ロクサーヌの簪 -The only neat thing to be jilted-

葱羊歯維甫

第1話 臆病なシラノの懇願 -Entreaty of Unfeathered Syrano-

     ―――

     さあ、取れ、取るがいい! だがな、貴様たちがいくら騒いでも、

     あの世へ、俺が持って行くものが一つある。それも、今夜だ、

     神の懐に入るときにはな、俺はこう挨拶をして、青空の門を

     広々と掃き清めて、貴様らがなんと言おうと持って行くのだ、

     皺一つ、染み一つつけないままで、それはな、わたしの……心意気だ!


          (シラノ・ド・べルジュラック/ロスタン)




「それで?」

 藤崎眞桜子はそう訊いてきた。

 細面の顔は少し俯き気味で、上目遣いにちらちらと覗き込んでくる。今日は地味な制服をきっちりと着こなしていた。茶色に染めた長い髪はいつも通り背中に垂れている。

「話ってなに?」

「あ、その、だな」

 遼太は右手で頬を掻いた。ローテーブルに置かれたカップを手に取る。中に入ったカフェラテを一口すする。真似をするように眞桜子もカップを手にした。

 自由が丘のバスロータリーに面した、シアトル系のカフェだった。二階の窓際のソファ席に向かい合って腰かけている。時刻は午後の十時過ぎ。お洒落な雰囲気の店内に客の姿は疎らだった。ゆったりとしたテンポのジャズが流れている。

「あちっ」

 眞桜子はそう言ってカップを口から離した。

「どうした?」

「火傷したかも……」

 口を開けたまま、不明瞭な発音で眞桜子はそう言った。桜色に色づいた唇の間、ぬらぬらと光る赤い舌が見えて、どこか艶めかしかった。

 彼女は猫舌だと聞かされた覚えが遼太にはあった。熱いものを口にするときはいつも、念入りに冷ましてから運んでいた。だからこんな失敗をする姿を目にするのは珍しい。

「大丈夫か?」

「うん……」

 遼太は立ち上がって、階段近くのテーブルに向かった。半透明の容器にお冷やが入っている。チープなプラスチックのコップに水を汲んで席に戻る。眞桜子の前にコップを置くと、彼女は照れたように微笑んだ。眉が下がり、大きな目が優しく細められる。

 眞桜子がコップを口に運ぶ。それを見ながら遼太はこっそり深呼吸をする。用意してきた科白を頭の中で二度繰り返す。

「その、頼みがあるんだ」

 眞桜子がコップを置いたのを確認して、遼太は意を決して切り出した。

「う、うん……」

 遼太の緊張を感じ取ったのか、眞桜子も表情を引き締めた。スカートに包まれた膝の上で、きゅっと両手を握っている。

 眞桜子とは一年の時から同じクラスだった。読書という共通の趣味があったためだんだんと仲良くなった。よく気に入った本を交換しては感想を言い合っている。共感することもあれば、視点の違いに驚くこともあった。そのすべてが新鮮で、楽しい時間だった。

 唾を飲み込む。上目遣いで覗き込んでくる眞桜子に、意を決して遼太は言った。自然、声が大きくなる。

「文化祭で優勝したいんだ!」




     *




「遼太君!」

 渋谷のレストランだった。制服姿が男女合わせてきっかり四十人。二年四組の合唱祭打ち上げは、学年優勝という肴によって大いに盛り上がり、会がお開きになってもまだ興奮冷めやらぬ様相だった。時間が過ぎても中々出ていかない客に、店員が少し迷惑そうにしている。

「遼太君も二次会行くでしょ?」

 白石ほたるが長い黒髪を揺らしながらそう訊いてくる。

 名前で呼ばれているが、別段深い仲というわけでもない。ただ単に、双子が同じクラスにいるので名字で呼ばれるとややこしいというだけの理由だ。幸いなことに二卵性でちっとも似ていないので、間違えられることはない。その片割れは、まだ店の奥で数人の男子と大声で笑い合っていた。

「あ、俺はちょっと……」

「えー?」

 白石が頬を膨らませて不満の意を明確に表した。指揮者という大役を見事に務めあげた功労者は、テンションが最高潮のようだった。

「なんでよー!?」

「ちょっとな」

 白石を宥めながら遼太は店内に視線を巡らせた。すぐに目当ての姿を見つける。他の女子と談笑しながら店を出ようとしているところだった。

「眞桜子!」

 大きな声で呼びかけながら遼太は歩き出した。眞桜子は少しの間きょろきょろとしていたが、遼太が近づいているのに気がついて首を傾げた。

「どうかした?」

「悪い、ちょっと……」

「えっ、えっ?」

 遼太は眞桜子の腕を引いて外に出る。眞桜子は最初は戸惑っていたが、すぐに自分でついてきた。店の前でたむろしていたクラスメイトから離れ、小さい声で問いかける。

「あのさ、この後時間あるか?」

「この後?」眞桜子が眉を顰めた。「二次会に行くつもりだったけど」

「それ、キャンセルしてくれない?」

 遼太の言葉に眞桜子は目をぱちくりと瞬かせた。

「それって」

 眞桜子が少し恥ずかしそうに下から顔を覗き込んでくる。普段よりも距離が近い。

「大事な話?」

「ああ」

「二次会じゃあ出来ない話?」

 遼太は無言で頷く。

「二人でしたい話?」

「ああ。他の奴には聞かれたくない」

「……へえ。それはそれは」

「頼む」

 遼太が小さく頭を下げると、眞桜子は少し赤らめた顔で笑った。

「もう、しょうがないなあ」




     *




「……で?」

 ひどく冷たい声だった。二酸化炭素くらいなら固体に昇華しそうだった。

「いや、だから……」

「文化祭で優勝したいと?」

「……そうだよ。解ってるじゃん」

 先ほどから眞桜子の目が細められている。しかしさっきと違って眉はつり上がっている。体勢も前屈みだったのが、ソファにふんぞり返るように変わっていた。

「合唱祭が終わって、練習の甲斐あって優勝して、打ち上げが大いに盛り上がって、さあ二次会に繰りだそうかというところを連れ出して、二人だけじゃないと出来ない話だって言ってて」

 眞桜子はそう言いながら足を組んだ。紺色のハイソックスと黒いローファーが小さく弧を描く。

「で、その話が、文化祭で優勝したいと」

「ああ」

 遼太の返事に、眞桜子は無言で目を閉じ額に手をやった。奥歯が噛み締められているのが頬の動きで解った。そのまま微動だにしない。

 遼太はカップを手に取った。眞桜子の言葉の所為ではないだろうが、カフェラテは冷め切っていた。苦みが増した液体を飲み干す。

「眞桜子?」

 しばらく待っても眞桜子が何の動きも見せないので、遼太はそう小さく問いかけた。眞桜子はこれ見よがしにため息を吐いてから、目を開いた。

「まあ、頑張れば優勝出来るんじゃないかな。合唱祭だって、ちゃんと結果は出たわけだし。メンバー的には十分優秀でしょ」

 投げやりに眞桜子は言った。視線は窓の外に向けられている。窓の外は暗く、店内の様子がうっすら映っている。その向こうに、閑散としたバスロータリーが見える。

「お前は勘違いをしている」

「はい?」

 遼太の言葉に眞桜子はやっと視線を合わせた。その訝しげな瞳に向かって遼太は高らかに言った。

「二年でトップになりたいんじゃない。欲しいのは敢闘賞じゃなくて、如蘭大賞!」

「ええと……」

 眞桜子の顔があきれ果てる。不機嫌さを隠しもしない声で確認した。

「つまり全学年込みで、優勝したいってこと? 三年を上回って」

「ああ」

 遼太は深く頷いた。しかし眞桜子はもう一度ため息を吐いてから、冷徹な声で言った。

「無理」

「なんで!?」

「無謀。ってか、無駄」冷たい声で眞桜子は続けた。「三年には勝てないよ。今日の結果見たって判るでしょ?」

 遼太たちが通う都立羽々音高校は一学年八クラス、学校全体で二十四クラスになる。採点方法こそ異なるものの、合唱祭でも文化祭でも全クラスが学年に関係無く順位付けされる。

「一位から八位までが三年生。二年は九位から十六位。一年はその下。去年もそうだった。その前は知らないけど、調べるまでも無いよね」

 眞桜子はカップを手に取った。一口飲んでからゆっくりと含めるように言う。

「一年の差は大きいよ。いや、一年間っていうより、一回分の差なのかな。ノウハウの蓄積が違うし、スケジュール的にも有利。三年なら最後の思い出になるからモチベーションも段違い」

「そうだけど!」

「それとね」

 遼太の反駁を無視して、眞桜子は静かに続けた。

「何より、見ている客の認識が違う。三年の方が面白いに決まってる。見ている側にその期待感があるかないかっていうのは、多分とても大きい」

「そうかも知れないけど!」

 遼太は眞桜子の言葉を遮った。

「それでも、優勝したいんだよ……」

 眞桜子の目をじっと見つめて遼太は言った。視線を避けるように、眞桜子はまた窓を見た。

「希望は解った。やる気があるのもね。でも現実はそんなに甘くない」

 眞桜子は足を組み直した。ソファの肘掛けに肘をつき、顎を手のひらに載せた。少し頬が膨らむ。

「そもそも、なんでそんなこと考えたのかが解らない。別に大賞なんて獲らなくても良いじゃない」

「そんな冷めた生き方しなくても。斜に構えるの、かっこ悪いぞ!」

「あ、いや。やる気が無いわけじゃなくてね。義務じゃないから協力しない、なんて言うつもりはない。一所懸命やって良い劇作って、それでたくさんの票が入ったら良いな、とは思ってる。でも、二年生のクラスの最終目標が如蘭大賞で、死ぬ気で頑張ろうって言われると、それはちょっと違うんじゃないかな」

 羽々音高校の文化祭、如蘭祭では全クラスが教室で演劇を上演することになっている。来場者はパンフレットについた用紙に、気に入った演目を記入し投票する。得票数によって順位は明確に決定され、一番票を集めたクラスに如蘭大賞が与えられるのだ。それとは別に、二年でもっとも良かったクラスに敢闘賞、一年には新人賞が制定されている。

「敢闘賞を目指したいっていうなら話は解るし、協力だって惜しまない。みんなで協力して頑張って、結果がどうなるか判らないけど、終わったらまた楽しく打ち上げして。それに何の不満があるの?」

「それじゃ駄目なんだよ!」

 遼太は思わず大きな声を出した。ぱちくりと眞桜子は眼を瞬かせた。そして冷静に口を開く。

「だから、その理由をさっきから訊いているんだけど。どうして如蘭大賞じゃないといけないの?」

「それは……」

 遼太は言い淀んだ。眞桜子が真っ直ぐに見つめてくる。その少し潤んだような黒目がちの瞳を直視できず、遼太は壁を見遣った。しかし眞桜子はじっと待っている。その視線に急かされるように、遼太は口を開いた。

「如蘭大賞っていうか、34Rに勝ちたいんだ。勝たなくちゃいけないんだ」

「34?」

 眞桜子が鸚鵡返しに訊く。遼太は小さく頷いた。

 羽々音高校では学年とクラスを二桁の数字で表し、後ろにRをくっつける慣習がある。なので34Rとは三年四組のことだ。遼太たちの二年四組は24Rと呼ばれる。

 眞桜子が虚空を見つめて考えている。遼太はカップを手に取ったが、中身が空だったので何もせずにテーブルに戻した。飲みかけの、眞桜子のカフェラテの表面が小さく波打つ。

「34Rって、つまり朝倉先輩に勝ちたいって事?」

 眞桜子がぼそりと言う。いつの間にか、遼太に視線を戻していた。緊張しながら、遼太は頷いた。

「ああ」

「なんで?」

「……なんでも」

 視線を逸らし、小声で遼太は答えた。

「……ふむ」

 眞桜子はまた考え込む。こめかみに指を押し当て、こねくり回していた。

「別に遼太、先輩と仲が悪い訳じゃないでしょ?」

「うん」

 眞桜子はまたため息を吐く。細い腕が胸の前で組まれた。ドキドキしながら遼太は眞桜子の言葉を待つ。

「ひょっとして、そうだと思いたくないけど、もしかして」

 眞桜子が蔑むように言う。

「佐倉先輩がらみ?」

「……」

 咄嗟に返事が出来なかった。しかし表情だけで眞桜子は察したようだった。口が半開きになる。組まれていた腕が解かれ、また額に手をやる。

「朝倉先輩と佐倉先輩が付き合いだしたっての、いつだったっけ?」

「……一昨年の九月二十三日」

 二年前の如蘭祭の日。

 遼太は今でも思い出せる。

 恋に落ちた相手が、恋に落ちた瞬間を。その頬を染めた横顔を。開いたまま閉じられない口を。ハートマークが浮かんだようなキラキラと輝く瞳を。まるで昨日の事のように思い出せるのだ。

「けっこう前だね」

「ああ」

 言葉少なに遼太は答える。しかし眞桜子は追及の手を緩めなかった。

「大体、なんで私にだけそんな話するの? クラスのみんなに言わなきゃ意味が無いじゃない」

「だって、いきなりそんなこと言い出したら、みんなにどん引きされるだろ?」

「私だってどん引きするわよ!」

 眞桜子は被せるようにそう言った。彼女がこんな風に声を荒げるのは珍しい。負けじと遼太は眞桜子の方を拝んだ。

「頼むよ! お前しか頼れる奴がいないんだよ!」

「そりゃ佐倉先輩がらみならそうでしょうよ」

 眞桜子はため息混じりにそう言った。

「クラスで佐倉先輩のこと知ってるのって、私とあんたと、あんたの分身くらいでしょ。先輩は違う高校なんだから!」

「そうだけど、それだけじゃねーよ」

「何が」

 眞桜子は気が立った声で言った。横目で、睨むように遼太の方を見ている。

「あの二人のことはクラスに言う必要ないじゃん。ただ、クラスを優勝に導くのに、眞桜子の力が必要なんだよ」

「何で」

 遼太は眞桜子の目をじっと見て言った。

「仲良いから。頭良いから。読書家だから」

「意味分かんない」

 眞桜子はぷいっと横を向いてしまう。今日は頬に控えめなチークが乗っていた。尖っている唇も薄い桜色が差してある。

「お願い!」

 遼太は眞桜子の方をもう一度拝んだ。彼女はちらちら遼太の方を窺っている。一年のときからのつきあいだから、機微はもう大体判っている。このまま頼み込めば、押し切られてくれそうな雰囲気だった。

 しばらく眞桜子は考えていたが、急に立ち上がった。

「……ちょっと失礼」

 眞桜子は紺色のスクールバックから小さなポーチを取り出した。それから店の奥に向かっていく。遼太は何も言えずにそれを見送った。

 先ほどカフェラテを飲み干したばかりだというのに喉が渇いていた。席を立ち、お冷やを汲んで戻ってくる。唇を湿らせるようにして口をつけた。しかし、ちっとも落ち着かない。つい、眞桜子が消えていった扉の方を気にしてしまう。

 しばらく待ったが眞桜子はなかなか戻ってこなかった。遼太は店の中をゆっくりと見渡す。閉店間際のカフェに残っている客は、もう遼太たちだけだった。店員も二階の客席には姿が見えない。

「お待たせ」

 たっぷり十五分は経ってから、やっと眞桜子が戻ってきた。

「……遅かったな」

「デリカシーって言葉、知ってる?」

「その手のスマホは何だよ!」

「女子の生命線」

 しれっと言ってから、眞桜子はソファに座った。また足を組む。短いスカートの裾から白い太ももがちらりと覗いて、遼太は目をそらした。

「さて、事情はなんとなく、朧気に、大体は理解したけど」

「どこからだよ!」

「もうこんな時間なので今日は帰ろっかな。門限も危ないし」

 眞桜子の視線を追いかける。壁に掛かったモダンな時計は、もうすぐ十一時になろうとしていた。

「お前の家、門限無いよね?」

「あらあら。こんな、嫁入り前の娘さんを帰らせまいとしようとするなんて」

 眞桜子はそう言って、今日一番の殺気を放った。

「遼太にそんな甲斐性があるなんて、知らなかったよ」




     *




 啓太はふらふらと道を歩いていた。時刻は午前零時過ぎ。深夜の住宅街は静まりかえっていた。街灯が細切れに通りを照らしていて、毎日通っている道と同じだとはとても思えない。こんな時間に出歩くことはまず無いので、ちょっと新鮮だった。

 見事に優勝を勝ち取ったおかげで、合唱祭の打ち上げは大いに盛り上がった。一次会はファミレスで馬鹿騒ぎ。二次会と称して日比谷公園に移動した。途中のコンビニで酒類とスナック菓子を買い込み、車座になって大宴会となった。こんな風に馬鹿騒ぎに興じるのも久しぶりだった。散々騒ぎまくった挙げ句、終電の時間でようやくお開きになった。

 家の前に着く。いつものように財布から鍵を取り出し、錠に差し込もうとするが上手くいかない。鉛のような手を何とか動かし、四度目でようやく鍵穴に差し込んだ。

「ただいまー」

 中に声をかけながら靴を脱ぐ。指に力が入らず、うまく靴紐がほどけない。苦労しながら足を引き抜く。

「お帰り」

 リビングに入ると遼太がいた。髪が濡れているから、風呂から出てきたところだろう。啓太のことを胡乱げに見ている。

 はて、と啓太は疑問に思った。自分で直接見たわけではないが、遼太は二次会には行かず夜の街に女子と消えていったと連絡を受けている。一次会が終わったのが十時。それから二時間しか経っていない。しかしもう風呂から出てきているということは、帰宅してからかなりの時間が経過しているはずだ。

 じっと遼太の方を見る。合唱祭の結果は良かったのに、なんだか不機嫌そうだった。

「遼太」

「なんだよ」

「ま、あれだ。気を落とすな」

 啓太は遼太に話しかけた。遼太と違って彼女がいる身としては、失恋したばかりの弟を慰めなくてはいけない。そんな義務感に駆られたのだ。

「は?」

「女子なんて星の数ほどいる。大丈夫だ!」

 遼太の目線が鋭くなる。その肩に啓太は手を置いた。

「お前、酔ってるだろ?」

「大丈夫だ。人生は長い」

 啓太は遼太の顔を覗き込んだ。

「すぐに良い女子が現れるって」

「うるせーよ!」

 遼太が突然、腕を振り上げた。思い切り肩を押されて啓太は尻餅をつく。フローリングの床に強かに打ちつけ、尾てい骨が痛む。

「遼太?」

「ちっ」

 遼太は舌打ちをして階段を早足で上っていった。足音がどたどたと響く。やがて乱暴にドアを閉める音が聞こえて来た。

 啓太は少し驚いていた。頭の血液がすっと降りてきたような気がする。

 遼太は温厚な性格で、暴力を振るったりすることはまずない。本気で声を荒げることも珍しく、こんな風に怒鳴られたのは何年ぶりか判らない。

 リビングに座り込んだまま、自分の言動を思い返してみる。考えてみれば、自分が上機嫌だったとはいえ、さすがにデリカシーが足りなかったかもしれない。

 明日にでも何かフォローをした方が良いだろうか。そんなことを考えながら啓太は立ち上がった。




     *




「眞桜子ちゃん!」

 呼びかける佐倉の声に気がついて、眞桜子は読んでいた文庫本から視線を上げた。小柄な先輩がにこやかに手を振りながら近づいてくる。それを認めて、眞桜子は鞄の中に本を放り込んだ。

「ごめんね、遅くなって」

「いえいえ。私がお願いしたんで。お忙しいところ、お呼び立てしてすいません」

「良いよ、別に。どうせ帰り道だし」

 待ち合わせをしていた電器屋の前から二人して歩き出す。夕方と呼ぶにはまだ早い時間、渋谷はいつも通り混み合っていた。二人と同じような制服姿も目に付く。差し出されるポケットティッシュを無視して、階段を上りマクドナルドに入る。店内はかなり混み合っていた。適当に飲み物を頼んで、二人は向かい合って座った。

「それで、話ってなあに?」

「えっとですね……」

 縦縞のストローを咥えながら眞桜子は考えを整理した。

 佐倉は眞桜子のバイト先の先輩だが、高校は別の藍山高校に通っている。眞桜子が古本屋でバイトを始めたとき、先輩として仕事を教えてくれたのが佐倉だった。しかし三年生になった四月からはバイトを辞め、受験生として勉強に勤しんでいる。しかしその後も、なんだかんだと交流は続いている。

 佐倉は遼太たちとは家が近く、幼なじみだそうだ。小さい頃から一緒に遊んで育ったらしい。遼太には内緒だが、幼いときの写真も見せて貰ったことがある。今の姿からは考えられないほど愛らしかった。

「昨日の夜、電話でちょっと話したことなんですけど」

「うん、文化祭の話だったよね?」

 丸顔が傾げられる。そのあどけない姿は、眞桜子より年上なのに中学生にしか見えない。小柄なうえにかなりの童顔なのだ。しかも少女趣味でファンシーなグッズを身につけているのでその印象に拍車がかかる。今日も鞄からはミッキーとミニーが仲良くぶら下がっていた。

「文化祭っていうか、劇の話なんですけど。ぶっちゃけ、良い劇ってどうしたら出来ますかね?」

 眞桜子は予定していた通りに話を進めた。

 佐倉は演劇が大好きで、よく観劇をしていると聞いたことがあった。部活も演劇部だったし、藍山高校に進学したのも文化祭が有名だから、という理由らしい。

「うーん、難しいなあ、そんなこと急に言われても」

 佐倉は眉を寄せて考え込んだ。難しい顔をしているが、幼女が困っているようで愛らしい。全体的に苛めたくなるようなオーラが漂っている。

「お願いしますよ。今年は優勝狙ってるんで」

「あ、そういえば合唱祭、学年優勝したんだって? おめでとう!」

「ありがとうございます」

 ぱちぱち、と手を叩く佐倉に、眞桜子は芝居がかった仕草で頭を下げた。

「行きたかったなあ。どうして平日にやるかなあ」

「佐倉先輩が見たかったのは、うちのクラスじゃなくて朝倉先輩でしょ?」

 眞桜子がそうからかうと、佐倉はつい、と視線を逸らした。少し頬が上気している。

「そ、それはそうだけど。でも、眞桜子ちゃんたちの歌も聞きたかったよ!」

「はいはい。ごちそうさまです」

 ぷくっとふくれた佐倉を尻目に、眞桜子はアイスコーヒーを飲んだ。佐倉もストローを咥える。縦縞の円柱の中を、オレンジジュースが吸い上げられていくのがうっすらと見えた。

「で、終わったことは良いんですけど。今度は如蘭祭の方でして」

「あ、うん」

「こう、見たお客さんが一発で惚れてしまうようなのは、どうやったら出来るのかと。こう、うっかりと主演俳優とおつきあいしてしまうような」

「うく」

 眞桜子の言葉に、佐倉は変な声を出した。目を白黒させている。

「ああ、やっぱり。それがきっかけだったんですね?」

「そうだけどっ!」

 一瞬で真っ赤になった佐倉を見ながら、眞桜子は自分の予想が当たったことに頭を抱えていた。きっとこのことを遼太は知っていたのだろう。

「大体ねえ。私はそのときお客さんだったんだから。作った方に訊いた方が良いんじゃない?」

「と、言われましても。私は朝倉先輩と仲良いわけじゃないですし。それに、学年は違えど、同じ土俵で戦う以上ライバルなんで」

「敵に塩を贈るって言葉もあるよ?」

「あれ、良い話になってますけど、贈られた方は屈辱だと思うんですよね」

 しれっと眞桜子は言った。それから佐倉のことを仏様のように拝む。昨日、遼太から散々向けられたのと同じポーズだった。

「そこで、頼りになるのはやっぱり佐倉先輩かなあ、と。演劇にも造詣が深いですし。こんなこと頼めそうなの、先輩くらいしかいないんですよ、ホントに。やっぱ劇とかの、知識が豊富な人に訊かなくっちゃ。演劇で有名な藍山高生で、しかも演劇部でもありますし」

 立て板に水の言葉に、佐倉は満更でも無さそうな表情を浮かべた。少し鼻が膨らんでいる。

「ま、まあね。アドバイスするにやぶさかではないけどね」

「是非お願いします!」

 佐倉は少し胸を張った。しかし威厳は全く無かった。お片付けがちゃんと出来た幼稚園児みたいだ、と眞桜子は思った。

「そうだなー。やっぱり、登場人物が魅力的、ってのは大事だよね!」

「のろけですか、そうですか。むしろ彼氏のいない私への当てつけですか」

 眞桜子が呆れながら三角の目を向けると、佐倉はぶんぶんと手を振った。

「違うよう。そんなこと思ってないよう」

「はいはい」

「大体ねえ、主役が格好良かったから、がきっかけじゃないんだよお。劇自体の完成度がとっても高くてね、みんなで一所懸命作ったのが伝わってきて。だからすごく感動したんだよ」

「まあ、それはそうなのかもしれませんけど」

 佐倉の様子が真剣だったので、眞桜子は予想が外れて少し驚いた。てっきり、一目惚れに近いものだと思っていたのだ。どうやら、彼女の演劇好きを低く見積もりすぎていたようだ。彼女の心を動かすには、ちゃんとした劇を作らなければならないらしい。

「そういえば、眞桜子ちゃんだって、遼太君と良い感じだって聞いてるよ?」

 意地悪そうな顔の佐倉に、眞桜子は比重の大きいため息を吐いた。朝倉先輩から聞いたのだろうか。昨夜のことが思い出されて、頭が重くなる。

「あー、ないです、それ」

「嘘だあ」

「や、ホントに。もう、こう、何て言うか? 脈が無いというか、見事なまでに眼中に無いというか、もうあり得ないにも程がありまして」

 テーブルに肘をつきながら眞桜子はそう言った。座っているのさえ億劫な気分だった。それを見て佐倉は首を傾げた。

「えー。お似合いだと思うんだけどなあ。眞桜子ちゃんと遼太君」

 それにしても、と眞桜子は思った。当然と言うべきか、遼太は佐倉からまるで意識されていないようだ。これでは、文化祭でどんなに良い劇を作ったところで、遼太の想いが届く可能性はかなり低そうだ。

「ま、それはともかく。劇ですよ。登場人物が魅力的?」

「うん。やっぱりねえ、観客は人を見てるからね。衣装なんかも含めて、どこまで役に入り込んでいるのかってのは、一番大きなポイントだよね」

「ほうほう」

 眞桜子は手帳を取り出してメモを取り始めた。

「他には何かあります? 演目の選び方とか。特に文化祭でがっぽがっぽ票が入るような」

「そうだねえ」佐倉は首を捻った。「やっぱり感動モノが無難だね。普遍的だから。ギャグも良いんだけど、ツボが合う合わないがあるから難しいよ。後は知名度が高い方が、お客さんを呼ぶには有利」

「でも有名作品だと、驚きが無くないですか? ハードルも高くなりそうですし」

「うん。でもねえ、全然知らない作品と違って安心感があるよね、ストーリーを何となく知ってると。基本的に、人はちょっとでも知識があるものを選ぶ傾向にあるらしいから。や、叙述トリック全開のミステリーとかだと台無しだけど」

 そんなものか、と眞桜子は思った。確かに読書なら面白かった本を読み返したくなることがあるし、同じ作者の別の作品だって読みたくなる。音楽だって、知っている曲がライブで流れた方が嬉しい。そう考えれば納得出来なくもない。

「後はねぇ。世界観。普通の制服とかだと目立たないけど、和服とかメカとかが歩いていたら目を惹くよね!」

「なるほどなるほど」

 佐倉はそれからううん、と考え込んだが、やがて眉を下げた。

「とりあえずぱっと思いつくのはこのくらいかなぁ」

「いえ、ありがとうございます。凄く参考になりました」

 眞桜子はそう言ってまた頭を下げた。顔を戻すと佐倉はいつものようににこにこしていた。本当に良い人だなあ、と眞桜子は思った。こういうところに遼太は惹かれたのだろうか、と少し思う。

「頑張ってね。見に行くから」

「はい。朝倉先輩目当てのついでだとは判ってますけど、見てって下さい」

「またそういうことを言う……」

 佐倉はまた高気圧のように膨れた。つい、つつきたくなってしまうような頬だった。眞桜子はそれを見て溜飲を下げてから、明るく言った。

「私も藍山高の文化祭、行きますから!」

「うん! 待ってるよ!」

 佐倉はそう言って、オレンジジュースをすべて飲み干した。それから腕時計を見る。こちらも可愛らしいキラキラしたデザインだった。

「さて、そろそろ行かなくちゃ。塾の時間だ」

「今日はわざわざありがとうございます。受験生なのに」

「良いよ、別に。どうせ帰り道だし」

 佐倉が紙コップを持って帰って行く。眞桜子は手を振ってそれを見送った。佐倉は一度振り返って手を振ってから、足取り軽く店を出ていった。

「さて、と」

 眞桜子は考え込んだ。がしがしと頭を掻く。今日の反応を見る限り、遼太に脈は無さそうだった。佐倉は朝倉先輩とラブラブのようだったし、そもそも遼太を異性として意識している様子がない。せいぜい弟か何かと思われている程度だろう。

 眞桜子は朝倉先輩について考えた。直接話したことはあまり多くないが、噂は良く聞く。勉強がかなり出来るらしく、学年でもトップクラスだという。基本的には真面目で人当たりも良く、運動神経も悪くない。もう引退したが、サッカー部に所属していたはずだ。性格としては温厚で根っから善人だが、人の機微にはやや疎く天然が入っているそうだ。

 遼太とはかなりタイプが違うように思われた。外見に関しては同レベルだと考えたとしても、分が良いとは思えない。佐倉の好みを聞いたことはないが、遼太みたいなちょっと抜けているタイプが合うとも思えない。

 大体、二人が付き合いだしたきっかけが如蘭祭だったからと言って、良い劇を見せれば佐倉が靡く、と考えるのは安直に過ぎる。単純に力で勝負するような、野生動物では無いのだ。

 そんなことすら遼太は解っていないのだろうか、と眞桜子は考えた。たしかに恋愛に器用そうには見えないし恋は盲目とは言うけれど、そこまでおバカだとも考えにくい。しかし現時点ではそう判断するより無かった。

「もう、しょうがないなあ」

 眞桜子はスマホを取り出した。バッテリーが十分残っていることを確認する。そして電話帳から、朝倉の姓を呼び出した。




     *




「土曜、十四時、自由が丘」

 SNSで届いたメッセージ通り、駅前で遼太は待っていた。いつもと同じ、女神口の改札前。休日の繁華街は、いつも通り混み合っていた。

 合唱祭からここ数日、眞桜子の態度は明確だった。話しかけても無視される。スマホにメールを送っても返事は無い。メッセージを送って既読がついても、返信は来ない。極めて徹底していた。

 それが、昨日の夜になって突然一行だけのメールが送られてきた。了解する旨、すぐに返信したが、それきり連絡はない。昨夜からついつい何度もスマホを確認してしまっているが、その度に落胆するだけだった。

 それに従い遼太は駅前で待っている。気が急いてしまい、一時間以上前には着いてしまった。しかしどこか店に入る気にもならず、ずっとここで待ち続けている。

 時計を見る。やっと十四時になっていた。自由が丘、という名前に因んだのか、バスロータリーの真ん中には女神像が直立している。安直にもほどがあるが、それなりに由緒正しい物らしい。秋には女神祭りというイベントもある。所謂お祭りとはやや趣が異なるものの、毎年それなりに盛り上がる。

「眞桜子!」

 改札から待ち望んだ顔が出てきたのを見て、遼太は手を振った。彼女は仏頂面を浮かべ、無言のまま近づいてくる。

 眞桜子の私服姿を見るのは久しぶりだった。白い花柄のワンピースの上に薄いピンクのカーディガンを羽織っている。腕に茶色のハンドバッグ。茶色の髪は白いシュシュでサイドポニーにしていた。ヒールの高いサンダルを履いているので、いつもより目線が高い。

「よお」

「まあね」

 四日ぶりに聞いた眞桜子の返答は意味不明だった。彼女はそのまますたすた歩いて行く。遼太は慌ててその後を追った。

 駅の北側、商店が並ぶ一角で眞桜子は足を止めた。ショウウィンドウを一度確認してから、店の中に入っていく。遼太も後に続くと、甘い匂いが鼻をくすぐった。

 老舗の洋菓子屋だった。かなり昔からあるらしい。遼太の父親が子供の頃、誕生日にはここのケーキでお祝いして貰った、と聞いたことがある。

 昼下がりの店内はあまり混んでいなかった。ランチに来るような店ではないし、お茶をするにはまだ早い。眞桜子はショウケースを覗き込みながら、遼太に告げた。

「限定シュークリームとモンブラン。後はえっと、苺ショートとコーヒー」

 それからすたすたと店の奥、イートインの一角に向かっていく。もしかして、昼食をまだ摂っていないのだろうか。むしろ、意図的に抜いてきた可能性もある。

「……了解」

 そのまっすぐな後ろ姿に、ぼそりと遼太は返事をした。列が進むのを待って、注文を告げる。自分の分には定番のモンブランを頼んた。告げられた金額を薄い財布の中から支払う。念のために中身を補充しておいて良かった、と遼太は思った。

「お待たせ」

 眞桜子の向かいに腰掛ける。彼女は何の反応も示さなかった。レシートを彼女の目に入るようにテーブルの上に置いてみたが、無言のままくしゃくしゃに丸められた。やがて店員が注文を運んでくる。すると眞桜子はにこやかに自分の分の皿を受け取った。自分はこんな仕打ちを受けなければならないほど酷いことを眞桜子にしたのだろうか、と遼太は疑問に思った。

「いただきます」

 眞桜子はフォークを手に、まずはモンブランに取りかかった。仏頂面だった顔がすぐに緩む。眉は下がり、文字通り頬が落ちている。つられて遼太もケーキを口に運ぶ。結構甘いが、素朴な感じがしてとても美味しい。

 眞桜子はかなりの勢いでモンブランとイチゴショートを平らげた。コーヒーをブラックのまま啜り、一息吐く。カップに口紅が薄く残ったことに気が付いて、遼太は少しどぎまぎした。シュークリームはまだ皿に残っている。眞桜子にはお気に入りを最後まで取っておく癖があることを、遼太は知っていた。

「さて」

 今日初めて、眞桜子が遼太の方を見ながら言葉を発した。しかし視線はまたきつくなっていた。気後れしながら遼太は答える。

「お、おう」

「事情は完璧に理解したけど」

 合唱祭の日から何らかの進展があったようだ。完璧、がどの程度なのか気になったが、遼太は確認出来なかった。情報源がどこなのかすら判断がつかない。

「あのね、遼太」

 眞桜子はフォークを遼太に突きつけた。先端には苺ショートのものだろう、白いクリームが付着している。

「如蘭祭で良い劇作ったって、如蘭大賞獲ったって、佐倉先輩とつきあえるなんて思わないで。可能性はまず無い」

「……」

 咄嗟に言葉が出なかった。

 そのことは自分でも判っていた。二人のつきあいは遼太から見ても、順調だった。それにもし別れたとしても、彼女が寄りによって自分を異性として意識するとも思えなかった。

「……うん」

 遼太は何とかそれだけを口にした。コーヒーにミルクを入れているのに、口の中が苦い。

「判ってるけど、それでも、きちんと勝負したい」

「それは、佐倉先輩たちがつきあいはじめたきっかけが如蘭祭だから?」

 眞桜子がずばりと切り込んでくる。遼太はじっくりと頷いた。もう何も誤魔化してはいけないと思った。

「あのとき、俺はまだ中学生だった。まだ如蘭祭に参加できなかった」

「だから、自分の手の届かないところで掠め取られたように思ったのね?」

 眞桜子が言葉を引き継ぐ。遼太は無言で頷いた。眞桜子は厳しい目つきを変えないまま続けた。

「でも、そんなことしたって、先輩たちには何にも届かないよ? 遼太がどんな気持ちで如蘭祭に臨むのかなんて、二人ともまったく気にもしてくれない。どんな想いで劇を作るのかなんて、少しも伝わらない」

 それで良いのか? それでもやるのか? 勝負しているつもりなのは遼太だけだ。空回りして、徒労に終わって、最後に空しさが残るだけだと、判りきっている。

 眞桜子の視線が、彼女の意志を雄弁に伝えてくる。

「やる」

 それでも、遼太は頷いた。そのことは、もうずっと前から解っていた。

「そこまで覚悟しているなら、もう直接告白しちゃった方が早いんじゃないの?」

「……そんなこと、出来るかよ……」

 振り絞るようにして、遼太は言った。

「……まあ、そうね」

 眞桜子はふう、とため息を吐いた。目つきが、ふっと優しくなる。眉が下がって、唇がつり上がる。

「もう、しょうがないなあ」

 そう言って、彼女はカップを手に取った。ブラックのままのコーヒーを喉に流し込む。

「そこまで言うなら、手伝ってあげましょう」

「……眞桜子!」

 遼太は思わず眞桜子の手を握った。しかしすぐに振り払われる。

「ありがとう!」

「どういたしまして」

 眞桜子が平板に言う。もうあきれ果てているような声音だった。遼太と目を合わせないまま、フォークを手に残っていたシュークリームに取りかかっている。遼太もモンブランを片付けることにした。

「ところで」

 シュークリームを半分平らげたところで、眞桜子はぼそりと言った。

「振られた直後が一番落としやすいタイミングだって説、本当だと思う?」




     *




「出かけてくる」

 言葉少なに言って、遼太がリビングから出て行くのを啓太は見送った。土曜の昼下がりだった。

 今日の遼太が妙にお洒落だったので、啓太は少し気になった。朝からそわそわしていたようにも思う。先ほどまでもやたらに時計を気にしていた。普段あまり外見に頓着していない弟が、鏡の前で髪を整えようと苦戦している姿を見るのは新鮮だった。

 テレビを消して啓太は自室に戻った。スマホを操作してアラームをセットする。そして鞄から英単語帳を取り出した。赤い半透明のシートで和訳を隠しながら、自分の記憶を確かめていく。合唱祭が終わったばかりだが次の定期テストが近いのだ。短い隙間時間でも着実に勉強するのが大切と塾の講師が言っていた。

 やがてアラームが鳴る。音を止め、啓太は立ち上がった。今日は自分もデートである。簡単に身支度を整えて家を出る。待ち合わせはいつもの通り自由が丘。しかし今日は電車を使うので駅の構内だ。

 ぶらぶら歩いて駅まで辿り着き、定期を使って改札を通る。構内のショップの前、柱に寄りかかりスマホを取り出した。待ち合わせの二時までまだ五分ある。特にメールやメッセージは届いていなかった。

 ぼうっと人の波を見る。改札から出ていくのは若い女性が多い。駅の近くには菓子の名店が多く、スイーツ好きには人気のスポットとして知られている。

 そんな人の群れの中、見知った姿を啓太は見つけた。大井町線から降りてきたのは藤崎眞桜子だった。彼女は改札の近くまでやってきたが、すぐには外に出ずに壁際に寄った。鞄から鏡を取り出し、髪や身だしなみを入念にチェックしている。腕時計を見てから一つ大きく息を吐き、顔を引き締めて改札から颯爽と外に出て行った。かなり気合いが入っているように感じられた。その姿を追うと、改札の外に遼太の姿が確認出来た。二人は短く言葉を交わすと、駅の北側に向かって歩き出した。

「お待たせ」

 感慨深く二人の後ろ姿を見送っていたところ、突然背後から声をかけられ、啓太は少なからず驚いた。慌てて振り向くと、待っていた顔があった。

「比奈子」

「ごめんね、待った?」

「いや、別に」

 啓太はいつもと同じように答えた。待ち合わせをすると、なぜか比奈子は毎回このように訊く。そして啓太の答えを聞いて、満足そうに笑うのだ。同い年の彼女と付き合いだしたのは高校に入ってからだが、この慣習は破られたことがない。

 比奈子はいつもより大人びた格好をしていた。白いシンプルなブラウスに、紺色のスカートを合わせている。落ち着いた雰囲気だった。今日の目的地を考えて選んだのだろう。

 今日は日比谷までいく予定だった。彼女は宝塚歌劇団の大ファンで、公演のチケットが二枚取れたという。機嫌が良さそうなのはそれが理由だろう。

 彼女がファンになったのは母親からの影響のはずだが、今日は自分とのデートを優先してくれたらしい。歌劇にはあまり興味が持てない啓太としては喜んで良いのかは微妙なところだ。まあ、お互い忙しい合間を縫ってのデートなので、彼女と出かけられるのはもちろん嬉しい。

「今日の演目は何だったっけ?」

 電車に乗り込みながら、啓太は訊いてみた。比奈子はにこにこと嬉しそうに答えた。

「ベルばらだよ。オスカル編」

「ふうん」

 啓太でも『ベルばら』というタイトルくらいは聞いたことがあったが、『オスカル編』が何なのかはよく判らなかった。同じ名前のサッカー選手を知っているので、登場人物の名前だろう、ということくらいしか想像がつかない。

「ごめんね、付き合わせちゃって」

 啓太の返事が平板だったのに気がついたのだろう。比奈子が小声で言う。元々垂れ目気味なのにさらに眉が下がっている。啓太は慌てて手を振った。

「そんなこと無いよ。一緒に出かけられるのは嬉しいし。それにもうすぐ文化祭だからさ。参考にしたい」

「そう?」

「うん。今年はクラスの奴らも気合い入ってるしな。遼太たちもなんか目の色が変わってて。去年とは全然違う感じ」

「そうなんだ」

 それでも比奈子はまだどこか気にしているようだった。返事がかなり短い。組まれていない右手で、啓太は頭を掻いた。

「そういえばさ」

「うん?」

「遼太が今日、デートみたい」

「あらまあ」

 比奈子はそれを聞いて、猫のような目になった。唇がつり上がり、興味津々だった。やはり、女子というのは恋バナに目がないようだった。

「その話、詳しく聞かせて!」

 弟に内心手を合わせながら、啓太は今日目撃したことを、最愛の彼女に話し始めた。

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