ロクサーヌの簪 -The only neat thing to be jilted-
第2話 拙いラブレターを書くクリスチャン -Christian writing unsophisticated love letter-
第2話 拙いラブレターを書くクリスチャン -Christian writing unsophisticated love letter-
―――
何だと?……無駄な努力だ?……百も承知だ!
だがな、勝つ望みがある時ばかり、戦うのとは訳が違うぞ!
そうとも! 負けると知って戦うのが、遙かに美しいのだ!
チャイムに気がついて、遼太は目を覚ました。やはり、午後の授業の睡魔は耐え難いものがある。しかし七時間目ももう終わり、もはや自由の身だ。
羽々音高校には朝も放課後もホームルームが存在しない。歴史ある名門校だからなのかは知らないが、自主自律の精神が貴ばれている。そのため、教師の目が無くても生徒自身できちんと自己管理が出来るように、ということらしい。おかげで、担任と会うことは週に一度のロング・ホームルームの時くらいしかない。
「前髪立ってる」
双子の相方が脇を通りがてら注意していった。手には鞄と、大きなスポーツバッグを持っている。これから部活なのだろう。前髪を左手で押さえながら、遼太は教科書を机の中に仕舞った。もちろん、自宅に持ち帰るような面倒はしない。
「さて、どうしよっか?」
机に近寄ってきたのは眞桜子と白石だった。二人ともばっちり帰り支度は済んでいる。眞桜子も寝起きなのか、少し眠そうだった。ちょっとボンヤリしている。メイクで隠してはいるが、目の下に隈ができている。寝不足らしい。
白石ほたるは24Rの中で唯一の演劇部員だ。長く艶やかな黒髪が特徴的な健康的な美人で、明るい性格もあってクラス内での人望は厚い。
遼太と眞桜子と白石の三人が中心になって、如蘭祭の演目を決めることがホームルームで決まっていた。今日はその初会合をすることになっているのだ。
「まあ、見附のマックにでも」
「りょーかい」
白石が頷くのを確認して、遼太は空っぽの鞄を手に立ち上がった。三人で連れ立って教室を出る。学校から駅へと続く遅刻坂を下り、駅前のマクドナルドに入店した。値段が安く長時間居座れる、貧乏高校生の味方である。各自飲み物を頼んで二階の禁煙席に陣取る。少し警戒していたのだが、眞桜子は自分の分をきちんと払った。
「ええと、どこから決める? ジャンル? それともいきなり候補出しちゃう?」
席に着くと、早速白石が切り出した。うずうずしているのが見て取れる。目が爛々と輝いていた。
「ほたる。条件はただ一つだけ」
眞桜子が不敵に笑ったので、遼太は嫌な予感がした。眞桜子に関する限り、この予想は外れることは滅多にない。
「如蘭大賞が取れる劇、よ」
「は?」白石の目が点になる。「なんで? 大賞? 敢闘賞じゃなくて?」
表情こそ違えど、先日の眞桜子のリアクションとほとんど一緒だった。その眞桜子がしれっと答える。
「いや、遼太がどうしてもそうしたいって」
「なんでそこまで言ってから俺に振るんだよ……」
白石の目が遼太に向く。かなり訝しげだった。
「あんたが言い出したことでしょうが」
「そうだけどっ!」
「はいはい、痴話喧嘩しないでー」
白石が投げ遣りに言う。目が無感動に細められていた。
「で、なんでそんな無謀なこと言い出したの?」
「それは……」
「如蘭祭の歴史に名を残したいんだってさ。夢は大きく大志を抱きたいそうな」
眞桜子が代わりに答えた。苦笑いをしていた。面白がっている雰囲気がある。
「……へえ」
まったく信じていない表情を白石は浮かべたが、それ以上は追及してこなかった。
「まあ、結局は良い劇を作ろうってことだから良いんだけど」
白石はそう言って、ストローを咥えた。コーラを一口飲んで、首を傾げた。
「遼太君の無謀な挑戦は解った。で、実際に劇を何にするか決めなくちゃ」
「うん、ちょっと私、考えてきたんだけど」
眞桜子が椅子に座り直す。遼太と白石は身を乗り出した。
「優勝するためには票が必要でしょ。なので、どうやったらお客さんに投票して貰えるか考えてみたんだ」
眞桜子は少し緊張した面持ちで話し始めた。遼太も自然と背筋を伸ばして、眞桜子の言葉に耳を傾ける。
「まず、そもそもお客さんが何者なのか。いったい、どんな人が客に来てると思う? あ、もちろん在校生は除いて」
如蘭祭では在校生も他のクラスの劇を見ることが出来る。しかし投票権がないため考慮する必要は無い。票を貰うことを考えると、むしろ閉め出した方が良いくらいだ。過去には本当に在校生お断りを掲げて、大ブーイングを受けたクラスもあるらしい。
「ええと、そりゃ生徒の家族と学校以外の友達かな? バイト先とか塾とか、中学時代の同級生」
「卒業生も来ることがあるな。後は、受験予定の中学生が見学に来たり」
遼太は二年前のことを思い出しながら言った。自分も羽々音高校を受験する予定だったので、如蘭祭を冷やかしに来たのだった。その結果、見たくないシーンを目撃することになったのだが。
「うん、多分そんなとこ」
眞桜子は小さく二度頷いた。それから真剣な顔を崩さずに言った。
「さて、ここで問題です。去年の如蘭祭で一番行列が長かったのはどこでしょう?」
「え? そうだな……。去年優勝したのってどんなのだったっけ?」
「たしか、時代劇の役者が階段を転げ落ちる劇」
「ぶー」
眞桜子がにやにやと笑いながら言う。白石と遼太は首を捻った。さすがに一年前のことを即座には思い出せない。
「じゃあ、二位か三位のクラス?」
「なんだったっけ……。ええと、たしかお笑い芸人が特攻する話と、シスターが歌うミュージカル?」
「ぶぶー」
眞桜子の表情を見ながら遼太は考えた。さすがに上位三つ以外のクラスの行列が一番長かったと言うことは無いだろう。
「クラスじゃないなら部活かな。オーケストラ部か、軽音部?」
「どうして演劇部を候補に入れないのっ!? まあ、あんまり入ってなかったけど……。後はダンス部とかも公演してたね」
如蘭祭では一応、部活も発表をする。しかし力の入れ具合は、クラスに比べそれほどでもない。在校生の間でもあまり話題に上らない。とは言え、他に演し物が思い付かない。
「全部外れ」
遼太は楽しそうな眞桜子の顔を見ながら考えた。すごく悪戯っぽい顔をしている。明らかに二人が困っているのを楽しんでいる。正攻法では出てこないような答えなのだろう。
「もしかして、トイレ?」
イベントごとの定番を思いついて、遼太は言った。しかし眞桜子は笑顔のまま首を横に振った。
「違うよ。学校だからいっぱいあるし」
「売店!」
「段々目の付け所は良くなってきたけど、まだ外れ。学校の近くに飲食店やコンビニはいっぱいあるから」
「うーん。解らん」
眞桜子は得意満面になっている。鼻が伸びていないのが不思議なくらいだ。悔しいが、両手を挙げて降参する。すると眞桜子は人差し指をぴんと立てて教えてくれた。
「正解は、教職員による受験相談」
「は?」
「受験検討中の中学生およびその保護者を相手に、校長・教頭・入試担当などなどによる個別面談。最長三時間待ちだったそうな」
羽々音高校は都内はおろか全国でも有数の名門校だ。都内全域から受験生が集まってくるし、入試日や発表日にはマスコミが取材に来るほどだ。遼太も受験当日に新聞記者に話を聞かれた。双子だったので目立ったのかも知れない。
「え、マジ?」
「大マジ。大行列。四階から一階までずっと並んでたの覚えてない?」
「あったような、なかったような」
「在校生にはどうでも良いからなあ」
言われてみればそんな列があったような気がしてくる。ふふん、と鼻で笑って眞桜子は続けた。
「そんなわけで、見学に来た中学生をメインターゲットに据えた劇を作ります」
「や、そう言っても。家族や友達とかも客にはいるじゃん。そっちの票も狙わなくちゃまずいんじゃないか?」
「無意味」
遼太の疑問を、眞桜子は一刀両断した。
「考えてもみなさい。他のクラスの生徒の家族や友人が、24Rに票を入れてくれると思う? 家族や友達が作った劇を差し置いて」
「思わ……ない」
「そうなの。そういう客って、劇の出来に関わらずどこに投票するか決まってる。そりゃ、ちょっと足を運んで見てくれるかもしれないよ。でも、票には繋がらない。卒業生だって部活とかに顔を出している人がほとんどだからね。こっちは逆に校内の知り合いが多すぎて、どこにも入れられない」
「なるほどね」白石が腕を組む。「中学生はしがらみが無いから浮動票ってワケだ」
「同じ中学出身の先輩がいるかもしれないだろ?」
遼太は疑問を呈する。少し眉を寄せて、眞桜子は答えた。
「部活が一緒でも無かったら面識無いと思う。顔だけ知っていたって、票を固定するまでにはいかない」
ふむ、と白石は頷いた。遼太としてもまったく異存はなかった。
しかし、眞桜子がこんなに色々考えて戦略を立てているとは思わなかった。如欄大賞が欲しい、と頼み込んだのは遼太だが、そこまで乗り気なようにも見えなかった。
「ターゲットはそれで良いと思う。でも、中学生ったって色々いるだろ。好みとか人によって違うし」
「うん」眞桜子は自信満々に頷いた。「それも考えた。狙うのは女子。それもどちらかというと、乙女チックな子」
「乙女チック? なんでまたそんなニッチな層を」
「数としてはニッチなんだけどね」
眞桜子は首を横に振った。
「如蘭祭では劇を上演しないといけないでしょ? でも普通の中学生って、そんなに演劇とかって好きかなあ?」
「好きだと信じたい……! 演劇って楽しいよ? いや、本当に」
演劇部の白石が寂しそうな声で言う。しかし眞桜子は容赦しなかった。
「ほたるは現実を見てね。うん、そんな子はもちろん少数派。劇に興味無い子が見て、やっぱり惹かれなかった。さてどうするか。入場者に投票の権利はあっても義務はない。と、なると投票せずに帰ってしまう可能性が高い。だったら、最初から興味を持ってくれそうな子に見て貰って、感動の渦に巻き込んだ勢いで投票して貰う。だからお話好きな子を相手にしよう。狙いは乙女チックな女子。そして演目はロマンチックな恋愛劇」
「で、でもさ」遼太は反論した。「そういう子って、数が多くないだろ? 稼げないんじゃないかな。お笑いとかアクションの方が、好きな奴多くないか?」
「ううん。如蘭祭の場合、重視しないといけないのは絶対数じゃなくて、得票率」
眞桜子は人差し指を振った。
「劇って、全クラス、教室でやらなくちゃいけないでしょ」
如蘭祭では演劇は体育館や講堂ではなく、各教室で行うことになる。普通の教室の中にセットを作らなくてはならないし、大道具を収納できるだけの舞台裏も必要だ。音響や照明のスペースも賄わなくてはならない。客席に取れるスペースは意外と狭く、人気の公演は満席になって入りきれず、二公演待ちなどというケースも多い。
「一度の公演で教室に入れるのは頑張っても六十人くらい。六回公演を二日こなしたとして、すべて満席になったとしても七百二十人しか見られない。しかもその中には在校生や、さっき言ったような投票先が決まっている客がかなりの割合で含まれている。と、なると、浮動票として考えられるお客さんは三百人にも満たない。これはどんな人気クラスでも条件は一緒。どんなに行列が長くたって、見られなければ票にはならない。それなら、上限が厳しい母数を増やすよりも、得票率を軸に考えた方が数を取れる」
「見た人を確実に、ってことか」
「いや、むしろ逆。確実に取れる人に見て貰うってこと。最初から、ロマンチックな劇を選んで見に来るような層に来て貰う」
眞桜子はそう言って、少し上目遣いになった。
「どうかな……?」
遼太は少し考えた。如蘭祭には、毎年かなりの数の客が来場する。時間帯にも依るが、客席は割と簡単に満席になる。実際、一年生であった去年も、かなりの数のお客さんが見てくれた。上の学年の方が完成度が高いのは周知の事実だし、ちゃんと宣伝すれば今年は全公演満員御礼も夢ではないだろう。すし詰めとまでいくのは難しいかも知れないが。
「良いと思う」
「うん」
遼太と白石は頷いた。少し強ばっていた眞桜子の表情が緩む。目尻が下がって、ほっとした顔になった。
「よく、そんなことまで考えたね、眞桜子」
「うん、大賞が目標だからね。普通に良い劇作っただけじゃ難しいかと思って。ただでさえ厳しいのに、学年というハンデがあるから」
ふう、と眞桜子は息を吐いた。肩の荷が下りたようで、すっきりとした顔をしている。
白石が笑顔で話を進める。
「じゃあ、乙女心をくすぐるロマンチックな恋愛劇、なわけだ」
「うん」
「候補も考えてきたんでしょ? その感じだと」
「まあね」
眞桜子はそう照れくさそうに言って、紺色のスクールバッグを開いた。中を探り文庫本を二冊取り出す。
「……?」
その拍子に、遼太には鞄の中がちらりと見えてしまった。教科書やルーズリーフの間に挟まっていたのは、マーケティングに関するビジネス書だった。それも一冊ではない。
「これこれ」
眞桜子がテーブルに置いた本を見る。両方ともタイトルは片仮名だった。
「ロミオとジュリエット、は知ってるけど」
「シラノ・ド・ベルジュラックね」
「うん」
眞桜子は小さく頷いた。
「どっちも恋愛物で時代物の名作。これなら衣装にも凝れるから、目を惹きやすいかと思って。元々戯曲だから台本の構成もあまりいじらなくて済むだろうし、古典だから著作権も関係無い」
「そうだねえ。両方とも貴族の娘がヒロインだし、ドレスとかで華やかにいけるかも」
女子二人でうんうん、と頷きあう。慌てて遼太は嘴を突っ込んだ。
「俺、シラノとやらって、どんな話だか知らないんだけど」
「えー? こんな超名作を知らないなんて。オマージュとかも色々されてるのに」
白石が目を細めて見下してくる。それから面倒くさそうに教えてくれた。
「シラノ・ド・ベルジュラックは主人公の名前。フランスの古典名作だね。シラノは実在した詩人で、科学者で、剣豪で、なんか凄かった人なんだけどね。一つ、致命的な欠点があったの」
「欠点?」
「鼻があり得ないほど巨大でブサイクだった。それが原因で、好きだったロクサーヌって才媛を諦めている。で、もう一人、ロクサーヌに惚れている超イケメン、ただしおバカなクリスチャンって男が出てくるの。そこで二人で共同戦線を張るんだな。科白はシラノが考えて、それをクリスチャンがロクサーヌに告げて口説く」
「なんか、ネカマみたいだな、それ」
遼太が思ったことをそのまま口に出すと、二人にきっと睨まれた。肩をすくめて続きを促す。
「で」半オクターブ下がった声で白石が説明を再開した。「上手いことクリスチャンとロクサーヌがつきあい始めるんだけど、遠恋になっちゃうの。それから文通とかしてたんだけど、そのうち彼女は、顔なんかどうでも良いと言い出す。外見よりも才覚が大事。見た目ではなく魂を愛している、とな」
「はあ」
「そしたらショック受けてクリスチャンが死ぬ」
「急展開すぎだろ!?」
遼太は思わず突っ込んだ。しかし白石は唇を尖らせて、腰に手を当てた。
「端折ってるからそう聞こえるだけだよ。で、知性担当だったシラノだけが残る」
「んで、実は俺が……って真実明かしてハッピーエンド?」
「なんて都合良くはならないから名作なのだな、これが」
白石はそう言ってふふん、と笑った。
「ともかく、役柄としてはシラノ、滅茶苦茶格好良いんだよね。一途な純愛で、侠気にも溢れまくり。キュンキュン来るね、あれは」
「うん」
眞桜子が、遼太の方を横目で見ながら補足した。
「見に来た女子が主役に一発で一目惚れするかも」
「―――っ!」
遼太は思わず叫びそうになった。しかし何と吠えて良いのか判らなかった。眞桜子が冷たい目で見下ろしてくる。遼太は思わずにらみ返した。事情を解っていない白石が訝しげに首を捻る。
「でも、ちょっと微妙かなあ、とも思うんだよね」
一つため息を吐いて目線を外してから、眞桜子は話し始めた。
「主人公の生き様は格好良いけど、ちょっと最後がなあ。外見が悪いなかで、あの渋い心意気を理解出来るかどうか。中学生女子だと、もっと美男美女が織りなす甘々物語の方が良いのかもしれない。それと、時間に制限があるとストーリーを端折らざるをえなくなって、さっきの遼太みたいに置いてけぼりになりかねない」
如蘭祭では、劇は最長でも五十分まで、と決められている。演劇には二時間のものが多いので、どうしたってシーンを削ったり繋げたりすることになる。展開が駆け足になるのは避けられない。
「その点、ロミジュリならちょっとぐらい端折っても問題ない。お客さんが大体のストーリーを知ってるからね。見せ場にたっぷり時間を取れるし、キャッチィに出来る」
「知名度あると客も呼び込みやすいしね」
「それに、票も取りやすい気がする。二十四もある演目からわざわざロミジュリを選んで見に来るような子だよ? ストライクゾーンど真ん中に決まってるでしょ。逆に興味が無い客は敬遠するだろうからね。捨て客に無駄に席を取られなくて済む。……まあ、空席ばかりになっちゃったら本末転倒なんだけど」
「でも、ストーリーが判ってると、つまらなくない?」
遼太は訊いてみた。しかし眞桜子は目を閉じて首を横に振った。
「遼太、ロミジュリのストーリーを説明してみて」
「え? えっと……、ロミオとジュリエットが恋に落ちて……」
遼太は思い出そうとした。許されない恋だったことは知っている。結末ももちろん知っている。しかし。
「死ぬ」
「うん。死ぬね。死ぬ死ぬ」白石が頷く。「なんで?」
「……知らない。あれ? なんで?」
「次の質問。ロミオとジュリエット、以外の登場人物の名前を挙げなさい」
「……村人A?」
「最後の質問。二人の死因は?」
「二人で死ぬんだから、心中だろ。……えっと、溺死?」
「……多分、実在の作家か何かと混じってるんだと思うけど。そもそもロミオとジュリエットは後追い自殺であって厳密には心中じゃないから!」
白石が心底馬鹿にしたような目で見てくる。少し面白くなかったが、何も言い返せなかった。
「ほら見なさい」
眞桜子が唇の片方を吊り上げた。
「たしかにロミジュリは有名だし王道。感動的な結末の悲恋。でも、知られているのはそこまで。王道すぎて、中身をちゃんと知っている人は意外と少ない」
ぐうの音も出なかった。そもそも、二人の恋がなぜ許されないのかすら知らなかった。
「でも、二つ持ってきたってことは、こっちにも何か懸念があるんでしょ?」
白石が訊く。眞桜子は重々しく頷いた。
「ロミオ。格好良くない」
「そうなの?」
「メンタル弱い。女の尻に敷かれそう」眞桜子はずけずけと言った。「私だったら絶対惹かれない」
「……そうかなあ」
白石は反論した。けれど、矛先がずれていた。
「眞桜子、駄目な男の方が好きそうじゃない? こう、私が面倒見てあげなくっちゃ! みたいな」
「なんでそうなるのよ!」
「遼太君もそう思わない? 将来、ミュージシャン志望のフリーターを養っちゃいそうな感じするでしょ?」
「さあ……?」
遼太は目を逸らした。眞桜子が憤懣やるかたない顔をしていたからだ。せっかく仲直りできたのに、また機嫌を損ねては堪らない。
「眞桜子の男の趣味はともかく」白石はぽん、と手を合わせた。「たしかにちょっと気弱というか、筋が通ってない印象はあるけどね。でも、バルコニーとかラストとか見せ場はあって、素敵な台詞回しもある。文章で何度も読み返しちゃうと気になるけど、劇ならかなりいけるんじゃないかな」
白石の意見に、眞桜子は難しい顔で腕を組んだ。
「遼太はどう思う?」
「だから、ロミオの性格も知らないんだってば」
「そうか、そうだったね」
眞桜子が腕を組む。白石が勢い込んで言った。
「でも、やっぱりシラノの方が良いなあ。顔はともかく台詞が格好いいもん。それにロミジュリって、最後泣けるけど馬鹿っぽい」
「まあねえ」
眞桜子がぼんやりと言う。いつもより、口調がのんびりしている。
「それに、ロクサーヌやりたい! 絵に描いたような高嶺の花! 素敵インテリ美女!」
「それはむしろハードル高くない?」
「ジュリエットって十三歳なんだけど。私にロリキャラをやれと!?」
「十三!?」
遼太は少し驚いた。白石を上から下まで見る。かなり発育が良かった。色気が出過ぎているかも知れない。
「まあ、ちょっとイメージと違うかも知れないけど」
「仕方ないよ。高校生しかいないんだもん」
眞桜子が冷静に言う。
「去年の優勝作品、五歳の女の子の役もあったんだよ。ひらっひらの服着て舌っ足らずに喋って、歩き方もよちよちと」
「ほう」
「幼児が色っぽく男を誘うってギャグがあったんだけど、すごく綺麗な先輩が言っちゃったから全然笑えなかった。むしろ客席がシーンとなった。あの雰囲気は危険だった」
眞桜子が真面目な顔で言う。その時のことを思い出したのだろうか、顔が少し引き攣っていた。
「その点、ロクサーヌはもう少し年上でも、シナリオ上何の問題もないしね」
「そうだね。でも、ジュリエットを十七歳に変えちゃっても、話は成り立つから。別にほたるが無理にロリになる必要は無いよ」
それを聞いて、白石は少しほっとした顔になった。
「遼太はどっちが良い?」
「そうだな……」
遼太は眞桜子のことをじっくり観察しながら言った。彼女は遼太の方を真剣な顔で見ている。妙に気合いが入っていた。
「シラノは主人公の生き様が格好いいけど、知名度がない」
「うん」
眞桜子は表情を変えずに頷いた。
「ロミジュリは有名で解りやすいけど、ロミオがちょっと情けない」
「そうだね」
眞桜子がもう一度頷く。
「ロミジュリにしよう」
遼太は決断した。白石が唇を尖らせる。
「えー? なんでなんで!?」
「知名度は捨てがたいし、ロミオだって悪くないんだろ? 解りやすい方が良いって」
「……うん」
白石は少し不満そうだったが頷いた。それから、少し考えて、表情をぱっと切り替える。
「ま、ジュリエットも演劇部員冥利に尽きる名ヒロインだしね! がんばりますか!」
「そうだよ。ロミオよりジュリエットが要なんだから、あの劇は」
眞桜子が励ます。白石もにっこり頷いた。
「眞桜子」
「うん?」
「お前、ババ抜き弱いだろ?」
「……? そんなこと無いと思うけど。どうして?」
「いや……」
首を捻る眞桜子を尻目に遼太はテーブルに置かれた戯曲を手に取った。登場人物の欄を見る。主要なキャストはそこまで多くないようだ。目次を見てもシーンの数は少なく、如蘭祭用に構成するのも、あまり無理がなさそうだった。
「さて」
こほん、と眞桜子は咳払いをした。
「ジュリエットはほたるで良いとしても、ロミオを誰がやるのかという話」
「別にロミオに限った事じゃないだろ」
「まあ、そうなんだけどね。ああ、そうか。ほたる以外にもジュリエットをやりたいって娘がいるかも知れないのか」
「む……」
それを聞いて白石が眉をひそめた。
「まあ、演技力とか考えたらジュリエットはほたるになるでしょ。外見的には一ノ瀬さんとかも美人だけど、性格的にやらないだろうし。何ならオーディションやっても良いけど、結果は見えてる」
眞桜子はそう冷静な声で行った。白石が満足そうな顔になる。
「で、ジュリエットはそれで良いとして。いたいけな女子中学生をくるくる騙くらかしてがっぽがっぽと稼ぐには、ロミオのイケメン度が重要になってくるでしょ?」
「もう少し穏当な表現にしようよ!」
しかし遼太の訴えは無視された。
「そんなわけでロミオは遼太……」
眞桜子がじっと遼太の方を見つめる。その潤んだ瞳を、遼太はじっと見返した。二人でじっと見つめ合う。白石が咳払いをした。
「おう」
「じゃない方にします」
「……え?」
肩すかしを食らって、遼太は脱力した。眞桜子が無感動な目で見下してくる。
「何であんたなのよ」
「いや、こう流れ的に。ってか、あいつがロミオ? なんで!?」
「だって、あっちの方がイケメンだし。格好いいし」
眞桜子は極めて真剣な顔で言った。
「良い? 考えても見なさい。客は女子中学生。しかも、如蘭祭の数ある演劇の中からわざわざロミオとジュリエットを選んで見に来るような、乙女チックな、脳内お花畑の、純粋培養なお嬢さん」
「う、うん……」
頭の中でどんな客層なのか遼太は想像してみた。恐らく黒髪ロングの、地味な娘だろう。制服もきっちり着こなし、スカートは膝丈くらい。ちょっとファンシーなぬいぐるみを鞄にぶらさげていたりする。
「遼太が、そんな娘たちを一発で惚れさせられる?」
「……無理かも」
「でしょ。絶対、遼太より受けるのはあっち」
遼太は少し考えた。たしかに眞桜子の言うとおり、年下の女子に人気が出そうなのは遼太ではない。それは判っているのだが、どうにも釈然としない。
「それに、ロミジュリって殺陣っていうか、戦闘シーンがあるんだけど、遼太君出来るの? ただやれば良いんじゃないんだよ? 如蘭祭だと舞台と客席が近いから、しょぼいのやると無茶苦茶情けないよ?」
「……うう」
白石の指摘に、遼太は口ごもった。運動神経もあちらの方がかなり良い。今までにどんなスポーツでも勝てた試しがない。短距離走も球技も話にならない。
「む、向こうが肉体労働担当、こっちが頭脳労働担当なんだよ!」
「言うほど成績違ったっけ?」
「違わないけど! むしろ中間で負けましたけど!」
恥を忍んで遼太は告白した。しかし眞桜子はまったく気にも留めてくれなかった。成績優秀な彼女からすれば、どちらもどんぐりだろう。
「てなわけで、ロミオも決定ね。文句ある?」
「……ありません」
肩を落として遼太は頷いた。
「でも、適性はともかく、あいつが引き受けるかなあ……?」
「そこは説得次第でしょ?」
「俺が頼むと喧嘩になるんだよ……」
遼太はため息混じりに言った。白石が馬鹿にしたような目で見てくる。
「何なら私が頼んでみるけど」
眞桜子が横から言った。口が半開きになっている。呆れているようだ。
「悪い。頼む」
眞桜子はコップに残ったアイスコーヒーをすべて飲み干してから言った。
「もう、しょうがないなあ」
*
啓太は校舎から外に出た。いつもより鞄が重い。如蘭祭の脚本が入っている所為だ。実際に演じるための五十分に収まるように構成されたものだ。さらに原作の分厚い文庫本も読んでくるようにと渡された。
ホームルームでクラスの演目やキャストやスタッフの配置はほとんど決まった。有志による制作チームによるトップダウンの決定だったため、少し反発も出た。啓太としてはクラス全員で話し合いやら投票なんかをして無駄に時間を使うよりは、早く決まる方が良いと思っていたので文句はない。
結果として今年も主役を引き受けることになった。自分としては別段演技力があるとは思っていないのだが、去年もやったからだろうか。監督たちから名指しで指名された。クラスの綺麗どころ二人から上目遣いで拝むように頼まれては、下心はなくても断るのは難しかった。男子の性というものである。
下校時刻の中庭は酷く暑かった。六月の午後三時過ぎ。太陽は暴力的な日差しを照りつけている。中庭にはハイタッチをしているような珍妙な像があるが、彼らも心なしか暑そうに見える。
早く帰ろう、と歩き出すと、見慣れた姿が目に入った。体育館から出てきたジャージ姿は妹の凪だった。部活中なのだろう。一年の女子の一団に混じって何か話している。普段通りの無愛想な無表情だった。少し心配になったが、友人関係は問題ないようだ。ボールを持ったまま姦しく騒いでいる。
「あ、兄さん」
「よう」
凪は啓太より一つ年下で学年は違う。遼太もあわせて兄妹三人が同じ高校に通っていることになる。とは言え、羽々音高には兄弟姉妹で通っているケースはそれなりに多い。多分兄や姉の学校生活が充実しているように見えるからだろう。さすがに三人となると、他には聞いたことがないが。
「部活か?」
「うん」
凪はバレー部に所属していて、新エースとして期待されているらしい。自分も運動神経は悪くないつもりだが、遼太はインドア派で運動はあまり得意ではない。双子なのに不思議なものだ。
「凪さんのお兄さんですか?」
「うん」
凪にまとわりついていた一年の女子が話しかけてくる。啓太が普通に返事をすると、なぜか彼女たちはきゃっきゃっと興奮した。じろじろ見られてあんまり気分が良いものではない。
「じゃあな」
「うん」
平板な声で返事をする凪を尻目に、啓太は踵を返した。帰って台本を読まなくてはならないし、勉強だってしなくてはならない。
「いや、兄さん、彼女いるから」
東門を出るとき、背後から凪のよく通る声が聞こえてきた。そんなこと、明かさなくても良いのに、と啓太は少し思った。
*
「さて、どうしよっか?」
日曜の夕方。自由が丘だった。隣を歩く白石がそう問いかけてくる。その声は酷く嗄れていた。演劇部だというのにこんなに喉を酷使して良いのだろうか、と眞桜子は少し疑問に思った。
今日は昼まで古本屋でアルバイトだった。如蘭祭の準備のため、今日を最後に九月末まで休むと、店長とは話がついている。その後、白石と合流して遊んでいたのだ。
昨夜、突然白石から電話がかかってきた。理由は明かさないが、とにかく今日どうしても会いたいと言う。バイトの後に移動すると時間が遅くなるので、自由が丘まで来て貰ったのだ。
「そうだねえ。お茶するか、ゲームセンターでも行くか、はたまたウィンドウ・ショッピングか。そんなところじゃない?」
眞桜子は適当に提案した。自由が丘は高校生がわいわい馬鹿騒ぎするには、やや上品すぎる嫌いがある。個人的には渋谷や新宿よりは落ち着いていて好きなのだが。
「じゃあ、ゲーセンにしよう! プリ撮ろう! プリ!」
テンション高く白石が言う。普段から明るい性格だが、今日の様相は度を超していた。端から見ていて、やや痛々しく見えるほどだ。
昼に合流した後、とりあえずはファミレスで昼食を摂った。そこで眞桜子はひたすら白石の愚痴と泣き言を聞かされ続ける羽目になった。なんと、つきあい始めて一年ばかりになる彼氏と別れてしまったらしい。聞いた話を総合すると、振ったとも振られたとも言い難く、要するに喧嘩別れのようだ。きっかけは些細なことだったようだが、積もり積もった不満をお互いがぶちまけてしまい収集がつかなくなったように思われる。
その後カラオケに行ったが、歌ったのはほとんど白石だった。ストレス解消のつもりらしい。それで今、彼女の声が酷く嗄れているというわけだ。眞桜子も手拍子のしすぎて、手のひらが痛い。
狭い路地に面したゲームセンターに二人で入る。適当に筐体を選んで撮影した。白石がペンを片手に好き勝手に写真をデコレーションしている。その後ろ姿がちょっと怖かった。
振られるとはどんな気持ちなのだろうか。眞桜子は興味を覚えた。まだ一度も失恋したことがないため、どんな感情なのかよく判らない。例えばロクサーヌから事実上、異性としてまったく興味がない、と告げられたときのシラノはどんな気持ちだったのだろう。
「はい」
「ありがと……?」
プリントされて出てきたシールを白石と半分に分ける。二人の間にハートマークのスタンプが押され、その下に、友情は永遠、と赤い文字で大きく書かれていた。正直、少し背筋が寒い。
眞桜子はシールを見つめた。白石はとても美人だし、明るくて良い子だ。それでもこんな風に彼氏と別れてしまうなんて、ちょっと不思議だった。白石ほどの素敵な彼女がいたら、どんな手を使ってでも引き留めようとするのではなかろうか。まあ、一週間も経てば、あっさり仲直りしていないとも限らないのだが……。
ゲームセンターを出て、とりあえず駅の方に歩くことにする。バスロータリーに入ったところで、通りの向こうに知った顔を見つけた。それも一つではない。
駅の改札の正面、遼太と佐倉が並んで立っていた。喧噪の中で顔を近づけて、何事か話している。二人の前を次々と人が通り過ぎていく。場所からして、誰かを待っているのだろう。
「ね、あれって遼太君じゃない?」
白石も気がついたようだ。二人の方を指さす。眞桜子は戸惑いながら頷いた。
「う、うん。遼太はこの辺に住んでるから……」
「おーい!」
眞桜子の説明の途中で、白石は手を大きく振ってそう呼びかけた。眞桜子は慌ててその手を引っ張った。そのまま近くにあったビルの入り口に飛び込む。
「な、何してるのよ!?」
「え? だって、普通声かけるでしょ?」
白石はきょとんとして首を傾げそう言った。
たしかに、街中でクラスメイトを見かけて声をかけるのはおかしな事ではない。あまり親しくない相手なら少し気まずいかも知れないが、眞桜子も白石も遼太とは仲が良い。何も問題はなかった。
「だ、だって、一人じゃなかったじゃない」
「……うん? そうだった?」
眞桜子と白石はビルの入り口から顔だけ出して駅の方を窺った。先ほどの声に気がついた様子もなく、遼太と佐倉は話を続けていた。親密さが現れている距離感だった。とても楽しそうだった。
「誰あれ? 兄妹じゃないよね」
「うん。遼太たちは三人兄妹だからね」
「……なるほどなるほど」
白石が顔を戻し、にんまりと微笑む。
「たしかに邪魔しちゃ悪いね。……いや、むしろ積極的に介入した方が良い? するべきだよね!」
白石はその笑顔のまま、眞桜子の方を覗き込んだ。その頭に黒い角が生えているのが見えるような気がした。
「お願いだから、止めてあげて」
「でも、見覚えがない子だなあ。羽々音の生徒じゃないよね、多分」
「あれは佐倉先輩。藍山高校の人だよ。遼太とは幼なじみで、私とバイト先が一緒なの」
「先輩?」
眞桜子の説明に、白石は目を丸くした。その気持ちは解らなくもない。眞桜子だって初めて会ったときは、年上だと思えなかった。
「中学生みたいに見えるけど……」
「ああ見えて高三だよ。まあ外見が幼いのは否定しないけど」
「……ふうん」
白石はそう言って、また駅の方を覗く。気づかれないか、と眞桜子は少し心配したが、杞憂だった。二人は話に夢中のようだ。笑顔で談笑している。
「で、あれはつきあっているのかな?」
「違うよ」
眞桜子は短く答えた。
「おや」
「佐倉先輩は朝倉先輩の彼女なの。34Rの」
「……朝倉先輩ねえ」
白石が首を傾げる。それからまた駅の方を窺う。
「その割には……。っと、本当だ!」
「え?」
「朝倉先輩が出てきた」
眞桜子も壁から顔を出して遼太たちの方を見た。たしかに朝倉先輩が来ていた。先ほどより、遼太と佐倉の距離が半歩離れているのが見て取れる。
「……ほんとだね」
眞桜子は煮え切らない返事をした。ほとんど話をしたことはないが、なんとなく朝倉先輩が苦手なのだ。理由は自分でもよく判らない。
「よし、じゃあ、改めて声をかけよう!」
「なんでよ!?」
「だって、ちょうど良くない? その佐倉先輩だっけ? と朝倉先輩。眞桜子と遼太。でダブルデート」
にまにまと笑いながら白石は言った。その顔に向けて、眞桜子はこれ見よがしに溜息を吐いた。
「……ほたるが余るじゃない」
「私は四人をストーキングするから」
「なんでそうなるのよ」
「私のような寂しい独り身の哀れで惨めな女がデートだなど、畏れ多くてとてもとても」
「いきなりそこまで卑屈にならなくても。大体、私だって独り身だし」
「またまた」
「いやいや」
白石がまた顔だけ出して、三人の方を見遣る。眞桜子も様子を窺うことにする。三人は話を打ち切り、佐倉と朝倉先輩が並んで歩き出した。遼太は手を振ってそれを見送っていたが、やがて踵を返して歩き出した。
「あ、行っちゃった……」
白石が残念そうに言う。遼太が曲がっていった角をじっと見つめている。
どうやら、遼太たちは三人で行動するつもりでは無かったようだ。たまたま朝倉先輩と佐倉が離れているときに、遼太が行き会っただけなのだろう。
「追いかけようよ、眞桜子」
「何でよ」
眞桜子は思わず否定した。一瞬、言葉に詰まるがなんとか冷静な声を作る。
「……遼太にまで、ほたるの失恋の愚痴を聞かせるつもり?」
「む」
白石は下唇を噛んだ。
「……ううん、それはなんかやっちゃ駄目な気がする。こう、女として、何かを失うような」
それに、と白石は続けた。
「優しく慰められたりしたら困るしね」
「困る?」
「だって、友情が永遠じゃなくなっちゃうかも知れないじゃない」
白石はにやにや笑いながら言った。とても悪い顔をしていた。今日は心に余裕が無い所為だろうか。先ほどから発言がやさぐれている。
「まあ、眞桜子がそんなにも嫌だというなら、今日は止めておいてあげようかな」
どうしてそんなに上から目線で言われなくてはならないのだろうか、と眞桜子は思った。そもそも、今日は白石の憂さ晴らしに協力してあげている立場だというのに。
二人はそのまま隠れているビルの二階に入っているチェーンの洋菓子屋に入ることにした。休日の店内は混んでいたが、すぐに禁煙席に案内される。二人して紅茶とケーキを頼む。
遼太と顔を合わせずに済んで、眞桜子は正直ほっとしていた。今日は彼の顔を見たくなかった。彼が自分と話しているときにどんな表情をしているのか、確認したくなかった。
店員がやってきて、白いポットとカップと並べていく。二人ともアッサムだった。茶園は正直よく判らないので適当に選んだ。紅茶にはサービスで小さなクッキーがついていた。最後に小さなショートケーキが二つ置かれた。
「で」
注文が揃うのを待って、白石が話し出す。
「私、なんだか釈然としないんだけど」
「何が?」
眞桜子はポットからカップに紅茶を注いだ。それからミルクを加える。コーヒーはブラック派だが、紅茶はミルクティの方が好きだ。
「……眞桜子ってさ、大人びてるよね?」
「そう?」
「うん。頼れる女って感じ」
「それは老けてるってことかな。おばちゃんくさい? やだなぁ、その評価は」
「またそうやってはぐらかそうとする」
白石が唇を尖らせて睨む。素知らぬ顔で眞桜子は紅茶のカップに口をつけた。穏やかな薫りが鼻をくすぐる。
「こう、もっと自分に正直になって、言いたいことを言った方が良いんじゃないかと思うんだけど」
白石が真面目な口調で言う。しかし目が少し笑っている。どことなく、面白がっている雰囲気があった。
「……さすが、正直に言いたいこと言って、彼氏と喧嘩別れした人の意見は重みが違うね」
「ぐ」
眞桜子がばっさり切り捨てると、白石は変な声を出した。唇が引きつっている。さすがに辛辣すぎたか、と眞桜子は即座に反省した。
「あ、ごめん……」
「いや、本当のことだから良いけど」
そう言って、白石は胸に手を当てて大きく息を吐いた。
「眞桜子が良いなら、私が口を出す問題じゃないのは判ってるんだけどさ」
「多分、ほたるは何か勘違いしてると思うよ?」
眞桜子はそう言ってみた。しかし白石にはあっさり無視された。
「だって、あのさっきの人、朝倉先輩の彼女なんでしょ?」
「うん」
「ううん……」
白石は胸の前で腕を組んだ。
「よく分かんないなあ」
「何が?」
「私、遼太君に年下は合わないと思うんだよ」
眞桜子は溜息を吐いた。
「だから、年上なんだってば」
「ほほう」
白石の目が細められた。
「つまり、やはり、あの佐倉さんとやらと遼太君の間に何かあるわけだ。そして眞桜子は何故かそれを知っている」
「……」
眞桜子は唇を噛んだ。白石はにやにやと笑っている。迂闊だった。あまりに簡単に誘導尋問に引っかかってしまった。
「遼太君の元カノ?」
「知らない」
「それは知らないことにするって意味かな?」
「昔のことは本当に知らない。ただ、佐倉先輩と朝倉先輩がつきあいだして約二年だよ」
眞桜子は溜息混じりに言った。
「……ほお。結構長いね」
「ほたるよりはね。二倍ほど」
眞桜子が軽く毒を吐くと、白石は頬を引きつらせた。
「……そうやって、ちょくちょく突いてくるの止めてくれない? 結構、本気で痛いんですけど」
「自衛のためには仕方がないでしょ?」
眞桜子はそう言って微笑んだ。白石は気を取り直すように息を吐いた。
「仕方が無い。じゃあちょっと話題を変えて、どうやったら遼太君を振り向かせられるか考えよう?」
「どうやったらほたるがよりを戻せるか考えた方が良いと思うけど」
「……だからね? 今日ぐらい、もうちょっと優しくしてくれない?」
*
「じゃ、始めようか」
放課後の教室だった。24Rのキャスト他、十数名が集まっている。手にはそれぞれ真新しい台本を持っていた。つい二日前に完成して配られたものだ。
「では、まず監督からお言葉をどうぞ」
「……それ、必要か?」
「そりゃあ、皆の気持ちを一つにまとめてくれないと。名演説を期待してます」
白石の無茶振りに、遼太は不承不承立ち上がった。教室中の視線が集まっているのが判る。何だか面白がっている雰囲気だった。
「えっと、みんなで協力して良い劇を作り上げていきましょう! 目標は如欄大賞!」
「それだけ?」
白石が白い目で見てくる。遼太は素直に頷いた。そんな、いきなり振られても何を言ったら良いのか判らない。
「如欄大賞? 敢闘賞じゃなくて?」
乳母役の坂本が首を傾げる。
「そうだよ! 如蘭祭の歴史を塗り替えるんだ!」
「無理無理。三年が取るって」
「そこをひっくり返すから伝説になるんじゃん!」
冷めた反応に、遼太は思わず大声を出した。
「別にそんなこと考えなくても良くない?」
音響の亀井が顔をしかめながら言った。見るからに面倒そうだった。
「楽しくやろうよ」
「く……、冷めた奴らめ」
「遼太君が暑苦しいだけだと思うけど」
いきなり前途多難な出だしだった。まったくやる気が感じられない。遼太は助けを求めて眞桜子の方を見た。しかし彼女は涼しい顔で、ステンレスボトルに口をつけていた。
「だってさ、真剣にやらないと、結局楽しくなくない?」
「それはそうだけどさ。でも気合いを入れれば良くなるってものでもない」
「真面目じゃなかったら、良くはならないだろ」
ぱんぱん、と白石が手を叩いた。
「はいはい。もう良いから始めちゃおう。時間もったいないよ」
色々言いたいことはあったが、遼太は口を噤んだ。たしかに貴重な練習時間を浪費したくはない。部活や塾の合間を縫って調整しているのだ。
「そんなわけで、今日は初回なので、とりあえず読み合わせから。細かい部分はこだわらなくて良いから、一通り話の流れだけ確認しよう」
「あ、シーンごとの時間も計るから、脱線しないでね」
眞桜子が口を挟む。手にはスマホを持っている。ストップウォッチ代わりに使うようだ。
「準備は良い?」
一斉に頷く。眞桜子の合図に従って、ロレンス役の武藤が台本を読み始めた。
「花の都、ヴェローナの……」
ほとんど棒読みだった。教科書を朗読させられているみたいだ。練習初日だしまだ仕方がないだろう、と遼太は思った。
読み合わせは淡々と続いていく。演技というには烏滸がましいほどで、本当に流れを確認しているだけだ。ロミオとジュリエットが恋に落ち結ばれる。しかしその純真な想いが許されることはない。やがて、二人が死んで、最終幕が終わる。
「はい、お疲れ様でした」
白石がぽん、と手を叩く。一斉に弛緩した雰囲気が教室の中に流れた。思い思いに深い息をしたり、伸びをしたりしている。
「時間は?」
遼太は眞桜子に訊いた。如蘭祭は時間制限が五十分と厳しい。各教室でやっているので多少オーバーしてもお咎めはないが、休憩時間や公演回数にはダイレクトに影響してくる。
「えっとね、全部で四十五分くらい、かな」
眞桜子が手元のメモを見ながら言う。
「なんとか収まったか……」
「駄目だよ」
白石が眉を寄せて言う。唇を噛んで難しい顔をしている。その意味を聞こうとしたとき、坂本が割り込んできた。
「あのさー、コンビニ行ってきて良い?」
「は?」
「喉渇いちゃった」
悪びれずに坂本は片手で拝んでくる。遼太は声を低くして告げた。
「まだ練習中だろ?」
「良いよ。行ってらっしゃい」
しかし眞桜子は涼しい顔でそう言った。遼太は眞桜子の方を睨んだ。
「おい……」
「どうせぶっ続けで練習なんて出来ないよ。適度な休憩が高い集中力をもたらすの。勉強だってそうでしょ?」
眞桜子はそう言って、坂本にひらひらと手を振った。それを聞いて、女子が何人か連れだって教室を出て行く。その間際に、遼太に疎ましげな視線を残していった。
「そうは言ってもだな。こう、あるだろ? 現場の統制みたいのが」
「最初からそんなの作ろうとしない。勝手に出来上がるよ」
「あのまま放置すると、練習中に抜け出したりしそうで嫌なんだよ……」
遼太がそう言うと、眞桜子はじろりと睨んだ。いつもと違って、本気で怒っているようだった。
「そんなことにならないように、オン・オフの切り替えをちゃんと作ってあげるのが監督の役目でしょう。読み合わせが終わった段階で十五分休憩、って先に宣言しちゃえば済んだ話なの。遼太の言うところの統制とやらも取れるし、誰も不満に思わない」
ぐうの音も出なかった。言われてみれば、それが名案のように思える。
「ま、そんな話はさておき」
白石が首を回してから言った。
「時間、ヤバイね」
「なんとか収まってるじゃん。滑舌が良くなれば、もうちょっと縮まるんじゃないか?」
「全然駄目だよ」
白石は目を細めた。小刻みに首を横に振る。その度に長い黒髪がさらさらと揺れた。
「はっきり発音しようとすると、むしろ遅くなる。それに今のは読み合わせだから、台詞と台詞の間にあんまり間を取らないでしょ。演技が入ると全然違ってくるし、場面転換の時間も必要。どこか削らないととても収まりきらない」
「なるほどなあ」
むむ、と遼太は考え込んだ。この一週間、頭を悩ませながら脚本を構成していたが、なかなか上手くはいかない。
「ま、おいおい直していきましょう」
「……了解」
遼太はシーンの流れを思い出しながら、どこを削るか考え始めた。いくつか候補はあるが、話の流れが判らなくなっては困る。かといって見せ場がなくなっては本末転倒だ。
時計を見る。いつまで経っても坂本たちが帰って来ない。結局、三十分近く経ってからようやく教室の扉が開いた。
「遅いよ!」
「あ、ごめんごめん」
坂本が軽薄に謝る。それから紙パックのウーロン茶を音を立てて吸い込んだ。
遼太は、次からはちゃんと休憩時間を宣言しようと心に決めた。一同がまた席に着くのを待って、白石が口を開いた。
「で? 一度やってみての感想は? 別に難しく考えなくて良いから。単に思った事をどうぞ」
白石がそう呼びかける。しかし誰も何も言わなかった。その気持ちは解らなくもないが、このままでは話が進まない。なので遼太は一番遠慮しなくて良い相手を指名した。
「じゃあ、ロミオから時計回りで」
先ほどの経験から、どうも細かく指示した方がクラスメイトも動きやすいみたいだ、と遼太は理解した。監督として劇を作り上げるだけでなく、トップとして集団を運営もしなくてはならないようだ。正直なところ、あまりそういうことは考えていなかったが、もしかしたらこちらの方が余程大変かも知れない。今までに人の上に立つような役職に就いた経験はほとんど無い。
「え? そうだなあ。ロミオって、まだるっこしい。女々しいっていうか……。もっとちゃんとしろ、って言いたくなる」
「お前が言うなよ」
クラスが笑いに包まれる。演じた本人が一番豪快に笑っていた。
「はい、次」
「ロミオとジュリエットって、こんな話だったんだね、と。今日初めて知った。いや、死んじゃうのは知ってたけどね」
次に答えたのは亀井だった。しかし遼太はその発言が少し気になった。
「ちょっと待て」
「はい?」
「今日まで一度も読んでなかったのか?」
「うん。さっき初めてページ開いた」
悪びれずに亀井が言う。へらへらと笑っていた。
「いやいやいや。配ったの一昨日じゃん。一回くらい読んでおいてよ!」
「俺も今日が初めてだよ?」
武藤が少し申し訳なさそうに言う。
遼太は教室の中を見渡した。ばつの悪そうな顔をしている生徒が多い。
「はい、今日まで読んでいなかった人、手挙げて!」
メンバーのほとんどが読んでいなかった。読んでいたのはロミオとジュリエットの主役二人と、キャストではない遼太と眞桜子だけだ。
「もうちょっとやる気出そうよ! こんなんじゃ出来上がらないよ」
「後三ヶ月もあるじゃん。なんとかなるって!」
「三ヶ月しかないんだよ!」
クラスにまったく危機感が感じられない。思わず溜息が出そうになる。
羽々音高校では二年から三年はクラス替えがなく持ち上がりだ。そのため、三年のクラスは昨年のうちにとっくに演目も決まっていて、合唱祭直後から練習に入っていると聞いている。そもそも二年生はスケジュール的に不利なのだ。
「ま、どちらにせよ、これからどうにかするしか無いんだから」
眞桜子がさらりと言う。
「のんびり急いで進めましょう」
「意味が解らん」
「今さら慌てても、無駄」
眞桜子が横目で遼太の方を見てくる。ちょっと視線が怖かった。
「だいたい、遼太だって、ロミジュリのシナリオ知らなかったじゃない」
*
終業式の日だった。
今日で一学期は終わり、待ち望んだ夏休みに入る。通知表を受け取った際のリアクションは悲喜こもごもだったが、休みは皆に平等に与えられる。進学校である羽々音高校では、成績不振のための補習などという事態は聞いたことが無い。
眞桜子の成績はそんなに悪くなかった。テスト前に脚本の下調べをしていた割にはいつもと同じくらいの点数が取れていた。少し、時間の使い方が上手になったのかも知れない。
ちなみに遼太は頭を抱えていた。通知表を見せてはくれなかったが、大体想像はつく。テストを放置して脚本の構成をしていたのだから当たり前だ。本人もその辺りは覚悟の上だったのではないかと思っていたのだが、改めて数字にされるとショックが大きいのかもしれない。
解散になった後クラスで劇の練習をした。いつも通りに教室で行ったがあまり雰囲気は良くなかった。先週から読み合わせではなく、演技も入れて練習するようになった。しかしまだまだ問題点ばかりで、やらなくてはならないことがたくさんある。
「もう、なんなの! あいつは!」
坂本が大きい声を上げる。その高周波は眞桜子の耳に突き刺さった。思わず顔をしかめてしまう。耳を塞ぐのはなんとか我慢した。
駅近くのファミレスだった。白石が提案して、女子会が開かれる運びになったのだ。部活などの用事がある人以外、ほとんどのメンバーが集まっている。
「もう、ねちねち、ねちねちと。納豆か!」
「まあまあ」
隣に座っているキャピュレット夫人役のヒナが宥める。ただうるさいと思っただけかもしれない。
先ほどから坂本が遼太への不満をぶちまけている。言いたくなる気持ちも解らないでもない。今日の練習では、演技指導の集中砲火を食らっていたのだ。
「納豆って、ねちねちしてる?」
「どっちかってと、ねばねばだよね」
ドリンクバーのメロンソーダを飲みながら白石が言う。眞桜子は投げやりに同意した。
「あんたたちは被害にあってないから良いけどさあ」
坂本が二人のことを恨めしげに見る。眞桜子はキャストではないので指導されることはないし、演劇部の白石も何か言われることはまず無い。
「うん、まあ、そうだけどさ」
とは言え、坂本が執拗に言われるのは自己の責任に寄るところが大きい。主役級に較べれば大した量でもないのに、なかなか台詞を覚えてこない。発声練習をきちんとやっていないから、発音が明瞭ではなく早口になる癖がある。演技自体はそこそこちゃんとしているものの、基礎的な部分でまったく努力をしていないのは傍目にも明らかだった。それが判っているから、遼太の指導も厳しいものになるのだろう。
「ねー。ずっと言われ続けるのはきついよ。そんな、急には出来ないってのに」
ヒナも唇を尖らせて不満を口にする。こちらは台詞はしっかり覚えているものの、演技があまり上手ではない。元々役者向きの性格ではないのかも知れない。ところどころに照れが入ってしまうのだ。
「そりゃ、まだ台詞覚えていないあたしが悪いよ? でもさ、あんな言い方しなくて良いじゃん!」
坂本がまた吠える。しかし誰もコメントしなかった。目の前に、膨大な台詞をきちんと覚えて演技している白石がいるからだ。彼女はさっきからちょっと不機嫌そうだった。それが誰に向けられたものなのか、眞桜子には判断がつかなかった。
それにしても、と眞桜子は思った。坂本にしろ、ヒナにしろ、自分が出来ていないことは理解しているようだ。だったら真面目に練習すれば良いのだが、そう素直には出来ないところも解らなくもない。
「まあまあ、飲みねえ」
とりあえず眞桜子は酔っ払いにするようにグラスを差し出した。坂本はそれに乗っかって、グラスのコーラを一気飲みする。ぷはあ、と中年のように息を吐いた。
「つーかさ、監督、相手によって微妙に態度ちがくない?」
「……そうかな?」
眞桜子は首を捻った。指導が入る頻度はたしかに大きく違う。しかしそれは個々の実力に大きな差があるので仕方がないところではなかろうか。
「たしかにロレンスには甘くない? 武藤君も棒読み気味じゃん!」
ヒナが言う。
「そう?」
白石が首を傾げる。坂本がヒナに加勢した。
「うん、そうだよ。アイツ、男子には甘いよ」
ううむ、と眞桜子は内心で唸った。どうにもこの不満は簡単には収まりそうもない。
「そうだねえ」
わざとのんびりした口調を作って言う。二人の視線が集まるのを意識する。
「でも、ロレンスって、爺様だからさ。あれくらいの喋り方の方がむしろ味が出て良いのかもしれない。武藤君、おっさん臭いし」
それからアイスコーヒーをストローで吸う。雑味が酷いしかなり苦い。全然美味しくなかった。
「そう考えると、夫人とかって難しいよね。貴族だから丁寧で上品じゃなくちゃいけないし。かと思えば相手の家にはめっちゃ厳しいし。ギャップって言うの?」
「うん……。そうなんだよね」
ヒナが深刻そうな顔を作って頷く。まるで、主役を演じているような顔だった。舞台でもこれくらいやればいいのに、と眞桜子は思った。
「役どころがよく解らなくてさ」
「その辺、ちゃんと監督の意図を確認した方が良いかもね。本人の口から一度言わせちゃえば、あとからぐちぐち言われないでしょ?」
「そっか。うん! そうしてみる!」
「乳母もそうだよね。立ち位置的にジュリエットとキャピュレット家、どっちの味方なのか微妙でしょ?」
「うん。そこなんだよね」
「出番も切れ切れだしさ。難しいよねえ」
「そうそう」
坂本が頷く。眞桜子はほっと息を吐いて、続けた。
「だからさ、もうちょっと頑張って練習してみようよ。難しいけど、その分出来たとき格好良くない?」
二人が真面目な顔を作り、小さく頷く。どうやら納得してくれたようだ。
「でもさ、やっぱりロミオには甘いんじゃないかな?」
白石が口を挟む。眞桜子はすこし驚いた。彼女が不満を漏らすと思っていなかったのだ。
「……そう?」
「うん」
白石はコップに刺さったストローをくるくる回した。
「あんな肉食系のロミオは初めて見たよ」
「……そうだねえ」
眞桜子は頷いた。白石の意見はよく解る。あのロミオは堂々としていて、とても自信満々に映る。原作の、線の細い甘ちゃんっぽさがどこにもない。
「あれだと、ロミオって言うより、ヘンリー八世だね」
「……誰それ?」
ヒナが訊く。白石は不敵に笑って説明を始めた。
「おなじシェイクスピアの戯曲であるの。実在したイングランド王の歴史劇なんだけど。ヘンリー八世はそれはそれは剛毅な男で、文武両道、自信満々。肉食っぷりは凄まじく、なんと奥さんを六人も取っ替え引っ替え。ってか、最初の奥さんと離婚するためだけに宗教改革した」
「六人!?」
眞桜子は驚いた。しかし白石は人差し指を立てて左右に振った。
「しかも、世界初のメイド萌え」
「は?」
「二番目と三番目の奥さんは、王妃の侍女だったんだよね。それを気に入っちゃって。別れて再婚別れて再婚」
「……うわあ」
眞桜子はどん引きした。そんな王が実在したとはまったく知らなかった。
「と、いう風に見えるんだけど、どうかな?」
「いや、そこまでは……」
「でも、ロミオのイメージとちょっと違うでしょ?」
むむ、と眞桜子は考え込んだ。白石の指摘は的を射ているように思う。
「多分、遼太君も気がついていると思うんだけどな。そこんとこ」
眞桜子は少し考えた。たしかに遼太はあまりロミオに演技指導をしていない。一番、気を遣わなくて良い相手のはずなのに、である。
「えっとね、多分、喧嘩になるからだと思うよ。言わないの」
「はい?」
「自分が注意すると身内で喧嘩になって、練習に支障が出ると思ってるんだよ、多分」
「でも、それだといつまでもそのままなんじゃないの?」
ヒナが訊く。眞桜子は首を横に振った。
「家で言うつもりなんだと思うよ。思う存分喧嘩できるように」
「……そうかなあ」
ヒナと坂本が首を傾げる。白石は力強く言った。
「まあ、直らないようだったら、私から言うよ」
「ごめんね、頼りにしてる」
眞桜子がそう言って手を合わせると、白石はちらりと目配せした。突然だったので、眞桜子は思わずぱちくりと目を瞬かせた。
「ちょっとごめん」
隣に座った白石が眞桜子に言う。ドリンクバーに行くようだった。自分もミルクを取りに行く、と言って立ち上がる。コーヒーが不味すぎて我慢がならなかったのは、嘘ではない。
「眞桜子、天才だね」
「……何が?」
ジンジャエールをグラスに注ぎながら白石が言う。眞桜子はとぼけてみた。
「いやはや。眞桜子だけは敵に回したくないなあ。でも、敵に回ってても私、気がつかなさそう。判ったときには背後から刺されてるな。いや、刺されて初めて手のひらの上で踊らされていたと気がつくのか」
「……私のことを何だと思ってるかな?」
苦笑しながら眞桜子は訊いた。グラスを手に取りながら、白石はにやりと笑った。
「クラス一の、お人好し」
*
「ただいま」
啓太は夏期講習から帰宅した。もう夜の十時過ぎだが、真夏の都内はまだとても暑い。重い鞄を運んでいることもあって、かなり汗をかいてしまった。何か冷たいものでも飲もう、と直接キッチンに向かう。
その途中、リビングには遼太がいた。背を丸めて熱心に書き物をしている。テーブルには本が何冊も積み上がっていた。
遼太はテスト前になるとよく、こうやってリビングで勉強している。自室にいると誘惑が多く集中出来ないのだそうだ。そもそも勉強出来るほど机が片付いていることも稀だ。
はて、と啓太は疑問に思った。もう夏休みに入っているが、七月のこの時期に遼太が宿題に取りかかるわけがない。典型的な、八月三十一日になってからようやく腰を上げるタイプなのだ。全部終わるのは、大抵九月になってからだ。
過去には何度も、やったものがあったら写させてくれ、と懇願されている。そんな人生を舐めきっているような弟だが、要領は良いのか成績は決して悪くない。
後ろを通りながら、遼太の手元を盗み見る。やはり勉強をしているのでは無かった。如蘭祭の台本を開いて何かメモをしている。練習中にとったのだろうか、走り書きのようなものや、その改善案などが詳細に書き込まれている。赤や青などカラフルになっていた。以前、遼太のノートを見たときはほとんど黒一色だったことを思い出す。
積み上げているのも演劇の本ばかりだった。図書館で借りてきたのだろうか。シェイクスピアについての書籍もある。付箋が大量に貼り付けられていて、何度も読み返したのが見て取れた。
啓太は少し感慨深く思いながらキッチンに入った。すると凪が身を潜めていた。手にはスマホを構えている。遼太の方を窺っているようだ。
「ただいま」
「お帰り」
冷蔵庫を開けながら啓太は訊いた。漏れ出てくる冷気が心地よい。
「何やってんの?」
「しー」
凪が唇に指を当てる。それから画面を何度かタッチした。その度にシャッター音が鳴り響く。どうやら遼太を盗撮しているようだった。
「なんで遼太なんか撮ってるんだ?」
「あんな真剣な顔をしているのは、珍しいから」
冷えた麦茶を見つけて啓太はグラスに注いだ。それから一気に呷る。冷たい液体が喉を通るのが堪らない。
「だって、そんなの見たって嬉しくないだろ?」
「私はね」
そう言って、凪は満足そうにキッチンを出て行った。意味が解らない。
「はて」
グラスをシンクに置く。首を傾げながら遼太はキッチンを出た。そのまま階段を上り自分の部屋に向かう。
啓太が帰宅してからリビングを出るまでの間、遼太は一度も顔を上げなかった。
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