第6話 ペットボトルの水 -A Plastic Bottle of Water-

「お話があります」

 詠が切り出したのは昼食の後、お茶を飲んでいるときだった。

 全員がダイニングに集まっていた。亡くなった隆の妻である美咲、娘である彩乃。美咲の父親である加藤、隆の妹の小百合とその夫、吾郎。使用人の米山と運転手の小松。そしてゲストである真崎と詠。九人が部屋の中にいた。席は昨晩、死体が見つかったときと基本的には同じだった。唯一、米山が詠の隣に座っていることだけが違いだ。

 これは美咲が、別荘にいる全員で昼食を摂ることを強く希望したからだった。使用人である小松と米山は最初は固持していたが、やがて美咲の説得に折れた。

 恐らく、こうして食卓を全員で囲むことで、少し安心できると美咲は思ったのだろう。同じ釜の飯を食う、ではないが、この特異な状況に対して、何らかの対処をしたかったのだろう、と真崎は想像した。

「何かしら?」

 代表するように美咲が訊いた。先ほど、真崎たちと寝室で話をしたときよりは少し血色が良くなっていた。身だしなみもきちんと整えている。しかし食欲は戻っていないらしく、昼食はあまり箸が進んでいなかった。

「昨夜のことです」

 詠が部屋の真ん中に向かって言った。少し、部屋の空気が重くなったように真崎は感じた。しかし、意に介した様子もなく、詠は続けた。

「この別荘の主人である、石村隆氏が殺害された事件について、話があります」

 明瞭な口調で、有無を言わせぬ迫力があった。

「もしかして、犯人が判ったんですか?」

 彩乃が少し身を乗り出して訊いた。しかし加藤が窘めるように言った。

「犯人は外からやってきたのだろう。もう、とっくに逃げ出しているよ」

 詠は加藤の方を見つめた。冷たい視線だった。

「そうでしょうか? 私はとてもそう思えません」

「何故だね?」

「外部からやってきた犯人だとするには、この事件は不可解な点が多くあります。まず、わざわざこんな嵐の中で僻地の別荘まで追いかけてきて犯行をするのは不自然です。それに、部屋が荒らされた形跡もありません。何より、こんな手の込んだ犯行を行うには、別荘の構造をよく知らなくてはいけません」

 少し根拠が弱いな、と真崎は思った。隆の幽霊の話を基に、帰納的に推理を組み立てたからだろう。しかしとりあえず口には出さなかった。

「まず、状況を確認しなおしましょう。生きている隆さんと最後にあったのは私と燈馬です。現場となった書斎で、時刻は午後八時半頃。美咲さんも声を聞いています。また、このとき鍵がかかった音を私と燈馬は聞いています。死体が発見されたのが午後十一時。発見者は美咲さんで、吾郎さん、小百合さん、小松さん、米山さんがそれを目撃しています。つまり、この二時間半の間に、隆さんは殺されたことになります」

 詠はぐるりと室内を見渡した。特に異論は無いようだった。全員が詠に注目している。

「書斎に入る扉はそこの、ダイニングに続いているもの、一つだけです。しかし、その犯行時刻と目される二時間半の間、基本的に二人以上の人間がこのダイニングにはいました。九時までは私と美咲さん。入れ替わりで吾郎さんと小松さん。十時半頃から小百合さんも合流しました」

 詠の言葉に、美咲と吾郎は頷いた。他の二人も特に言及することは無いようだった。

「私と美咲さんは九時までの間、一度もダイニングを出ていません。後のお二人は、二度ダイニングから離れています。一度目は吾郎さんがお手洗いに行き、小松さんがキッチンに行ったとき。二回目は加藤さんを手伝いに、階段に向かったときです。しかしいずれの場合も、時間はごく僅か。とても、書斎に入って隆さんを殺害し、出て行くだけの猶予はありません。また、もし仮に速やかに犯行を行い、書斎から出てこられたとしても、そこから逃げ出すことは出来ません。いずれの場合も階段近くに人がいるため、自室や遊戯室に戻る途中でどこかで鉢合わせをしてしまうためです」

 詠はそう説明した。

「それだと、結局誰も犯行が出来ないことになりますね」

 米山がそう言った。どこかほっとしたような表情だった。

「だとしたら、自殺なのでは無いでしょうか?」

「考えにくいです。まず、遺書などを残していません。突然死ぬ場合、少なくともそれを示す手紙くらいは残すものです。それと隆さんは禁煙をしていました。これから死のうという人間が、健康を気遣ったりするでしょうか? また、現場の状況から、事故という線もまずあり得ない」

 詠は声を抑えて言った。小松が不安そうに言う。

「でも、それでは……」

「ええ。これは不可能なのです」

 詠はそう断言した。彩乃が首を傾げる。

「でも、実際に、お父さんは……」

「そうです。なので、そもそも前提となっている条件を見直す必要があります」

 詠は指を二本立てた。平和の象徴ではないだろう。

「この事件を不可能たらしめている境界条件は、二つです。時間的なものと空間的なものです。しかし、前者については議論の余地がありません。八時半に生きている隆さんを確認したのは三人。十一時に死体を発見したのは五人。この点については動かしようが無いのです」

 詠は指を一本折った。芝居がかった仕草だった。

「次に空間的な問題です。先ほど、書斎に続くドアが一つしかないと言いました。しかし、書斎に入る方法は他に無いのでしょうか?」

 目を閉じて、詠は深く息を吐いた。

「現場を一目みたとき、私は違和感を強く感じました。この部屋は、こんなに狭かっただろうか、と思ったのです。もちろん、部屋の大きさが実際に狭くなったわけではありません」

「そりゃあね」小百合は鼻で笑った。「そんなからくり屋敷みたいな仕掛けがあるわけがない」

「ええ。つまり、他にそう感じる要因があったというだけです」

 詠は深く頷いた。

「部屋が狭く見えるのは本が床に散らばっているからです。私たちが八時半に書斎を出たとき、本は散らばってはいませんでした。本棚に入りきらない分が床に積まれてはいましたけれどね」

「なるほど……」

 彩乃が目を丸くする。詠は二度、小さく頷いた。

「つまり、それは犯人がそうしたということです。なぜそんなことをしたのでしょうか。もちろん、必要だったからです。犯人が、あの部屋を脱出するのに、どうしても本が必要だった」

「と言っても」小松が首を捻った。「本で脱出は出来ないでしょう?」

「いえ。可能です」詠はつん、と上を向いた。「書斎に出入りするには、もう一つだけ経路があります。皆さんお気づきだと思いますが……」

「窓?」彩乃が首を傾げた。「でも、あそこは無理じゃないかな。高いし、小さいよ」

「ええ。ちゃんと調べました。まず大きさは大体四十センチ四方の正方形。男性がくぐるには少し小さいですが、運動神経の良い女性なら不可能では無いです。細身の燈馬でもなんとかなるかも知れませんが。そして高さは三メートルほど」

「少なくとも、ジャンプしてよじ登るのは無理な高さね」

 美咲が口を開いた。しかし詠は首を振った。

「足場があれば、高さは問題になりません」

「しかし、そんなものが残されていれば、気がつくだろう?」

 吾郎が首を捻る。詠は大きく頷いた。

「ええ。残されていない。犯人が片付けてしまったのです」

「だって、窓の外から、そんな大きな物は片付けられないだろう? 解体できるわけでも……」

 吾郎の声は尻すぼみになっていった。途中で、詠の言わんとしていることに気がついたのだろう。

「ええ。足場は本によって作られました。窓の下にたくさん積み上げて、そこに乗ったのです。そして本の足場から、窓によじ登った。不安定ですが、運動神経が良い方なら可能でしょう。しかし、死体が見つかったときにそうはなっていなかった。犯人が、積み上がっていた本を床に崩したからです。それが出来たのはただ一人」

 詠は真っ直ぐに見つめた。

「犯人は美咲さんです」

 室内の視線が、一斉に美咲に集まった。若い未亡人は、大きく目を見開いた。

「そ、そんな! 私はそんなことをしていません!」

「いいえ。それが出来たのは貴女だけです。死体が見つかったとき、一瞬だけ、貴女は書斎の中で一人だった。まず部屋に入って扉を閉め、速やかに本の足場を崩す。その後に、悲鳴を上げて他の人を呼び込む。たったそれだけで証拠はなくなります」

 美咲は大きく首を横に振った。

「違います。私はただ、隆さんが寝ていると思って……、それで時間がかかっただけです!」

 美咲は大声で叫んだ。詠は小さく首を横に振った。

「ちょっと待って」

 口を挟んだのは彩乃だった。

「外に出るのはそう出来たかも知れないけど、中に入るのはどうやったの? 外に足場なんて無いでしょう?」

「ええ。ありません。しかし、入るときには必要無いのです」

 詠はカップを手に取った。

「あの書斎はどこかおかしい。最初に入ったときからそう思っていました。違和感の正体は窓です。あのサイズの部屋なのに、あんな高い位置に小さい窓が一つあるだけなのです。それは何故なのか……」

 勿体振るように、詠はカップに口をつけた。

「あの書斎は半地下なのです。この別荘は山の中にある。つまり、斜面に立っている。あの書斎は山の頂上の方向に位置しています。つまり、地面が高い。実際、書斎の上に位置する、美咲さんたちの寝室から外を見ると驚くほど山が近くに見える。私は先ほど、別荘をぐるりと回って確かめました。建物の外からだと、書斎の窓は私でも手が届く程度の高さしかない。鍵もないから、簡単に開けることが出来る」

「なっ」

 彩乃が息を呑んだ。詠は、視線を強めて続けた。

「美咲さんの行動はこうです。十時半頃、小百合さんと米山さんと三人でダイニングまで下ります。キッチンで米山さんに後のことをお願いし、ダイニングを出ます。そして自室に戻るふりをして、玄関から外に出た。そして庭から書斎の外に回り込みます。窓から侵入し、ナイフで隆さんを刺し殺す。このとき、書斎の鍵を開けておきます。発見することが出来なくなりますからね。それから本で足場を作って脱出し、また玄関から何食わぬ顔で自室に戻る。シャワーを浴びて痕跡を洗い流し、自分で書斎に向かい、足場を崩した後に、悲鳴を上げる」

 詠は人差し指をぴん、と挙げてそう説明した。

「違います! 私はそんなことをしていない!」

 美咲が叫ぶ。引き攣れた声だった。

「しかし、貴女以外にこれが出来る人はいない。バスケットボールで活躍した経験があり、身長は高く運動神経も十分に良い。何より、発見者である、貴女にしか不可能なのです」

 詠は冷たい声で宣告した。

 美咲は絶句した。部屋の中を見渡す。しかし誰も何も言わなかった。

「そんな、私はそんなことをしていない。隆さんを殺すなんて、そんな……」

 詠は首を振った。それからちらりと真崎の方を見る。

「えっとね」

 真崎は暢気な声を作って言った。

「美咲さんにそれは無理だよ」

「……はい?」

 詠が、間の抜けた声を上げた。

「その、何て言うかな。狭い窓を潜り抜けるような行為は……」

「どういう意味?」

 詠が尖った声で言う。真崎は美咲の表情を確認した。彼女は、小さく息を吐いた。

「……良いです。言って下さい。どうせ、二、三日中には伝えるつもりでした」

「すいません」

 真崎は小さく頭を下げた。

「その、ね。美咲さんは身重なんだ。だから、そんな腹部を圧迫しそうなことは出来ない」




     *




「……え?」

 惚けた声を出したのは彩乃だった。

「どういうこと……?」

「真崎さんの言う通りです。私は、妊娠しています」

 美咲は絞り出すようにそう言った。

「ごめんなさい、彩乃……。本当なら、昨日か今日にでも、私の口からちゃんと教える予定だったの」

「そんな……」

 彩乃が絶句する。美咲は目を伏せた。

「一応確認しておくけど」小百合が平板な声で言った。「兄さんの子よね?」

「当たり前です。何なら検査をして頂いても構いません」

 美咲は硬い声で返事をした。加藤と米山が小百合のことを睨み付けた。小百合は肩を竦めた。

「もちろん、このことは隆さんも知っていました。他に、父と米山さんも……。ここにいる中で知っていたのはそれだけです」

 美咲は小さい声で説明を始めた。

「元々、今回ここに来たのは、彩乃にそのことを教えるためでした。家族できちんと時間をかけて話したいと私が望んだからです。その、彩乃にも理解して、祝福して欲しかったから……」

 彩乃は何も答えなかった。ただ、呆然としていた。美咲がじっと彩乃のことを見つめている。耐えきれず、真崎は声をかけた。

「その、すいません。差し出がましいことをして……」

「いいえ、仕方が無いことなのは判っています。私を助けてくれようとしたんですから、むしろお礼を言わないといけません」

「いえ、追い詰めていたのはうちの妹なので……。愚昧な愚妹ですいません」

 真崎はそう言って頭を下げた。しかし、誰も反応してくれなかった。

「でも、真崎さんは誰からそのことを?」

 美咲が首を捻る。米山が慌てて手を振った。

「わ、私じゃありませんよ?」

「隆さんかしら?」

「いえ。誰に聞いたわけでも無いのですが……。それを指し示す事象がいくつも観察されたので」

 真崎は軽く微笑んだ。

「まず、隆さんは、禁煙を始めた、と仰有っていました。しかし、書斎には高級な葉巻のケースがいくつもありましたし、この別荘のほとんどの部屋には灰皿が用意されている。この二点から、彼がかなりの愛煙家だったのは疑いようがありません。そんな人が禁煙を決意した。その理由は何なのか」

 真崎は目を閉じた。

「彼は十五年ぶりに禁煙している、と言っていました。十五年前に、石村家に何があったのか考えれば、理由は明確でしょう。十五年前とは、つまり、彩乃さんが産まれた頃です。彼は、自分の健康と言うよりはむしろ、奥様と産まれてくる子供のために禁煙をしていたのですね」

 彩乃は唇を噛んだ。真崎は彼女に声をかけず、言葉を続けた。

「次に、加藤さんの行動も気になる点がありました。昨晩の食事の後、階段を上る際に米山さんの手を借りている。これは非常に不自然です。その時間には、まだダイニングに美咲さんがいました。加藤さんからの関係を考えると、手伝いを頼む相手は実の娘である美咲さんの方でしょう。米山さんより体格も良いですしね。しかし手伝ったのは米山さんだった。何か、美咲さんに手伝いを頼めない理由があったと考えられます」

 真崎の言葉に、加藤は深く頷いた。

「あと、美咲さんの様子にも明確に現れていました。これが一番大きかったかも知れませんね。昨晩の夕食の際、体調が悪そうで、食事をかなり残していた。にも関わらず、食後にフルーツを召し上がっていましたね」

「ええ」美咲は恥ずかしそうに頷いた。「それは、その、そういうことです」

「ええと……、そうそう」真崎は二度、瞬きした。「話を戻します。この事から、美咲さんが窓から侵入して殺害したという説には、無理があります。それ以外にも、そもそも隆さんが眠っているとは限りません。それに、窓から忍び込むような悪意と計画性を持った犯人が、凶器を現地調達するなどとは思えない。キッチンから包丁を持っていくくらいのことはするでしょう」

 真崎は敢えて詠の方を見ないでそう言った。

「つまり、隆さんの胸に包丁を突き立てた人は、他にいます」

 真崎はカップを手に取った。お茶を飲みながら、話の流れを整理する。

「ええと、先ほど詠が言った通り、書斎には誰も入れない状況だった。そう認識されています。ダイニングには複数の目があり、窓から出入りするのは凶器のことから現実的ではない」

 真崎はそう言って息を一つ吐いた。誰からも異論は出なかった。全員が真崎の次の言葉に注目している。

 真崎は指を一本立てた。

「事件の最中に観察された事象の中で、一つ、とても強い違和感を覚えたことがありました。昨夜、遺体が発見されたとき、このテーブルに水のペットボトルが置いてあったことです」

「水?」吾郎が首を捻った。「ああ、あったかもしれないね。でもそれがなぜおかしいのかな? ここは食卓だ。飲み水でも、水割りに使うのでもチェイサでも、考えられる可能性はあるじゃないか」

「ええ。問題は中身ではありません。それが二リットルのペットボトルであったということです」

 真崎は米山に視線を飛ばした。

「米山さん。お手数をかけて申し訳ありませんが、ペットボトルを持ってきて貰えませんか? 昨夜と同じ種類のものを」

「は、はい」

 米山は頷いて、キッチンに入っていった。数秒ですぐに戻ってくる。テーブルの上に置かれたペットボトルは、どこのコンビニやスーパマーケットでも売っている、ありふれた物だった。

 真崎は部屋中をじっくり見渡した。

「これが、例えば、東京の僕の部屋のテーブルであったなら、不審な点はどこにもない。しかし、ここは石村家の別荘なのです」

「それの何が違う?」

 加藤が訊く。真崎はテーブルの真ん中を指さした。

「ここでは、例えばコーヒーや紅茶がサービスされるときに、ミルクは常温にまで温められてピッチャで、砂糖はシュガーポットにトングまでついて出てくる場所なのです。吾郎さんが仰有るとおり、水がサービスされるシーンは数多くある。しかし、その何れの場合であっても、このテーブルにペットボトルのまま置かれはしない。お冷やチェイサなら、その名の通り冷やされて氷くらい浮かぶでしょう。水割りに使うのだとしても、ポットなりそれ相応の形で提供されるはずです。だから、これは何らかの理由があってここに放置された物だと、僕は確信しました」

 真崎はまた言葉を切った。全員の視線が集まっているのが判った。真崎は深く息を吸う。

「その水をここに置いたのは貴女ですね、米山さん」

 真崎は真っ直ぐに、実直な使用人を見つめた。

「……はい」

 彼女は、観念したように頷いた。

「だから、何?」

 詠が訊く。

 真崎は答えた。

「隆さんを刺したのは、米山さんです」




     *




「ありえない!」

 叫んだのは彩乃だった。

「もう、何なのさっきから! 美咲さんが犯人だとか言っていると思ったら、今度は米山さん!」

 彩乃は、テーブルを平手で叩いた。重厚なテーブルはびくともしなかったが、大きな音が響き、紅茶の表面がさざ波を立てた。

「いい加減にして! これ以上、私の家族に酷いことを言わないで……」

 強い口調だった彩乃の叫びは、途中から懇願のようになっていった。頬には涙が零れている。

「ええ」

 美咲も小さく頷いた。

「そこまで言うなら、きちんと理由を説明して下さい。そうでなければ、到底納得出来ません。先ほどの詠さんの説明の通り、書斎に入ることは米山さんには不可能なはずです」

「はい」

 真崎は誠意を持って頷いた。

 米山は無表情だった。ただ、顔色は真っ青だった。

「問題はこの水が、何のための物だったのか。いつここに置かれたのか。そして、なぜここに放置されなくてはいけなかったのか、です。それさえ判れば、起こった事態は自然と解き明かされます」

 真崎は三本の指を立てた。

「まず一つ目。何のためのものだったか。この水は、キッチンだけでなく、各部屋の冷蔵庫にも入っている。水道の水質が悪いから、飲み水にするためです」

 加藤が唇を噛んだのを、真崎は見逃さなかった。

「この水は、客室に運ばれる途中だったのです。昨夜、加藤さんが水を切らして下りていらっしゃいましたね。これは、それを見越して米山さんが持っていこうとしていた物です。他の客なら、自分で一階まで取りに来るのは簡単ですが、加藤さんだけはそうはいかないですから。恐らく、よく気の付く米山さんは、あとどのくらいで水が無くなるのか、きちんと気にかけていた」

 米山は小さく頷いた。

「二つ目。いつ置かれたのか。これは単純です。詠と美咲さんがダイニングを離れたときには、まだ水は無かった。しかし小百合さんたちが来たときにはもう置かれていた。その間に、このダイニングを通った人は米山さんしかいない。つまり、米山さんが、小松さんの厚意を受けて部屋に戻る途中と考えられます。その瞬間、つまり小松さんがキッチンにいて、吾郎さんがトイレからまだ戻っていないその一瞬、ダイニングは無人です。その瞬間に米山さんはペットボトルをダイニングのテーブルに置いて書斎に入り、隆さんの胸にナイフを突き立てました。時刻は九時半頃」

「でも!」詠が叫んだ。「そんなの、本当に一瞬じゃない。それに、入ることは出来ても逃げられない。二階の部屋に戻れないわ。だって、書斎からすぐに出て来たって、階段に行けば吾郎さん、キッチンに行けば小松さんと会ってしまう。脱出するのは不可能だわ」

「うん。だからね。米山さんは、しばらく部屋の中にいたんだ。書斎に鍵をかけて、じっと息を潜めて、ドアスコープからダイニングの様子を確認して」

 真崎は意図的に落ち着いた声を出した。深く息を吐く。

「たしかに、そのままだと米山さんは出られない。あまり時間が遅くなると、美咲さんが心配して見に来てしまうかも知れない。隆さんが亡くなったのが九時半頃。でも、米山さんには、十時までには、またダイニングから一瞬人がいなくなる、という確信があった」

「……え?」

「加藤さん。先ほど二階でお話ししたときに仰有っていましたね。念のため、もう一度お尋ねします。普段、何時くらいに床につきますか?」

「十時頃だ」

「眠る前には?」

「薬を飲まなくてはならない」

 真崎は慇懃に頭を下げた。加藤はまた、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

「そう。そのことを長年つきあいのある米山さんは知っていました。水を持っていっていない以上、加藤さんはキッチンまで下りてくる。二階に自分がいないので、他に頼む人がいないからです。しかし一人では階段は上れません。ダイニングにいるのは小松さんと吾郎さんです。小松さんは運転手という使用人の立場ですし、吾郎さんは親切な方です。階段まで手伝いに行くと予想するのは難しいことではありません」

「でもだって、いつ美咲さんが来るか判らないのに!」

 詠が疑問を呈する。しかし真崎は首を振った。

「鍵をかけたまま気がつかないふりをすれば、もう少し時間が稼げるかもしれない。そもそもね、これはそんな綿密な計画ではない」

「美咲さんに水を取ってきてくれるよう、頼む可能性だってあるでしょう?」

 吾郎が言う。しかし真崎はばっさり切り捨てた。

「身重の、それも悪阻で苦しんでいる娘にあの狭く急な階段を重い物を持って上り下りしろと言うほど、加藤さんはエゴイストでも気が利かなくもないですよ。まあ、多少過保護かもしれないとは思いますが……」

「……なるほど」

 吾郎は頷いた。真崎は全員を見渡す。他に異論がある者はいないようだった。

「さて、予想通り加藤さんが下りてきて、小松さんと吾郎さんはダイニングを離れます。その隙に、米山さんは書斎を出ますが、階段の方に向かうと鉢合わせになってしまいます。なのでキッチンに行った後、勝手口から外に出て、玄関に回り込みます。それから、全員が部屋に戻ったのを確認して、二階の自分の部屋に戻りました。多分、ダイニングに水が置きっぱなしだったことには気がついていたとは思いますが、持ち去ると、誰かが通ったことがばれてしまいますからね。そのままにしておくしか無かったのでしょう」

 しばらく、誰も何も言わなかった。米山が俯いて、ぶるぶる震えていた。

「米山さん」

 気丈にも声をかけたのは、美咲だった。

「今の話は……」

「……本当です。真崎さんの説明に、間違いはありません」

 米山は震える声で言った。その目から涙が流れていた。

「つまり……」彩乃が口を開いた。声はひどく掠れていた「米山さんが殺人犯だってこと?」

 真崎は小さく首を横に振った。

「いいえ。米山さんは殺人犯ではありません」




     *




「燈馬」

 詠が殊更に静かな声で言った。

「どういう意味?」

 部屋中の人間が、真崎の方を注目していた。米山も含めてである。全員が、じっと真崎の言葉を待っている。

「定義の問題だよ。えっとね、殺人犯っていう言葉は、殺人罪を犯した犯人、という意味だと僕は認識しているんだけど」

「ええ。そうでしょう」

「そして、殺意を持って行動し人を殺すことを殺人、って言うんだ。だから、米山さんは当てはまらないと思う。彼女には、隆さんを殺すつもりなんて、さらさらなかったはずだからね」

「……え?」

 詠が呆けたような声を出す。真崎は頷いた。

「米山さんに隆さんを殺す意図はなかった。むしろ逆だね。隆さんが米山さんを殺そうとしたんだ」

 真崎はそう言って、米山の方を向いた。彼女は必死に、何度も頷く。

「そ、そうなんです! 部屋に入ったら急に、ナイフを持って襲いかかられて……」

「ええ。解っています」

 真崎は頷いた。

「どういうことでしょう?」

 美咲が、厳しい視線を真崎と米山に交互に向けながら訊いた。

「先ほどの、ペットボトルの水の問題がありましたね。その三つ目。なぜ、水がこのダイニングに放置されなければならなかったのか。これが、書斎で何が起こったのか、解き明かす手がかりです」

 真崎はペットボトルを指で突いた。

「先に述べた通り、書斎に入って隆さんにナイフを突き立てたのは米山さんです。しかし、もし彼女がそれを計画して行ったなら、いくつも不自然な点があります。キッチンから向かったのに、包丁一つ持っていかず、凶器は現地調達していること。それと、誰にも見られずに書斎に入ることが出来たのは、たまたま小松さんのジェントルな申し出があったからです。書斎に入るにはかかっている鍵も開けないといけません。さらに、何故か加藤さんに持っていくための水をダイニングに置きっぱなしにしている。とても、自分から計画して隆さんを殺したとは思えない」

「なるほど」

 加藤が頷く。真崎は一息吐いてから、話を続けた。

「状況を考えるに、米山さんは突発的に書斎に入ることになったとしか考えられません。つまり、水を持って二階に向かうべくダイニングを通っているときに、隆さんから書斎に入るよう声をかけられた。なので、とりあえず水を近くのテーブルに置いて、書斎に入ったのです。そして急に隆さんに襲われた。そう、つまり……、入るところを見られたくなかったのは、米山さんではなく、隆さんの方なのです。きっと、ドアスコープからダイニングの様子を窺っていたのでしょう。それと、鍵の問題も中から開けたので意味が無くなります。凶器が書斎にあったナイフであることも、それで説明がつきますね。隆さんが、あの部屋で武器を準備しようとしたのですから」

 真崎は一つ一つ丁寧に説明した。

「それから……、襲われた米山さんは無我夢中に反撃し、もみ合った末に隆さんの胸にナイフが刺さってしまった。隆さんは意図を持って殺されたのではありません。結果として亡くなってしまっただけです」

「はい」米山が必死な様子で頷いた。「その通りです……!」

「書斎に積んであった本が崩れたのは、二人でもみ合ったときでしょう。とにかく、米山さんは窮地に陥りました。目の前にはナイフが突き立った隆さんの死体。逃げだそうにも、ダイニングには吾郎さんと小松さんが戻ってきている」

「だって、そんな……。正直に言えば……」

 彩乃が切れ切れに言う。米山は目を伏せた。

「うん。理屈で言えばその通りなんだけどね。でも、さすがに難しいんじゃないかな」

 真崎は彩乃の目を見た。

「まず、米山さんが襲われたシーンは誰からも目撃されていない。米山さんの言い分を、周りの人や警察がそのまま信じてくれるかどうかは、かなり際疾いところじゃないかな。それと……」

 真崎は一つ咳をした。

「その、故意じゃないと解っていても、被害者の家族が受ける印象はどうなるのだろう。彩乃さん。事故とは言え、自分の父親を刺し殺した相手と、今まで通り普通に話せる?」

「……」

 彩乃は答えなかった。首も振らない。ただ、目を閉じただけだった。

「まあ、とにかくだね。米山さんは書斎に入るところを誰にも見られていない。だったら、とりあえずナイフの指紋を拭き取って、書斎から出るところも見られなければ、自分が犯人だと見破られないかもしれない。だから、さっき言ったように、加藤さんが水を取りに来た瞬間を利用して書斎を抜け出し、二階の部屋に戻ったんだ」

 真崎はそう言って話を終えた。無性に煙草を吸いたかったが、目の前に妊婦がいる。仕方なく、紅茶に口をつけた。

「申し訳ありません……」

 米山が深く頭を下げた。

「美咲ちゃん、彩乃さん……。私の所為です。隆様が亡くなったのは……」

「……いえ」

 美咲は小さく首を横に振った。

「それは……、仕方がないことです」

 掠れた小声で美咲はそう言った。しかし、視線はテーブルの表面に落ちたままだった。長い睫毛が、頬に影を落とす。

「こういうのって、罪はどうなるんです? 殺人では無いんだろうけど……」

「僕も詳しいわけではありませんが、過剰防衛とかになるんでしょうか」

 吾郎の問いに、真崎は手短に答えた。

「一つ、解らないことがあるんですけど」

 小百合が不機嫌そうに口を開いた。

「一体、どうして兄さんは米山さんを殺そうとしたわけ?」

 真崎は首を横に振った。

「僕には解りません。表に出た行動は考えれば解りますが、心の中の理由までは……」

「美咲さんは? 心当たりがある?」

「いえ……。夕食の時まで普通だったんですけど……」

 美咲も彩乃も首を横に振った。

「私にも解りません」

 米山が言った。

「ただ、その、襲いかかってきたときの様子は、どこかおかしかったです。精神的に病んでいる。というか……」

 青ざめた顔で、米山はこう言った。

「そう、まるで、悪霊に取り憑かれて、呪われていたみたいに……」

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