第3話 ロミオの妹の暗躍 -Secret maneuverings engaged by Romeo's sister-

     ―――

     ……シラノに復讐なさるには―――恐らく砲火に

     晒せばよいとのお考え、あちらは願ったり叶ったり……くだらないわ!

     わたくしなら、考えますわ、血を見るよりも辛い手立てを

     連隊が出発し、シラノと青年隊が

     戦さのあいだ中、手をこまねいて、

     パリにいなければならないとしたら!……ああいう

     血に飢えた男を逆上させるには、これしかございません。

     お罰しになりたい? それなら危険から引き離すのが一番ですわ。




 夏休みだった。もうお盆も過ぎ、宿題の進み具合が気になってくる時期だ。提出しなくても成績にはあまり影響が無いと言う説があるが、勉強しておかないと休み明けのテストが真っ赤に染まるのは確実である。

 羽々音高生には夏休みを如蘭祭のために費やす者が多い。進学校としては異例のことらしい。脈々とお祭り好きな文化が受け継がれているためだ。もちろん部活やバイトに明け暮れる者もいるが少数派である。

 24Rの面々も例に漏れず、如蘭祭の準備に勤しんでいた。台本やBGMは完璧に整っているし、衣装も目処が付いている。保管場所が無い関係で大道具は直前まで作らないが、小道具は一通り揃っている。照明器具もレンタル先を見つけてあるし、パンフレットも発注済みだ。去年と比べて準備の効率は雲泥の差だった。

 そうした細々とした準備の指揮を一手に引き受けたのは眞桜子だった。裏方として残る仕事は宣伝作業くらいだ。現在はブログで情報発信するかたわら、当日配るチラシを作成中だ。劇の中身の方は監督に就任した遼太とジュリエット役の白石が中心となって進めている。

 今日もキャストが集まって練習をしている。眞桜子は昨日まで家族旅行に行っていたので、練習に出るのは久しぶりだった。正直、そんなことをしている暇はなかったのだが、父親から懇願されては断れない。

 正午が近い教室は、エアコンが入っているとはいえ、かなり蒸し暑い。しかし不快指数が高いのは、気温や湿度だけの所為ではなかった。

「ストップ! ストップ!」

 監督の遼太が大声で演技を遮る。

「違うって! マキュージオの性格はもっと、こう、ノリだけのアホヤンキー的な感じで!」

 遼太による演技指導は、このシーンだけでもう四回目だった。夏期講習や部活で忙しい合間を縫っての練習だというのに、ちっともシーンが進まない。

 教室の中に不穏な雰囲気が充満しているのを眞桜子は感じ取っていた。いや、感じていないのは遼太だけかも知れない。もう一人の中心メンバーである白石も、眉を寄せて厳しい顔をしている。

「……ちょっと、休憩しよう?」

 遼太の指導が一段落したところで眞桜子は声を張り上げた。教室中の視線が集まる。

「もう、お昼だしさ」

 クラスの雰囲気が少し緩む。遼太も幾分不満そうだったが頷いた。キャストがばらばらと位置を離れて自分の荷物に向かう。

「遼太!」

 眞桜子は遼太を呼んだ。まだ不機嫌そうな顔をしているが、素直に寄って来る。その眉が顰められた顔に、眞桜子は脳天気な声を作って言った。

「私、サブウェイね。味は任せる」

「は?」

 ぽかんとした遼太に、眞桜子は畳みかけた。

「買ってきて」

「なんで俺が?」

「今日は暑いから。良いから行ってきて!」

 眞桜子はそう言いながら背中を押して、遼太を教室から追い出した。彼は押しに弱いので、こうしてしまえば意外とあっさり動かせる。

「……ふう」

 眞桜子はため息を吐きながら鞄を開いた。出番を無くした弁当箱はそのままに、ステンレスボトルを取り出す。魔法瓶のはずだが、氷は溶けきって中身はだいぶ温くなっていた。

「大変ねえ、眞桜子も」

 気がつくと、白石が憐れみの視線で見ていた。ちょっと疲れた表情をしている。

「ごめんね」

「眞桜子が謝るのはおかしいんじゃないかな」

「まあ、それは解ってるんだけど」

 眞桜子は教室の中を見渡した。適当に固まって食事をしているが、言葉少なだ。どう見たって雰囲気は重い。ちらちらと眞桜子と白石の方を気にしているのが解る。

「劇はどう?」

「見ての通り」

 白石の言葉に、眞桜子は首を捻った。演劇については門外漢だ。正直なところ、練習を見ていても細かいところまではよく判らない。そのことが伝わったのか、白石は言葉を続けた。

「着実に完成に近づいてるよ。監督もよく勉強してきてるし。クオリティはかなり高まってきた」

「とても順調そうには見えないんだけど」

「まあ、モチベーションは相も変わらず墜落寸前かな」

 眞桜子は女子が集まっている一角に腰掛けた。白石が向かいに座る。彼女の昼食はコンビニのパンだった。袋を破りながら白石は続けた。

「言ってることは間違っていない。やる気があるのも判る。率先して努力しているってのも伝わってくる」

「言い方? 不器用だからなあ」

「そうだね。後、まあやる気ありすぎてこっちが引いちゃうってのもあるけど」

「そこはほら、遼太なりに本気なので仕方がないところかと」

 眞桜子は控えめに反論した。モチベーションが高いことを責められるのは、お門違いなのではないかと感じたのだ。

 劇の中身にはあまり関わっていないが、眞桜子も夏休みに入ってから色々な準備に奔走していた。どう考えてもキャストよりも時間を取っている。キャストでも演出でもないので絶対にと言うわけではないのだが、極力練習にも顔を出すように心がけている。

 しかし、なぜそんなに頑張ってるのか、と問われると、良い劇にしたいから、と答えるより無い。それが唯一にして最大の理由なのだ。その無償の貢献を支えているモチベーションを否定されるようなことを言われては、ちょっと面白くない。

「庇うねえ」

「……別に」

 揶揄するように笑った白石に、眞桜子はぷいと顔を逸らした。

「まあ、遼太には注意しておくよ」

「うん、お願いね」

 しかし答えたのは白石ではなく、乳母役の坂本だった。お弁当を食べながらぐちぐちと言う。

「もうさ、練習が進まないんだよ。いちいち止めるから」

「あ、うん」

「遼太君があんな細かい奴だと思わなかった!」

 眞桜子は少し考えた。遼太がそこまで粘着質だとも感じたことはなかった。むしろ脇が甘い印象が強い。タイプ的には努力家と言うより天才肌だ。それだけ今回の劇には気合いを入れているのだろう。

「眞桜子も、あんなのが彼氏だと大変じゃない?」

「へ?」

 思わず、素っ頓狂な声が出た。

「なんか色々面倒そう。自分ルールとか作って押し付けそうな感じ?」

「待て待て待て待て」眞桜子は慌てて手を振った。「別に付き合ってないよ? 私と遼太は」

「またまた」

「いやいや」

 二人して互いの言葉を否定し合う。眞桜子はへらへらと笑ってみたが、坂本の疑わしげな視線は変わらない。

「だって、合唱祭の日に、二人して手と手取り合って夜の街に消えてったじゃん?」

 にやにや笑いながら坂本が言う。するとヒナが話に加わった。

「ねー。あれはびっくりだったね。二次会になったら二人だけいないんだもん」

「ちょっ」

 眞桜子は一瞬言葉に詰まった。

「あれは違っ」

「でも、二人でいなくなったのは事実だよね。遼太君が眞桜子に声かけて」

 白石が無慈悲に言う。背後から撃たれたような気がした。

「それは……、そうだけど」

 眞桜子は消え入りそうな声で返事をした。しかし誰も容赦してくれなかった。白石が台本を丸めてマイクのように向けてくる。

「彼とはどこで何をしていたんですか?」

「……自由が丘のエクセルシオールで」

「ほうほう。どんな話を?」

「……如蘭祭、頑張ろうねって」

 眞桜子は焦りながらも事実を答えた。意図的に隠した部分はあるが、嘘は言っていない。

「あははは」

 坂本が乾いた声で笑う。それから一瞬で声音を切り替えた。

「んなわけないでしょ!」

「嘘じゃないって」

「またまた」

「でもさあ」

 ヒナがのんびりした声で言った。口調とは裏腹に目が鋭く輝いている。

「あの後何日か、二人喧嘩してたよねえ? 眞桜子が一方的に無視してた。遼太君、一所懸命話しかけてるのに」

 眞桜子は思わず表情を引きつらせた。そんなことまで見られているとは思っていなかった。さすがに彼氏と長いだけあって、ヒナは鋭い。

「ほほう」坂本が意地悪く笑う。「これは、何があったのかな?」

「何も無かったってば」

「何も無いなら、無視するほど怒らないよねえ」

 ヒナが間延びした声で言う。眞桜子はまた言葉に詰まった。事実はともかく、この姦しい悪友たちを納得させられるだけの話は提供できそうもない。

「眞桜子、私たち、親友だよね?」

 白石が悲愴な顔と声を作って言う。演劇部だけあって迫真の演技だった。眞桜子は極力フラットな声音で返した。

「さっきまではね」

「じゃあ、こっちで何があったか予想しよう」

「良いね、面白そう!」

 そう言って白石たちは考え始めた。眞桜子は止めようとして、思い直した。止められる自信がなかったのもあるが、三人が楽しそうだったからだ。眞桜子がからかわれることで、重苦しい雰囲気も少しは改善するだろう。遼太への風当たりも多少は和らぐかも知れない。

「まあ、普通に考えれば、遼太君が眞桜子に告白だよね。わざわざあのタイミングで呼び出してるんだし」

「で、次の日から喧嘩になってるから、眞桜子が振った、のかな」

 坂本と白石が難しい顔になった。角突き合わせて、仮説の検証を始める。

「その割には、今は仲良いよね」

「とても振った後とは思えん」

 二人して眞桜子の顔を覗き込んでくる。肩を竦めることで返事をした。坂本がふむ、と頷く。

「これは違うな。じゃ、逆。眞桜子が告白して、遼太君が振った。で、眞桜子が怒る」

「で、距離が離れて、遼太君が初めて気がつくの。ああ、俺には眞桜子が必要なんだ! って。そして改めて付き合ってくれ! と」

「なにそれ」

 演技過剰な白石に眞桜子は思わず笑ってしまった。

「でもねえ。呼び出したのは遼太君の方なんだよね」

 ヒナが冷静に言う。一人だけ涼しい顔をしている。

「流れがおかしいなあ、それだと」

「むう」

 坂本が腕を組む。白石も首を捻った。二人とも完全に食事の手が止まっている。もぐもぐと咀嚼しているのはヒナだけだ。

「呼び出したのが遼太君だから、コクったのはそっちからだよね」

「で、翌日になると眞桜子が切れてるんだから……」

「そもそも告白したこと前提なのがね、もう」

 眞桜子はため息混じりに言ったが、二人の耳には届かなかったようだ。うんうん、唸っている。

「ああ、閃いた!」

 坂本がぽん、と手を打つ。

「遼太君コクる。眞桜子OKする」

「ほう」

「で、先走った遼太君が襲いかかって、眞桜子切れる」

「おいこら、待てや」

 眞桜子はつい突っ込んでしまった。思わず口調が悪くなる。その時、思わぬ方向から横槍が入った。

「ううん……。遼太君、いきなりそんなことする度胸あるかな?」

「だってあいつだって男子だよ! 男だから野獣だよ」

 坂本が力強く言う。何か男に嫌な経験でもあるのだろうか。

「男子だってそんな単純じゃないよ。意外とナイーブ。それはもう面倒くさいほどに」

 ばっさり否定したのはヒナだった。彼氏持ちの言葉は強い。独り身歴と年齢が等しい坂本はしゅんと黙った。

「大体ねえ。その状況で眞桜子が拒む?」

「ちょ、ちょっと?」

「拒まないね、眞桜子なら」

「いやいやいやいや。全力で拒否りますよ? 何なら防犯ブザー込みで」

 眞桜子はぶんぶん手を振ったが、また無視された。

「きっとねえ、こんな感じだと思うよ」

 ヒナが変わらぬ口調で言う。眞桜子の方をにやにやと横目で見ている。嫌な予感がした。

「コクってOKまでは一緒。それから、襲う、ってか自然と良い雰囲気になる流れだと思うんだよねえ、いちゃいちゃしているうちに。そしてネオンの光に吸い寄せられる二匹の若い蝶」

「……は?」

「んで、こう、ちょっくらご休憩でも。一緒にシャワー浴びちゃったりして」

「ちょっとちょっと……」

「それで、いざ、となったときに」

 ごくり、と誰かが唾を飲み込んだ。

「緊張のあまり、元気なくなっちゃったんじゃないかと」

「え? え? え?」

 一瞬の後、眞桜子は内容を理解してしまった。一気に血が顔に上ってくるのが判る。

「うわー!」

 坂本が何故か叫ぶ。顔が赤く染まっていた。白石が何故かひそひそ声で言う。

「……逆の可能性もあるんじゃない? 痛すぎて、とか」

「それだと翌日以降、眞桜子が怒ってるのがおかしい」

「そうか。そうだね」

「これだと、すべての観察された事象に説明がつく」

 ヒナが胸を張ってそう言った。まるで、密室殺人事件を解き明かした名探偵のようだった。

「凄い! ヒナ、あんた天才!」

「違うから! もう全然違うから!」

「証拠がこんなにも」

「冤罪! 冤罪! 全部状況証拠! 自白も無しじゃ有罪にならない!」

 眞桜子は慌てて全力で否定した。助けてくれそうな人に視線を向ける。しかしさっきから一言も発していないロミオ役は、巻き込まれたくない、と言わんばかりに目を逸らした。

「眞桜子、顔真っ赤だよ」

「あんたのせいでしょうが!」

 眞桜子はキッとヒナを睨み付けた。しかしヒナは肩をすくめただけだった。その余裕綽々の態度がますます腹立たしい。

「とにかく! 何にもなかったの!」

「はいはい」白石が笑う。「ちょっと落ちつきなって」

「興奮させてるのはどっちよ!」

 眞桜子は肩で息をしながら、ボトルを呷った。温い液体は熱くなった顔の冷却には今ひとつ効果を発揮しなかった。

「眞桜子は可愛いなあ」

「普段はフラットな感じなのに、下ネタに異様に弱いのがね」

 眞桜子は何も言い返せなかった。確かに性にまつわる話題は得意ではない。

「ま、からかうのもこのくらいにしておこうかな」

 のんびりと言ったヒナを、眞桜子は威嚇した。一番の爆弾を投げておいてこの余裕の態度は憎らしい。

 そのとき、がらりと扉が開いた。教室に入ってきたのは遼太だった。全員の視線が一斉に集まる。誰も何も言わずに彼のことをにやにやと見つめている。

「な、何?」

 遼太はたじろいだが、誰も返事をしなかった。首をひねりながら眞桜子に歩み寄ってくる。手には紙袋を持っていた。

「ほら」

「あ、ありがと」

 目を逸らしながらサブウェイの袋を受け取る。あんな話をした後だったので、遼太の顔を見られなかった。

「後、これ」

 もう一つ、袋を渡される。見ると駅前の菓子屋チェーンの名前がプリントされている。遼太はなんだか照れくさそうだった。

「え、何?」

 眞桜子は袋を開いてみた。中にはシュークリームが一つだけ入っていた。

「どうしたの、これ?」

「やるよ」

「……なぜ?」

「だって眞桜子、シュークリーム好きじゃん」

 眞桜子の質問に、遼太は的を外した返事をした。その答えに眞桜子は混乱した。遼太の意図がよく解らない。

「いや、そういうことでなくて。なぜ一つだけ?」

「……だって」

 遼太は窓の外を見ながら答えた。

「なんか、怒ってるみたいだったから」

 眞桜子は頭を抱えた。なぜ五人も女子がいるこの状況で、自分のためだけに買ってくる気になれるのか、ちっとも理解出来なかった。人数分用意すれば何の波風も立たないのに、どうしてこうも気が利かないのか。

「いらない」

 眞桜子は袋を突き返した。遼太がきょとんとして受け取る。

「あ、もしかしてダイエット中だった?」

 ダイエット中の人間が、ファストフードで外食するのか。しかも人に食事を買いに行かせ、メニューを任せるわけがない。眞桜子はそう思ったが、口にはしなかった。

「眞桜子、十分細いじゃん。むしろ、もうちょっと運動した方が。凪を見習ってだな……」

「……」

 しん、と沈黙が室内に落ちる。

 眞桜子は返事をせずに椅子に座った。頭に登っていた血が、すっと落ちた気がする。黙ったままサブウェイの袋を開ける。

「眞桜子」

 白石が声をかけてくる。サンドウィッチにかぶりつきながら、眞桜子は目で返事をした。

「強く生きろよ」

「……無理かも」

 マスタードが鼻に沁みた。




     *




 扉を開けた瞬間、啓太は違和感を覚えた。玄関に見知らぬ靴が揃えてある。女性物のローファーだった。凪の物ではない。彼女は基本的にスニーカーしか履かないのだ。友達でも来ているのだろうか、と考えながら自分も靴を脱ぐ。

 今日も劇の練習だった。夏休みに入ってからはほぼ毎日だ。その甲斐あって、去年に比べると完成度は雲泥の差だ。ノウハウの積み上げが大きいのだろう。

 その後、比奈子と渋谷をぶらついてきた。夏休みだからだろうか、普段に比べると中高生の姿が多かった気がする。それも、少し垢抜けない印象の子が目立った。地方から遊びに来ているのだろう。

 飲み物を求めてリビングに入るが誰もいなかった。しかし二階が妙に騒がしい。耳を澄ますと、凪と遼太の他にもう一人女子の声がする。三人で何かしているようだが、口調が妙に剣呑な気がする。

 啓太はリビングの椅子に腰掛けた。机の上に「ロミオとジュリエット」の台本が放り出されている。遼太の物だろう。かなり使い込まれていて、ぼろぼろだった。あちこちに付箋が貼ってある。今年は劇に気合いを入れているようだった。理由までは知らないが、何かしら思うところがあるのだろう。

 遼太の物を放置したまま、啓太は鞄の中から自分の台本を取り出した。自分の台詞にはマーカーで線を引いてある。記憶力はそう悪くないとは自負しているものの、時代がかった言い回しや言葉遊びが多いので、演技には苦労する。他にも詩を唱えながら剣で戦ったりするし、ラストシーンではヒロインの腕の中で死んでしまう。求められる演技の幅が広く、大変だった。

 階段を下りてくる足音に気がついて、啓太は顔を上げた。開け放した扉の向こうに目を向けると、下りてきたのは藤崎だった。彼女は啓太に気がつくと、一瞬びくりとして足を止めたが、小さく会釈をして俯きながら玄関に向かった。啓太も軽く頭を下げる。

 はて、と啓太は二階の様子に気を払った。客が帰ろうとしているのに、誰も見送りに来ない。聞こえてきたのは、凪の怒鳴り声だった。遼太が言い返しているのも切れ切れに聞こえてくる。そうこうしている間に、玄関の扉が閉まる音が響いた。

 ずだだだだ、と足音高く凪が階段を駆け下りてくる。それからリビングに飛び込んできた。啓太の顔を見て、噛みつかんばかりの勢いで訊いてくる。

「眞桜子……藤崎さんは!?」

「今、出てったけど」

 啓太が首を傾げながら答えると、凪は大声で罵倒した。

「馬鹿っ! 何で引き留めておかないの!?」

 それからリビングを飛び出していく。すぐに玄関が乱暴に閉められる音がした。家が揺れたように感じられるほどの勢いだった。

 啓太は呆然とした。なんであそこまで怒られねばならぬのか、さっぱり解らなかった。何も悪いことをした覚えはない。釈然としないが文句を言う相手はもういなかった。

 しかし、と啓太は思い返した。帰る間際の藤崎の様子は少しおかしかった。廊下にいたのでリビングからはっきりとは見えなかったが、目の端に涙が浮かんでいたようにも思う。

 まさか、と啓太は思った。遼太が泣かせたのだろうか。休み前にはデートしていたというのに、あまり上手く進んでいないようだ。デリカシーの無いことを言ったか、はたまた関係の進め方を焦ったか。

 とは言え、自分たちが付き合いだした頃には色々あったものだ。まあ、そのうち収まるところに収まるだろう。そう思い直し、啓太は台本の再確認に戻ることにした。




      *




 遼太はリビングのソファに寝転がっていた。八月も残り二日。楽しかった夏休みももう終わりが迫っている。

 テーブルの上に放置した数学の問題集を視界に入れないように、遼太は天井を見上げた。自室にいると誘惑が多いのでリビングに出てきた。テスト前などにはいつもこの戦略を採るが、結局はこの体たらくである。宿題はまだまだ残っている。しかし提出日は九月一日ではなく、各科目の最初の授業だ。宿題退治は九月に入ってからが本番なのである。

 乳白色の天井を見上げながら、遼太はぼんやりとしていた。頭に浮かぶのは如蘭祭の劇のことだ。クラスメイトの献身的な協力のおかげで、準備は順調に進んでいる。その要になったのは眞桜子だった。彼女がしっかりとマネージメントしてくれているおかげで、遼太や白石が劇の中身に集中出来ているのだ。

 しかし、ここ一週間ばかりは眞桜子とぎくしゃくしていた。きっかけは、昼食時にシュークリームを差し入れたこと、のようだ。正直なところ、理由については確証は持てないのだが、他に理由が見当たらない。

 あの後眞桜子は家にやってきて、練習の進め方について話をした。はっきりと喧嘩になったのはそのときだ。演技指導の言い方について注意され、思わず言い返してしまった。その後は口論になり、隣の部屋にいた凪まで参戦して滅茶苦茶になってしまった。シュークリームはそのときに出た言葉だ。正直、劇にはあまり関係ないと思うのだが、眞桜子や凪の不興を買ったようだ。

 その後も練習で顔を合わせているが、ずっと冷戦状態が続いている。さすがに無視はされていないが、必要最低限の伝達事項が行き交うだけだ。目線が合うこともほとんどない。

 改めて思い返してみれば、眞桜子の言うことが当たっていた。あの日まで、練習の雰囲気は段々悪くなっていた。自分の言い方に一因があったのかもしれない。ついつい悪い箇所ばかりが目に入り、きつい口調で注意をしてしまっていた。

 眞桜子に言われてから少し気をつけるようにした。良くなった箇所を意識して褒め、改善点もソフトに言うように心がけた。すると特に女性キャストにやる気が見えてきた。なぜか合い言葉が「眞桜子の苦労に比べれば!」になっているのが気になるところだが……。

 前回、眞桜子と冷戦状態になったのは、如蘭祭についての協力を頼んだときだった、と遼太は思い出した。あのときは結局、大量のスイーツを献上する羽目になった。また何かご馳走すれば許して貰えるのだろうか。そんなに甘い話では無いとは解っているが。

 大好きなのだろう、甘い物を食べているときの彼女はとても幸せそうな顔をする。目尻も頬も落ちきって、緩みきってしまう。普段は割とクールなだけに、そのギャップが愛らしい。

 突然、電話のベルが鳴る。スマホではなく家の固定電話の方だ。遼太は起き上がって、受話器を取った。

「もしもし?」

「あ……」

 戸惑ったような女性の声がする。電話越しでも聞き間違えるはずは無かった。しかし彼女はそれきり何も言わない。

「眞桜子か?」

「う、うん……」

 戸惑ったような声で返事が戻ってくる。

「どうした?」

 訝しく思って遼太は問いかけた。自分に用事があるならスマホの方にかけてくるはずだ。もっとも最近は通話ではなくて、一行だけのメールであることがほとんどだったが。

「あ、うん。お母様いらっしゃる?」

「今、風呂入ってるけど……」

「そ、そう」

 困ったように眞桜子が言い淀む。しかし、気を取り直したように続けた。

「じゃあ、遼太で良いや。あのね、今日泊まっていくって」

「……は? 眞桜子の家にいるの?」

「え? 劇の練習で来ているんだけど。ほたるも一緒に。聞いてない?」

「初耳だよ……」

 言われてみれば昼過ぎから出かけていたように思う。宿題の解らないところを見せて貰おうと思っていたのだが、当てが外れていたのだ。せっかくの双子の恩恵が、まったく生かせなかった。もしかしたら、宿題が終わっていないことを見越して、声をかけなかったのかも知れない。

「んで、泊まるって? 眞桜子の家に?」

「うん。今、お風呂入ってる。悪いけど、お母さんにそう伝えてくれる?」

「解った。けど、なんで本人じゃなくて、眞桜子がかけてくるんだよ?」

「だって、かけといて、って言い残してお風呂行っちゃったんだもん。早くしないとお母さん、寝ちゃうからって言うし」

 それで律儀にかけてしまう眞桜子の人の良さも大概だと、遼太は思った。しかし、遼太のスマホではなく家の固定電話にかけてきたのが、少しショックだった。

「その、なんだ」

 遼太は焦りながら言葉を発した。恐らく眞桜子の用事はこれで終わりだろう。後は、お休み、と言って電話を切れば済む話だ。何の問題もない。

「練習の調子はどうだった?」

「どうだって、そうだなあ」

 眞桜子は少し考えた。

「どうもこうも」

「……あまりよろしくない?」

「よろしかったら、もうとっくに家に帰してる」

 溜息混じりに眞桜子は言った。どんな顔をしているか、電話越しでも容易に判る。

「左様ですか」

「うん」

 また少し沈黙する。遼太は眞桜子が何か言う前に、と焦って言った。

「その、どんなところが?」

「うん。あのね、男前過ぎるの」

「は?」

「だからさ、ロミオってかなり駄目な男でしょ? ころっと片恋の相手変えちゃうし、苦境に陥るとすぐ諦めようとするし」

「そうだな」

 遼太は頷きながら聞いた。電話の向こうには見えないのは百も承知だが、条件反射みたいなものだ。

「今のままだと、超男前で自信満々なのに、台詞だけいじいじしてるみたいになっちゃって、かなり違和感が」

「うん」

「てか、遼太もそのこと、気がついてたよね?」

「あー、うん。まあ、一応」

 電話のコードを指でいじりながら遼太は言った。

「なんで、ロミオだけには演技指導をしないかな」

「だって、俺が言うと喧嘩になるんだもん」

「もしかしなくても、他の女子相手には大丈夫だと思ってたのかな?」

 眞桜子の声がちょっと低くなる。額に青筋立てている姿が、目に浮かぶようだった。咄嗟には返事が出来ない。また溜息をついて、眞桜子は口調を切り替えた。

「まあ、そんなわけで、急ピッチでロミオ像を建て直しているわけですが。おかげでこんな時間になっちゃって、じゃあ泊まっていくか、となったわけ。そっちはともかく、ほたるの終電がもう危なそうなんだよね」

 白石は都内の北の端に住んでいる。大井町線沿線の眞桜子の家からだと、東京をほとんど縦断しなくてはならない。

「すまん、恩に着る」

「……うん。しょうがないなあ」

 眞桜子が困ったように言う。

「あ、その、なんだ」

 話が終わってしまった。しかし、ちょっと雰囲気は良くなってきた気がする。何とか次の話題を絞り出す。

「その、同じ部屋で寝るのか?」

 咄嗟には思い付かず、口にしたのはそんな言葉だった。しかし眞桜子は素直に応じてくれた。

「うん。他に寝られる部屋ないもん。ほたると三人で、川の字だね」

「覚悟しろよ」

「は?」

「あいつすごい鼾かくから」

 遼太は双子の片割れを売り飛ばした。とは言え、あと数時間もすればばれてしまうようなことだが。

「……本当?」

「マジ、マジ」

「うーん、私、うるさいと眠れないんだけどなあ」

「口を無理矢理閉じれば止まるぞ」

「……それ、起きちゃうんじゃない?」

「いや、意外と大丈夫」

「……いざとなったら試してみる」

 眞桜子が少し笑い声になって言う。この楽しげな声を聞いたのは久しぶりだった。

 段々会話がいつもの通りになってきたように遼太は感じた。適度な距離感と会話のテンポがとても心地よい。

「あ、その……」

「うん?」

 遼太は意を決して言った。

「その、今度の土曜、空いてるか?」

「土曜? 九月入ってるよね。ちょっと待って」

 電話の向こうで、何かごそごそしているのが伝わってくる。スケジュール帳か何かを確認しているのだろう。

「えっとね、空いてるけど」

「その、だな」

 遼太は大きく息を吸った。それからゆっくりと吐き出す。

「遼太?」

「祭りがあるじゃん? 自由が丘の」

「え? ああ、神社の……。今度の土曜だっけ」

「一緒に行かない?」

「え?」

 眞桜子の声が高くなる。

「……」

「……」

 どちらも話さない。受話器を持つ右手が汗ばむ。不快だが、拭くことも出来ない。一言も聞き逃すまいと耳を澄ます。

「その、忙しかったら、別に良いんだけど」

 沈黙に絶えきれず、遼太はそう言った。

「……いや、暇だけど」

「嫌じゃなかったら、……どう?」

「……」

 また、沈黙する。緊張しながら電話の向こうの様子を窺う。何の音も聞こえない。

 数秒経って、ふう、と息を吐く音が聞こえた。

「もう、しょうがないなあ」

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