第2話 幽霊部屋の刺殺死体 -A Corpse in a Haunted Room-

 死者を幽霊として呼び出し、望む者に会わせる。これが真崎たちの仕事だった。どういった理屈なのか、真崎は知らない。ただ、ごく稀にそうしたことが出来る人間がいる、というだけだ。

 真崎の仕事はただのマネージャだ。組織に接触してきた人間の裏を取り、遣り取りをして、時間や場所を取り決める。入金を確認したら、幽霊を呼び出せる人間と一緒にそこに行き、会わせてやる。特に難しくも面白くもないビジネスに過ぎない。

 真崎は組織について、本当に最低限のことしか知らない。その必要はないし、知るべきでもないと思っている。

 依頼人が支払う金額は法外なほどに大きいし、真崎や詠が受け取っている給料も相当な額だ。しかし、古典派経済学の主張するように、需給で価格が決定されるならば、適正な料金とも考えられる。商売として成り立っている以上、何も問題は無い。個人的には、もっと高くても良いと思っているくらいだ。

 組織や仕事のことは一切外部に漏らしてはいけないことになっている。一応、名目上の会社名やオフィスと、それが記載された名刺は持っている。しかし真崎が出勤したところで、会社ですることは特にない。スマートフォンを一台持ち歩けば、それで何とでもなるのだ。

 それでどうやって顧客を得ているのかとも思うが、コンスタントに依頼はやってくる。相手はどれも大変な資産家ばかりだ。恐らく、そのクラスの人々が所属するコミュニティで、極秘に情報が遣り取りされているのだろう、と真崎は想像していた。

 しかし、どんな経緯で依頼してきたのであろうとも、真崎には関係が無かった。ただ、需要に従って供給し、対価を受け取るだけのことだ。

 書斎を出てダイニングに戻る。美咲が一人腰かけていた。食後のお茶を楽しんでいたようだ。フルーツが載った皿もあった。グレープフルーツの瑞々しい果肉が、蛍光灯の明かりを艶やかに反射している。

「どうも」

「ええ……」

 真崎と詠の姿を認めて、美咲は微笑んだ。その笑顔は弱々しかった。すぐに意志を無くして固まってしまう。

 そういえば、と真崎は思い出した。先ほどの夕食の際に、美咲は食事をかなり残していた。顔色もあまり良くない。体調が悪いのかも知れない。

「どうかされました?」

「あ、いえ……」

 じっと見つめてくる美咲に問いかけると、彼女は小さく首を振った。短く息を吐く。

「少しお話に付き合って頂けませんか?」

「え、ええ。構いませんよ」

 妙に重大な調子で言われたので、真崎は意外に思った。とても、少し雑談するような感じではなかった。

 隣に立った詠が真崎のことを見上げる。それに気が付いたのだろう。美咲は対数関数のように慎ましく、上目遣いで言った。

「詠さんも、是非」

「はい」

 真崎と詠はテーブルの反対側の席に腰かけた。パーティのときと同じように、美咲の正面は詠だ。

「米山さん!」

 美咲が少し大きな声で呼びかける。すぐにキッチンへと続く扉が開いた。

「何でしょう?」

「申し訳ないのですけど、お二人にもお茶をお願いします」

「はい」

 にこりと笑って米山はキッチンに引っ込んだ。すぐにトレイにポットとカップを載せて戻ってくる。二人に見事な手つきでサービスしてくれた。

 真崎はカップを手に取った。中に入っているのは中国茶だった。芳醇な薫りが鼻をくすぐる。

「お二人も東京にお住まいですよね?」

「はい。まあ、かなり南の端っこの方ですけど」

 美咲はまた少し上目遣いになっている。話題を慎重に探っているような雰囲気があった。

「詠さんは高校生ですよね。どちらの学校に通っていらっしゃるの?」

「ただの都立高校です。羽々音高校」

 詠は学校の名前を挙げた。少し眼を細めている。羽々音高校は名門校として名が知られている。そのため、三角関数のようにワンパターンなリアクションに出迎えられることが多い。そうした遣り取りに、辟易しているのだろう。

「そう……」

 しかし美咲はそう頷いただけだった。

「学校はどう? 楽しい?」

「はい」

「お勉強は大変でしょう?」

「いえ……」詠はちらりと真崎の方を見上げた。「あまり指導にうるさくない学校なので。宿題もあまり出ません。テスト前にちょっと対策するくらいです」

「そう。頭が良いのね」

「いえ……」

 歯切れ悪く詠は言った。彼女には珍しいことだった。

「部活は何に入っているの?」

「帰宅部です」

 詠は短く答えた。

「あ、そうなの……」

 困ったように美咲は応えた。少し雰囲気が白ける。真崎は手を組んで、口を挟んだ。

「美咲さんは、何かスポーツをしていらっしゃったんですか?」

「え? ええ」美咲は一瞬目を丸くしたが、すぐに小さく微笑んだ。「学生の頃はずっとバスケットボールをやっていました。こう見えても、ちょっとしたものだったんですよ」

「いえ、判ります」

 真崎はなるべくさりげなくそう言った。美咲は一瞥しただけでも、健康的な魅力に溢れていた。長身の肢体は均整が取れていて、弛んだところがない。恐らく、今でも定期的に運動をしているのではないかと真崎は予想した。

「身長、高いですよね。スタイルも良いですし、羨ましいです」

「女性が高くたって良いことなんて、あまり多くないのよ」

 詠の言葉に、美咲は少し俯いた。長い髪が頬に掛かったのを、左手で耳にかける。その仕草は妙に蠱惑的だった。

 真崎は隆のことを思い出した。明らかに、隆より美咲の方が身長が高い。これでヒールの高い靴を履いたら、さすがに少し不釣り合いになるだろう。

「学校のお友達とは、普段何を話しているの?」

「普段?」

 詠は首を傾げた。小さく相好を崩す。

「改めて訊かれると難しいですね。取り留めのない事ばかりです。テレビがどうとか、新しく出来たお店やファッションのこととか。後は恋バナとかですかね」

「詠さんは可愛いから、もてるでしょう?」

「いえ、あまり」詠は真面目な顔で言った。「可愛げがないので」

「そうは見えないけど……。よく告白されたりするでしょう?」

「それは、まあ。時々はありますけど」

 詠は真崎を横目で見ながらそう言った。少し口元が緩んでいる。

 真崎は詠の浮いた話など、聞いたことがなかった。一緒に暮らしているが、帰りが遅かったりすることは稀だ。携帯電話をいじっていることもあまり多くない。恋人はおろか、同性の友人すら、いるのかどうか不安なほどだ。

「じゃあ、お兄さんは心配ですね」

「いえ、別に」

 真崎はきっぱりと否定した。

「本人の好きにすれば良い、と思っているので」

「信頼しているのですね」

「綺麗に言えばそうなりますね」

 美咲は小さく噴き出した。澄ました顔で詠が言う。

「むしろ、燈馬の方が心配です」

「あら、そうなの?」

「はい。恋人なんて、もう何年もいないんじゃないかと」

「あ、そっちの心配なのね。燈馬さんもとても素敵なのに……」

 真崎は肩を竦めただけで、コメントするのを避けた。それがもっとも期待効用が高いと判断したのだ。

「ご兄妹で、仲が良いんですね」眩しそうに美咲は言った。「家でも良くお話しているんでしょう?」

「そうでもないですよ。仕事で帰りが遅くなることもありますしね。サファリ・パークみたいなものです」

 真崎が苦笑しながら言うと、詠から睨まれた。いつものことなので、別に怖くはない。

「本当に仲良しですね。羨ましいです。うちと大違い……」

「え?」

 小声で言った美咲に、詠が問い返してしまった。真崎は心の中で小さくため息をついた。恐らく、今までのもどかしい会話は、ここを目指していたのだろう。

「どうも、彩乃とうまく話せなくなってしまっていて」

「ああ……」

 詠が曖昧に頷く。美咲は眉を落とし、力ない声で続けた。

「多分、お分かりになっていると思うんですけど、彩乃は私の実の娘ではないんです」

 詠は黙って頷いた。

 真崎は少し疑問に思った。美咲と彩乃は義理の親子だが、かなり歳が近い。口ぶりから、美咲が隆に嫁いだのは最近のことだろう。彩乃と知り合って、まだ日が浅いはずだ。それなのに、美咲が彩乃を呼び捨てにするのは、少し違和感を感じさせた。

「どうにも、この年代の子の考えていることがよく解らなくて」

「この年代と言っても」真崎は言葉を選びながら言った。「ほんの数年前のことでしょう?」

「とても大きな差です。反抗期なのでしょうか」

 そう言って美咲は首を小さく振った。女の子の反抗期はいくらなんでももっと前だろう、と真崎は思ったが、口にはしなかった。

 まあ、ありがちな話か、と真崎は感じた。美咲は恐らく二十代の半ばだろう。若い女が父親と再婚して家に来れば、年頃の娘としては面白いわけがない。多少、美咲の物言いが引っかかるが、気にしないことにする。

「あまり深刻に考えない方が良いですよ。暗い顔をしていても、事態が解決するわけじゃない。明るくしていた方が良いと思います」

「それはそうですけど……」

「まあ、うちの妹ならお貸ししますので、会話の練習台にでもどうぞ」

 真崎は軽くそう言った。しかし詠は表情を変えなかった。詠は偏屈ではあるが、美咲は苦手なタイプでは無さそうだった。

 真崎はスーツのポケットを探った。煙草の箱はいつもどおり入っている。しかし灰皿が見当たらなかった。恐らく、米山が片付けてしまったのだろう。部屋を見渡すがそれらしき物はない。訝しげな顔を浮かべた美咲の姿が目に入る。

 真崎は考えを改めた。

「ちょっと失礼します。このまま話していてください」

 真崎はそう言って立ち上がり、キッチンへと続く扉へと向かった。




     *




「すいません」

 真崎は一応ノックをしてから扉を開けた。

「あら、真崎さん」エプロン姿の米山が洗い物をしていた。「どうされました?」

 その顔に向かって真崎は極力にこやかに微笑んだ。

「すいません、ここで煙草を吸っても良いですか?」

「え? あ、ええ、どうぞ」

 米山が頷いたのを確認して、真崎は換気扇の下に移動した。ライターで煙草に火を点け、煙を胸一杯に吸い込む。

「わざわざお気遣い頂き、ありがとうございます」

 米山がニコニコしながら灰皿を差し出してくる。先程までと雰囲気が少し違うように感じられた。雇い主である隆が近くにいない所為だろうか。

「ところで、真崎さんはどうしてこちらに?」

「ええ、ちょっと仕事です。野暮用のようなものですね」

 その答えに、米山は小さく首を傾げた。真崎は話題を変えることにした。しかし咄嗟には適当なテーマが思い付かなかった。

「美咲さんと彩乃さん。あまり上手くいっていないんですか?」

 結局、先程までの美咲の様子が頭に浮かんだので、それをそのまま言葉にすることになった。口に出してから、あまり適当な話題ではないと反省した。

「ええ、そうなんです」

 しかし、米山は気にするような様子もなく頷いた。

「元々は仲が良かったんですけどね。やっぱり、お父様と結婚となると、難しいみたいで……。美咲ちゃんも苦労しているみたい」

「美咲ちゃん?」

「あ、やだ、私ったら」

 思わず真崎が問い返すと、米山は声を一オクターブほど高くして、手を振った。かなりスナップが利いていた。良いスパイクが打てそうだった。

「奥様のことはこんな小さい頃から知ってるから、ついそう呼んでしまうんです」

 米山はそう言って、自分の腿の辺りで、右の手の平を下に向けた。半身だけでヒゲダンスを踊っているわけではあるまい。大体、床から七十センチくらいの高さだった。

「赤ん坊の頃からですか?」

「いえ、もうちょっと後です。幼稚園くらいだったかしら」

 それならさすがにもう少し大きくなっているのではないかと真崎は思ったが、口にはしなかった。あくまで本人のイメージとして、そのくらい小さかったと言いたいのだろう。

「あらやだ。歳がばれちゃうわね!」

 なぜか嬉しそうに米山はそう言った。それを聞いて、真崎は簡単に計算した。美咲が園児だったころとなると、今から二十年ほど前だろうか。そうなると、米山は若く見積もっても四十前後が妥当なところだ。意外と若作りだということになる。

「ええと、もしかして米山さんの紹介で、石村さんたちは結婚したんですか?」

「まさか。旦那様も、同じ頃から知っていらっしゃいますよ」

 真崎はますます首を捻った。すると、米山はなぜか声を潜めて教えてくれた。

「美咲ちゃん……奥様は大変な苦労をされて育ったんです」

「はあ」

「夕食のとき、加藤さんがいらっしゃったでしょう? 車椅子の」

「ええ」

 真崎は夕食のときのことを思い出した。加藤は寡黙な質なのか、あまり口数は多くなかった。けれど優しげな雰囲気は伝わってきていた。唯一、彩乃とも普通に話をしていた。

「加藤さんが美咲ちゃんのお父様なんですけどね、旦那様の会社の社員なんです。ずっと前、美咲ちゃんが生まれる前から」

 結局、呼び方は美咲ちゃん、に統一することにしたようだ。米山の中で、それが一番自然な呼び方なのだろう。

「加藤さんにももちろん奥さんがいらっしゃったんです。でも、事故に遭われてしまって」

「事故?」

「ええ。交通事故です。詳しくは知りませんが、かなり酷かったらしいです。それで奥さんが亡くなってしまい、加藤さんも片足を切断することに。幸い、美咲ちゃんには大きな怪我はなかったんですけど」

「なるほど」

 どうコメントするべきか解らず、真崎は煙を大きく吸い込んだ。そのまま短くなった煙草を揉み消す。米山は目を伏せて続けた。

「普通なら、足を無くした人が同じ職場で働き続けるのは難しいんですけど。でも事故のことを聞いた旦那様が親身になって、加藤さんを給料を維持したまま雇い続けたんです。体力を使う業務を回さないようにしたり、オフィスをバリアフリーにしたりして。不景気で会社が苦しくなっても、解雇もしないで」

 真崎は少し驚いた。石村隆に対して、特に強い印象は持っていなかったが、どうやら一角の人格者であったようだ。

「それに、加藤さんの所は女手が無い状態になってしまいましたから。詳しくは聞いていませんが、ご実家にも頼りづらい状況だったみたいで。旦那様のお屋敷にお二人を呼んで食事を振る舞ったり、逆に私が加藤さんのところに行って作るなんてことも当時はよくありました。美咲ちゃんと会うことになったのもそのためです。私はずっと住み込みで働かせて貰ってますから」

 住み込みの家政婦などというものが、今でも存在することに真崎は驚いた。間違いなく、絶滅危惧種であろう。小松というお抱えの運転手もいる。次は執事でも出てくるのではないか、と真崎は夢想した。

「なるほど」真崎は頷いた。「と、なると美咲さんと彩乃さんもつきあいが長いわけですね」

「ええ、それはもう。彩乃さんが生まれたときからですね。美咲ちゃんは、妹が出来たみたい、と喜んで。それはそれは可愛がっていました」

 米山は当時のことを思い出しているのか、にこにこと笑いながら言った。洗い物の手は完璧に止まっている。

「十年前に前の奥様が亡くなったときも、ずっと彩乃さんの傍にいて上げていて。こう言ってはなんですけど、母親を亡くすという同じ経験をしたわけですから。少し年は離れていますけど、本当の姉妹のように、いえ、それ以上にずっと仲が良かったんです」

「でも、今は仲違いをしているわけですね?」

「ええ」

 米山は一転、痛ましい表情になった。エプロンで両手を拭く。

「旦那様と美咲ちゃんが結婚することがやっぱりショックだったみたいです」

「まあ、それは……。解らなくもないですが」

「自分の父親と姉が結婚するようなものですからね。ただでさえ多感な年頃ですし……。ほら、あのくらいの年代って、性に対して過敏になって嫌悪感を抱いたりするでしょう?」

「そうですね……」

 真崎は頷きながらも内心首を捻った。少なくとも、詠がそんな素振りを見せたことはない。それとも、表に出さないようにしていただけだろうか。

「しかし、そうなると、隆さんはずっと育ててきた女の子と結婚したことになりますね」

「そうなんですよ!」嬉しそうに米山は言った。「口さがない人からは、光源氏だのドクタ・ヒギンズなどとからかわれたりもしますけどね。でも、二人とも幸せそうなので、私は良かったと思っています」

「まあ、若くて綺麗な奥さんを貰ったやっかみでしょう。とは言え、事情を知らなければ、美咲さんは財産狙いに見えるでしょうし。歳の差があると難しいですね」

 人ごとなので、真崎は軽く言った。

「ええ。でも美咲ちゃんは全然そんな子じゃないんです。旦那様もずっと男やもめが続いてらっしゃいましたから、良かったんじゃないかと」

 晴れやかな顔で米山は言った。長く見ていた二人が仲良くしているのが嬉しいのだろう。その微笑ましい感情は理解出来た。

「と、なると後は美咲さんと彩乃さんが仲直りすれば、全てが丸く収まるということですね」

「ええ、まあ。そうなんですけど……。でも、すぐにはちょっと難しそうですね」

 米山はそう言いながら、洗い物を再開した。

 その意見には真崎も頷けた。先ほどの会話のぎこちない様子からすると、かなり根は深そうだった。利害の不一致なら解決のしようもあろうが、感情的な問題となると、簡単に納得できるものでもないだろう。

「それに、吾郎様たちが、またそこに焚きつけるようなことを言うから……」

「吾郎様?」

 真崎は素直に問い返した。先ほど、パーティーの前にその名前を聞いた覚えがあった。その名が出た瞬間、隆がやけに苦々しげな顔を見せたので印象に残っていたのだ。

 真崎は二本目の煙草に火を点けた。行列の積の様にきな臭い話になってきたと感じていた。

「あ、ええ。吾郎様は旦那様の義理の弟になります。妹の、小百合様のご主人ですね」

「先ほど、こちらにいらしていると小耳に挟みましたが」

「はい。困ったものです」米山は眉を寄せて言った。「ご夫妻で、彩乃さんにあることないこと吹き込もうとするのです。美咲ちゃんのことを財産狙いの女狐だ、なんて平気で言うんです」

「……それは酷いですね」

 レトロな表現に噴き出しそうになったが、真崎はなんとかそれだけを口にした。

「ええ」米山は溜息混じりに頷いた。「でも、彩乃さんは賢い子ですから。そんな言葉を簡単に信じたりはしません」

 先ほどのパーティーの様子を真崎は思い出した。たしかに、頭の回転の速そうな子だった。それがそのまま頭の良さに繋がる訳ではないが、一つの能力ではある。

「ただ、何と言いますか、大人の汚さみたいなものでしょうか。そういうことに過敏に嫌悪感を抱いてしまって。こう、あるでしょう? 本音と建て前、とか。そういう政治的な判断とか……」

「それで余計に斜に構えてしまっているのですね」

「はい……」

 ふむ、と真崎は考えた。米山は深刻に捉えているようだが、時間が経てば自然と雪解けしそうだ、というのが正直な感想だった。

 それ以前の問題として、石村家の家族の問題など、真崎には関係が無い。もう依頼された仕事は済んだし、明日東京に帰れば、今後彼らと会うことは無いだろう。丸く収まってくれれば良いな、くらいには思うけれども、所詮は人ごとだ。真崎に何が出来るわけでもないし、そもそも口を突っ込むべきことではないだろう。

 真崎は二本目の煙草も揉み消した。

「もう戻ります。お騒がせしました」

「いえいえ。こちらこそ、べらべらとお話ししてしまって」

 米山は真崎の顔を見て、にやりと笑った。何だか共犯者扱いされているようだった。

「そうだ。玄関の向こう側に遊戯室がありますよ。色々ありますから、お暇でしたらいかがですか?」

「へえ……」真崎は頷いた。「じゃあ、覗いてみます」

 真崎はそう言いながら、扉を開けた。漸化式のように重苦しい話に少し疲れていた。




     *




「おや」

 真崎が詠たちのいるダイニングを素通りして遊戯室に入ると、先客が一人いた。音で気がついたのか、首だけで振り向く。黒髪のボブカットを揺らして、彩乃は小さく頭を下げた。

「どうも」

「こんばんは」

 彩乃が向かっているのは、古めかしいピンボールだった。カラフルに塗られた台の中を、小さな銀色の玉がフリッパに弾かれて飛び回っている。実物のピンボールを見るのは、初めての経験だった。子供の頃に、パソコンのゲームで遊んだことならあったが、本物の筐体は目にしたことがなかった。

 本物とは何だろう、と真崎は考えた。コンピュータ上で動いているゲームは、実際の玉の動きをシミュレートしたものだ。しかし、それは紛い物なのだろうか。ピンボールの機能は元々ゲームなのであって、物理法則に厳密である必要などどこにもない。モニタ上でしか動かなかったとしても、ピンボールとしての機能には何の支障もないはずである。ゲームとしては、むしろ高機能ですらあるかもしれない。

 つまりは先入観なのだ。コンピュータ上で動いているプログラムはすべて偽物で、現実にあるものではないと、思い込んでいるだけだ。しかし、最初から実物とプログラムをフラットに並べて比較した場合、両者に真偽の違いなどない。ただ、優劣の違いがあるだけだ。

 真崎は部屋の中を見渡した。ピンボールの他に、ビリヤード台とダーツの的、それにトランプをするための物だろうか、大きなテーブルがあった。カジノで見るように、表面に緑色のシートが貼られている。

 とてもレトロだった。部屋に置かれている物のことではない。こんな部屋があるということ自体が、もう神話のようなものである。

 壁に掛けられたキューの一本を真崎は手に取った。ビリヤードをプレイしたことは、今までに二度しかない。木製の棒は何本も並んでいるが、違いがまるで判らなかった。

「真崎さんは」

 打ち損ねた銀色の玉が隙間から下に落ちたタイミングで、彩乃は口を開いた。

「何しにきたんですか? こんな辺鄙なところまで」

 彼女は視線をピンボールの台に落としたままだった。その後頭部に向かって、真崎は返事をした。

「まあ、ちょっとした野暮用だよ」

「お金が欲しいんですか? うちに財産があるから来たんでしょう?」

 身も蓋もないことを彩乃は言った。あまりにもストレートで芸がなかったので、真崎は少し面白くなった。

「仕事をしにきたという意味なら、答えはイエスだ。でも、財産の有る無しは関係無いね。金持ちにとって道楽に使う小遣い程度でも、貧乏人が爪に火を灯すようにして貯めたなけなしのものでも、金額が同じなら価値は同じだ。交渉が纏まれば、誰のところにだって行くよ」

 彩乃は真崎の方に向き直った。少し意外そうな顔をしている。

「何のお仕事なんです?」

「ちょっとお行儀の良くない業種かな。人の、というか社会全体の、弱みにつけ込むんだ。あたかも、それが人生において最も大事な物だと思わせて、ほのかな満足を提供する」

「何を言っているのか判りません」

 真崎は肩を竦めた。持っていたキューを壁に戻す。

「なぜ、お仕事に詠さんを連れてきているんです? その……、彼女が仕事をしているんですか?」

「違うよ」

 真崎は穏やかに微笑んで、明確に否定した。 

 彩乃の言葉には、少し表現の仕方に迷うような素振りがあった。言葉の上では、彼女の指摘が当たっている。しかし彼女が想像しているようなものからかけ離れているのは明確だった。

 彩乃は、目を細めて言った。

「詠さんは妹ですか?」

「そう言ったと思うけど」

「名字が違っても、ですか?」

「ああ」真崎は頷いた。「聞いていたんだね」

「はい。この家に着いたときに、米山さんが言っていたのが聞こえてしまって」

 ばつが悪そうに彩乃は言った。単位ベクトルのように素直な子だと真崎は思った。

「詠は妹だし、家族だよ。たとえ名字が違ってもね」

「そうですか」

 釈然としない様子で彩乃は頷いた。下唇を軽く噛んでいる。その幼い憤りに満ちた顔に、真崎は手を組んで問いかけた。

「家族と、家族じゃない人の違いって知ってる?」

「え? そうですね……」

 彩乃は二秒ほど考えていたが、自信が無さそうな様子で答えた。

「一緒に暮らしていれば家族では?」

「寮とかで共同生活している場合もある。最近は、ルームシェアなんてのも増えてきたみたいだね。海外では昔からもっと一般的だったけど」

 彩乃は首を十五度ほど傾けた。

「血縁の有る無しですか?」

「夫婦に血の繋がりはないよ。名字も一緒にするとは限らない。養子なんてのもあるし……」

「家計、というか生計を一つにしているか?」

「親子でも、子が成人すれば独立するね。家を出たら、もう家族じゃない?」

「そうは思わないですけど……」

 彩乃は小さく首を横に振った。白いワンピースの裾を、指でいじっている。

「すいません、解りません。血縁上近くに繋がっている相手と、後は結婚相手は家族だと思いますけど。よく知りませんけど、法律上はそんな感じでしょう?」

 真崎はビリヤードの台に寄りかかった。木製の表面を指で撫でる。

「君と隆さんは家族?」

「はい」

「君と美咲さんは?」

「……はい。家族です」

 返事をするまで少し間があった。しかし、彩乃はちゃんと頷いた。理性的な子だと真崎は思った。

「じゃあ、米山さんは?」

「え?」

 その質問は、彩乃には意外だったようだ。彼女は目を瞬かせた。

「ずっと一緒に暮らしているんだろう?」

「はい、そうですけど……」

「家族だと思う?」

「どうでしょう……。イエスともノーとも言い難いです」彩乃は眉を下げて、口元を緩めた。「少なくとも、法律上は違います。父にお給料を貰っているはずなので、米山さんとしては仕事なんでしょうけど……」

「でも、そんなビジネスライクな関係だけではないだろう? 例えば、君が結婚するとき、式の最中に米山さんにお礼の手紙を読み上げたりしかねないくらいには、親しい間柄なんじゃないかと思うけど」

「はい」彩乃はころころと笑った。「まだ随分先のことだと思いますけど」

 彩乃は椅子に座り直した。足を揃えて、真崎のことを正面から見つめる。

「それで、結局家族の条件って何なんですか?」

「明確な定義は無いみたいだね」

「そんなの、ずるいです」

 唇を尖らせて彩乃は言った。その愛らしい顔に、真崎は微笑みかけた。

「そもそもね、子供にとっての家族と、大人になってからの家族では明らかに違うように感じられる。それなのに、一つの言葉で表そうとするから話が複雑になる」

 真崎はビリヤード台から離れた。テーブルの上の灰皿を手元に引き寄せる。ポケットから煙草を取りだし、ライターで火を点けた。

「子供にとっての家族は、与えられるものだ。本人の意志と関係無くね。子供は親を選べない。もっと優しくて、もっと格好良くて、もっとお金持ちな親が良かった。そんな風に思う子供も少なくないと思うけど。でも、子供にそんな選択権はない。財産や外見で、親にするかどうか決める事なんて出来ない。長男が、兄や姉が欲しいと願ったって叶わないし、弟や妹なんていらない、なんて思ったって、親は酌量してくれない」

 真崎は室内を歩き回りながら話を続けた。

「それでも、まだ幼い、自我が芽生えていない頃の話だからね。気がついたら家族はもう傍にいて、物心つく頃にはその環境に慣れきっている。たとえ、赤ちゃん返りなんかで不満の意を表明したところで、すぐにその日常に適応してしまう。そして共に過ごした時間の分だけ心を通わせて、家族として強固に繋がっていく」

 真崎は煙を思いきり吸い込んだ。煙が肺ではなくて、脳に吸収されていくような気分になる。

「逆に、大人になると家族を選べるようになる。親や兄弟と一緒に住むも住まないも可能だ。結婚相手は自由に選べるし、子供を産むも産まないも大抵は調整できる。家族にする相手も時期も、意のままだ。もちろん、想定と違う場合も多々あるとは思うし、その場合は不幸な結果になることもあるけど……。でも自分で選んだ道で、少なくともその時点では最適な選択肢だったはずなんだ」

「自分で選んだかどうかが重要だということですか?」

 彩乃は首を傾げて訊いた。上体を前に乗り出して、上目遣いになっていた。

「うん。それと……、自我の問題がある。反応するだけの人形だった頃に与えられるのと、意志ある人間になってから押し付けられるのでは、違ってみえるだろう?」

 彩乃は頷いた。しかし、真崎は首を横に振った。

「そう。それが幻想なんだ」

「え?」

 彩乃は三次関数のように、曖昧に首を傾げた。

「実は、その二つにはあまり差がない。結局、登場する人格は変わらないからね。意志の介在も状況は同じだ。選び取っても、与えられても、押し付けられたとしても、状況として変わらない。違いは、受け手の主観だけだよ」

 真崎の言葉に、彩乃はふむ、と考え込んだ。

 真崎は煙草を吸った。彩乃が次に言葉を発するまでに二度、煙をトーラス体にして吐き出した。白い粒子が回転運動をしながら飛んでいく。回転によって運動が保たれ、天井に達するまで形を保持した。

「燈馬さんが言いたいことは解った気がしますが……」

 彩乃は首を傾けて微笑んだ。今まで見た中で、もっとも魅力的な表情だった。

「結局、冷静に考えろ、ということだけですよね?」

 真崎は煙草を咥えたまま、片目だけを閉じた。

「考えない人なんていないよ。意識しているかどうかだけだ」

「そうですか? 私はよく見ますけど」

 彩乃はそう言って、ぺろりと舌を出した。

「それとも、仲良きことは美しきかな、とでも言って欲しかった?」

「結論がまるっきり違う上に、一言で終わりじゃないですか、それ」




     *




 階段の下に、大の大人が揃っていた。

「どうされました?」

 真崎はその三つ並んだ背中に問いかけた。

 遊戯室から出てきたところだった。彩乃も部屋に戻るとのことで、後ろについてきている。

「ああ、真崎さん」

 白髪の男性が振り返った。運転手の小松だった。困った顔をしている。一緒にいたのは加藤と、もう一人、でっぷりと太った見知らぬ壮年の男性だった。彼は水が入った二リットルのペットボトルを持っている。

 加藤は杖をついて立っていた。車いすは階段の脇に置かれている。どうやら、加藤は階段を上ろうとしているようだった。考えてみれば、この建物にはエレベーターが無い。足の不自由な加藤には、不便な環境だろう。

「お手伝いしますよ」真崎はそう言いながら加藤に近づいた。「肩を貸しますか? それともおんぶの方が良いですか?」

「いや、そんな、お客様にそんなことをさせるわけには……」

「ご遠慮なさらず。こんな若造なんて、好きに使って下さい」

 真崎はそう言いながら、加藤の左脇に立った。腕をとって、自分の肩にかける。

「これで良いですか?」

「あ、ああ。すまないね」

 二人で歩調を合わせてゆっくりと階段を上り始める。特に問題はないようだ。真崎は後ろに声をかけた。

「多分大丈夫です。お戻りになっても……」

「あ、いや、これを……」

 壮年の男性がボトルを見せた。それを奪うように彩乃が取った。その乱暴な手つきが、真崎には少し気になった。

「私が運びます」

 後ろから彩乃が登ってくる。それを確認して、真崎たちは歩みを再開した。

 先ほどは座っていたのであまり目立たなかったが、加藤はかなり体格が良かった。上背があるし、体つきもがっしりしている。娘の美咲が長身なのは、遺伝に寄るところが大きいのだろう。

 古い建物であるせいか、一つ一つの段が狭く傾斜がきつい。足が不自由な加藤はかなり大変そうだった。また、この建物は一階の天井が高く、二階までかなり距離がある。上り切る頃には、真崎は少し汗をかいていた。

「お父さん!」

 上りきったところで、部屋から顔を出したのは美咲だった。その後ろから詠も姿を見せる。二人は先ほどまではダイニングにいたが、真崎が知らない間に場所を変えていたようだった。

「どうしたの?」

「いや、水が無くてな。下りるのは何とかなったんだが」

「もう……。そのくらい、言ってくれれば私が取りに行ったのに」

 美咲はそう言って頬を膨らませた。加藤はそれを見て、穏やかに笑った。

「真崎さん、ありがとうございました」

「いえいえ。このくらい……」

 美咲は小さく頭を下げた。真崎は笑顔を浮かべてそれに応じた。詠がにやつきながら言った。

「では、私もこの辺で」

「あ、はい」美咲は詠の方に向き直った。「お話につきあってくれてありがとう」

「いえ」

 二人が話している間に、彩乃は無言で水を加藤に渡し、部屋に入っていった。美咲は少しの間、閉まった扉を見つめていたが、頭を振って自分の部屋に戻っていった。

「燈馬。ちょっと良い?」

「うん?」

 自分の部屋に入ろうとしたら、詠が声をかけてきた。一緒に室内に入る。階段に近い、真崎にあてがわれた方だ。

 詠は勝手にベッドに腰かけた。なんだか楽しそうに真崎の方を見つめている。

「どうしたの?」

「別に」

 真崎はスーツの上着を脱いだ。クローゼットを開けて木製の衣紋掛けにかける。ネクタイも解いて一緒に吊しておく。

「あの後、美咲さんと何を話していたの?」

「気になる?」

「いや、別に……」

 真崎が肩を竦めると、詠は不満そうに唇を突き出した。真崎は重厚な木製の椅子に腰かけ、口を開いた。

「なんで場所を変えたの?」

「人が来たから。運転手さんと、吾郎さんって人。隆さんの義理の弟だって言ってた」

 その名前を真崎は思い出した。米山が憎々しげに語っていた。さっき階段の下で会った、壮年の太った男性だろう。米山の話から想像していたのより気弱な印象だった。

「来てすぐに美咲さんから部屋に誘われて。避けているのが見え見えだったけど。それでついていったの」

「なるほどね」

 真崎は小さく頷いた。

 詠はベッドに深く腰かけて、足をぶらぶらさせている。先ほどは気がつかなかったが、靴も黒いミュールに履き替えていた。指の付け根に、薔薇のコサージュが大輪を咲かせている。小さな爪は赤く塗られていた。

「話は、燈馬がいたときとあまり変わらない。最近の女子中高生と楽しくお話しするにはどうしたらいいのか講座、実践編」

 結局、詠は自分から話し始めた。

「ふうん」

「でも、かなり参っているみたいだった」

「参っている? 何で」

 真崎が問い返すと、詠は眉を上げて肩を竦めた。

「さあ? でも、初対面の相手にこんな相談するくらいだから、相当なものでしょう?」

 真崎は腕を組んだ。

「まあ、何かと不安定な時期なんだろうけど」

 真崎から見ても美咲は少し疲れているように見えた。元々は快活な女性だったと思われるが、心労がかさんでいるのだろう。

「燈馬は何をしていたの? なかなか戻ってこなかったし、その後もすぐどこかに行っちゃったけど」

「最初はキッチンで米山さんと話してた」

「ふうん」

「やはり、家政婦さんというのはおしなべて、おしゃべりしたいようだ」

 真面目な顔をして真崎が言うと、詠は大きく噴き出した。彼女には珍しいリアクションだった。笑いながら言う。

「ドラマか何かの見過ぎじゃないかしら、それは」

「いやいや」

 真崎は微笑んだ。それから米山との話をざっと説明する。しかし、詠はあまり興味を示さなかった。

「それから遊戯室で彩乃さんと少し話したかな」

「ふうん」

 詠は眼を細めた。

「私の知らないところで、女性とばかり楽しんでいたわけだ」

「全然そんな雰囲気じゃなかったけどね」

 真崎は、つんと済ました詠に向かって、言った。

「でも、あの子は賢いね。思考力があるし、色々なことを観察している。自分が幼いってこともちゃんと解ってる」

「そう?」

「意地を張ってるのが、自分の方だって自覚があるみたいだった。まあ、遅かれ早かれ仲直りするんじゃないか」

「そう。良かったじゃない」

 詠は投げ遣りにそう言って、ベッドに横になった。伸ばした両手が、白いシーツの上に広がる。

「たれぱんだのパンダ以外の部分みたいだ」

「……何が言いたいのか、ちっとも解らないんだけど」

 詠が澄ました声で言った。

「ドレスが皺になるよ」

「む」

 真崎が注意すると、詠はにやにやと笑った。

「つまり、燈馬は私に脱げと言っているのね」

「そうしたければ、どうぞ」

 真崎は投げ遣りに言った。詠は少し気合いを入れて、ベッドから起き上がった。

「そのドレス、どうしたの?」

「似合うでしょ?」

「そうだね。綺麗だよ」

 予想された問いかけに、真崎はさらりと返した。詠は満足げに一つ頷いた。

「まあ、演出というか……。神秘的な雰囲気を醸し出そうかと思って。CSが高まりそうでしょう? リピータや口コミ率にも影響があるかも」

「詠がそんなこと、気にする必要ないのに」

 真崎は一つため息をついた。しかし、それは詠の癇に障ったようだった。

「それは私に失礼でしょう?」詠は眼を細めた。「考える必要がない、なんて意見は、私を下に見ている。幼く、無垢な存在でいて欲しいなんて、燈馬の理想の押し付け以外の何物でもない」

 詠はそう言って、真崎を睨みつけた。珍しく、本気で怒っているようだった。真崎は両手を挙げて、降参の意を示した。

「そうだね、すまない。考えを改める」

 詠は何も言わなかったが、とりあえず怒気は収めた。

「でも、そういう意図があるなら事前に相談すること。後、仕事着扱いなら、費用は出すから。靴もアクセサリもね」

 詠は無言のまま頷いた。彼女には毎月小遣いを渡している。恐らく、平均的な高校生よりは額が大きい。それとは別に、二人共用の生活費が存在する。仕事着なので、ドレス代はそこに計上されることになるはずだ。とは言え、真崎のスーツは個人的な口座から出ているので、非対称ではある。

「ま、どこの家も複雑だってことだ」

「そうね。隆さんも、恵子さんと彩乃さんを会わせなかったし……。まあ考えていることは解るけど」

 詠がまだ拗ねたような口調で言った。真崎もじっくりと頷き返した。

「そういえば、燈馬はどうして硯を選んだの?」

「は?」

 突然の話題の跳躍に、真崎は間の抜けた声を出した。

「どうしたの? 突然……」

「ちょっと気になっただけ」

「何か、悪い影響を受けていない?」

 真崎がそう言うと、詠は左手の人さし指を唇に当てた。

「良いか悪いかは主観でしょう? 進化と退化、どちらの名前をつけたとしても、起こったのは環境に対する適応以外の何物でもない」

 詠は上体を乗り出した。上目遣いで真崎の顔を覗き込んでくる。

「ねえ、どうして?」

「さあ……」真崎は苦笑いを浮かべた。「お互い、形には拘らなかったんだけどね。そちらの方が収まりが良かったというか……」

「ふむ」詠は身を乗り出したまま首を傾げた。「虫除けスプレィ?」

「それもまあ、副次的な効果という意味ではあったかもね」

 真崎は自分の手を見つめた。

「ふうん……」

 詠は不満そうに頷いた。

「きゃあああ!」

 その時、どこからか悲鳴が聞こえてきた。

 女性の声だった。誰のものかは解らない。位置も判然としなかった。

 真崎は詠と顔を見合わせた。目が合うと、彼女は首を横に振った。

「行ってみよう」

「ええ」

 二人は同時に立ち上がった。




     *




 開け放たれた扉から、真崎と詠はダイニングに入った。

 ダイニングには四人の人間がいた。吾郎と小松が怖々と書斎の方を覗き込んでいる。その後ろには米山が青い顔をして立っている。小松は昼と同じ服装だったが、米山はパジャマにエプロンを着けていた。

 部屋の中にはもう一人五十がらみの女性がいた。洒落た白いブラウスに、タイトなスカートを履いている。体型は少しふくよかだった。

「どうしました?」

 真崎は誰とも無く問いかけた。しかしまともな返事は帰って来ない。そうこうするうちに、廊下から彩乃が入ってくる。真崎たちと同じように声が気になったのだろう。

「書斎?」

 詠が首を傾げる。真崎は扉から覗き込んでいる二人を押しのけて、書斎に入った。

 部屋の中では、寝間着姿の美咲がぺたんと座り込んでいた。両手で口を押さえ、ぶるぶると震えている。その視線の先を真崎は追った。

 カウチソファに隆が横になっていた。

 一見、ただ眠っているだけのようだった。

 その胸に何か生えている。

 真崎はゆっくりとした足取りで彼に近づいた。

 足を進めるごとに、異臭が鼻につく。

 生臭い、鉄錆の匂いだ。

 隆は目を見開いたまま、硬直していた。

 胸から生えているのは、銀色に輝く、古めかしいナイフだった。

 彼が息絶えているのは明らかだった。

「あ、あ……」

 美咲が意味をなさない言葉を漏らしている。ようやく部屋に入ってきた小松が真崎の隣に並ぶ。隆の惨状を見て、口を押さえた。

「死んでいる……」

 力なく呟いたのは見知らぬ女性だった。その隣に吾郎も立っている。

「大丈夫ですか?」

 詠が美咲を助け起こした。一緒に書斎を出て行く。

「なぜ、なぜ……」

 部屋を出て行く美咲が呆然と呟いている。入れ替わるように彩乃が部屋に入ってきて、大きく息を呑んだ。

「お父さん!」

 それから彩乃は隆の身体にすがりついた。真崎は慌てて彼女のもとに近寄った。

 彩乃を優しく引き離す。一瞬、隆の死体に手が触れた。まだ温かかった。彩乃を立ち上がらせ、細い肩を抱くようにして部屋の外に出る。

 彩乃をダイニングに戻してから、真崎はもう一度書斎に入った。机の上を見渡してみるが、綺麗に整頓されていて、遺書のようなものは見当たらなかった。床にも本が散らばっているだけで、手紙のような物はない。諦めて、書斎を出る。

 それに続くように全員がダイニングに戻った。最後に部屋を出た吾郎が、ばたんと扉を閉める。

 真崎は部屋の中を確認した。美咲の顔色が真っ青だった。手で口を押さえている。今にも戻してしまいそうだった。米山も血の気が引いた顔で、ぶるぶる震えている。

「詠」

 真崎は目で合図を送った。詠はすぐに状況を察し、美咲と一緒に部屋を出る。それ以外の人は呆然と立ち尽くしているだけだ。

「あの、加藤さんを呼んできます」

 真崎はそう言ってダイニングの外に出た。一段飛ばしに階段を上る。

 異変に気がついたのだろう、加藤は階段の上まで来ていた。パジャマ姿に着替えていた。

「何かあったのですか?」

「ええ」真崎は小さく頷いた。「とりあえず、ダイニングまで来て頂けますか?」

 また肩を貸しながら階段を下りる。ダイニングに戻ると、先ほどと状況は変わっていなかった。全員が、不自然に立ち尽くしている。誰も椅子に座ってすらいない。美咲と詠もまだ戻ってきていなかった。

 真崎は椅子を引いて加藤を座らせた。そのときになって、階段を下りたところで、彼を車いすに乗せれば良かったことに気がついた。自分が、思ったよりも動転していることをやっと自覚する。

「何があったのです?」

 加藤が問いかける。しかし誰も答える素振りを見せなかった。仕方なく、真崎は口を開いた。

「その……、隆さんが亡くなりました」

「何!?」

「書斎の中で、胸をナイフで刺されて……」

 真崎の説明に、加藤は目を見開いた。それきり、言葉を無くしてしまう。

 真崎は食事のときの席に腰掛けた。つられるように、立ち尽くしていた一同が次々に椅子に座る。彩乃と加藤は食事のときと同じ位置だ。小松は真崎の並び、一番玄関に近い位置に腰掛け、その隣に吾郎と、見知らぬ女性が並んだ。

 しかし誰も口を開かない。

 テーブルの上には洋酒の瓶が置かれていた。中身が入ったタンブラが三つと、氷が入った容器もある。他に、封の切られていない水のペットボトルがあった。

 やがて、美咲と詠が部屋に戻ってきた。美咲はまだ青白い顔をしているが、足取りはしっかりしている。詠は無表情で、何を考えているのか、よく判らない。

「とりあえず、警察に連絡を」

「あ、ええ……」

 美咲が頷いて、部屋をキッチンの方に出て行く。この部屋には電話がない。キッチンにはあったのを、真崎は煙草を吸ったときに見ていた。

 真崎はキャビネットの置き時計を見た。夜の十一時を少し回ったところだった。

「加藤さん」

 見知らぬ女性が口を開いた。

「はい」

「こちらの方はどなたですか? ご紹介していただける?」

 真崎たちの方を顎で差しながら、彼女はそう言った。剣呑な口調だった。

「真崎燈馬です。こちらは妹の詠」

 真崎はすぐにそう言って、頭を下げた。

「今日は隆さんに招かれて来ました。まあ、ほとんど仕事のついでですが……」

「そう」

 彼女はそう言って、鷹揚に頷いた。

「てっきり、美咲さんのお友達かと思いましたわ。お若いので」

 お友達、に妙なアクセントを置いて、彼女はそう言った。真崎は心の中で溜息を吐いた。

「私は柏崎小百合です。隆の妹です。こちらは主人の吾郎」

「ああ……。よろしくお願いします」

 真崎はもう一度頭を下げた。正直、苦手なタイプの女性だった。

「お待たせしました」

 美咲が部屋に戻ってくる。美咲は元の椅子に腰掛けた。

「警察に状況は説明しました。なるべく早く来ていただけるそうです。深夜の山道ですし、最寄りの警察署から距離があるので、少し時間はかかるでしょうけど……」

 美咲の言葉に、ほっとした空気が流れた。専門家が来てくれるというだけで、何となく安心できるものである。

「小松さん」

「はい」

 真崎は部屋の中を見渡してから問いかけた。

「今、この別荘にいるのはこれで全員ですか?」

「はい」

 ダイニングには真崎と詠以外に、美咲と彩乃の親子。足が不自由な加藤。吾郎と小百合夫妻。さらに家政婦の米山と運転手の小松がいた。米山はキッチンへの扉の側で控えるように立っているが、他は全員椅子に座っている。

 米山は立ったまま、口を両手で押さえて涙をぼろぼろ零していた。時折、嗚咽が混じる。ひどく、ショックを受けているようだった。しかし、誰も彼女を慰めようとはしていなかった。

「その……、お茶か何かいただけませんか?」

 真崎は小声で言った。ひどく、喉が渇いていた。室内の視線が米山にあつまる。しかし彼女には聞こえていなかったようだった。ただ、ぶるぶると震えている。

「あ、私が……」

 美咲がそう返事をして、キッチンに消えていく。

 誰も席を立つ素振りを見せなかった。なんとなく部屋を離れづらかった。

「その……、なんで死んでしまったのでしょうか?」

 吾郎が口を開く。ぴくり、と彩乃が身を震わせた。彼女も真っ赤な目をしている。

「胸にナイフが刺さっていて……」

 小松が答える。しかし吾郎は首を横に振った。

「いえ、そういうことではなく。その、自殺でしょうか?」

「判りませんが……」真崎は首を捻った。「どういう状況だったんです?」

 すぐには誰も言わなかった。

 美咲がワゴンを押して戻ってくる。すぐに、全員の前に紅茶のカップが置かれた。しかし、手に取ったのは、真崎の他に、美咲と詠だけだった。

「見つけたのは私です」

 紅茶を一口飲んでから、美咲は気丈に言った。

「その、そろそろ寝ようと思ったんです。でも、隆さんがなかなか来ないので書斎まで呼びに行ったんです。そうしたら……」

 美咲は目を伏せて話し始めた。

「最初はカウチで寝てしまったんだと思ったんです。その、そういうことはたまにあるので。でも、胸にナイフが刺さっていて……。びっくりして叫びました」

「その声を聞いて、私たちも書斎を覗き込みました」

 小松が美咲の話を引き継いだ。

「私と吾郎様、小百合様の三人で、この部屋にいたんです。お酒を飲んでいて。その後はすぐに真崎さんたちも見えられたので」

「なるほど」真崎は首を傾げた。「米山さんはどちらにいらっしゃったんです?」

「え、あ………」

 真崎の言葉に、米山はびくりと身体を震わせた。

「わ、私はキッチンにいました。奥様の声を聞いて、慌てて飛び出してきたんです」

「そうですか……」

 真崎は頷いた。

「それで、やっぱり自殺でしょうか?」

「さあ……」

 真崎は首を傾げた。

「少なくとも、遺書みたいなものは見当たりませんでしたが」

 真崎の言葉を引き継ぐように、詠が口を開いた。

「その可能性は低いように思います」

「何故ですか? だって、そうじゃなかったら、誰かに殺されたことになりますよ!?」

 吾郎は叫ぶように言った。しかし詠は冷静な声で返した。

「だって、自殺って、あるとき突然思いついてするものじゃないでしょう?」

「ええ、まあ。それはそうですけど」

「自殺しようとする人間が、禁煙なんてしますか? 健康を気遣って、なんて考えます?」

「いや、それは……」

 詠の静かな意見に、吾郎の声は尻すぼみになった。

「それに、自殺の方法として、胸にナイフを突き立てるというのは考えにくい。普通なら首を吊るとか飛び降りの方がよっぽどポピュラでしょう? 刃物を使うんだとしても、風呂場で手首を切るとか」

 詠はさらりと言った。彼女は時折、このような無神経な発言をする。幽霊を通して、死者に慣れている所為だろうか。

 しかし。真崎は疑問に思った。仮に自殺だったとして、自分の命を奪うという判断をした人間の行動が、普通の視点から見た妥当性を備えているとは限らない。そもそもが異常なのだ。手段が不自然、という判断は説得力に乏しい。

「しかし、事故でああはならないでしょう?」

 そう言ったのは、小松だった。青ざめた顔をしている。

「ええ……」

 詠は深く頷いた。

「石村隆氏は、何者かに殺されたことになります」

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