第5話 今日から未亡人 -A Widow since Today-

 真崎と詠は加藤の部屋に来ていた。彼はベッドに腰掛けていて、杖が壁に立てかけてある。この部屋にも椅子が一つしかなかったので、詠に座らせて真崎は窓際に立っていた。

 加藤は白いポロシャツと灰色のスラックスを着ていた。足が切断された、という米山の話だったが、義足をつけているのだろう、見た目では判らなかった。

「それで、お話とは?」

「はい。実は、昨夜のことをお伺いしたくて……」

 詠が真面目な顔を作って言った。

「昨夜?」

 加藤は不審そうな顔になった。

「それは、事件のことを調べようとしている、という意味ですかな?」

「ええ」

 詠は小さく頷いた。しかし加藤は渋い顔で首を横に振った。

「なぜそんなことをしようとなさる?」

「気になりませんか? 誰が、どうやったのか」

「気にしても仕方がないことです。犯人を捕まえたところで、社長が生き返るわけではない」

 加藤は低い声で言った。

「それに、それは警察の仕事です。我々が、首を突っ込むべきではない」

「その、我々、という言葉はどこまでが含まれていますか?」

 真崎は口を挟んだ。加藤は首を振りながら答えた。

「今、この建物にいる者、全員という意味です。つまり、社長と何らかの関係にある者が、この事件の調査に関わるべきではない」

 真崎は加藤の言葉の意味を考えた。

 どうやら、彼はこの後のことを第一に考えているようだった。下手に事情を聞いて回ったりして、遺恨を作ることを避けたいのだ。

 加藤の立場を考えれば、それも当然かも知れなかった。彼が会社で働き続けていられるのは、ひとえに社長である隆のおかげだ。隆がいなくなれば、いつ解雇されてもおかしくない。少なくとも、労働条件が極めて悪くなる可能性は高い。今後のことを考えると、味方が多いに越したことはない。

 それ以上に、娘の美咲のことが心配なはずだ。二人は結婚したばかりだが、かなりの歳の差がある。そんな状況下で隆が死んで、美咲が遺産を受け継ぐとなれば、世間から好奇の目で見られるのは避けられまい。せめて身内にだけは、敵を作りたくないと考えるのは当然のことだ。

「僕たちは、隆さんとのビジネスのためにここまで来ました」

 真崎は冷静に切り出した。

 加藤の目的と真崎たちの目標は、大筋ではぶつからないと判断した。そして、加藤は十二分に理性的な人間のように思える。こちらの優先順位を判って貰った上で、相手の事情に斟酌する態度を見せれば、話が通りそうだった。

「美咲さんとはそもそも関係ありませんし、恐らく今後、会うこともまず無いと思います。もちろん、彩乃さんや、吾郎さんご夫妻も含めて、です」

「それで?」

 加藤は、じろりと真崎の方を見た。

「悪くならないように、最大限の配慮は致します。必要のない部分には踏み込みません。もし、何らかの秘密を意図せず探り出してしまっても、心に秘めておきましょう。とは言え、口約束しか出来ませんが……」

 真崎はじっと加藤の目を見つめた。細められた黒い瞳が正面から見返してくる。真崎は口元にだけ笑みを浮かべ、目を逸らさなかった。

「警察がお嫌いなようですな」

 加藤は、真っ直ぐに真崎を見据えたまま、そう言った。真崎は無言で頷いた。

「良いでしょう。お聞き下さい」

 恐らく、真崎たちが後ろ暗い仕事をしていると、加藤は思ったのだろう。その認識は決して間違いではない。そして、こちら側に切迫した事情があると判れば、加藤としても納得する。

 傾向として、人は目に見える危険よりも、判らないことを忌避する。最初から認識していれば、あらかじめ対処を考えることが出来るからだろうか。

 しかし、純粋に不可知であるということを本能的に嫌がっている。そうとしか思えないケースも散見される。そして最終的には、神や運命などという名前をつけることでカテゴライズして、判ったことにして解決してしまうのだ。知りたがりながら、一度答えが与えられたなら、それが真実であるかどうかには頓着しない。不思議な習性である。

「では……」

 真崎は詠に目配せした。

「はい。まず、昨夜の行動をもう一度教えて頂きたいのです。食事が終わってから、遺体が見つかるまで」

「昨日説明した通りだよ。まず、食後にこの部屋まで戻ってきた。階段は米山さんに手伝って貰った。それからこの部屋にいたが、十時くらいに一度下りた。下りは一人でも何とかなる。帰りは君に肩を貸して貰ったね」

 加藤はどちらかというと、真崎に向かってそう言った。

「その後は早々に寝てしまった。もう年寄りなものでね。大体十時にはいつも寝てしまう。それから、騒がしさに気がついて目が覚めた。廊下に出てみたが、誰もいない。でも下りてしまうと一人では戻ってこられないからね。躊躇しているうちに、また君が来て一緒に下りた」

「なるほど。ありがとうございます」

 詠はにっこりと微笑んだ。

 簡潔な説明だった。なかなか頭が切れる男だ、と真崎は感じた。これだけの能力があるからこそ、隆は雇い続けたのかも知れない。

「一度、ダイニングに下りたのはなぜです?」

「飲み水が切れたからだ。眠る前に薬を飲まなくてはいけないのでね」

 淀みなく加藤は答えた。

「その……」真崎は加藤の様子を窺いながら切り出した。「正直なところ、美咲さんの結婚についてどう思っていましたか?」

「どう、とは?」

「端的に言えば、結婚に賛成だったのかどうか、です」

「賛成も反対もない」

 加藤は窓の外を見た。

「それは美咲が決めることだ。私に口出しする権利などない」

「貴方は父親です。権利なら十二分にある」

「子供には子供の人生がある。親が口出ししようなど、烏滸がましい」

 加藤はきっぱりとそう言った。しかし真崎は怯まなかった。

「権利はなくとも、意見はあったでしょう?」

 加藤は真崎の方を、じろりと睨み付けた。

「そんなこと、聞いても仕方あるまい」

 真崎は加藤の言葉を無視し、推測をぶつけた。この老人から本音を聞き出せるとしたら、今のタイミングしかなかった。

「隆さんは美咲さんを愛していた。これは間違いのないところでしょう。前の奥さんが亡くなって十年以上も男やもめでいたことから、別段若く美しい女性だから、という感じでもない。ましてや、美咲さんとはもう二十年来のつきあいだ。お互いのことは知り尽くしている」

 真崎は窓に近寄った。ガラスの向こうには、美しい緑の大地が広がっていた。

「でも、美咲さんからしたらどうだったのか。父親とほとんど変わらない歳の相手で、しかも大きな子供までいる。世間から色眼鏡で見られるのも確実だ。資産は大きくとも、彼女にとってあまり好条件の相手であるとは思えませんね。彼女が、何を置いてもお金のことが最優先だ、という判断をしたなら話は別ですが、そういうタイプの女性にも見えない」

 真崎は窓ガラスに映る加藤を見る。苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

「しかし、美咲さんが、隆さんの求婚を断るのは難しかったのではないか。二十年以上も父子ともども、大変な恩を受けている相手だ。そんな相手の想いを無下にするのは、美咲さんには、ほとんど不可能なことだ」

 真崎は窓ガラスに手を触れた。高原だからか、二重になっていた。

「貴方の存在が美咲さんの決断に影響を及ぼしたのか、という点については、僕には判りません。けれどその可能性に貴方が気がついていないはずはない。自分が娘の足枷なのだと、そう思っていた。そうでしょう?」

 真崎は隆の方を振り返った。老いた父親は、小さく溜息を吐いた。

「少なくとも、同年代でも、君みたいな悪辣な男に嫁ぐよりは、幾分マシな決断だろう」

「そんなに悪い男のつもりもないんですけれどもね。どうも、誤解されているようですが」

 真崎は肩を竦めて、そう言った。加藤は鼻を鳴らして、話し始めた。

「自分と変わらぬ歳の男と結婚する、という点で懸念が大きかったのは事実だ。嫉妬とは少し違うが……、でも釈然としない想いはあった。けれど社長の人格面については何の不満もない。あの人は素晴らしい方だった。彩乃さんも優しい子だ。今はへそを曲げているがね」

 隆は苦々しい表情のまま言った。

「私は祝福した。でもそれは相手がどうとかいう問題ではない。見ていて、美咲が社長を深く愛していることが判ったからだ」

 隆は深く、重い息を吐いた。

「もっとも、私は結婚の意志を聞く、もっと前から気がついていた。二人の間の雰囲気が、ちょっと変わっていたからね。ずっと二人で暮らしていたんだ。そのくらいのことは男親の私にでも判る」

「なるほど」

 真崎は頷いた。しかし加藤は首を横に振った。

「君は理解していない」

 真崎は首を傾げた。加藤は変わらぬ口調で言った。

「もし少しでも反対していたのなら、私は舌を噛み切っていたよ」

「……お見逸れいたしました」

 真崎は丁重に頭を下げた。

「すいません、変な聞き方をして」

「ふん」加藤は鼻を鳴らした。「悪いなどとは、ちっとも思っていないだろう」

「そうでもないです。実はこう見えて、結構気を遣う方なので」

 真崎がそう言うと、加藤は唇を吊り上げた。

「誰に対してだね?」




     *




「あら、真崎さん……」

 キッチンに入ると、米山がいた。小さい丸椅子に、うなだれるように座っている。

「こんにちは」

「どうかされました?」

「ちょっとお話を伺いたくて。構わないでしょうか?」

 真崎の後に続いて入ってきた詠が、やけに丁寧にそう訊いた。

「え、ええ。構わないですけど」

 米山は不審そうに頷いた。

「あの、ここでは狭いので、ダイニングの方で……」

「はい」

 米山の提案に、詠は丁寧に頷いた。ダイニングへと踵を返す。

「先に行って待っていてください。コーヒーをお持ちしますので」

 米山は硬い笑顔でそう言った。昨日、というか今朝、真崎がコーヒーをオーダしたのを覚えていたのだろう。

「あ、その前に」

 真崎は扉のところで振り返った。

「この扉は何ですか?」

 真崎はキッチンの、もう一つの扉を指さした。

「それは、勝手口ですよ」

 米山はそう言って扉を開けた。その先は屋外で、目の前は駐車場だった。真崎たちが乗せてもらってきたベンツが目に入る。小松が車の掃除をしていた。他に、ワゴンとセダンが一台ずつ停まっている。

 なるほど、と真崎は思った。これなら、食料などの搬入も楽だろう。合理的な造りだった。

 真崎と詠はダイニングに引き返して、椅子に座った。すぐに米山が三つのカップを持って来る。彼女は億劫そうに椅子に腰かけた。

「それで、お話って?」

「昨夜のことです」

 詠が真剣な顔で切り出した。

「もう一度、何をしていたのか、お聞きしたくて」

「はあ、それは構いませんけど……」

 米山は困惑したようにそう言った。

「食事の後、死体が見つかるまでの間だけで良いです」

「は、はい」

 詠の真剣な声音に、米山も表情を引き締めた。

「最初は、キッチンで、食事の後片付けをしていました。ああ、加藤さんを上に送っても行きました。他に、美咲ちゃんにお茶と果物をお出しして……、お二人の分もですね」

「美咲ちゃん?」

 詠が反応する。真崎は視線で詠に合図を送った。

「いえ、続けてください」

「あ、はい……。えっと、それから吾郎様と小松さんにお酒をお出ししましたね。それで、小松さんが、後のことは良いから、と言ってくださったので、部屋に戻りました」

「それは何時くらいのことですか?」

「さあ……。九時過ぎくらいじゃなかったかしら。詳しい時間までは、ちょっと」

 米山は眉を下げてそう言った。詠は平板な声で続きを促した。

「その後は?」

「はい。えっと、お風呂に入ったりしていたんですけど、美咲ちゃんが小百合さんに言われて呼びに来て。結局またキッチンに戻りました。えっと、十時半くらいだったかしら……」

 今度は自分から時刻を言った。訊かれるのが判っていたのだろう。

「美咲さんはキッチンまで来たんですか?」

「ええ。別にそんな必要無かったんですけどね。でも、小百合さんの手前、そういうわけにもいかなかったんでしょう」

 詠は目を閉じた。

「美咲さんはその後、どうしたんですか?」

「え? 別に……。普通に部屋に戻ったと思いますよ。私はキッチンを出て行くところまでしか見てませんけど」

「そうですか」

 詠は大きく頷いた。それを見て、米山は話を再開した。

「後は基本的にはキッチンにいて。何回かダイニングには行きましたけどね。あの時は、美咲ちゃんの声を聞いて……」

「そうですか……」

 詠は一つ頷いた。それから空中を見上げる。他の人の話と付き合わせているのだろう。

「その、質問があるのですが」

「はい」

「キッチンにいる間、どなたか書斎に入りませんでしたか?」

 詠は真っ直ぐに訊いた。米山はいよいよ困った顔になった。

「すいません。判りません……」

「判らない?」

「はい」米山は困った顔のまま頷いた。「キッチンの扉は閉めていましたし、私も作業をしていましたので。人の出入りだとかそういうことまでは、判りかねます」

「そうですか……」

 詠は残念そうに言った。米山は首を傾げた。

「他にありますか?」

 今度は真崎が口を開く。

「昨夜、このテーブルの上に水のペットボトルがありましたよね?」

「あ、はい」

「あれは、貴女が出したものですか?」

 米山は少し考えた後、首を横に振った。

「……いいえ。私ではないです。多分、小松さんが出したんじゃないかしら。水割りにするか、チェイサか……」

「なるほど」

 真崎は一つ頷いた。詠は不思議そうに真崎の方を見ていた。

「もう一つ。隆さんが、食後に居眠りしてしまうことは、良くあったんですか?」

「え? ええ」米山は頷いた。「お仕事もお忙しいようですし。お酒にもあまり強くない方だったので。もちろん毎日ではないですけど、お疲れのときには、時々ありました」

「なるほど」

 真崎はじっくりと頷いた。米山は不安そうな面持ちだった。

「その……」真崎は声を潜めた。「ここだけの話、米山さんは、誰が犯人だと思いますか?」

「え?」

「その、隆さんを恨んでいる人だとか、心当たりがありませんか?」

「そう言われましても……」

 米山は眉を顰めた。

「まあ、そこそこ大きな会社の社長さんなので、商売敵なんかはそれなりにいるはずですよ。でも……」

「殺すほどではない?」

「ええ。殺してもメリットは無いですし」

 米山も声を潜めて言った。なぜだか、彼女にはそうした仕草がよく似合った。家政婦だからだろうか。

「じゃあ、その、殺してメリットがある人と言えば?」

「えっと、その」

 米山は困った顔を作った。

「私が言った、なんて誰にも言わないでくださいね?」

「それはもちろん」

「吾郎様と小百合様です」

 ひそひそ声で米山は言った。

「なぜですか?」

「あの、お金です」米山は身を乗り出してますます声を潜めた。「今回、お二人がここまで来たのもお金の無心だと思います」

「へえ」

「吾郎様も会社を経営なさっているんですが、商才が無いんでしょうか、上手くいっていないみたいで。今までに何度も旦那様に泣きついているんです。もう、かなりの額になっているはずですが、ちっとも返済されていなくて。さすがに旦那様も腹に据えかねていて、金輪際貸さない、と突っぱねていらっしゃったんです」

「それで、わざわざここまで直談判に来たわけですね?」

「はい。お二人がいらっしゃって早々、その話になったみたいです。でも旦那様は首を縦には振らなくて……」

「なるほど」真崎は首を捻った。「でも、隆さんが亡くなっても、本来的には吾郎さんご夫妻には遺産は入りませんよね? それとも、そういった遺言が残っているとか?」

「えっと、さすがにそこまでは存じません」

 米山は眉を下げて不安そうに言った。

「ですけど、相続するのは主に美咲ちゃんですから。その後なら借りられると思ったのかも……。吾郎様は気の良い親切な方ですが、小百合様の方は、その……。ちょっと強引なところがありますので」

「なるほど」

 真崎は少し考えた。その間に、詠が訊いた。

「家族仲はどうだったんですか?」

「家族仲ですか? 旦那様と美咲ちゃんはとても仲睦まじかったですよ。そりゃ歳の差はありましたけど、でも、とても信頼し合っていて。仲は順調でした。それがどうしてこんなことに……」

 米山はそう言って、言葉を詰まらせた。また涙を零してしまう。真崎と詠は顔を見合わせた。

 詠が、目で促してくる。真崎は首を小さく横に振った。詠が小さく嘆息してから、声をかけた。

「米山さん」

「は、はい……」

 洟を啜ってから、米山は顔を上げた。

「その、元気を出して下さい」

「はい……。ありがとうございます」

 詠は小さく頷いた。しかし、それ以上にかける言葉が思いつかなかったようだ。じっと黙ってしまう。居心地の悪い沈黙が落ちる。真崎が思っていたより、詠はずっと不器用なのかも知れない。

 真崎は嘆息しながら、コーヒーに口をつけた。雑味が酷く、ちっとも美味しくなかった。




     *




 真崎と詠は玄関から外に出た。屋敷を回り込んで、駐車場に向かう。

 嵐が通り過ぎて、抜けるような青空だった。まだ午前中なのに、日差しが厳しい。詠は黒い日傘をくるくると回しながら歩いていた。

 詠はどこに行くのにも日傘を持っていく。夏でも冬でも変わらず、である。持っていないのは月に数日くらいのものだろう。もちろん、そういう日は晴雨兼用の傘を持っている。

「こんにちは」

 真崎は小松に声をかけた。ちょうど洗車が終わったところのようだった。

「ああ、真崎さん、詠さん。どうされました?」

「いえ、ちょっと外の空気を吸いたかっただけです」

 真崎はそう言って車を見た。嵐の翌日だというのに、黒塗りの高級車はぴかぴかに磨かれていた。

「不思議なもんですな」

「え?」

「あんな事件があった後だというのに。結局やっていることは普段と変わらない。習慣になってるんです。他に何をしたらいいのか判らなくて」

 小松はそう言って、ボンネットに手を載せた。

「旦那様がこれに乗ることはもう無いんですな。まだお若かったのに」

「そうですね……」

 小松は淡々と語っている。それがどこか痛々しかった。

「小松さんはいつからここの仕事を?」

「私は先代の頃からです。その先代も一昨年に亡くなってしまいましたが……」

 小松は肩を落として深いため息を吐いた。

「その時も堪えましたが……。今回はもっとかもしれません。自分より若い人が亡くなるというのは……」

「ええ」

 真崎は小さく頷いた。詠も隣で真面目な顔をしている。

「それにしても、困りましたな。まだ警察は来られないんでしょうか。倒木がどうにかならないと、ここから出られないし………」

「そうですね」真崎は頷いた。「早く何とかなると良いのですが」

「ええ、まったく」

 小松が小さく笑顔を作って頷いた。

「ちょっとお訊きしても良いですか?」

 その笑顔を好機と見たのだろう、詠が切り出した。

「何でしょう?」

「その、昨夜の行動を詳しく伺いたいんです。気になっていることがありまして……」

 詠は日傘の影から覗き込むように、小松のことを見上げた。

「え、ええ。何でもどうぞ」

 小松は優しい声で返事をした。産まれたばかりの孫に話しかけているような声音だった。もっとも、真崎の知る限り、祖父母というのは、産まれてから十年以上も同じような声を孫に対して出すものだが……。

「小松さんは何時くらいからご自分の部屋にいらっしゃったんですか?」

「え? そうですね」小松は首を傾げた。「詠さんたちをお屋敷にご案内してすぐです。だから、六時過ぎくらいですね」

「それからずっと部屋の中に?」

「ええ。吾郎様が誘いに来るまでずっと。途中で米山さんが食事を持ってきてくれて、部屋で食べました」

 小松はにこやかに答えた。

「それで、吾郎さんとダイニングに下りて、お酒を召し上がった?」

「ええ」小松は頷いた。「あの方も色々大変なんですよ。会社も火の車だし、小百合様の尻に敷かれているし」

「そうですね」

 詠は小さく笑みを零した。小松の言い様が面白かったのかも知れない。

「それからはずっとダイニングに?」

「ええ。奥様が書斎に入るまではずっと」

「途中でダイニングを出たことはありませんか?」

「え? そうですね……」

 小松は車のボンネットに視線を落としながら考えた。黒い表面が光を反射して、古めかしい洋館が映っていた。

「二度、外したように思います」

「それは?」

「一度目はキッチンに行きました。その、米山さんに部屋に戻るように言ったんです。吾郎様がお手洗いに行かれるのを見計らって」

「え?」

「その、申し訳なかったので。彼女は朝からずっと働きづめでしたし。でも、吾郎様の目の前で、そう言うのも憚られて。彼が御不浄に行ったときにキッチンまで行って、そう言ったんです」

「へえ」

「それで、お酒やおつまみの場所を簡単に教えて貰って。吾郎様が戻ってくる前に、と手早くです。先に米山さんを部屋に帰しました。私はおつまみを持って、後から」

「紳士ですね」

「いや、そんなことは……」

 詠の言葉に、小松は微笑んだ。とてもダンディだった。

「私はダイニングに戻って、すぐに帰ってきた吾郎様と飲みました。その後、結局小百合様がやってきて、米山さんはキッチンに逆戻りする羽目になったわけですが」

 小松はそう言って苦笑した。

「それだけです。あとは加藤さんが下りてきたときですね。これは真崎さんもご存じだと思います。その後はダイニングから動いていません」

 ふむ、と詠は頷いた。それからすぐに質問する。

「小百合さんがいらっしゃった時、一緒に美咲さんも下りて来ましたよね?」

「ええ。でも一度キッチンに入って、すぐに出てきました。そのまま軽く挨拶をして、また上に」

「二度目に来たときはどうでしたか?」

「そうですね……。やっぱり、来てちょっと言葉を交わして。すぐに書斎に入られたと思いますが」

「その時」詠は一際真剣な声になった。「悲鳴はすぐ聞こえましたか?」

「え?」

「その、部屋に入ってすぐだったか。間髪入れずだったか、という意味です」

 詠は急いたように、続けた。肩が少し上がっている。

「いや、どうだったか……。正直、ショッキングな出来事のせいであまり……」

 小松はそう言いながら考え込んだ。詠は固唾を呑んで見守っている。

「いや、少し、ほんの数秒だけど間があったように思います」

「……そうですか」

 そう言ってから、詠は大きく息を吐いた。

「それが何か?」

「いえ……」

 詠は言葉を濁した。小松は不思議そうな顔をしたが、追求はしなかった。

「あの、もう一つ良いですか?」

 真崎は小松が頷くのを待って質問した。

「ダイニングのテーブルの上に水のペットボトルが置いてありましたよね?」

「あ、ああ。あったかも知れないです」

「あれは貴方が置いたものですか?」

「いえ、私ではないです」

「じゃあ、吾郎さんですか?」

 小松は首をゆっくり横に振った。

「いや、彼はキッチンに入っていないと思います。気がついたらありましたけど、誰が置いたのかまでは」

「そうですか」

 真崎は深く頭を下げた。

「お忙しいところ、ありがとうございました」

「あ、いえ。何もすること、というか出来ることも今は無いですし」

 小松はどこか脱力したようにそう言った。昨日までより、少し老けて見えた。

 真崎と詠は踵を返した。駐車場からは勝手口が見える。真崎はそこまで歩いた。

「何を気にしてるの?」

「ま、色々とね」真崎は軽く言った。「暑いから中に戻ろう」

 歩き出そうとした真崎の袖を、詠は掴んだ。

「待ちなさい」

「何?」

 詠は無言で睨め上げた。真崎はそれににっこりと笑顔を返した。数秒間、見つめ合った。

「話して」

「君がね」

 真崎は掴まれたままの腕を振った。

「オヤジね」

「ううん……」真崎はしかめ面をした。「自分で言うのは良いんだけど、人に言われるとショックが大きいな」

「で?」

「何か?」

「もう良い」

 詠は手を離して、すたすたと歩き出した。日傘の上下動が不機嫌さを如実に表していた。

「そっちは反対だよ」

 真崎は詠の背中に声をかけた。しかし彼女は立ち止まらなかった。

「良い。一周して帰る」

「遠回りだし、靴が汚れるよ?」

「構わない。ついて来ないで!」

 詠はそう叫んで、ずんずんと進んでしまった。すぐに角を曲がって姿が見えなくなる。

 真崎は肩を竦めて、言われたとおり詠と反対回りで玄関を目指した。




     *




 真崎はドアをノックした。返事を待ってドアを開け、先に詠を中に入れた。

「失礼します」

 入ったのは美咲の寝室だった。本来なら隆との共用であったはずである。

「あ、詠さん、と真崎さん」

 美咲はベッドに横になっていた。上体だけを起こしている。昨夜と同じパジャマ姿だった。

「すいません。お休みでしたか?」

「ああ、いえ」美咲は手を振った。「その、体調が優れなくて。目は覚めていたのですが……」

「ああ、じゃあ出直します。本当に失礼しました。お大事になさってください」

 真崎はそう言って頭を下げた。部屋を辞そうとする。

「いえ、あの。構いません」

 しかし美咲はそう首を振った。

「どなたかとお話している方が、気が紛れるので……」

「そうですか?」

 真崎が目線で伺うと、美咲はこくりと頷いた。

「一人でいると、どうしても色々と考えてしまうので。むしろこちらからお願いします。こんな格好で申し訳ないですが……」

 美咲の薦めに従って、真崎と詠は椅子に腰かけた。

 この部屋は他の部屋よりも広いようだった。ベッドは一つだけだが、椅子は二つ。化粧台やテレビも置かれている。サイドテーブルに雑誌か伏せられていた。プライベートなスペースであることを強く意識させた。

「体調は大丈夫ですか?」

 美咲の顔色は真っ白だった。昨夜の、死体を見た時よりも血色が悪いかも知れない。

「ええ。少し、気分が悪いだけです」

「その、ご無理なさらないでください」

「はい。ありがとうございます」

 美咲はそう言って、弱々しく微笑んだ。

 詠が美咲に近づき、枕をベッドボードに立てかけた。美咲は小声で礼を言って、そこに背を預けた。

「ごめんなさいね。せっかく遠い所までいらして頂いたのに、こんなことになってしまって」

「いえ、そんな」真崎は首を振った。「美咲さんが気に病むようなことではないですから。お気になさらないでください。ご自分のことだけ考えて……」

 真崎の言葉に、美咲は優しく微笑んだ。

「お優しいんですね、真崎さんは」

「そうでもないですよ。僕の優しさは相手を選ぶので」

 真崎は真面目な顔を作ってそう言った。美咲は目を閉じた。

「私、子供の頃、兄が欲しかったんです。優しくて頼れるお兄ちゃんが……。詠さんが羨ましいわ」

 詠は唇を吊り上げた。

「そんなに良いものでも無いです」

「そうかしら……」

 美咲はそう言って、窓の外に目を遣った。この部屋は、事件現場である書斎の真上に当たる。

 つられて真崎も窓の外を見遣った。青々とした夏山が聳え立っている。車で上がってきたときよりも、圧迫感が強く感じられた。山や木々が非常に近く見える気がする。

 青い空には雲一つ無い。まさに台風一過の晴天だった。その一面の青が、山に浸食されているように見えた。

「警察はまだ来ないのかしら?」

 ぽつりと、美咲は言った。

「早く、あんなソファじゃなくてベッドに寝かせてあげたいのに……」

「……そうですね。お気持ちは解ります」

 感傷だ、と真崎は思った。自己満足でしかない。しかしそう口にしないだけの分別はあった。感傷だって自己満足だって、意味がないわけではない。そうやって納得して、ある意味では自分を騙して、やっと前に進んでいくのだろう。

「でも、隆さんはよくああやってうたた寝していたんです」

 美咲は小さな声で話し始めた。

「よく、夕食の後にソファで眠ってしまって。なかなか起きないし、無理に起こすと不機嫌になるから、寝かせておくんですけど。すると夜になって眠れなくなって、なんで起こしてくれなかった、って文句を言うんです。子供みたいでしょう?」

 美咲は小さく笑いながらそう言った。

 詠は無言でテーブルに置いてあったティッシュの箱を差し出した。真崎はまた窓の外に視線を向けた。ゆっくりと手を組む。

 しばらく、誰も話さなかった。時折、美咲が洟をかむ音だけが響く。それでも、涙は零していないようだった。

「事件のことを調べているらしいですね」

 気を取り直した様に、美咲は言った。少し、目に力が戻っていた。

「ええ」

 真崎は素直に頷いた。美咲は窓の外を見つめたまま言った。

「私に判ることならなんでも訊いて下さい。そのために来たのでしょう?」

「……ありがとうございます」

 真崎は礼を言った。詠と目で合図を交わす。

「その、昨夜のことをもう一度お訊きしたいんです」

 詠は気まずそうに切り出した。

「この部屋で私と話して……。私が部屋に戻った後のことです」

「ええ」美咲は頷いた。「あの後も、私はこの部屋にいました。本を読んでいて……。しばらくしたら小百合さんが訪ねてきました。夕食を召し上がっていなかったので、何か食べるものが欲しいと言うことでした。でも、私はキッチンのことがよく判らないので、そのまま米山さんのところに行きました。事情を説明して、一応キッチンに一緒に行って……。後のことをお願いして戻ってきました」

「その時、ダイニングにはどなたがいらっしゃいましたか?」

「吾郎さんと小松さんです。お酒を召し上がっていました。小百合さんもそこに合流しましたが、私はこの部屋に戻りました」

 美咲ははっきりと答えた。

「では、その後は?」

「そろそろ休もうと思ったので、シャワーを浴びました。それから髪を乾かして……。でも、十一時になっても隆さんが戻ってこないので、書斎まで呼びに行くことにしたんです。そうしたら……」

「はい」

 遮るように、詠は頷いた。美咲は俯いて言葉を切った。

「いくつか質問があります」

 美咲が目で続きを促す。詠は真っ直ぐに美咲を見据えて訊いた。

「まず、書斎に入ったときですけど、部屋の鍵はかかっていましたか?」

「いいえ」美咲は首を振った。「私の知る限り、あの部屋の鍵がかかっていたことは、今までにありません。特に高価なものがあるわけではありませんし……」

「でも、私たちが書斎を出たとき、隆さんは鍵をかけているんです」

「……え?」

 詠の言葉に、美咲は目を丸くした。

「私たちは、たしかにその音を聞きました」

「そう、なのですか? でも……」

「ええ、不思議です」

 詠の言葉に、美咲は小首を傾げた。

「でも、誰かが書斎に入っているわけでしょう。その、犯人が……。その時に開けたなら、別におかしくはないでしょう」

「はい。でも、鍵はずっと書斎の中にあったようなのです。動かされた形跡が無い」

「それは……」美咲は首を捻った。「じゃあ、中から開けたのでしょう。隆さんが自分で」

「でも、それは不自然です」

 詠は声音を強めた。

「隆さんの行動を考えます。彼は書斎を一度も出ていません。すると、一度閉めた鍵をまた開けて、でも外には出ずにソファに戻り、うたた寝をしたことになります。そんな行動を取りますか?」

「そうね。たしかにちょっとおかしいかも……」

 美咲は自信なさげに言った。

「次の質問です。美咲さん、身長は何センチありますか?」

「え?」

「教えて下さい」

 目を丸くした美咲に、詠は口早に要求した。

「百七十センチを少し超えたくらいです。可愛くないでしょう?」

「いえ。とてもお美しいと思います」

 無表情のまま詠は言う。その反応に、美咲は苦笑した。すると、詠は片方の唇を吊り上げた。

「燈馬も、健康的な美人だと言っていました」

「ええと……」

 美咲が困ったように真崎を見る。真崎は両手を挙げた。

「聞き流して下さい」

「判りました」

 美咲は綺麗に微笑んだ。

「僕からも質問して良いですか?」

「ええ。体重以外なら」

 そのリアクションに、真崎はにっこりと微笑んだ。

「美咲さんから見て、恵子さんってどんな方でした?」

「恵子さん?」

 美咲は眉を寄せた。予想外の質問だったのだろう。

「そうですね。お優しい方でした。上品でお綺麗で。貴婦人というのかしら、そんな印象でした。有り難いことに、幼い頃はとても気にかけて頂きました。行儀作法などには厳しかったんですけどね。でも今考えてみれば、そのおかげで助かっています。血は繋がっていなくても、母親だと思っています、米山さんと二人とも」

「そうですか」

 真崎は深く頷いた。美咲は不安そうに見ている。詠は不審そうだった。

「なるほど。ありがとうございます」

 真崎は礼を言った。

「とても参考になりました」

「そうですか。お役に立てたなら……」

 美咲は愁いを含んだ目で真崎を見つめた。真崎が、思わずどきりとするほど美しかった。

「真崎さん。その、何か気づかれましたか?」

「そうですね……」

 真崎は少し考えた。しかし答えを待つことなく、美咲は続けた。

「私は早く犯人が捕まって欲しいんです。その、私の家族のためにも」

「ええ」

 真崎は目を伏せた。

「何か判ったら、お伝えします」




     *




「本当に、健康的な美人に弱いの?」

 扉を閉めるなり、詠は言った。そこはかとなく声が冷たい。視線はもっと寒々しかった。

「どうしたの、突然?」

 真崎は答えながら椅子に腰かけた。腕時計に視線を落とす。もうすぐ十二時だった。昼食の時間まであとわずかだ。

「だって、美咲さんにはやけに優しかったじゃない」

「うん」真崎は口元を上げた。「今日から未亡人だからね。気を遣ってあげないと」

「最低ね」

「この表現を使い始めたのはそっちの方」

 真崎の言葉に、詠は鼻を鳴らした。彼女の本意ではないだろうが、可愛らしい仕草だった。

「それで? 何がそんなにご不満?」

「別にご不満じゃないけどね」

 詠は唇を尖らせながらそう言った。正接関数の様に不機嫌そうだった。

「お金を最優先にしていないという根拠は?」

「服装」真崎は簡潔に答えた。「安物とまではいわないけどね。でも、彩乃さんのワンピースやブラウスがあれだけの物だから。財産狙いで嫁いだなら、もっと良い服を着てるよ」

「なるほど」

 詠は不承不承頷いたが、すぐに唇を尖らせた。

「大体、さっきの話は何? お気持ちは解ります、なんて言っちゃって」

「何、と言われてもね」

「普段の燈馬なら、死んでしまったらただの蛋白質の塊、くらい言うでしょう? 実際、加藤さんにはあれだけ好き勝手言っていたわけだし」

「いくら僕でも、言う相手くらいは選ぶよ。加藤さんは相当な切れ者だよ。びっくりした。表面的な言葉だけじゃ、とても納得してくれそうもなかった」

 真崎は唇を吊り上げた。

「それに、人体の主な構成物は水だと思うな」

「有機物の塊」

「カルシウムや燐なんかの無機物もかなり含まれているけどね」

「もう、ああ言えばこう言うんだから……」

 ますます剣呑な目つきになった詠に、真崎は苦笑した。

「大体ね。死んでいなくてもただの塊だよ。ただ、少し複雑なアルゴリズムによってリアクションを決定するだけだ。人間なんてね、観測する側からすればそんな程度のものだ」

 真崎の言葉に、詠は眼を細めた。

「そもそもね……。幻想なんだ。人間の、いや生物の、生命とか魂とかね。全部、観測する側の思い込みでしかない」

「何を言ってるの?」

 詠は唇の片方を吊り上げて言った。真崎は肩を竦めて続けた。

「だってそうだろう? 今、僕と詠は会話している。僕が話した内容に対して、詠が反応を返してくる。だから僕は詠という存在を認識出来る。石や鉄のような物ではないことが判る。でも、それは相手が生きているかどうかと無関係だ。パソコンだってスマホだって返事してくれる。人間と何が違う? もう友達だって恋人だって、コンピュータ上で動く時代だ。データ量だって少なくて済む」

 真崎は滔々と語った。しかし詠の反応は苛烈だった。

「そんな、作られたプログラムと生身の人間を一緒にしないで!」

「そういう意味じゃない。受け取る側の認識として、二つの間に本来は差は無いと言っているだけだ。相手が有機物で構成された生命体でも、コードで書かれたプログラムでも、受信する側に違いはない。でもそこに、生命とか魂とかを持ち込もうとするから話がややこしくなる」

「でも、実際に、人とプログラムは違う! それは確実に認識できる」

「それはどこで見分けているんだ?」

 真崎は意識して声を下げた。

「ただ、精度の問題だ。ソフトウェアとして、インプットに対してどれだけ適切に返事が出来るか。ハードウェアとして、操作性とメンテナンス性が圧倒的に良い。それ以外に何がある? あるわけがない。自然の、天然の物には特別な価値がある。人が作った物は自然じゃない。だから価値が劣る。そんな幻想に揺蕩っているだけだ」

「そんなこと、本気で思ってるの!?」

 詠は叫んだ。

「だったら、そう彩乃さんや米山さんに言ってきなさいよ!」

 詠は手元の枕を投げつけた。柔らかい布製の塊は、真崎の胸に当たって床を弾んだ。

「言えないでしょう!? それこそが、燈馬が生きている証拠だわ! そんな酷いこと、言えるわけ、無い」

 真崎は床に落ちた枕を拾い上げた。運動エナジィを失った物体は、驚くほど軽かった。

「それも、無関係だよ。相手が何であろうと、傷つけることは出来るし、出来れば傷つけたくないと思う。生きていようと生きていまいとね」

 真崎は枕の表面を手の平で払う。滑らかな表面が、どこか人肌を思わせた。

「もちろん、愛情だって同じ事だ。他人を愛する、なんて、とても美しいことのように言われているけれどね。相手が人であるかどうかは問題じゃないんだ。その概念を愛しているんだ。その実体が何であったとしても、観測する側にはなんら影響を与えない。問題となるのは、与えられている側の方だ」

 詠は黙り込んだ。下唇をきつく噛んでいる。真崎はベッドに近づいた。枕を元の位置に戻そうとした。

 その瞬間、高い音が響いた。遅れて痛みを知覚する。詠に、平手で張られたのだ、と認識するまで随分時間がかかった。

「———ッ」

 詠が泣いていた。真崎は酷く驚いた。彼女の涙を見たのは何年ぶりか判らない。

 左の頬が熱い。熱を持っているような気がする。

 詠は真崎のことを睨みつけている。真崎はその視線を真っ向から受け止めた。

「謝らないわよ」

 二秒ほど見つめ合った後、詠はそう言った。その目は真っ赤だった。

「うん」

 真崎は頷いた。

 詠はベッドに腰かけた。それから、大きく肩で息を吐く。真崎も元の通り椅子に腰かけた。目を合わせないまま、呼吸と思考を整える。

 二人とも何も話さなかった。詠はじっと部屋の壁を見つめたまま、微動だにしない。死体の様だった。

 真崎は煙草に火を点けた。煙をゆっくりと吸い込む。

「えっと、建設的な話をしようか?」

 煙草を一本吸い終わってから、真崎は声をかけた。

「ええ。良いわ」

 詠は部屋の壁を見ながら言った。それからまた大きな息を吐く。真崎は適当なところから話を切り出した。

「一通り、話は聞いたね」

「ええ」

 短い答えが返ってくる。それ以上続ける気は無いみたいだった。

「誰に訊いても、隆さんと美咲さんの仲は良好だったようだ。彩乃さんとの間の確執はあったみたいだけどね」

「ええ」

 詠は数分ぶりに真崎の方を見た。

「女性とは、非常に完成された悪魔である」

「何? 突然?」

「浮気を繰り返していたフランスの作家の言葉」

 詠は唇を吊り上げた。

「不満を漏らしていないということと、不満かどうかはまったく別の問題」

「そうかもね」

「美咲さんの状況を考えると、誰にも隆さんへの不満など言えないでしょう。唯一の肉親である父親は、社長である隆さんから長年大変な恩を受けている。母親代わりの米山さんは、隆さんに雇われた家政婦。妹同然の彩乃さんは、隆さんの愛娘」

 詠は指折り数えた。

「誰にも言えない闇を隠し持っていたとしても、おかしくない。むしろ愚痴すら零せず溜め込んでしまって、悪い感じに発酵させてしまったのかも」

「まあ、可能性で言うなら、そうだろうね」

「良いのよ。どうせ人の心の裡を、他人が完璧に理解するのは不可能だわ。自分でだって解っているかどうか……」

 詠は寂しそうに俯いた

 真崎はもう一度時計を見る。

 もう、昼食の時間だった。

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