白妙の呪いを遺して -Curses in Domino Effect-

葱羊歯維甫

第1話 黒いドレスの魔法使い -A Girl Dressed in Black-

「幽霊は、嘘を吐く」

 硯は突然そう言った。

 彼女はベッドに横になっている。薄手のタオルケットは胸より下を隠していたが、白い肩はむき出しだった。長身だが、ほっそりとした体型の彼女の肩は、少し尖っていた。枕に左の肘をついて、上体を二十度ほど起こしている。

「そうなの?」

 真崎燈馬は硯の優美な鎖骨の曲線を見ながら聞き返した。彼もベッドに横たわっていた。二人の距離は二十センチメートルほど。同じタオルケットをまとっている。二人の人間がゆったりと横になるには、ベッドは少し面積が足りなかった。

「ええ……」

 硯はそう言って小さく微笑んだ。

 いつもはもっとぱっちりとした目をしているが、今はメイクを落としているので、どこか眠そうに見えた。昼間の方が客観的に見て美人だが、こんなリラックスした彼女の姿も、真崎は好きだった。

 真崎は硯の髪に手を伸ばした。先ほどまでドライヤーで乾かしていたはずだが、黒いショートカットはまだ少し湿っていた。癖っ毛の中に指を差し入れ、その滑らかな感触を楽しむ。

「どうして?」

 真崎は彼女の髪を撫でながら訊いた。

「だって、もう死んでいるんだろう? 嘘なんてついたって、仕方が無い」

「とんでもない」

 硯はそう言ってまた笑った。ふっくらした唇が悪戯っぽく吊り上げられる。

「たとえば、燈馬が、街でとても綺麗な女性を見かけたとしましょう」

「うん」

「燈馬はその女性をどうしても口説きたくなった。どうする?」

「僕はそんなことしないよ」

 真崎はすぐにそう言った。すると硯は笑窪を深めた。透き通るような白い肌に、長い睫毛の影が落ちる。

「たとえばの話よ。想像してみて。とても、魅力的な女性。どうしても、声をかけずにはいられないくらい……」

「そうだな……」

 真崎は努力して、頭に状況を思い浮かべた。ネイピア数のような、美しい女性が目の前を歩いていたとしたら。もちろん自分の隣に硯はいない。

「まあ、お茶にでも誘うんじゃないかな。時間帯によっては食事かも知れないし、バーで一杯かもしれないけど」

「ええ。でも、突然声をかけたって、そんなに上手くいきそうもないわよね?」

「それはね。そうだろうけど」

 真崎は苦笑いを浮かべながら言った。

「そんなに綺麗な女性だったら、そんな風に誘われるのも慣れているだろうし、断るのもお手の物だろうね」

「そこで燈馬は一計を案じるの。自分は大富豪の御曹司で、いくらでもお金を使える、と彼女に嘘を吐く。そうすれば、彼女が自分に興味を持つかも知れない」

「そんなことしないよ」

 真崎は笑いながら、硯の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。彼女はくすぐったそうに身じろぎした。

「どうして?」

「だって、簡単に嘘だとばれてしまうだろう? お金持ちみたいに、ブランド物ばかり身につけているわけじゃない。よしんばその場は誤魔化せたって、どうせすぐに襤褸が出るよ」

「別に構わないじゃない。ばれてしまったって。ちょっとの間だけでも、良い思いが出来るかもしれないのよ」

「嫌だよ。その綺麗な女性に軽蔑されてしまうだろう? そんな、美人に冷たい目で見られるなんて、僕には耐えられない」

 真崎は連立方程式のように真面目な顔を作ってそう言った。

「そう……嘘はいつかばれてしまう。そして嘘つきはその分の代償を支払わなければならない」

 硯は詩でも唱えるように、そう言った。

「それが判っているから、人は嘘を吐かない。だって、人間は未来を予測できるのだもの。嘘を吐いて得られることよりも、ばれてしまって不利益を被ることの方が多いって、ちゃんと判っている。正直でいるより、嘘を吐いた方が期待効用が低いって、たとえ無意識だったとしても、きちんと計算している」

 硯はタオルケットの下から右手を出して、真崎の頬に触れた。

「そう……。だから、大人よりも子供の方がよく嘘を吐くでしょう。つまみ食いをしたり、大事なものを壊してしまったりしたときなんかに。自分じゃないって、執拗に主張する。犯人が誰かなんて明白で、嘘なんて吐いたって親は騙されないのに」

 硯の手が真崎の頬を撫でる。彼はこそばゆさに耐えきれず、相好を崩した。

「それは、子供が未成熟だから。愚かだから、きちんと未来を予測できないの。客観性を持てず、希望的観測が入り込んでしまう。だから、嘘を吐いて乗り切れるなんて思ってしまう。まあ、大人になってもそんな人はいるけれど……」

「幽霊も愚かだってこと?」

「いいえ。幽霊は十分に賢い。生きている人間よりも、よっぽどね」

「どういう意味?」

 真崎は硯の右手を左手で掴んだ。そのまま指を絡ませると、銀色のリングに触れた。細い指は少し冷たくなっていた。

「幽霊の方がリスクが小さいもの。彼らはどうせすぐに消えてしまう。嘘がばれてしまっても、そのときには彼らはもういない。だから何の不利益も被らない。マイナスになることが無いのだもの。そうなると、嘘を吐くデメリットが無いでしょう? 期待効用が高くなるケースが、自然と多くなる」

「でも、死後の評判みたいなのは残るんじゃないかな? 虎は死して皮を留め、じゃないけど」

「それを、観測する者がもういないじゃない。だったら、それはないのと一緒。観測できないことと存在しないことは同じだわ」

「……ああ」

 二秒ほど考えてから、真崎は頷いた。

「なるほど。モラル・ハザードということだね」

 硯はにこにこと笑った。その頬に真崎は口づけた。

「そして、生者は幽霊の嘘にいとも簡単に騙される」

「え? だって、誰が吐いても嘘は嘘だろう? そんな簡単に引っかかるものじゃない」

「そう。そうなんだけど。でも生者が吐く嘘とは状況が違うもの」

 硯は真崎の鼻を摘んだ。お返しの積もりだろう。仕返しかも知れない。

「普通、何も理由もないのに嘘は吐かない。例えば、さっきの燈馬の例だと、その魅力的な女性に嘘をついた動機は明確でしょう。お近づきになりたい。あわよくば一夜を共にしたい……」

「まあ、そんなところだろうね」

「相手の欲望が見えるから、これが嘘かも知れない、と想像する。だから嘘はばれてしまう。でも、幽霊が叶えて貰える希望なんて、限られているもの。美味しいお菓子を供えて貰ったって、食べられるわけではない。どんなに願ったって、愛する相手に抱きしめて貰えるわけでもないもの」

 硯の足が真崎に絡みついてくる。その滑らかな感触が、少しくすぐったい。

「だから、願いはどこか歪なものになる。端から見て、どうしてそんなことを願うんだろう、と不思議なものばかり。本当の意図が分からないから、それが嘘かも知れない、なんて疑わないの。疑わないから鵜呑みにしてしまう」

「なるほどね」

 真崎は微笑んだ。硯も鏡に映したように微笑んでいる。

「それとね、吐かれる側が普通の精神状態じゃないから」

 硯は身じろぎした。薄手のタオルケットは身体のラインに沿って、緩やかにカーブしている。

「まず、なんとなく、幽霊が嘘を吐くなんて想像していない、という先入観の問題がある。それに幽霊の言葉って、本当に末期の言葉ということになるから。何を置いても叶えてやりたくなる、という人情的な問題もある。だって、手向けられるのだもの。本来なら、死んでしまってもう何もしてあげられないはずの相手に優しくしてあげることが出来る。その誘惑はとても甘美だわ」

「……ふうん」

「だから、どんな荒唐無稽な嘘でも、案外簡単に信じ込んで、常軌を逸した行動を取ることがある」

 硯はそう言って、左目だけを閉じた。

「それを一般に、呪われた、と表現するのよ」




     *




 豪華な別荘だった。

 真崎は車から降りて、目の前の建物を見つめた。彼は今までに別荘と称される建物に立ち入ったことは一度も無い。しかし、一般的なそれに比べても、かなり上等な部類に入るだろうことは想像がついた。三階建てくらいだろうか。真崎の実家よりも大きい。白く塗られた外壁に、焦茶色の重厚な扉がはめ込まれている。

 真崎に続いて、一ノ瀬詠が車から降り立つ。彼女も建物を見つめたが、言葉に出すほどの感想は無いようだった。

 詠は高校の制服姿だった。白いブラウスに薄手のベージュのカーディガンを羽織り、紺色の地味なスカートを履いている。長い緑の黒髪は背中にまっすぐ下ろしていた。

 彼女は贔屓目に見なくても、美少女にカテゴライズされるだろう。透明感のある白い肌に、くりっとした色素の薄い目が印象的だ。鼻と口はやや控えめ。身長は女性にしてはやや高く、体型は華奢だった。性格はともかく、外見はどこか儚げで、一種神秘的な雰囲気をまとっている。真崎は彼女のことを、歩く詐欺だと、こっそり思っている。

 先ほど小松と名乗った上品な運転手はドアを閉めると、トランクから二人の荷物を出してくれた。真崎はボストンバッグ、詠は小さなカートと日傘を持ってきている。その作業が済むと運転手はまた運転席に戻り、車を発進させた。駐車場に停めてくるのだろう。

 都内から新幹線で一時間。事前の約束通り、高原の別荘地の最寄り駅には迎えの車が来ていた。白い手袋をつけた初老の運転手が操る黒塗りのメルセデス・ベンツは、くすみ一つ無く磨かれ、皮の座席は心地よく二人の臀部を支えた。

 そこから山道を揺られること二時間ほど。山の中腹にその洋館は建っていた。駅に着いた時には激しく降っていた雨も、別荘に到着するころにはなんとか上がっていた。ただ、風はまだ激しく吹いている。駅から離れるに従って周囲の建物はどんどん減っていき、この別荘以外、この周辺数キロメートルに渡って建物はない。恐らく、この山一帯が、ここの主人の持ち物なのだろう。

 ぎい、と音を立てて玄関の扉が開いた。

「お待ちしておりました」

 室内では女性が深々と頭を下げていた。

「真崎様と一ノ瀬様でございますね?」

「ええ……」

「ご案内いたします」

 小さく頷いて、真崎は建物の中に入った。詠も二歩後ろをついてくる。彼女は歩くときはいつも、このくらい真崎から離れようとする。比較的、パーソナル・スペースが広いタイプの人間だった。

 真崎は部屋の中を見渡した。どうやら土足で上がり込んで良いようだった。広い玄関に、調度品の類は多くなかった。大きな壺が一つ置かれているくらいだ。

 案内してくれている女性は三十代の半ばくらいだろうか。小柄だが肉感的な女性だった。黒髪を後頭部で結い上げている。淡い水色のブラウスに紺色のタイトスカートを身につけ、その上に白い花柄のエプロンをかけていた。

 先に立つ女性の案内に従って廊下を進む。一度角を曲がると階段があったが、そこを素通りする。洗面所のマークがついた扉も通り過ぎて、突き当たりのドアをノックした。中から返事が聞こえるのを待って、彼女は扉を開けた。

 部屋に入る。正面には大きなテーブルがあり、ダイニングルームのようだった。扉から見て一番奥の席から、壮年の男性が立ち上がったところだった。白髪交じりの小太りで、五十過ぎだろうか。皺が幾本も刻まれた顔は、柔和に微笑んでいた。あまり身長は高くない。黒いベストに白いシャツと濃いブラウンのチノパンを身につけていた。

「ようこそ、いらっしゃいました」

 彼はテーブルを回り込んで、真崎たちを柔和な笑顔で迎えた。

「石村隆です」

 彼が差し出した右手を真崎は握り返した。

「真崎燈馬です。そしてこちらが……」

「一ノ瀬詠です」

 詠も同じく握手をしながら小さく頭を下げた。にこりともしない。しかし隆は気にした様子もなく、彼女にも挨拶をした。

 真崎が事前に調べたところに寄ると、石村隆は、そこそこの大きさの不動産会社を経営している。都内にかなりの不動産を持っていて、多くの家賃収入があり、資産は相当なもののようだ。

「遠いところをわざわざありがとうございます。長旅で疲れたでしょう? 雨も強かったようですし。台風が来ていたそうですね」

「いえ……」真崎は意識して微笑んだ。「迎えを寄越して頂いて助かりました」

「はは」石村は小さく笑った。「まあ、こんなところ、迎えが無いとたどり着けないでしょうからね」

 それから石村は隣に立つ女性を示した。

「こちらは身の回りの世話をお願いしている米山です。滞在中、何かあれば彼女に言ってください」

「米山市子です。何かご用があれば、なんなりとお申し付け下さい」

 そう言って彼女は深々と頭を下げた。

「お疲れでしょうし、とりあえず部屋まで案内させましょう。まずはゆっくり休んでください。それから……」

 石村はキャビネットの置き時計を見た。クリスタル製で、英国の磁器マニュファクチャの銘が刻まれていた。時計の針はちょうど六時を指したところだった。

「後一時間ほどで夕食です。簡単なパーティをする予定です。その時に、他の者も紹介します。それと、詳しい話はその後に……」

「承知しました」

 真崎は深く頷いた。隣で詠も小さく頷いている。

「ご案内いたします」

 米山の後をついて、真崎たちは部屋を出た。階段まで戻り、二階に上る。詠のカートは米山が持ってくれた。

 階段から廊下に出ると、ドア・スコープのついた扉が両側に並んでいた。ホテルのフロアのようだった。階段から一番近い部屋の前で米山は足を止めた。

「こちらが真崎様のお部屋になります。一ノ瀬様は隣をお使い下さい」

「はい」

「トイレとシャワーは部屋に備え付けてございます。タオルなどもご用意しておきました。ただ、水道水は飲まない方が良いでしょう。あまり水質が良くありませんので。部屋の冷蔵庫にミネラルウォータのボトルを置いておいたのでそちらをご利用ください。もし足りないようでしたら、私にお申し付けいただくか、見当たらないようでしたら、一階のキッチンに置いてありますので、ご自由にお持ちください」

 にこやかに米山はそう言った。口調は上品たったが、親しみやすい笑顔だった。

「お食事は、先ほど旦那様とお会いしたダイニングで七時からです。あ、キッチンはその奧にあります。私はしばらくそこにおりますので、何かご用があれば。お気軽にお声がけ下さい」

「解りました」

 真崎は一応頷いた。ダイニングには、玄関から入ったものの他に、二つ扉があったと記憶している。どちらだか判らなかったが、必要になったときに訊けば済む話だと、真崎は判断した。

「では、ごゆっくりお寛ぎください」

「ありがとうございます」

 礼を言うと、一つ頭を下げて米山は戻っていった。恐らく、食事の準備に取りかかるのだろう。

「同じ部屋じゃないのね……」

 米山の後ろ姿が見えなくなるのを待っていたように、詠がぼそりと言った。

「何か問題でも?」

「燈馬から目を離すと、何をしでかすかと心配だもの」

 そう言って、詠はこれ見よがしに溜息を吐いた。

「じゃあ、後で」

「うん」

 詠が扉を閉めるのを確認してから、真崎も自分の部屋に入った。ベッドルームとバスルームがある。ベッドはキングサイズで、等差数列の和のように重厚だった。今は石村の別荘として使われているが、元はホテルかペンションだったのではないか、と真崎は想像した。

 着ていたスーツをクロゼットのハンガに掛ける。それからベッドに腰かけた。広い窓の外に目を向ける。

 雨は上がっていたが、雲行きはまだ怪しい。山の木々が、風に煽られているのが判る。真夏だけあって日はまだ沈んでいないようだったが、天候のせいで外は薄暗かった。




     *




「失礼します」

 扉を開けて、真崎はダイニングに入った。

「いらっしゃい」

 石村隆が笑顔で出迎える。真崎も笑顔を作って返した。

 長方形のテーブルにはすでに四名が席に着いていた。一番奥の席に石村隆。その隣に若い女性が座っている。席を一つ空けて、車いすの初老の男性。テーブルの反対側、若い女性の正面には詠が既に座っていた。

 真崎は詠の隣、隆と向かい合う場所に腰掛けた。食器の配置から、自分がそこに腰掛けるべきなのは明白だった。

 詠は制服から着替えていた。ホルタ・ネックの、黒い膝丈のドレスを身につけている。生地はかなり薄手のようだった。首には銀色のネックレス。色白で整った容姿をしているため、まるで良く出来た人形の様だった。

「紹介します」石村隆は隣の女性を手で指し示した。「こちら、妻の美咲です」

「はじめまして。真崎です」

 真崎たちに向かって、美咲は小さく頭を下げた。

 真崎は少なからず驚いた。隆は五十前後だろう。しかし美咲はどう見ても二十代の半ばで、真崎とあまり歳が変わらないように見える。夫婦よりは親子と言われた方がよほどしっくりくる。

 美しい女性だった。身長はすらりと高く、小柄な隆よりも上背があるようだった。卵形の輪郭で目はぱっちりした二重。顔が小さく、七頭身は優にありそうだった。健康的で快活な印象を受ける。ベージュ色のゆったりとしたチュニックを着ていた。

「父の加藤弘樹です」

 美咲はそう言って、車いすの男性を紹介した。名字からして、美咲の実の父親なのだろう。雰囲気もどことなく似ている。隆とあまり歳が変わらない様に見えるが、それでも義理の父ということになる。車いすに腰掛けているが、老いた印象はあまり強くない。体格ががっしりしていることもあって、病気を患っているようには見えなかった。

「それから……」

 隆が口を開き駆けたとき、ダイニングの扉が開いた。

 姿を現したのは少女だった。白い洒落たワンピースを着ている。黒髪のボブで、年の頃は詠と同じか少し下に見える。細面に切れ長の目が印象的だった。中学の三年か、高校の一年くらいだろう、と真崎は当たりをつけた。年齢からして、美咲ではなく、前妻の娘だろう。隆が前の妻と死別していることを、真崎は知っていた。

 少女は真崎たちの姿を認めると、一度足を止めたが、何も言わずに美咲と加藤の間に座った。

「こちらが娘の彩乃です」

「はじめまして。真崎燈馬です」

「どうも」

 真崎は挨拶したが、彩乃は顎を突き出すように僅かに頭を下げただけだった。かなり不機嫌そうだった。気の強そうなところは、少し詠に近い雰囲気を感じさせた。

「そちらは妹さんですか?」

 微妙な雰囲気を嫌ったように、美咲が問いかけた。

「はい」詠は小声で答えた。「詠です。はじめまして」

 詠はそう言って小さく頭を下げた。隆の眉がぴくりと動いたが、何も言わなかった。

「よみさん? どんな字をお書きになるの?」

「一文字です。言偏に、永遠の永」

「ああ……」

 美咲は一瞬、空中を見上げたが、すぐに納得したようだった。

「とても素敵なドレスですね」

「ありがとうございます」

 詠は無表情で礼を言った。

「はは」隆が微笑んだ。「パーティと言ってしまったので、気を遣わせてしまったかな。別に普段着でも構わなかったのに」

 隆はちらりと真崎の方を見た。真崎は、来たときと同じ、細身の黒いスーツを着ている。二人だけフォーマルな雰囲気になってしまっていた。

「ああ、いえ」真崎は手を振った。「どちらにせよ、あまり服を持ってこなかったので」

「そうですか。まあ、気楽に楽しんで下さい」

 隆がそう言ったのを合図にしたかのように、奥の扉が開いた。米山がワゴンを手に姿を現す。あちらがキッチンなのだな、と真崎は理解した。

「そういえば……」

 美咲が隆の方に問いかけた。

「吾郎小父様たちがいらっしゃっているのでは?」

「ああ」

 隆は頷いた。その表情は苦々しかった。

「でも、彼らは別室だ。客ではないからね」

「そうですか……」

 心配そうに美咲は言った。しかし隆も彩乃も何も答えなかった。

 米山が手際よく料理のサービスを始める。飲み物を訊かれたので、真崎は隆たちに合わせてシャンパン、女性陣はオレンジジュースだった。簡単に乾杯をしてから、食事が始まる。しかし、話は弾まなかった。隆が会話をリードしようとしているが、彩乃が不機嫌そうに黙りこくっている。それを美咲が気に病んでしまい、さらに場の雰囲気が重くなってしまう。

「彩乃さんは」

 少し考えてから真崎は口を開いた。

「はい」

「高校生かな? 二年生くらい?」

「いえ」口元を緩めて彩乃は言った。「まだ中学生です。三年生」

「これは失礼」

 真崎は慇懃に頭を下げた。それを見て、彩乃の目尻が下がる。

「じゃあ、詠と一つ違いか。中三だと受験生ですよね」

「いえ、一貫校なので……」

 そう言って、彩乃は学校の名前を挙げた。真崎でも知っている、都内のお嬢様学校だった。小学校から大学までエスカレーターで進学できるはずだ。もっとも、付属高から大学に行く割合はそれほど高くないと耳に挟んだ覚えがある。

 真崎と話す間に、少し彩乃の機嫌は持ち直したようだった。強張っていた表情が少し緩んでいる。真崎や詠とは普通に会話してくれるようになった。

 しかし、両親に対する態度は解りやすく素っ気なかった。むしろ義理の祖父である加藤相手の方が普通に話す。親子喧嘩でもしているのだろうか。

「お二人は都内にお住まいですか?」

 加藤が問いかける。真崎は頷いた。

「ええ」

「親御さんと?」

「いえ。今は二人暮らしです」

 真崎は短く答えた。

 居心地が悪い食事はやがて終わった。米山が人数分のコーヒーを運んでくる。真崎はピッチャから温めのミルクを注いだ。シュガ・ポットはそのままにしておく。銀色の小さなトングが可愛らしかった。口をつけるが味気ない。デカフェか何かだろうか。

 テーブルの隅に置かれていた灰皿を真崎は引き寄せた。二次関数のようにノスタルジックな造形だった。もっとも、灰皿としての機能を果たしてくれさえすれば、別段不満はない。

 ポケットから煙草の箱を取り出し、一本咥えてライタで火を点ける。煙を吸い込むと、頭がクリアになった気がした。空中に紫煙を吐き出す。

「どうかしましたか?」

 ふと、隆がじっと見つめていることに気が付いて、真崎は素直に問いかけた。加藤も同じように、紫煙に視線を遣っている。

「いや、ね」

 隆は照れくさそうに言った。

「実は、今禁煙中なんだ」

「……これは失礼」

「いや、気にしないでくれ。全然構わないんだ」

 灰皿に煙草を押し付けようとした真崎を、隆は手を振って止めた。

「吸いたくなる気持ちもよく解るしね」

「……そうですか」

 真崎はどうにも困ってしまった。禁煙中だと言うホストの前で吸うのも心苦しいし、かといってここで揉み消すのも座りが悪いように思われた。

「では申し訳ありませんが、遠慮無く」

 結局、この一本に関しては自分の欲求に素直に従うことにした。もう一口、煙を吸い込む。

「禁煙は」詠が久しぶりに口を開いた。「健康のためですか?」

 真崎は、今までに何度か、詠から煙草を止めるように言われていた。匂いが好きでは無い、というのが理由のようだ。彼女の機嫌が悪いときには、消臭スプレーを直接吹きかけられたりする。

「ああ」隆は頷いた。「やっぱり健康が一番だよ。長生きしないといけないしね」

 そう言って、隆は隣に座る美咲の方をちらりと見遣った。美咲は少し俯いた。

「禁煙なんて、十五年ぶりだよ」

「本来、何度もしてはいけないことだと思いますが」

 詠がさらりと言う。彼女は基本的には寡黙だが、ひとたび口を開くと歯に衣着せぬ傾向にある。そして何故かそれが許される雰囲気も持っている。

「手厳しいね」

「煙草なんて、百害あって一利無しです」

 詠は小さく微笑んだ。

「健康にも悪いし、お金もかかる。それに、とても臭い」

「そうかな」

 しかし反駁したのは彩乃だった。真っ直ぐに詠の方を見返している。

「私は好きだけどな。煙草の匂い。大人な感じがして……」

「大人と子供の違いって知ってる?」

 真崎は問いかけた。

「え? そうですね……」彩乃は首を捻った。「自分で生計を立てられるかどうか、でしょうか」

 真崎は小さく首を振った。

「大人になりたい、と思わなくなったら大人だ」

「なんです? それ……」

「だって大人になったら、もう思わないだろう? 逆に、子供に戻りたいと思ったら、でも良いけど。こちらは個人差があるかな。二度と戻りたくない、と息巻いている場合もあるからね」

「たしかにそうですけど……」

 彩乃はくすくすと可愛らしく笑った。

「まあ、大人と子供の違いなんて、その程度だよ、きっと……」

 真崎はそう言って、短くなった煙草をもみ消した。




     *




「失礼します」

 真崎はそう言って、部屋に入った。詠も一緒だ。彼女は先ほどの黒いドレス姿のままだ。

 ダイニングから入った部屋は書斎だった。扉の正面には黒檀の机があり、その向こうに石村隆が腰掛けていた。扉から右手には重厚な本棚があり、分厚い本が雑然と並べられていた。入りきらないのか、床にもかなりの数の本が積んである。部屋の反対側にはレトロなデザインのカウチソファがあった。壁際にはガラスケースがある。中には高価そうな洋酒の瓶や葉巻のケース、それにアンティークなのだろう、レトロな小物が並んでいた。

「待っていたよ」

 居心地の悪い食事が終わってから、十分ほどが経っていた。一度部屋に戻った後、真崎と詠は書斎に招かれていた。

 隆が手で薦めるのに従い、二人はカウチソファに腰掛けた。

「済まないね。別荘だから応接間のような部屋が無いんだ」

「いえ、構いません」

 真崎は微笑んで手を組んだ。

「もう始めてしまっても?」

「ああ、頼むよ」

 隆は真剣な表情でじっくりと頷いた。真崎はちらりと詠の方を確認した。彼女も真面目な顔をしている。

「料金については、既に入金を確認いたしました。対象は前の奥様、石村恵子さんで間違いがないですね? 亡くなったのは十年前とのことですが」

「ああ」

 強ばった顔で隆は頷いた。食事のときはアルコールで赤くなっていた顔色が、今はあまり良くない。

「では、事前にお伝え致しましたが、念のため、もう一度注意事項の確認をいたします」

 真崎は一度言葉を切った。詠は何の表情も浮かべていない。

「恵子様を呼び出せるのは、今回一度きりです。どんなに望まれても、再度お呼びすることは出来ません。また、お二人の間で可能なことは、言葉を交わしてコミュニケーションを取れる、それだけです。例えばキスだとか、抱きしめるとか、愛し合うことは出来ません。まあ、逆に言うと、どんなに恨まれていても呪い殺されるような事もありませんので……」

 真崎は軽くそう言ったが、隆はまったく表情を緩めなかった。

「お話出来る時間は、大体二十分から三十分程度です。これには個人差がありますが、亡くなったのが十年前と言うことなので、少し短めに考えて頂いた方が良いでしょう。時間が過ぎれば、奥様は自然と消えてしまいます。特に後始末のようなことは必要ありません。終わったら、そのまま普段の生活に戻って下さい」

 時間を少し短めに見積もって真崎は伝えた。二重の意味で安全側の予測である。

「注意事項は以上ですが、よろしいでしょうか?」

「うむ」

「その、差し出がましいようですが」

 真崎は念のために言った。

「隆様、お一人でよろしいですか? 恵子様を呼び出せるのは今回限りです。他の方に同席いただいても……」

「いや、それは構わない」

 隆ははっきりと否定した。しかし、彼は迷ったような素振りを見せた。

「その、だな」

 隆は眉をひそめて言った。

「大丈夫なのかな。こういうことは、その……、自然の摂理に反するのではないか?」

「自然の摂理?」

 鸚鵡返しに真崎は問い返した。つい、口元が緩んでしまう。隆は不安そうな表情を浮かべていた。

「そもそも、自然とは何ですか?」

 真崎は脚を組んだ。膝の上で手も組む。

「これは聞いた話ですが、人にいくつか写真を見せ、もっとも自然と言う言葉に相応しいと感じた一枚を選ばせる。そんなテストがあったそうです」

「それで?」

「一番多かったのは、田園の写真だったそうです。たわわに実って頭を垂れた金色の稲穂の海。例えば、富士山や、砂漠や、宇宙なんかの写真を差し置いて」

 真崎の言葉に、隆は首を捻った。

「それに何か問題が?」

「おかしいと思いませんか? 田んぼですよ?」

「自然じゃないか」

 真崎はゆっくりと首を振った。

「田に生えているのは稲だけです。人間に都合の良い植物だけを集めて育てているんですよ。わざわざ水を引いて、肥料を与え、農薬まで撒いて。元々あった環境を、人間に都合の良いように作り替えた、極めて人工的な装置。それが田んぼではないのですか」

「なるほど」隆は頷いた。「たしかに、考えてみればその通りだ」

「人間の手が入っていないことを自然と呼ぶのならば、宇宙こそがもっとも自然に近いでしょうね。でも、人はそうは判断しない。自然とは、人間が関与しないことではないのです。もっと感覚的な、たとえば植物や野生の動物が多く、コンクリートや金属があまり使われていない環境のことです」

「それはおかしなことかな? そういった環境に、ノスタルジィを感じるのは当然のことなのでは?」

 真崎は首を横に振った。

「実際のところ、少なくとも僕たちの世代がそうした環境で暮らしたことはありません。あくまでお話の中で知っているだけの世界でしかない。どうしてそんな、経験をしたことがない風景にノスタルジィを感じるのか。もちろん、先天的なものではない。そこにはちゃんと理由がある。つまり、そう感じるように刷り込まれた環境。これこそが自然という概念の正体です。もちろん、その後天的な刷り込み行為は、とても人為的であるように思われます」

 くすり、と詠が笑った。妙に楽しそうだった。

「先ほど、自然の摂理と仰いましたね。それは、死者が戻ってこない、という常識に反しているからですね?」

「ああ」

「でも、死者は呼び出すことが出来る」

 詠が謳うように言った。今の服装も相まって、魔術的な何かを感じさせた。

「そう。そもそも、その幽霊と会うのを不自然と言う判断は、死者が戻ってこないという常識的な認識に起因している。しかし、実際のところ、死者は呼び出すことが出来る。幽霊が存在する世界。これが、私たちにとっては自然なのです」

 真崎はそう言ったが、隆は諦めたように首を横に振っただけだった。あまり納得できるような話では無かったようだ。

 先入観が邪魔しているのだろう、と真崎は思った。特に、倫理に関することは根が深い。合理的な理由が無くとも、伝統や慣習という言葉で流されてしまう。それは、そちらの方が楽だからだろう。考えたくないのだ。かつて誰かが決めたことに、盲目的に従った方が簡単だ。習慣を変えるのには、大きなエネルギーが必要とされる。

「まあ、あまり問題が無いのは解った。始めてくれ」

 隆は投げ遣りに手を振った。

「はい」

 詠は短く返事をして立ち上がった。

 小声で何か唱えながら、右手で空中に図形を描き始める。

 何か、違和感を感じる。

 室内に動く物はない。

 風が吹いているわけでもない。

 それでも、部屋の中心に何かが集まっている様に感じた。

 空気の重みを感じる。

 詠が手を差し伸べる。

 その先。

 その仕草に答えるように。

 空中に半透明の女性が現れた。

「おお……」

 隆は呻くような声を上げた。

 その声に応えるように、女性は目を開いた。隆の姿を認めて、にっこりと微笑む。

「あなた……」

「恵子!」

 事前に資料として渡された写真の通りだった。十年前に亡くなった、石村恵子が空中に浮かんでいた。外見は三十代の半ばくらいに見える。もう年を取らない以上、あまり意味のない指標ではあるが。

 音を立てずに真崎は立ち上がった。再会を喜ぶ二人に向かって、慇懃に礼をする。

「ではごゆっくりどうぞ」

「ああ、ありがとう」

 石村夫妻が真崎たちの方に向き直る。真崎と詠は静かに部屋を出た。すぐに、かちゃり、と鍵をかける音が聞こえた。

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