第4話 帰納法を用いた犯罪証明 -An Establishment of Induction-

 真崎たちがダイニングに入ると、予想に反して人がいた。美咲と彩乃、それに米山と小松の四人だった。

 時刻は午前三時過ぎだった。窓の外はまだ真っ暗だ。雨は降っていないようだが、まだ風は強く、時折窓ガラスが音を立てて揺れる。

「真崎さん……」

 彩乃が、真崎の方を向く。酷く疲れた顔をしていた。恐らく、一睡もしていないのだろう。

「どうも」

 真崎は小さく頭を下げた。横に詠が並ぶ。

「皆さん、ずっとこちらに?」

「ええ……」美咲が答えた。「眠れるような気分でないので。部屋に一人でいるのも怖いですし……」

 彼女も憔悴しきった顔をしていた。顔色が酷く悪く、心なしか頬もこけている気がする。

 米山はまた泣いていた。手にくしゃくしゃのハンカチを持って、何度も目元を拭っている。隣に座った小松が、時折背を撫でてあげていた。

 被害者の妻である美咲や娘である彩乃よりも、米山の方がショックが大きいようだった。しかし、少し考えてみれば無理もないことだった。米山の方が家族である二人よりも隆とのつきあいは長い。仕事とは言え、ずっと一緒に暮らしてきたのだ。

 真崎は詠の方を窺った。いつも通り、正弦波のような無表情だった。腹の底で何を企んでいるか、まったく判らない。

「真崎さんたちも、ですか?」

「ええ……」真崎は頷いた。「一度部屋に戻ったんですが、落ち着かなくて。気になることもありますし……」

 真崎はそう言いながら、椅子に腰かけた。隣に詠も座る。ディナーのときと同じ配置だった。何となく、ここが自分の定位置のような気がしていた。

「お茶か何か、召し上がりますか?」

 小松が少し上目遣いで言った。米山が酷くショックを受けているので、気を利かせたのだろう。

「ありがとうございます。その、コーヒーがあれば嬉しいんですが」

 小松は一つ頷いて、キッチンの方に歩いて行った。何となく、真崎はその後ろ姿を見送った。ぱたん、と小さな音がして扉が閉まる。

「警察から、連絡はありましたか?」

「それが……」

 美咲はいよいよ表情を曇らせた。

「昨日の嵐のせいで、途中の道で倒木があったらしくて……。何時間かかかるそうです」

「そうですか……」

 真崎たちにとっては不幸中の幸いだった。なるべくなら、警察が来る前に片を付けたい。

 小松が持ってきてくれたコーヒーにミルクを入れて、真崎は口を付けた。ブラックで飲めないと言うわけではないが、コーヒーにはミルクがあった方が美味しい、と真崎は考えている。

 しかしポーションは入れない。真崎にはミルクとポーションが同じ物とは到底思えない。その二つの間の差は、コーヒーとインスタントコーヒーよりも遥かに大きい。

 ブラック信仰とでもいうか、コーヒーに不純物を混ぜるべきではない、という主張を真崎は理解出来ない。そもそも、素材のままの方が純粋であると言うことが幻想だからである。自然であることが尊い、という価値観自体が、作られた刷り込みなのだ。

 全員で、言葉少なにコーヒーを飲む。温かい飲み物が作用したのか、米山も落ち着いてきたようだった。

「その……」真崎は美咲の方を窺いながら、じっくりと切り出した。「書斎を、もう一度見せて頂けませんか?」

「え?」

 美咲は目を丸くした。真崎は真剣な顔を作って続けた。

「その、どうしても気になることがあるんです」

「え、ええと……」

 しかし、美咲は首を横に振った。

「警察の方から、書斎の状況を保存しておくように言われています。それに……」

 美咲は少し、続きを言葉にするのを躊躇ったが、結局口を開いた。

「小百合さんの手前もありますから……」

 真崎たちが疑わしい、と小百合は正面から主張していた。もし真崎たちが犯人だった場合、現場に立ち入って残された証拠を処分しようとしている可能性がある。そう言いたいのだろう。

「書斎の中の物は動かしません。それと、どなたかが見張っている状況ではどうでしょう?」

 詠が口を開いた。真っ直ぐに美咲の方を見つめていて、ほとんど睨んでいるようだった。

「ええと……」

 美咲は困ったように眉を顰めた。しかし、隆が亡くなっている現状では、誰も助け船は出せなかった。今や、彼女がこの別荘のホステスなのである。警察が来るまで、すべての決定権は彼女にある。もちろん、権利は義務と抱き合わせだ。

「じゃあ、そういうことでしたら」

 散々悩んだ素振りを見せた後、美咲はそう言った。

「ありがとうございます」

 詠がにっこり微笑んで礼を言った。それからすぐに席を立つ。

「それで、早速お願いしたいのですが……」

「わかりました」

 彼女は少し迷ったように頷いて、ゆっくり立ち上がった。

「よく判らないですけど、指紋とかに気を遣った方が良いんでしょうか?」

 詠は首を傾げた。しかし、先ほど窓を確認していたときには、構わずにドアノブなどを握っていた。今更気にしても遅いのではないか、と真崎は疑問に思った。

「あ、じゃあ、手袋をお貸しします」

 小松がそう言ってダイニングを出て行く。すぐに白い手袋を人数分抱えて戻ってきた。仕事で使っている物だろう。

「やっぱり、運転手さんはこの手袋をしないといけないものなんですか?」

 薄手の手袋をはめながら、真崎は問いかけた。小松は苦笑しながら答える。

「いけない、というほどではないですが。まあ、そういうものなので」

 真崎が先頭に立って、書斎へと続く扉を開ける。部屋の中には、血液の匂いがまだ色濃く漂っていた。。続いて詠と美咲、小松も入ってくる。

 隆の遺体には白いシーツが掛けられていた。ソファから動かされてはいない。美咲がやったのだろうか。

「状況からして、寝ているところを刺されたのでしょうか?」

 詠が美咲の方を見つめながら言った。

「ええ……。そうかもしれません」

 美咲は小声で答えた。長い睫毛がそっと伏せられる。詠は小さく嘆息した。

 真崎はまず、扉を確認した。錠は内側からは捻るだけで施錠できるタイプの物だ。外側からは鍵を差し込まないといけない。

「美咲さん」

「はい?」

「この扉の鍵って、どこにありますか?」

「ええと、普段は隆さんが持っていたんですが……」

 美咲はそう言って、部屋の奥の机に近づいた。一番上の棚を開く。

「ああ、ありました」

 棚の中の鍵を、美咲は指さした。何の変哲もない、金属の鍵だった。小さな金属製のプレートがついている。しかし、一目で分かるほどほこりを被っていた。最近、動かされた形跡はまったくない。

「合鍵とか、マスタキーとかはありますか?」

「無いと思います。少なくとも、私は目にしたことはありません。後で米山さんにも確認してみます」

「この部屋の物は、事件の後、何も動かしていないんですよね?」

「ええ。その、隆さんにシーツをかけただけです」

 真崎は首を捻った。詠も難しい顔をしている。

 真崎たちが部屋を出たとき、隆は鍵をかけていた。その後、眠っている間に殺されたのだとしたら、ロックはかかったままだ。扉から中に侵入するためには鍵を開けなくてはいけないが、そのキーはこうして書斎の中にあり、使われていない。

 真崎はもう一度扉を確認した。客室と同じようにドアスコープがついている。試しに扉を閉めてみて、スコープを覗いてみた。

 ダイニングの様子が、ほとんど見渡せた。死角が無いわけではないが、人がいるかいないかを判断するには十分だろう。中にいた犯人が、ダイニングの様子を見計らって脱出することは不可能ではないだろう。しかし、ずっと人がいたはずである。

「燈馬」

「うん?」

 詠が首を傾げて見上げてくる。

「しゃがんで」

「なぜ?」

 聞き返しながら、真崎はその場にしゃがみ込んだ。すると詠は真崎の背後に回って、首に跨がってきた。頭を両手で掴まれる。

「ちょ、ちょっと?」

「ほら、立って」

「……はあ」

 溜息を吐きながら詠の足を掴み、真崎は立ち上がった。肩車の体勢になる。詠は思ったよりもかなり軽かった。美咲と小松が目を丸くして見つめてくるのを、真崎は努力して無視した。

「あの、窓のところまで行って」

「はいはい」

 真崎は散乱している本を踏まないように気をつけながら、窓に向かった。

「ちょっと、動かないでね」

 詠はそう言って窓を調べ始めた。真崎の位置からは見えないが、窓を開閉したり、首だけ出して外を覗いていたりしているようだった。遠慮無く動かれるので、バランスを取るのが難しい。詠の体重が軽いのが、せめてもの救いだった。

「ありがとう。もう良いわ」

 詠がそう言ったので、真崎は角度に気をつけながら、その場にしゃがみ込んだ。詠がよいしょ、と言いながら肩から下りる。

「どうだった?」

「サイズ的には出るのは不可能じゃない」詠はにこにこ笑って、そう言った。「もちろん、入ってくるのもね。鍵もついてないし、外からだって開けられる」

 詠はそう言いながら歩き出した。

「美咲さん」

「は、はい」

「この部屋、他に出入り口はないのですか?」

「ありません」

「何かスイッチを押すと本棚がスライドして扉が現れるとか、カーペットをめくると、外まで続く地下道があるとか」

 極めて真剣な顔で詠は訊いた。美咲は呆気にとられていたが、やがて首を横に振った。

「……私の知る限りは、ありません」

「そうですか」

 真崎は隆の遺体に近づいた。シーツをめくる。目を見開いた驚愕の表情で固まっていた。その下、胸にはまだナイフが刺さっていた。シャツもベストも血に染まっている。酸素に触れた所為か、かなり黒ずんできていた。

「このナイフはこの別荘にあったものですか?」

「はい」

 美咲が頷く。

「そこの、ガラスケースに収まっていた物です。アンティークの飾り物だったのですが……」

 真崎はガラスケースを見た。洋酒の瓶や葉巻のケースが並んでいる。その一角に、古めかしい小物が並んでいた。そこに、不自然に空いているスペースがある。恐らく、ここに飾られていたのだろう。

 真崎はガラスの扉を引き開けた。何の抵抗もなく、扉は開く。こちらは鍵などはかかっていなかったようだ。それだけ確認して真崎は扉を閉めた。

 ケースの最上段に、写真が一枚飾ってあった。前妻である、恵子が写っていた。カメラに向かって、挑戦的に微笑んでいる。

 まるで、彼女が隆を呼んだかのように見えた。

「詠」

 真崎が呼ぶと、詠は静々と近寄ってきた。その小さい頭に顔を寄せ、真崎は小声で話した。

「米山さんと二人で話したいんだが」

「……あらあら」詠はにやにやと笑った。「まあまあ」

「誤解していないのは知ってる」

「私は何も言っていないけど」

 詠は左目だけを器用に閉じた。

「彩乃さんをこっちに寄越すよ」

「了解。行ってらっしゃい」

 真崎は書斎から出た。ダイニングには、先ほどと変わらず、彩乃と米山が椅子に腰掛けていた。

「彩乃さん」

「はい?」

「詠が、話したいことがあるそうなんだけど」

 真崎は書斎の扉に目線を遣りながらそう言った。

「え? あ、判りました」

 彩乃は素直に立ち上がった。そのまま書斎へと消えていく。米山が、その背中を不安そうに見送っていた。

「米山さん」

「は、はい……」

 真崎が話しかけると、米山はテーブルに視線を落として返事をした。

「少しお聞きしたいことがあるのですが」

 真崎はすぐにそう切り出した。あまり時間をかけると、美咲たちが書斎から出てきそうだった。

「は、はい。なんでしょう?」

「恵子さんって、どんな方だったんですか? 十年前に亡くなったと伺ってますけど」

「え?」米山は意外そうに眼を瞬かせた。「そうですね……」

 米山は一つ息を吐いた。それから、空中を見つめて少し考えた。

「お綺麗な方でした。彩乃さんに面影がありますね。東京の資産家の娘さんで、何というか、所謂お嬢様でした。ご実家は病院を経営されていたはずです」

「へえ」

「でも、かなりお厳しい方で、ちょっと神経質でしたね。ヒステリックというか……。私も毎日のように怒られました。その、マナーだとか掃除の仕方だとか些細なことで……」

 米山は小さな声でそう言った。

「こう言ってはなんですけど、彩乃さんの為には、恵子様より美咲ちゃんがお母さんの方が、良かったと私は思っています」

 はて、と真崎は思った。普通は、亡くなった人のことを悪くは言わないものだ。しかも恵子が亡くなったのはもう十年も前だ。それなのに、米山からは否定的な意見が次々と出てくる。

 珍しいことだった。米山と恵子はよっぽど仲が悪かったのだろうか。

「その、どうして恵子さんは亡くなったんですか?」

「ええ、その」米山は顔をしかめた。「実は、恵子様も殺されたのです」

「え!?」

 真崎は思わず高い声を出した。

「それは一体……?」

「不幸な事件だったんです」

 米山はカップを手に取った。一度、口をつける。

「物取りの犯行でした。十年前のあの日、旦那様と彩乃さんは、加藤さんのお宅に行っていたんです。私も一緒でした。お台所を借りて美咲ちゃんと二人で食事を作って、みんなで食べて……。その頃にはよく、そういうことをしていたんです」

 米山は懐かしそうに言った。それから、少し表情を引き締める。

「その日は、本当は恵子様も一緒にいらっしゃる予定だったんですけど、体調が悪くて一人でお帰りになったんです。ちょうど家に着いたとき、屋敷に入っていた空き巣と出くわしてしまって。それで……」

「運悪く殺されてしまった?」

「はい……」

 米山は沈痛な面持ちで頷いた。

「その空き巣はすぐに逮捕されたんですけど。でも、もう亡くなった人は戻ってきませんから……。旦那様も彩乃さんも大層悲しまれて……。それを慰めたのが美咲ちゃんだったわけです」

「なるほど」

 真崎は深く頷いた。

 そんなことがあったなど、まったく知らなかった。仕事の前に、恵子の死因を前もって調べておかなかったのは失敗だったかも知れない。

 やはり、死んだ経緯というのは幽霊にも影響を与えるものだ。先ほどの隆はどこかぼんやりしていたが、あれはまだ自分が死んだという現実を受け入れられていないからだろう。今まで目にしたケースとしては、怒り狂っていたり、悲しみに暮れていた幽霊もあった。

 死んだ後の時間に対する感覚がどのようなものか、真崎は知らない。ただ、死んだのが一時間前でも、十年前でも同じように呼び出せることは間違いない。

「恵子さんとしては加藤さんたちを気遣っていたことをどう思っていらっしゃったんですか? 厳しい方というお話でしたが」

「いえ、恵子様はとてもお二人のことを気にかけていらっしゃいました。多分、ボランティア感覚だったんだと思います。こう、欧米の方ではありますでしょう? 貴族の義務、みたいな……」

「ノーブレス・オブリージュ」

 真崎は短く言った。

「そう、それです」米山は頷いた。「恵子様は看護師の免許も持っていらっしゃいましたし、社会貢献というんですか? そういう意識が高い方だったので。外面が良いと申しますか……」

「でも、その、美咲さんに対する嫉妬だとか……。実際、後に再婚している訳ですし」

 真崎は一応訊いてみた。しかし米山は小さく笑顔を作って否定した。

「まさか。嫉妬だなんて、ありえません。だって、加藤さんの事故のときには、美咲ちゃんはまだ幼稚園だったんですよ。しかも、まだお二人にはお子様がいらっしゃいませんでしたから。娘のように可愛がって」

「ああ、なるほど」

 真崎は頷いた。幽霊の姿で見た恵子と、今の美咲の歳が近いため、なんとなくぶつかりそうな気がしたのだ。

 美咲の母親も、彩乃の母親も変死である。しかし、そのどちらかが今回の事件に関係しているようには、とても思えなかった。何しろ、両方とも十年以上も昔の話である。ましてや、美咲が隆を恨んだりする理由にはなるまい。

「ありがとうございます。とても参考になりました」

 真崎はそう言って、小さく頭を下げた。米山は不思議そうに、頷いただけだった。



     *




「それで? ちゃんと口説けたの?」

 ベッドに腰かけた詠は、にやにや笑いながらそう言った。

「ああ、ばっちり」

 真崎は頭をタオルで拭きながら答えた。簡単にシャワーを浴びてきたところだった。髪は短いので、ドライヤを使うことはまずない。

「あらまあ」詠は右手を唇に当てた。「それはそれは。どんなことをお話したのかしら?」

「主に恵子さんのことだね」

 詠が誤解などしていないことは判りきっているので、真崎はすげなく返した。それから聞いた話をかいつまんで説明する。

「へえ……。恵子さんも殺人事件だったなんてね。まるで、呪われているみたい……」

「呪い?」真崎は鼻で笑った。「偶然にそんな名前をつけてもね。まあ、資産家ともなると、トラブルに巻き込まれやすい、ってくらいじゃないかな」

「夢がないわね、燈馬は」

「客観的な判断をしてるだけだよ」

 真崎はバスタオルを椅子の背もたれにかけた。

「そっちは?」

 真崎は問いかけた。詠は彩乃たちと話をしていたはずだ。

「ううん……。大した話はしていない。そうね、彩乃さんは吾郎さんと小百合さんを疑っているみたい。でも……」

 詠は小首を傾げた。眉がひそめられる。

「私、あの子、嫌い」

「ふうん」

「気のない返事」

「そんな、爆発しそうな感じに見えなかったけど」

「ん? どういう意味?」

 首を傾げた詠に、真崎は真面目な顔を作った。

「機雷ってあれだろ、地雷の海バージョン」

「……下らない」

 詠が唇を尖らせる。真崎はちょっと笑って言った。

「どうして気が合わないの?」

「だって、あんなワンピースを着てるのよ?」

 真崎は彩乃の服装を思い返した。

「洒落た服だったと思うけど。可愛らしい感じで……」

「ええ。きっとお父さんに買って貰ったのね。それで言われたままに着ているの。あんなにこれ見よがしに反抗しているのに」

 真崎には詠が言っている理由がさっぱり解らない。まあ、嫌いだというのだから嫌いなのだろう。しかし、会う人全員と仲良くなれなどと言うつもりは毛頭無かった。

「詠が好きな相手なんているの?」

「そうね」詠は反対方向に首を傾けた。「美咲さんは好き」

「へえ。ちょっと意外かも」

「そう?」詠は小さく笑った。「だって、聡明だし控えめで、気丈だわ」

「気丈?」

「ええ。気がついている? 彼女、これまで一度も泣いていないのよ」

 詠に言われて、真崎は記憶をさらった。たしかに、詠の言う通り、美咲が涙を零している姿は見ていない。

「何より綺麗だし。燈馬もあの手のタイプの女性は好きでしょう?」

「まあね。健康的な美人は嫌いじゃないけど」

「ええ。米山さんも健康的だわ」

 詠はネグリジェに包まれた自分の胸に手を当てながら言った。

「詠の言う健康的、という言葉は、僕のそれと大きく乖離していると思うな」

「そうかしら? 硯だってそうだったし……」

 詠は二次曲線のように笑った。真崎も笑い返した。

「それなら、詠のことは何て形容すれば良いのかな。不健康な女子高生?」

「儚げな美少女って言うの。知らなかった?」

 詠は顎を少し上げて、得意そうに笑った。その顔のまま、話を元に戻す。

「よく判らないけど、美咲さんはこのままなら隆さんの資産もかなり相続するのでしょう? 今日から未亡人だし」

「さすがに不謹慎じゃないかな、その言い方は」

 真崎は一応窘めた。これでも肩書き上は詠の保護者である。

「それは失礼しました」

「遺産は配偶者に半分。残りを子供で均等割、が基本だったかな。隆さんほどの資産家だと遺言状くらい残していそうだけど」

 真崎はどこかで聞いた話を思い出しながら言った。

「そう。人物的にも経済的にも申し分なし。なんなら私のお姉さんになって貰っても良いくらいだけど……」

 真崎は後半部分を聞き流すことにして、簡潔に指摘した。

「コブつきだけどね」

「コブ?」詠は一瞬考えた。「ああ、彩乃さん? 血は繋がっていないし、何の問題もないでしょう。今後も一緒に住むとは限らないし……」

「そうかもね」

 真崎は眼を細めた。詠は両の手の平を上に向けた。しかし、上皿天秤の真似をしているわけではあるまい。それから投げ遣りに付け加えた。

「まあ、それもこれも、彼女が犯人でなかったら、の話なんだけど」

「うん」

 真崎は頷いた。詠は顎に人さし指を当てた。

「書斎への侵入経路の方は?」

「考え中」

「下手の考え?」

 真崎は小さく笑った。

「そう。さすがに疲れたからもう休もう。議論も聞き込みも、続きは一眠りしてから」

 時計はもう四時を回っていた。窓の外はほのかに明るい。徹夜してしまったことになる。

「仕方ないわね」

 不満そうに詠は頷いた。

「でも、今日は私もこの部屋で寝ます」

 詠は上目遣いに、けれど断定する口調で言った。真崎が口を開く前に、口早に続ける。

「寝ている間に犯人に何かされたり、と考えたらとても怖いもの」

「まあ、良いけどね」

 幸い、ベッドはとても大きく、二人が横になっても十分なサイズがある。東京の、真崎の部屋のベッドとは大違いだった。あちらは二人で眠るにはかなり密着する必要があった。一度、夜中に転げ落ちたことさえある。蹴り落とされたという方が的確かもしれない。

 詠がベッドに仰向けに寝転がり、タオルケットを胸まで引き上げる。そのまま横を向いて、柔らかな布にくるまった。

「リラックマの熊以外の部分みたいだ」

「だって、緊張する要素なんてないもの」

 真崎は詠の横に潜り込んだ。

「じゃあ、お休み」

「ええ。お休みなさい」

 真崎はサイドテーブルのランプを消した。




     *




 真崎と詠がダイニングに入ると、吾郎と小百合の夫妻がいた。朝食を摂り終え、コーヒーを飲んでいるところのようだ。

「おはようございます」

「ああ」

 真崎が挨拶をすると、吾郎は億劫そうに頷いた。

 二人ともかなり眠そうだった。昨夜は、行動を確認した後はすぐに寝室に引き上げていたはずだが、さすがに落ち着いて眠れなかったのだろうか。

 真崎はダイニングを素通りしてキッチンに入った。扉を開けると米山がシンクに向かっている。しかし、ぼんやりと手元を見つめているだけで、何の作業もしていなかった。真崎のことにも気が付いていない。

「おはようございます」

 真崎はなるべく優しく声をかけた。

「あ、おはようございます……」

 米山は緩慢に真崎の方を向いて、挨拶をした。一夜明けても、目元はまだ赤かった。酷い隈もできている。

 それでも丁寧な口調で彼女は言った。

「すぐに朝食の準備を致します。ダイニングでお待ちください」

「すいません。ありがとうございます」

 二人はダイニングに取って返した。テーブルの席に並んで座る。

「眠そうですね」

「ああ」吾郎は頷いた。「どうにも昨夜は寝付けなくて」

「まあ、こんな状況ですから」

 真崎は小さく笑顔を作った。すると小百合が尖った口調で言った。

「警察がまだ来られないというのはお聞きになりました?」

「ええ。倒木があったとか……」

「困ってしまうわ」小百合は頬に手を当てた。「早く東京に帰らなくちゃいけないのに……」

「お二人はどうしてこちらにいらっしゃったんですか?」

 詠がお淑やかな顔をして訊いた。対外的なモードである。上品な令嬢のような顔を上手に作っている。しかし、彼女における最大の問題は、話の中身はまるで遠慮がないことだ。外見を取り繕っている意味が、真崎にはまったく理解出来ない。

「え?」

「だって、台風が来ていたのは解っていたわけですし。それをこんな山の中まで。しかも、特に呼ばれてもいないのに……」

「それは……」

 吾郎が口ごもる。小百合が毅然とした口調で答えた。

「早急に兄さんと話をする必要があったのよ。それで仕方なく。そうじゃなきゃこんなところまで来ないわよ」

「……そうですか」

 詠は口元を緩めて頷いた。

 米山が朝食を運んでくる。洋食だった。トーストとベーコン・エッグにサラダ。シンプルな構成である。

 二人の様子から、どうも金銭がらみではないか、と真崎は想像した。たしか、米山から聞いた話もそんな感じだった。

「ちょっと昨夜のことをお聞きしても良いですか?」

 詠が切り出す。吾郎は小さく頷いた。

「昨夜、九時くらいに小松さんと一緒にダイニングに見えられましたよね?」

「ああ」

「その後は、ずっとこの部屋に?」

 吾郎は頷いた。詠はテーブルの上に身を乗り出した。

「その、本当にずっと、ですか?」

「え? どういう意味?」

「この部屋から一歩たりとも、一秒たりとも、外に出なかったか、という意味です」

 詠の勢いに、吾郎は少し身を引いた。それから頭を掻く。

「いや、どうだったかな。何度か席を外したような覚えもあるが……」

「それを、全部教えてください」

「全部? いや、急にそんなこと言われても。酔っ払ってもいたしね」

「お願いします。大事なことなんです」

 詠は上目遣いになった。それに同期して、吾郎の目尻が垂れ下がった。強力な磁場を感じさせた。

「ええと、そうだな……」吾郎はカップに口を付けた。「たしか、一度トイレに行った」

「それは小百合さんが来る前ですか? 後ですか?」

「前だね。こっちに下りてきて、割とすぐだ。九時過ぎくらいじゃないかな」

「その間、小松さんは?」

「ダイニングにいたんじゃないかな。キッチンかも。どちらにせよ、すぐに戻ってきたから、何かしているような時間はないよ」

 吾郎は明確にそう言った。

 確かに一、二分の間では、書斎に入り込んで隆を殺害し、また部屋に戻ってくるのは難しいだろう。ましてや、人を殺した直後に変わらず酒を飲み続けるなどとは考えにくい。

「他にはありませんか?」

「そうだなあ。ああ、加藤さんが下りてきたときがあったか」

「と、言いますと?」

「加藤さんが水を取りに下りてきたんだ。でも、あの人は足が悪いだろう? 階段を登るのが大変なんじゃないか、って小松さんと一緒に手伝おうとしたんだ」

「それで、僕たちと会ったわけですね?」

「ああ。階段の下で、真崎さんと彩乃ちゃんと会った。それで二人にお願いして、またダイニングに戻ったんだ。こっちも大した時間じゃないね」

 吾郎の説明に、詠はふむ、と考えた。

「その後はありませんか?」

「その後は……、小百合たちが来て………」

「動いていないわよ」

 吾郎の視線を受けて、小百合がきっぱりと言った。

「私も、この人も小松さんも、ダイニングから一歩も外に出ていない。その間、この扉を通った人はいないわ。米山さんはキッチンとダイニングの間をうろちょろしていたけどね」

「そうですか」詠は小さく頭を下げた。「ありがとうございます。とても参考になりました」

「いや、このくらいなら別に……」

 吾郎がでれでれと言う。

「すいません、小百合さん」真崎は極力柔らかく微笑んだ。「一つお聞きしても良いですか?」

「何?」

「昨夜、ここにペットボトルがあったんですけど、いつからあったかご存じですか?」

「さあ」小百合は首を振りさえしなかった。「私が食事を摂りに来たときにはあったわよ」

「そうですか。ありがとうございます」

 小百合は鼻を鳴らした。

「ねえ、貴方たち」

「はい?」

「どうしてそんなことを調べているの?」

 訊かれた詠は、きょとんとした表情で、小首を傾げた。

「だって、気になりませんか? どうやって隆さんが殺されたのか……」

「私は貴方たちがやったのではないかと思っているけど」

 ばっさりと小百合は言った。

「お、おい……」吾郎が慌てた様子で言う。「何てことを言うんだ。大体それは、美咲さんに否定されただろう?」

「判らないわよ」小百合はつまらなさそうに言った。「あの女とこの二人が結託しているかも知れない」

「結託?」

「だってそうでしょう? 兄さんが亡くなったことで、あの女が遺産を相続するのよ。纏まったお金を掴ませるくらい、わけないわ」

「……ああ」

 真崎は思わず感心した。利害関係に着目すれば、十分に理に適っている。

 美咲が真崎たちに、隆の殺害を依頼したと小百合は言っているのだ。そして、真崎たちに不利にならないように偽証している、と。

「私たちと美咲さんは初対面だったのですが」

 詠が言う。しかし小百合は鼻で笑った。

「知っていることは証明できても、知らないことは証明できないわ。悪魔の証明、とか言うんでしたっけ? それに実際に会ったことがなくても、ネットとかで連絡を取り合っていたのかも知れない」

「そうですね」

 真崎はなるべくにこやかに頷いた。小百合は深くため息をついた。

「まあ、警察が来れば判ることでしょう」




     *




「どうぞ」

 ノックに答えて返事がある。真崎は扉を引き開けた。

「失礼します」

「あ、燈馬さん……」

 彩乃は意外そうに、目を瞬かせた。その目は赤く充血していた。

 二階の、彩乃の部屋だった。真崎が泊まっているのと同じ間取りだった。ホテルのシングルルームとほぼ同じで、大きいベッドの他には小さな机と椅子があるくらいだ。

 彼女は椅子に座って机に向かっている。しかし机には何も載っていなかった。どうやらぼうっとしていたらしい。

「その、ちょっとお話ししても良いかな?」

「はい……」

「あ、場所を変えた方が良い?」

 一応気を遣って真崎は訊いた。しかし彩乃は首を横に振って立ち上がった。

「いえ、入ってください」

 彩乃はそう言って部屋を見渡した。しかし椅子は一つしかない。

「ええと、燈馬さんは椅子を使ってください。詠さんはベッドに座ってもらっても良い?」

「ええ」

 詠は小さく頷いた。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 真崎は椅子に腰かけた。彩乃と詠がベッドに並んで座る。

 今日の彩乃は白いブラウスを着ていた。襟や袖などに可愛らしいフリルがあしらわれている。下は濃い緑のチェックのフレアスカートだった。クラシックなお人形みたいなファッションだった。

 一方、詠は濃いグレィのサマーセータに、淡いピンクのバルーンスカートを履いている。彼女には珍しく、フェミニンな印象だった。髪はポニィテイルにしている。

「その、お父様のことは……」真崎はなるべく優しい声を使った。「とても残念でした。お悔やみを申し上げます」

「あ、はい」彩乃は微笑もうとして、涙を零した。「あ、ありがとうございます」

 彩乃はなんとかそれだけを口にした。涙が溢れ出てしまう。真崎はポケットを探ったが、その前に詠がハンカチを差し出した。

 しばらく、彩乃の嗚咽だけが室内に響いた。詠がその背をさすっている。真崎は何も声をかけなかった。何を言って良いのか判らなかったし、何を言われても意味などないこともよく知っていた。

「すいません……」

「いや」

 しばらく経って、彩乃はようやく泣き止んだ。鼻と目尻が赤くなっている。

「詠さん、ありがとう。これ、洗濯してから返しますね」

「はい。よかったら差し上げます」

 詠はそう言ったが、彩乃は首を横に振った。

「その、不思議ですね」

 彩乃は真崎の方に向き直った。

「昨日は全然実感もなかったのに。今日になって、目が覚めたら、お父さんにもう二度と会えないんだって、思って急に……」

「そんなものだよ」真崎は微笑んだ。「タイム・ラグがあるんだ。ショックが大きいほど……。アブザーバとでも言えば良いのかな。強すぎる感情を急に受け入れようとすると、壊れちゃうからね。それだけ、君がお父さんを愛していたってことだ」

「そうでしょうか……」彩乃は不安そうに言った。「もう、色々思い出しちゃって。もっと甘えれば良かった、とか。酷いことを言っちゃったこともあったし、なんでもっと優しくしてあげなかったんだろう、って。意地張っていないで、認めてあげれば良かった、とか」

 彩乃はぐずぐずとそう言った。口調が最初の頃の丁寧なものから、かなりフランクになってきていた。

「何歳まで一緒にいたって、結局そういう後悔は無くならないからさ。気に病んでもね。誰も喜ばないから……」

 真崎は極力ソフトにそう言った。

 後悔も満足も、生き残った者だけが持てる感情だ。それは死者には何の影響も及ぼさない。ポジティブであれネガティブであれ、自己満足の産物に過ぎない。自分で作り出した、幻想の感情に過ぎない。

 しかし、そうやって人は自分を守っている。死んでしまった相手を愛していた心優しい自分を再確認する。あるいは、自分が死んだときにそう悲しんでくれる人がいるはずだ。そう思い込むことで、自らの人生に意味を持たせようと躍起になっている。

「そう、ですね」

 彩乃はそう言って、なんとかにこりと笑った。可愛らしい、と真崎は感じた。こほん、と詠が咳をする。

「それで、お話しても?」

「あ、はい」

 詠の声に、彩乃はスカートの裾を抑えながら上品に座り直した。

「昨夜のことを聞きたいの。その、事件のあった時間帯のこと」

「ええと、昨夜、お話しましたよね。ほとんど、あれで全部なんですけど」

 彩乃は首を傾げて言った。

「夕食の後、遊戯室に行って、暇を潰していたら燈馬さんがやってきてお話ししました。その後は、燈馬さんが部屋に戻るというので、一緒に二階に戻りました。詠さんとも、その時にお会いしましたよね?」

「ええ」

 詠は無表情に頷いた。

「その後は、悲鳴が聞こえてくるまでずっとこの部屋にいました」

「その間、他の場所には行っていない?」

「ええ」

「遊戯室から一階のお手洗いにも?」

「えっと」彩乃は一瞬真崎の方を見た。「はい」

「そう……」

 詠は眉をひそめた。

「この部屋にいたことは証明できる? いえ、入ったところまでは私も見たけれど」

「そう言われまして、ずっと一人でしたし……」

 彩乃は眉を寄せた。

「廊下にすら出ていません。それが証明になりませんか?」

「はい?」

 詠が真崎の顔を見る。しかし真崎も、彩乃の言う意味が掴めず首を傾げた。

「ここの廊下、けっこう酷く軋むんです。誰かが歩いているとすぐ判るし、扉も薄いから……」

「それで?」

「だから、私が歩けば、他の人は気が付いたんじゃないかと思ったんですけど……」

 彩乃の言葉は尻すぼみになった。

「ごめんなさい、無理ですよね。そんな、廊下の音をチェックしてるはずも無いし……」

「そうだね。さすがにちょっと難しいかな」

 真崎は宥めるように言った。

「でも、私がこの部屋にいた間、廊下を人が通ったのは三回だけです」

「え?」

 真崎が訊き返すと、恥ずかしそうに彩乃は言った。

「その、私、注意して聞いていたんです。廊下の音を……」

「ふうん……」真崎は頷いた。「どうして、そんなことを?」

「それは……、気になったからです」顔を赤らめて彩乃は言った。「あの、その、えっと……。美咲さんが……」

「美咲さん?」

「あの人、よく私の部屋を訪ねてくるんです」

 彩乃は早口に言った。顔を伏せてしまったため、表情は読み取れない。髪の隙間から覗く耳たぶが真っ赤だった。

「多分、その、私が冷たくしているから、懐柔しようとしているんだと思うんですけど」

「懐柔?」

「あ、いえ。そんな打算的な意味じゃないとは判ってるんですけど……」

 彩乃はそう美咲をフォローした。なんだかもう、ぐだぐだな話し方だった。内容もどうにも要領を得ない。

「えっと、それで、どうして気にしていたの?」

「だって、突然来られたら困るから……。心の準備とか、あるでしょう?」

 もじもじと彩乃は言った。

「なるほど」詠が、ひどく冷たい声で言った。「まあ、理由はともかく、彩乃さんは廊下の音に耳をそばだてていた。その間、十時から十一時くらいまでかしら……、廊下を通ったのは三回だけ。つまり、美咲さんたちが下りたときと、一人で帰ってきたとき、そしてもう一度下りていったとき、だけだということね?」

「はい」

 安心したように彩乃は頷いた。詠はため息をついた。

「ありがとう。参考になりました」

「いえ」

「それと」

 詠はにやりと笑った。

「自分の足で歩きなさい」




     *




「そこに座りなさい」

 部屋に戻るなり、詠は床を指さした。まさか、体育座りをしろという意味ではあるまい。真崎は無視して椅子に腰かけた。

「どうしたの? 突然」

「昨夜、彩乃さんと何を話したの?」

「何って……」真崎は記憶を引っ張り出した。「大したことじゃないよ、別に……」

「良いから、とにかく内容を言いなさい」

 詠は仁王立ちになってそう言った。二つの眉の延長線と、真っ直ぐな鼻筋を合わせると、メルセデス・ベンツのエンブレムになるな、と真崎は考えた。

「そうだなあ。家族がどうとか、そんな程度だよ」

「それで?」

「あ、そうそう」真崎は首を振った。「僕と詠の名字が違うことを気にしていた」

「……他には?」

「それくらいかな」

 詠はこれ見よがしにため息をついた。

「どうして、それだけで彩乃さんがああなるのよ?」

「ああって?」

 真崎は聞き返した。

「廊下の音に耳をそばだてるようになるのかって意味」

 詠は冷たい視線を向けた。真崎は首を傾げた。

「美咲さんが来るか、気にしていたんだろう?」

「そんなわけがないでしょう」詠は両手を腰に当てた。「あれは、燈馬が来るんじゃないかと期待していたの」

「まさか」

 燈馬は煙草を取り出して火を点けた。詠はあからさまに眉をひそめた。

「絶対そうよ。もっとお話していたかったのに、燈馬が部屋に戻るって言い出して……。それが凄く残念で、もしかしたら燈馬が訪ねてきてくれるんじゃないか、もうちょっとお話出来ないかって、期待していた。だから部屋の外を気にしていたのよ」

「さすがにそれはちょっと、想像力が逞しすぎるんじゃないかな……」

「いいえ」詠はゆっくりと首を横に振った。「恋する乙女ならそのくらい、当然よ」

「僕は詠の想像に対して言ったんだけどね」

 真崎は煙を天井に向かって吐いた。詠は顔をしかめた。

「だって、昨夜、不思議に思わなかった?」

「何を?」

「彩乃さん、あの時間なのに、まだ着替えていなかった」

 真崎は昨夜のことを思い返した。隆の死体が見つかったとき、たしかに彩乃はまだ着替えていなかった。同じように私室に戻っていた美咲や米山はすでに寝間着姿だった。

「夜更かししたい年頃なんじゃないか?」

「そんなのはとっくに過ぎているし、夜更かしするのに服装は関係無いわよ。ここだと彼女のスマホも通じないみたいだし。あれはただ、パジャマ姿を見られるのが恥ずかしかっただけ……」

「詠を基準に考えない方が良いと思うけどね」

 真崎はもう一度煙を吸い込んだ。頭がクリアになっていくような気がする。

「仕方がないのよ」詠は言った。「彩乃さん。ずっと女子校育ちみたいだし、一つ屋根の下に若い異性がいたことも無かったから。どうしても気になっちゃうんでしょう」

「若い異性って」真崎は思わず噴き出した。「僕と彩乃さんは十以上も離れているんだよ。多分、おっさんだと思われているんじゃないかな」

「関係無いわよ。愛さえあれば」

「さっき、若い異性、って強調していなかった?」

「ああもう」詠は太平洋高気圧のように膨れた。「ああ言えばこう言うんだから……」

 詠はベッドに腰掛けた。細い足を組む。

「大体、父親と美咲さんなんていう、年の差カップルを目の当たりにしているんだから。燈馬と彩乃さんくらいの差なら、あって無いようなものでしょう」

「……なるほど。それは一理あるね」

 真崎は頷いた。どちらにせよ、あまり関係が無いことだった。

「私は嫌いだけど、燈馬が良いならべつに良いわよ? 彩乃さんは莫大な遺産を受け継ぐんでしょうし。何か悪いことを企みそうもないし。それなりに可愛らしいし。私は嫌いだけど」

「変な妄想をしているのは詠の方だね」

「私は燈馬のこれからを心配しているだけよ」

 真崎は小さく笑った。話題を変えることにする。

「ま、そんな話はともかく、色々貴重な情報があったんじゃない?」

「そうね」

 詠はすっと頭を切り換えたようだ。目が少し細められる。

「美咲さんが私と別れた後、部屋から外に出たのは二回だけ」

「そうみたいだね」

「二回目は下りて発見しただけでしょう。すると、一度目に下りたときが、犯行のタイミングということになるわね」

「でも、そのときは小百合さんと米山さんと三人だったはずだよ」

 真崎がそう言うと、詠は腕を組んだ。

「でも、帰りは一人だけだったから。キッチンで米山さんと別れた後、目を盗んで書斎に入ったんだわ。それで殺して部屋に戻った……」

 真崎は黙って煙草を吸った。目線だけで、続きを促す。

「それからシャワーを浴びて、痕跡を消した。十一時頃にまたダイニングに下りて、今度は目につくように書斎に入った」

「うん」

「だいぶ行動が絞り込めてきたわね。後は具体的に、どうやって書斎に入ったか。ダイニングの目の問題も、書斎の鍵についても判っていない」

 詠は首を捻った。腕を組み替える。

「意見を言っても?」

「どうぞ」

「その、詠が言う美咲さんの行動には不思議な点があるね」

「何かしら」

「どうして、自分で遺体を発見したのかな。しかもあのタイミングで」

 真崎の言葉に、詠は小さく頷いた。そのことには思い当たっていたようだった。真崎は続ける。

「第一発見者が怪しい、って言わない? 自分が犯人だったら、わざわざそんな疑われるようなことをするかな。犯罪者の心理としてさ……。それに、あんなに早く見つけてしまったら、犯行時刻が絞られてしまう。翌朝まで放置しておけば、誰にだって犯行のチャンスがあったことになるよね」

「そうかしら?」詠は小首を傾げた。「だって自分の夫なのよ。寝室も一緒。戻ってこないのを翌朝まで放置していたら、そっちの方がよほど不自然じゃない?」

「ううん……。一理あるけど、体調が悪くて先に眠ってしまった、で済む話じゃない? それに、例えば、米山さんに呼んできて、ってお願いすれば解決するよね。時間的なメリットは無くなっちゃうけど」

「つまり、自分が最初に入るだけの理由があった、と言いたいのね?」

「うん。美咲さんが犯人なら、それが一番しっくり来るんじゃないかと」

「と、なると、何らかの証拠を隠滅していた、と考えるのが自然かしら」

 詠はベッドから立ち上がった。

「でも、そんなの、殺したときに片付ければ済む話だし。そのときは、時間的な余裕がなくて無理だったのかしら」

「発見したときも、時間的余裕は無いよ」

 真崎は冷静に補足した。

「じゃあ、後から気がついたの? 書斎を出て部屋に戻ってから、自分が犯人だと明確に示すものを残してきてしまった、って」

 詠は視線を部屋のあちこちに向けた。大きな黒目がくるくると動いている。

「凶器の指紋を拭き取るとか?」

「まあ、あり得る線ではあるね」

「何か不満?」

 詠が首を傾げる。真崎は小さく頷いた。

「殺人を犯すような人間が、そんな基本的なことに思い当たらないなんてことがあるのかな?」

 真崎が言うと、詠は素直に頷いた。

「駄目ね。何も思いつかない。何かポケットに入る程度の物なら回収出来るでしょうけど……。でも自分の家の別荘だから、ちょっとした小物なら落ちていてもおかしくはないだろうし」

 結局、そう言って詠は深い息を吐いた。

「まあ、考えるのは他の人の話を聞いてからにしようか」

「そうね」詠はもう一度溜息を吐いた。「警察が来るまで、あと何時間あるのかしら……?」


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