃいけないこともあるだろうし。今後のこともね、きちんと相談しないと」

「はい。解っています」

「じゃあ、美咲さんによろしく」

 彩乃は重い足取りで出て行った。一応耳を澄ますと、廊下が軋む音が周期的に聞こえてくる。やがて、どこかの部屋の扉が閉まる音がした。

「燈馬は甘いわ」

 詠が唇を尖らせた。真崎は肩をすくめた。

「それで、何だっけ?」

「事件の話よ。どうして、美咲さんが犯人じゃないのよ。おかしいじゃない」

「そうかな?」

「だって、隆さんが……」

 詠の言葉が尻すぼみになった。

「うん、ただ、隆さんの幽霊が嘘をついていた、ってだけの話だよ」

 真崎は笑いながら言った。

「なんで嘘を吐くの。だって自分が殺されているのよ? なぜ犯人を庇うようなことを言うの? しかも、別の人、それも奥さんを犯人扱いするなんて……」

「そうだねえ」

 真崎は小さく笑った。しかし、それが詠の癇に障ったようだった。彼女は頬を膨らませて、腕を組んだ。

「きちんと説明なさい」

「どうしても訊きたいの?」

「当たり前じゃない。早く話して」

 詠は真崎を冷たい目で睨んだ。真崎はこっそり溜息を吐いた。

「まあ、良いけどさ」

 真崎はどう説明したものか、少し考えた。

「まずね、隆さんの幽霊が嘘を吐いていることは明白だった」

「はい? どこがよ?」

「彼が言ったのは、ソファで寝ている間に美咲さんに殺された、ってことだけだ。具体的な手段とか時間は語らなかった」

「そうね。確かに嘘だった。でも、どうしてそう判ったのよ」

「だってさ」真崎は苦笑した。「隆さんは、その日、十年ぶりに亡くなった奥さんと会ったんだよ。そんな人が、ソファでうたた寝なんてするわけないじゃない。頭が昂ぶってそれどころじゃないよ」

 真崎の説明に、詠は一瞬目を丸くしたが、やがて頷いた。

「言われてみればそうね。たしかに……。それで?」

「食事の時、いや、その後僕らと話しているときの隆さんは正常だった。しかしその後にこの蛮行だ。どう考えても、恵子さんの幽霊が関係している。幽霊が、何かを隆さんに告げて、その結果として隆さんは米山さんを殺そうと決意した。そうとしか考えられない」

 真崎は詠の表情を窺った。しかし、目に見える変化は何も無かった。

 一面的に、詠が幽霊を呼び出したことでこの事件が起こってしまったと考えることも出来なくはない。間違いなく、詠もその認識に思い至っているはずだ。

「その、詠。あんまり深く考えこまないで」

「ええ」詠は無表情のまま言った。「燈馬の言いたいことは解る。それは良いから、続きをお願い」

「その……」仕方なく真崎は続けた。「恵子さんがどんな嘘を吐いたのかは、想像しか出来ない。でも隆さんが即座に殺害を決意するくらいだ。きっと……、自分を殺したのは米山さんだ、くらいは言ったんじゃないかな」

「え? でも……」

「そう、そんなことはあり得ない。だってその日、米山さんは隆さんと一緒に加藤家にいたんだからね。そして、多分、隆さんは、恵子さんの言葉が嘘だと後から気がついた。死ぬ間際か、死んでからなのかは知らないけどさ」

 真崎は空中を見つめた。可視光線を透過する気体は、真崎に何も教えてくれなかった。

「隆さんは自分の過ちに気がついた。勘違いをして襲った挙げ句に、米山さんを殺人者にしてしまった。とても動揺したし、後悔したと思う。そして詠に呼び出された。犯人を訊かれたってことは、まだ米山さんによるものだと判明していないってことだ。それに気がついた隆さんは、わざと別の人間を挙げることで、捜査を攪乱しようとしたんだ。完璧に自分が引き起こした問題だからね。誰かにその罪を負わせるよりも迷宮入りしてしまうのが理想的な結末だ。だから犯行の方法も答えなかった」

「だとしても、どうして美咲さんなのよ。自分の奥さんなのに……。しかも子供までお腹の中にいて。愛していたんじゃないの? それなのに……!」

 詠は一所懸命にそう言った。彼女には珍しく、本気で怒っているようだった。

「愛していたからだよ」

 真崎は含めるように言った。

「そして、愛されていることも、よく知っていた」

「……どういうこと?」

「だからね、詠。彼の希望は、事件が迷宮入りになって終わることだ。米山さんを捕まえさせたくない。けれど、他の誰かに無実の罪を着せるわけにもいかない。だから……」

 真崎は目を閉じた。自分にはもう。隆の気持ちはよく解らない。想像しか出来なかった。

「だから、美咲さんにしたんだ。彼女が、自分のことを殺すなんて、露程も思わなかったから。彼女だけは、自分を殺害することがあり得ないと解っていたから。だから美咲さんの名前を挙げたんだ。隆さんから見て、一番、犯行から遠い人を告げたんだ」

「そんなの!」詠は叫んだ。「そんなの、解りっこないじゃない! 本人の中でだけの話でしょう、それは。それで万が一、美咲さんが捕まってしまったら!」

「うん、まあ。一歩間違ったら、本当にそうなっていたところだけどね。とても素直な誰かさんのおかげで」

「……悪かったわよ。そのことについては反省しています」

「うん。後で、美咲さんにも直接謝りに行こう」

「一人で行ける」

「こういうときには保護者が必要なんだよ。本人がいらないって思っててもね」

 真崎はにっこりと微笑んだ。詠はあからさまにそっぽを向いた。

「まあ、事件の経緯としてはこんなところじゃないかな。想像で補ってる部分もかなりあるけど……」

「待って」詠は真崎の言葉を遮った。「隆さんの嘘については納得した。でも、そもそも、恵子さんはどうしてそんな嘘を吐いたのよ?」

「さあ」

 真崎は肩をすくめた。

「仲は悪かったみたいだし、米山さんのことを嫌いだったんじゃないか、という程度しか、ね」

「何それ。そんなので嘘を吐くなんて……」

「まあ、人の心のことだしね。一応、いくらでも邪推することは可能だよ。例えば、米山さんが隆さんのところで働き出したのは二十年くらい前らしいけど、そのころ恵子さんは三十を超えて女性としての曲がり角を過ぎたところ。米山さんは二十歳くらいで、しかも詠の言うところの健康的な美人。隆さんは五十で結婚するくらいだ。当時はそれはそれはお盛んだったんじゃないか、とかね」

「だって、そんなの……」

「あくまで可能性の話。ただ、お喋りが過ぎた、ってだけかもしれないし、コーヒーが美味しく淹れられなかったのかもしれない。もう、そんなの解らないよ。米山さんに直接聞けば、何かヒントくらい出るかもしれないけど。でも、結論は出ないし、今更そんなことを調べてもね。得られるものはないよ」

 真崎は両手を大きく広げてそう言った。別にグライダの真似をしているわけではない。

「他に何か質問は?」

「そうね……」

 詠はやっと、小さく微笑んだ。

「とどロッキーって、トドなの?」




     *




「美咲さん」

 詠は神妙な顔で、呼びかけた。それから深々と頭を下げる。長い髪が重力に引かれて真っ直ぐに落ちる。

「本当に、申し訳ありませんでした。その、犯人だなんて言ってしまって……。大変失礼を申しました」

 別荘の、玄関の前だった。車寄せには、来たときと同じベンツが停まっている。小松が運転席にすでに座っていた。

 真崎が事件のあらましを説明してからほどなく、警察が到着した。すぐに米山が自首したため、事件というほどにはならなかったようだ。彼女はすぐに警察に連れて行かれ、残った警官によって、現場検証と滞在者への質問が行われた。しかし犯人が明らかであるためか、質問は簡単な内容に終始し、真崎たちもすぐに解放された。

 事情聴取が終わった後、真崎たちには帰宅の許可が出た。小松の運転で送って貰うことになり、美咲と彩乃の二人が見送りに来てくれていた。もう、荷物はトランクに積み込んである。

「いえ、そんな……。頭を上げて下さい」

 美咲は慌てた様子で言った。

「あんな状況でしたし、仕方がなかったと思います。気にしていませんし、そもそも、今の今まで、そんなことがあったことすら忘れていましたから……」

「……はい」

 詠は申し訳なさそうな顔のまま、頭を上げた。それを見て、美咲の顔が少し緩む。

「それよりも、私は真崎さんにお礼を申し上げたくて」

 美咲は真崎の方に向き直った。

「本当にありがとうございました。その、事件を解決して頂いて」

「いえ、僕などは……。警察が捜査すればすぐに判ったことだと思いますよ」

「でも……」美咲は半歩、真崎に近づいた。「そうなると、多分、米山さんは殺人犯になってしまっていたと思うんです。状況的に……。きっと、私も、真実がどうだったかなんて考えもしないで、米山さんをひどく詰ってしまったんじゃないかと」

 美咲は必死な調子でそう言った。彩乃も隣で大きく頷いた。

「真崎さんのおかげで、米山さんを悪者にせずに済みました」

「はい」真崎は素直に頷いた。「お役に立てたなら幸いです」

「ええ、本当に、感謝しています。どうお礼をしたらいいか……」

 美咲が頭を下げる。真崎は小さく笑って言った。

「別にそんな。お礼を言われるほどのことではないです」

「その、燈馬さん、とっても格好良かったです」

 彩乃がいつもより小さな声で言った。

「とても知性的で、鋭くて。語り口はソフトなのに、頼れる感じで」

「そう? ありがとう」

 真崎が芝居がかった仕草で頭を下げると、彩乃の顔がぱっとほころんだ。それからおずおずと訊く。

「あの……。燈馬さん、恋人がいらっしゃらないんですよね?」

 彩乃は斜め下から真崎のことを見上げた。自然と上目遣いになる。

「その、何て言うか……。連絡先を教えて下さい」

「連絡先?」

 真崎は少し驚いた。そんな積極的な娘だとは思っていなかった。

「駄目よ」

 詠が突然言った。

「彩乃さんは、もっと健康的に成長しないと」

 美咲と彩乃が首を傾げる。

「健康的?」

「そう……、美咲さんくらいにはなったら、考えてあげます」

「美咲さん?」

 彩乃が斜め上を見上げる。美咲はきょとんとしていた。詠は意地悪く笑った。

「まあ、そうだね。健康的になるのが、乾坤一擲だ」

 真崎はさらっと言った。詠が手で顔を覆った。

「燈馬……。オヤジ化に拍車がかかっているわよ」

「む」真崎は一瞬固まった。「仕方ないだろう。あんなに壺が浅い笑い上戸な奴がいたんだから……」

 真崎はぼやくようにそう言った。

「それが、真崎さんの前の奥様ですね?」

 美咲が口を開いた。

「……え?」

「真崎さんはご結婚してらっしゃいましたね? 今は違うようですが……」

 美咲は真面目な顔でそう続けた。

「ええ」真崎は仕方なく頷いた。「でも、どうして……」

「ふふ」美咲は小さく笑った。「では、真崎さんに倣って、私の推理を披露しましょう」

 美咲は人差し指を立てた。

「まず、真崎さんはとても丁寧な言葉遣いをなさる方です。それは妹である詠さんにも対してであっても、です。少し悪い言い方をすると、どなたに対しても他人行儀なのです。それなのに、今、どなたかのことを、奴、とお呼びしました。これは、その方が真崎さんと非常に親しい間柄であったということを意味しています。少なくとも、恋人以上でしょう。そのくらいでないと、真崎さんがそんな呼び方をするとは思えません。さらに、先ほど、いた、と過去形でお話しています。つまり、今はその方はいないのです」

「……ええ」

 真崎は頷いた。美咲は冗談っぽく笑いながら、二本目の指を立てた。

「次に、口ぶりから、詠さんがその方を知っている、という点です。これは、とても不自然だと感じました。真崎さんと詠さんは恐らく、十歳くらいは離れていると思います。そんな年若い妹に、真崎さんが恋人を紹介したりするでしょうか。それも、笑いの壺が浅い、なんてことを認識するほど親しくなるほどに。つまり、真崎さんとその方は極めて親しい間柄だったのです。それこそ、家族ぐるみとなるくらいに」

 美咲は三本目の指を立てた。

「最後に、真崎さんは考え事をするときに、手を組んで左手をいじる癖があります。それも、薬指の辺り。ご本人は気がついていないかもしれませんが……。ええ、以前はそこに何かが填っていたのでしょう。しかし今はしていない」

 美咲はじっと真崎のことを見つめた。

「以上の点から、真崎さんは以前結婚されていたが、今は奥様はいらっしゃらない、ということが予想されます」

「ええ」

 真崎は両手を挙げて、降参のポーズを取った。

「お見逸れいたしました。その通りです」

「ふふ」

 美咲は口角を上げてにっこり微笑んだ。

「え? じゃあ、バツイチ? 離婚したんですか?」

 彩乃が訊く。美咲はそれを窘めた。

「彩乃。そんなことを訊くのは失礼ですよ」

「その前の美咲さんの方が、よっぽど失礼です」

 美咲のお小言に、彩乃は言い返した。しかし美咲は余裕綽々でこう言った。

「少し考えれば、判ることですよ」

 彩乃が首を捻る。しかし美咲は、真崎に向かって、悪戯っぽく微笑む。真崎は肩を竦めて苦笑した。

「その、何年くらいかかりましたか?」

 美咲が表情を引き締めて訊く。真崎は笑顔のまま答えた。

「貴女に会うまでです」

「あら、お上手」

 美咲が表情を崩す。何とか、笑顔に見えなくもなかった。

 その両目から、ぽろりと涙が零れた。真崎が初めて見た、彼女の涙だった。

「では、そろそろ」

 真崎はそう言って、頭を小さく下げた。

「お世話になりました」

「いえ、こちらこそ……」

 真崎と詠は車の後部座席に乗り込んだ。

 窓越しに、二人に手を振る。

 車はゆっくりと走り出した。

 真崎は窓の外を見る。

 夏の空は、雲一つ無い晴天だった。

「燈馬」

「何?」

 真崎は隣を向く。剣呑な顔の詠がいた。

「あれはどういう意味?」

「言葉通りの意味だけど」

「本気?」

 真崎はにっこり微笑んだ。

「幽霊じゃなくても、嘘を吐く」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る