第20話 迷走7 (61~70)

 8月9日より、若手から順番に休みを取り始めたため、いつもよりはやや活気に欠けた強行犯係の空気だったが、6日同様、長崎原爆投下の50周年慰霊式典の放送を西田は見ていた。そんな西田に竹下は、

「たった50年前の出来事とは思えないですよね」

と話しかけてきた。

「そうだな。『光陰矢の如し』。事件捜査のためには一秒も時間は無駄には出来ないが……」

西田は、ある程度事件の裾野が見えつつあるも、山の頂はまだ見えないことに不満を隠さなかった。被疑者が死亡しているというのは、なかなか大きな障壁であり、同時に捜査に掛けられる警察全体の熱意も下がっているのだから、仕方ないと言えば仕方ないのだが。

「よく考えたら、吉見の事件から今日で丁度2ヶ月ですか。こちらも光陰矢の如しというところですかね。それにしてもあの事件、喜多川があんなことになってしまっては、現時点でキチンと結論出しておいた方がいいと思いますが」

竹下の不意の一言で、西田ははっとした。もうあれから2ヶ月も捜査していたのかと。確かに事件は進展はしていたのだが、ある程度「頂」は見えてきたにせよ、そこに至るまでのルートがはっきりしないのがもどかしかった。

「その通りだな。吉見の件は事故死が結論でいいというか、それしかないだろ。喜多川はあんなことになったが、あの点については嘘は言ってないだろうし。状況証拠も奴の犯行にするのは厳しいしな。吉見も喜多川も運が悪かったんだろうなあ。お互い出会わなければ今も幸せだったに違いない」

確かに、吉見は喜多川を現場で見かけなければ、幽霊と勘違いしたか、不審者と思ったかはわからないが、焦って転倒することもなかった。そして喜多川も吉見がいなければ、米田の遺体を発掘発見できなかったとしても、事件が発覚することもなかっただろう。調査会の遺骨採集調査で見つかったかどうかは、喜多川が事前に危惧しただろう確率よりは、実際のところかなり低かったように思えるからだ。


 刑事課の室内全体を見回しても、強行犯係以外の刑事達が通常の非番体制とは別に休暇を取っているため、何か静寂に包まれているかのような錯覚すら感じた。刑事課全体の空気も、おそらく修羅場になっているであろう北見署・北見方面本部とは雲泥の差になっているだろうと西田はふと思った。こちらも同じ殺人事件を抱えているはずなのだが、どうしても緊張感が欠けていた。日中の気温も一時期よりはさわやかで過ごしやすくなっており、秋の訪れが地味に近寄ってきていることの証と言えたかもしれない。外で鳴くせわしないセミの声だけが西田に真夏を感じさせた。特にやるべきことも見つけられないまま、暇を持て余した刑事達に、課長は佐田の失踪も含めたこれまでの捜査の復習をしておくように命じたが、ただの暇つぶしと同義であることは否定できなかった。暑さも一休みの昼下がり、西田達が捜査資料を読み込む時に、紙をめくる、パサッという音がやけに響く。


※※※※※※※


 そんな怠惰な時間に、署長からの連絡がやっと終わりを告げた。地主の寺川氏の生田原訪問日程が決まったと、本人から電話があったのだ。13日に生田原にやってきて、17日に旭川に戻るらしい。15日は墓参りで潰れるので、15と17日以外なら良いとのことだった。13日の課長と小村の休みが重なったが、やってきた当日に現場の捜索は寺川にも迷惑だろうということで、16日にすることで遠軽署と寺川氏の話が折り合い、参加してもらう鑑識係のメンバーの都合も付いた。これで今、遠軽署が出来る最善の捜査の土台は整ったと言ってよかった。しかし捜査後、この静かな数日とは打って変わった波乱の日々になると予期できていたのは、ある意味騒がしい外のセミだけだったかもしれない。


※※※※※※※


 西田は8月10日の午後、11日に夜行で札幌へ行って、12日の休日中家族サービスをし、当日の夜に夜行で遠軽に戻ってそのまま出勤しようかと考え始めていた。最初は忙しい日程を嫌って、遠軽で休みを過ごすことを考えていたが、妻との電話で、自分がずっとこちらに居ることに、娘がやや不満そうな態度であるということを聞き、心変わりしつつあったからだ。課長との話ではないが、望まれているうちにコミュニケーションを取っておく方が、父親としての役目を果たせるという考えもあった。ただ、連日夜行で寝るとなると、中年一歩手前の西田としても、体力的に厳しいものがあり、時刻表を見ながら、思案に暮れていた。


「係長、下の受付から連絡来まして、例の『奥田 満』が係長との面会を希望して、直接こっちに来たみたいなんですが?」

内線電話を受けた黒須が、不意に西田に話し掛けてきた。

「奥田? ああはいはい、奥田の爺さんね……。それにしても突然何だろ? いきなり署までやってくるなんて」

西田は首を捻った。課長も

「奥田がこっちまで来たのか?」

と確認してきたので、

「ええ。理由はわかりませんが、受付まで来てるそうです。とにかくちょっと下で会ってきます」

と告げた。トイレに行っていた北村を呼びに行き、そのまま1階の受付まで急いだ。そして受付の傍にある長椅子に座っている奥田を2人が見つけるまでに、そうは時間は掛からなかった。先に西田が近づきながら声を掛けた。

「奥田さん、先日はどうもありがとうございました。それにしても、今日は何かありましたか? 訓子府からここまでわざわざ来るなんて?」

「いやいや、そっちこそ忙しかったんじゃないべか?」

奥田は年の割にしっかりとした足腰と見え、西田達に気付くなり、スクっと椅子から立ち上がるとそう言った。

「ここ数日はたまたまかなり暇でして、それは構わないんですが……」

「そうかい。それなら良かった。本当は来るつもりはなかったんだけどね」

7月の29日に訪問して以来、せいぜい10日ぶり程度会わなかっただけだが、ちょっと懐かしさすら感じたのは、篠田の存在が明らかになったことで忙殺されていたからかもしれない。

「いやな、今日はたまたま、朝からカミさんと白滝(1995年当時、旧白滝村。現・遠軽町白滝地区)の親戚を車で訪ねていって、その帰りなんだよ。例の件でちょっと気になったことがあったんで、迷惑かとも思ったが、帰りに遠軽通るからついでに直接寄らせてもらったんだ」

「事件の話で気になったことがあったんですか?」

西田は、他の人物なら大して期待しなかったが、奥田には今回の事件では2度も大変世話になっていることもあって、真顔になった。

「ああ、そうだ。前回ウチに来た時、北村さんだったっけ? あんた方が『当時の遺骨収集の時に気になったことはなかったか?』みたいなことを俺に聞いたべや?」

突然話を振られた北村は、一瞬キョトンとした表情になったが、すぐに、

「言われてみれば、そういうことを確認させてもらいましたね」

と返した。

「で、そん時は全く思い出せなかったんだが、その親戚からの帰りに、国鉄時代同僚で部下だった奴が丸瀬布(1995年当時、旧丸瀬布町。現・遠軽町丸瀬布地区)に今は住んでいて、それこそ道すがら寄っていったんだ」

西田は、奥田の話が長くなりそうだと思ったので、

「ここじゃなんですから、刑事課にソファがあるんで、そちらで座りながら話しましょう。お茶ぐらい出させてもらいますから。ところで、一緒に居た奥さんは?」

と尋ねた。

「カミさんなら、駅前の喫茶店に置いてきたよ。関係ない話に付き合わせると後からグダグダ言われるから。この話が終わったら迎えに行く。そうだ、ここの駐車場に車駐めたんだが、『切符』切られたりしないよな?」

「刑事課はともかく、交通課は金の亡者だから保障は出来ませんね」

北村が真顔でふざけた。

「まいったなそれは。ここはパトカーも罰金取られてるのか」

奥田もそれに付き合ってくれた。しかし、西田はそのふざけた会話の流れをあっさり断ち切り、

「さあ、上へ案内しますよ」

と言うと、率先して刑事課室へ向かった。


 ソファに腰を据えた奥田に、黒須がお茶と簡素な茶菓子を出すと、お茶を一啜ひとすすりしただけで、話を再開する。

「話の続きだが、丸瀬布の同僚に会いに行ったところまで話したべ? それで、俺の記憶もはっきりしていなかったから、そいつに話を聞いたんだ。本当なら(田中)清辺りにも聞いておくべきだったかもしれんが、刑事さん達との約束で喜多川の件は黙っておくことにしてたから、何か口が滑るとマズイから避けてて、そっちは聞いてないんだけども……」

奥田は未だ喜多川が捕まった上に、意識不明になったことも知らないらしい。田中が話してないか、話す機会がなかったのだろう。そしてしっかり自分たちに義理立てしてくれた奥田に西田は内心で感謝した。

「丸瀬布のそいつの名前は浅田ってんだが、ああ、刑事さん達がコピーして持ってる奴にも載ってて、前回俺が近況を教えたが、その浅田と『当時何かなかったか』、思い出話ついでに話し合ってたんだ」

「ちょっと待ってくださいよ。あのコピー持ってきますから」

西田はそう言うと、自分の机の引き出しからコピーを取り出して、ソファの前の机に広げた。

「こいつこいつ」

奥田はそう言いながら、リストにある浅田の名前の部分を指した。確かに田中と奥田、そして喜多川と篠田も居た作業班に所属していたようだ。

「その浅田が思い出してくれたんだけど、(昭和)52年の丁度7月ぐらいだったかな、遺骨収集初めて1ヶ月ぐらい経った頃、ちょっとした事件があったんだよ」

「事件?」

「西田さん、そう、事件だ。遠軽署にも来てもらったんだ。正確に言うなら、来てもらったらしい。丁度その時、俺は保線作業中にハンマー落として、足に軽い怪我してね。仕事こそ休んでは居なかったが、参加は任意のもんだから、収集に加わってなかった時だった。だからその話は当時後から聞いただけだ。それで強くは印象に残ってなかったんだべなあ。すっかり忘れてた。まあ、あの場で急に答えられたかどうかは、また別の話だけども……」

「早く、その事件の中身を教えて下さいよ」

痺れを切らした北村が笑いながらも、苛つきを隠せないような発言をした。

「まあまあ、北村さんよ、爺さんをそう急き立てないでくれや」

奥田はそう言って茶菓子を食べ、茶ですすり込むと、話を再開した。それを見ていた西田と北村は、もはや重要参考人というより、ただの知り合いの老人と話しているかのように思えていた。

「浅田の話だと、採集を開始してから一ヶ月程、つまり昭和52年の7月中旬ぐらいだったようだけど、篠田と喜多川とあともう一人、その紙にも載ってる種村って同世代の奴、そう、この前出席者について聞かれた時に言ったように、そいつはまだJRに居るんだが、そいつらがあの辺で遺骨を探してる最中に、不自然な形で隣同士、大きな石が地面から突き出ているのを見つけたんだそうだ。まさに墓石みたいな感じだったって話だ。そこで、ひょっとするとタコ部屋労働者が埋葬されているかもしれないと思って掘ってみると、案の定2つの古そうな全身の骨が出てきた。格好もゲートルみたいのを巻いた状態で、少なくともその近い年代とは思えないものだったってよ。ただ、考えてみりゃわかるが、タコ部屋労働者の場合、埋められている場合でも、本当にただ適当に埋められたというか、ただ、穴に放り込まれてるだけなんだ。それにしてはやけにちゃんとしてるのが不自然だったと感じたんだべ、現場にいた保線区長が。それで警察に念のため通報したんだな。管轄もたまたま同じこの遠軽署だったって」

「ちょっと待って下さいよ! 篠田って奥田さん含め、色々な人から話を聞いた感じだと、あんまり好人物という印象がないんですが、そんな奴が真面目に遺骨収集の方にも参加してたんですか?」

西田は素朴な疑問を口にした。

「確かに『いい奴』ではなかったが、付き合えないほど嫌な奴という程でもなかったたぞ、俺の中では。それにいくら任意の自由参加とは言っても、若手はサボれるような雰囲気でもなかったように記憶してるよ。ほら、よくあるべや、自由ということになってるが実際は強制みたいな奴。どっちにしろ、各保線班の全体の非番のうち、半分から3分の1程度の割合の人数で収集してたから、全体的に出席率はかなり高かったはずだ、俺らみたいな、当時の中年以上の連中含めて」

「なるほどわかりました。それでですが、遠軽署が駆けつけてからどうなったかわかります?」

「警察が来て色々調べてると、なんとその近くから別の古い白骨化した遺体が1つ見つかったそうだ。そちらには墓石みたいなのはなかったし、発見された当時の状況も、かなり無造作に埋められた感じだと、現場に来た刑事が話してたらしい。後、ちゃんと埋まってた方の奴のうち一体分と、無造作に埋められていた奴には、しゃれこうべに陥没した痕があったようだ。その傷は事故だか事件のどちらかで出来たかはよくわからなかったとさ。で、事件性はないと判断したんだろうな、あんたの『先輩』は」

「つまり、確認しますが、全部で3体の白骨死体があって、そのうち2体分には、頭蓋骨に陥没の痕があったと。更にそのうちの1体は無造作に埋められていたというわけですか」」

「そういうことでいいと思うよ」

西田の問いにも、奥田は自分で見ていたわけではないので、それほど自信ありげな口ぶりではなかった。

「それで、結局どうなったんですか?」

今回の北村は普段以上にせっかちだった。

「結局、事件か事故かがはっきりしなかったのと、仮に事件だとしても明らかに時効ということで、そのままじゃないか? 浅田も警察からその2つの理由で捜査打ち切りという話が保線区へ伝えられた後は、どうなったか知らんって言ってた。事件だったらもっと騒いでたはずだべ? まあこんなもんだから、お二人さんの役に立つかどうかはわからないが、念のため教えておいた方が良いと思ってな」


 正直、この奥田の話がどれほどの意味があるかは、この時西田はわかっていなかったが、こういうことまで気にかけてくれていた奥田の親切心には、いつものことながら率直に感謝せざるを得なかった。

「本当にいつもすみません。今日もわざわざ友人に話して確認してくれて、こっちまで寄っていただいて、貴重な当時の話まで」

「いやいや、西田さんよ。こっちは暇な老人だから。人様の役に立てるなら、それもまた良しってなもんだ」

「現時点では、何か関係してくるのかよくわかりませんけど、また何かあったら教えて下さいよ。今回の事件も、今のところ奥田さんの証言が結構大きな役目を果たしてるんです!」

「西田さん本当にそう思ってるのかい? そいつは嬉しいね。本職の刑事に褒められるってのは」

奥田は目元にシワを寄せて笑顔になったが、

「おっと、こんな時間か。カミさんいつまでも待たしてるわけにはいかないべや。またネチネチと怒られる。伝えておきたいことは言い終わったから、また何かわかったら電話させてもらうよ」

そう言うとサッと席を立った。

「大したお構いもできないでスミマセン」

西田もそう言いながら北村を引き連れ奥田の後に続き、玄関前まで見送りに出た。


※※※※※※※


「あっという間にやって来て、あっという間に行っちゃいましたね。まあまた会うこともあるだろうけど……」

北村が手を振りながら奥田の車が去っていくのを眺めていた。

「ところで、昭和52年ぐらいの捜査資料って、残ってるかな?」

西田が不意に言葉を発した。

「さっきの件ですか? 当時の判断じゃ事件じゃなかったんですよね? そういう資料だと、そのぐらい古かったら処分してると思いますよ、普通は」

「やっぱりそうか……」

「気になりますか?」

「関係はないと思うが、篠田と喜多川が関わっていて、更に米田の殺害現場と近接してるとなると、一応調べておきたい気持ちはある。それに立件はされていないと言っても、遺体の状況には不自然な点もあるようだ」

「なるほど。確認できるものは確認しておく。鉄則ですね。情報が少ない以上は特に」

北村はそう言うと、署の建物の中へときびすを返した。西田もつられたように、ゆっくり署内へ戻った。


「何の話だった?」

西田と北村が戻ると、課長は読んでいた夕刊から目線を上げて開口一番尋ねてきた。

「この前聴取させてもらった時に、北村が『遺骨収集やら慰霊式点の際に、何かなかったか?』って奥田に質問したんですよ。その時は何も思い浮かばなかったようなんですが、今日たまたま国鉄時代の同僚と話していて、喜多川と篠田が絡んだある事件の話を思い出したとか」

「ある事件とは?」

「遺骨収集の際に、2人が身元不明の2つの白骨遺体を発見して、警察沙汰になったそうです。しかも、その後の捜査で現場付近から更に一体出てきて騒ぎになったと。ただ、結局事件性についてはっきりしなかったのと、明らかに遺体状況から時効ということで、立件はされなかったと」

「ほう、そんなことが」

「課長、古い捜査資料ってどのくらい保管してますか? 10年ぐらい前のものは刑事課にもありますが、昭和52年ですからそれ以前の奴です」

「ここにないものはないんじゃないのか? ここにないものの在処はわからんぞ。その話について調べてみたいのか?」

「ええ、やはり気になりますよ。なけりゃないで仕方ないですけど。しかも立件しなかった事件となると、処分済みかな」

「望み薄だろう。残念だが」

課長はそう言うと再び夕刊を読み始めた


 その話を横で聞いていた小村が、

「係長。1年前ぐらいに、警務課(署内のいわゆる庶務課)の管理してる地下倉庫に入ったことがあったんですが、昭和40年代の事件に関しての報告書があったような記憶があるんですよ。証拠物件なんかも一緒に。立件してないということなんで、課長の言う通り期待薄かもしれないですが、探してみる価値はあるかもしれないですよ」

と情報を入れてくれた。

「なるほど警務課の倉庫か。サンキュー。ちょっと聞いてみるかな……」

西田はそう言うと、警務課へと再び階下に向かった。北村も続いた。


「ちょっと申し訳ない!」

西田が声を張り上げると、警務課の女性職員が応対した。

「倉庫に古い捜査資料があるかどうか調べたいんだが?」

「わかりました。課長! 刑事課の西田係長が倉庫に古い捜査資料があるかどうか知りたいそうです」

既に西田が聞いていた時点でチラチラと視線を向けていた田坂課長が、待ってましたとばかりに席を立ち、2人の元へやってきた。

「西田、古い捜査資料ってのは何年前ぐらいのだ?」

「昭和52年ですね」

「52年!? さすがになあ……。その辺の年代となると、あったりなかったりするのもあるぞ」

「しかも立件されてないらしいんですよ」

「立件されてない? じゃ望みは限りなく少ないな……。それにしても立件されてないような事件、しかも殺人ですら時効になってるんだから、今更調べる必要があるのか? どんな事件だ?」

「強いて言えば殺人もしくは死体遺棄の可能性があったようですが、当時の時点で時効が確実に絡んだらしいのと、殺人だかよくわからなかったらしく、立件できなかったそうなんですよ」

「ふーん、形跡としてはそれなりにデカイ事件だったんだな。だったらもしかしたらあるかもしれんが……。おい、誰か倉庫の鍵持ってきてくれ!」

田坂は部下に一声掛けると、鍵を受け取り、

「やることもないから、今探してみようか? ここ数日は沢井の話だと最近じゃ珍しく暇らしいから、おまえらも時間は大丈夫だろ?」

と聞いてきた。

「丁度時間があったんで、渡りに船ですよ」

西田はそう言うと、北村と共に田坂に付いていった。


 田坂によって案内された倉庫は、小村の言う通り地下にあったが、予想していたよりは広いスペースはなく、備品などがほとんどで、捜査資料があるようには一見しただけでは思えないような部屋だった。ただ、かなり小奇麗に整頓されていて、想像していたような雑然とした空間ではなかった。もし目当ての資料があるのなら、案外すんなり見つかりそうな雰囲気すら感じた。

「確か、この辺に古い捜査資料関係があったような気がしたがな」

一番奥に並んでいた金属製のラックに載っているダンボールをガサゴソといじる田坂を横目に、西田と北村も整理されているものを引っ掻き回さない程度に手伝い始めた。すると、大して間も置かず田坂が声を上げた。

「おっ、なんかあったぞ……。上に乗ってるのが昭和47年の資料だから、あるならこの辺りで間違ってないと思うぞ」

田坂がダンボールを床に置いて、中身を取り出しながら指さす。

「小村がさっき言ってたのはこれかな?」

西田もしゃがみこんで資料を手にとった。確かに昭和47年の強盗殺人事件についての資料と物的証拠の一部と思われる、凶器らしき包丁など数点がビニール袋に入ってダンボールの中に収納されていた。おそらく、被害者に返却する必要がなかったものの中から、更に一部が保管されていたのだろう。捜査過程の報告書を簡単に見た限り、最終的には懲役15年で決まった事件のようだ。

「それなりに大きな事件はとってありそうですね」

「北村の言う通りだと思う。ここはそう凶悪事件は多くないから、そういうでかいヤマに関してのものはとってあるかもしれない。ただ、俺達が探してるのは立件されなかったからなあ……」

西田はため息を付いた。

「とにかくここにあるダンボール全部ひっくり返してなかったら、その時諦めりゃいいんじゃないの? お前たちがそれでも探したいって言うから探してるんだから、そんなこと今更言われても困るぞ」

田坂は若干不機嫌そうな物言いになった。

「そうでした……」

西田は反省の弁を述べると、再び手を動かし始めた。証拠物件が多いものはダンボール1つか2つに対して事件1つだったが、証拠物件が保管されていなかったり、少なかったり小さかったりしたものは、複数の事件が1つのダンボールにまとめられていた。北村と協力して丁寧に分別していく。田坂はダンボールをラックから下ろす役目に専念していた。


 作業開始から20分程経った頃だろうか、報告書を調べていた北村が、

「これじゃないですかね!」

と突然床にしゃがんだ状態から立ち上がった。西田はそれを見て自分も立ち上がると、北村から奪うように報告書を手にとって、中身を確認した。


「これだこれ! これで間違いない。『捜査開始が昭和52年の7月14日木曜日で、国鉄の職員から連絡があり、遺体(遺骨)3体分確認』とある。それにしても、よく残ってたなあ!」

思わず感嘆の声をあげる。田坂も西田の横から覗き見した。

「おまえら運があるな。普通無いぞ、こんな発覚時点からすら時効すら過ぎたようなモンは。逆に言えば、事件数が少ないからこそ出来た技だろうな」

少々自虐気味な発言だったが、田坂の言うことは実際正しいと2人も思っていた。

「一緒に遺体が身につけていた衣服や物品みたいな証拠物もここに入ってますね」

北村は横にあったダンボールを持ち上げると、西田に中身を見せた。確かに土で汚れているが、衣服らしきものが複数のビニール袋に入っており、そのビニール袋には、「昭和52年7月14日 身元不明遺体着衣物件」とマジックで書かれていた。

「捜査報告書だけでなく、証拠物件も残ってたか」

西田は衣服が入ったビニールの1つを手に取ると、ビニールに薄く積もっていた埃を払った。ダンボールの蓋が閉められていたので、中は割と綺麗なままだった。ただ、ダンボール自体は埃や蜘蛛の巣で少々汚れがあり、やはり年月の積み重ねは隠せなかった。

「ここで見ててもラチが開かないだろ? 刑事課に戻ってちゃんと確認したらどうだ? 俺もいつまでも付き合ってる訳にはいかないし」

田坂の提案に2人も頷いた。ダンボール計3箱を北村が2箱、西田が1箱持って倉庫から出ると、警務課の前で田坂と別れ、そのまま刑事課へと戻った。


 箱を1つだけしか持っていなかった西田が刑事課室のドアを開けると、先に竹下が声を掛けてきた。

「あれ? あったんですか、目当てのものが!?」

「ああ、運良く色々残ってた」

まだ夕刊を読んでいた沢井もその会話を聞きつけると、それを置いて席を立ち西田の元へ寄ってきた。

「あったのか! どれ、ちょっと見せてみろ」

「これですね」

西田と北村は机にダンボールを置くと、中から資料を取り出して見せた。手にとってパラパラと報告書をめくり、証拠物件を覗きこんでいた沢井は、

「立件すらしなかったのに、ここまでちゃんと取っておくとは、先輩刑事に感謝すべきなのか、はたまたたまたま放置されていただけなのか……」

と口にした。

「田坂課長は、遠軽署が大して事件がないからとも言ってましたよ」

と西田が冗談めかして言うと、

「それは言わなくてもわかってる」

と沢井は苦笑した。竹下始め、小村、澤田、黒須、満島も色々手にとって見ていたが、証拠物件よりも報告書に興味を示した。中身以上に古い報告書の書式が気になったようだ。実際問題、ほどんど書き方に変わりはなく、彼らも拍子抜けしていたように西田には思えた。しかし、いつまでも後輩達の物見遊山に付き合っているほど気の長い西田ではなかった。

「おい、もういいか? さっさと詳細を調べたいんだが」

西田は少々威嚇気味にそう言うと、各々が自分の机に戻った。


 西田は捜査報告書を自分の机に置き、詳細をチェックし始めた。北村ももう一冊あった報告書を手に取り席に着いた。


※※※※※※※


 昭和52年7月14日午後1時過ぎ、生田原町国鉄石北本線常紋トンネル生田原方向300m付近にて、白骨化した遺体2体を、非番だった国鉄職員3名(喜多川友之・篠田道義・種村正敏)が、慰霊のためにタコ部屋労働者の遺骸収集時に偶然発見。国鉄の保線区に無線で連絡。保線区より通報を受け、遠軽署刑事課並びに鑑識が現場に急行。遺体の確認並びに周辺の捜索で、午後4時半頃、遺体発見のすぐ横から更なる1体の男性の白骨遺体を発掘。場所的近接性、遺体状況から、先の2体とほぼ同時期に埋葬されたものと推測。殺人事件の可能性を考慮し、捜査本部を立てることも考えられたが、かなり前の埋葬であることが確実で時効が絡むこと並びに死因が危害行為によるものか、更なる考察が必要との判断で、取り敢えずそのままの形で捜査が続行された。


 最初の2体を発見した3名の証言によれば、「沢の付近で2つの大きな石が並べて立ててあり、自然状態でのものとは思えなかったため、ひょっとするとタコ部屋労働者の埋葬跡ではないかと推測。掘ってみるとそれぞれから1体ずつの白骨化した遺体を発見」したとのこと。


 その後の鑑識と北見方面本部科捜研の鑑定によれば、「1体は40~60代前後の男性で身長は160前後、死因は不明。もう一体は20~40代前後の男性で、身長は165前後、死因は遺体頭部に陥没骨折痕があったので、それが死因となった可能性が高い。ただ、陥没が事故によるものか人為的なものかは不明とされた。いずれの遺体もかなり年月が経ってあることが一瞥してわかり、着衣を見ても、捜査開始当初は戦前から昭和30年代程度の可能性が高いと見ていた。


※※※※※※※


とまず記してあった。


 それぞれの遺体の写真も貼っており、特に中年~老年らしき「甲」と命名された遺体の写真を見ると、下顎の拡大部分もあり、そこには前歯の部分の金歯が写っていた。西田は歯科について詳しいわけではないが、かなり前の時代の金歯ということで、それなりに金があった人間ではなかったかということをそこから読み取った。報告書にも、「その後の歯科医療関係者への参考聴取の結果、当時としてはかなり高い金額が発生したと思われ、それなりの経済的余裕が当時あったか、またはそれ以前には経済的余裕があった人物と推測される」とあった。


 少なくとも、タコ部屋労働の犠牲者であるならば、そのようなことはなかっただろうと西田は思っていたが、報告書の続きを見ると、「タコ部屋労働者には、富裕者が落ちぶれた者もたまにいたらしく」とあり、それだけでタコ部屋労働の犠牲者であることを否定する材料にはならなかったようだ。また、「しっかり埋葬されていたことは、雑な扱いで埋められれた多くのタコ部屋労働の犠牲者との違いが際立っていたが、後に詳細に報告する、警察の捜査により発見されたもう1体の白骨遺体は、かなり雑な埋葬をされていたので、3件が関連しているという前提では、否定するまではいかない」とも書いてあった。そちらの分の報告書はこの時点で北村が熟読中のため、西田は詳細は後回しにすることにした。


 もう1体のより若いものは「乙」と命名されていたが、その乙の頭部陥没については、「鈍器もしくは重い物体の落下によるものと思われる」との表現だった。「十分に致命傷に値する損傷であったが、それが事故なのか事件なのかははっきり断定は不可であり、物体の特定も出来ない」というのが結論だったようだ。写真を見ても、かなりの陥没痕で、鈍器による殴打であれ、何かの落下であれ、大きな石のような物体ではないかと西田は推察した。


 甲の全体像の写真を見るに、袢纏とパッチ姿で、中にはふんどしと綿シャツを着用していたようだ。乙の写真もほぼ同じ服装だったが、下腕から手の甲にかけて、模様の入った布を装着していた。当時の捜査では、その布は、「アイヌの伝統工芸品で、テクンペと呼ばれるもの」であり、儀式や山歩きの際の手の保護のために使われていた「手甲てっこう」の類らしい。このことから、乙は「アイヌ人」ではないかと言う考えも出たが、これ以外の着用物についてはアイヌを想起させるものは一切なく、乙が持っていた小刀も、アイヌ人ならば柄に独特の装飾が入ったもの(マキリもしくはタシロと呼ばれる小刀、山刀)のはずが、普通のデザインのものだったため、そちらも和人かアイヌ人かの断定は出来なかった。


 西田は一度報告書から目を離し、証拠物件のダンボールを開け、ビニールに入っている甲と乙の着衣と着用物を確認した。土に長く埋まっていたため、かなりの汚れがあったが、それなりに保存はされていたように思えた。「テクンペ」と呼ばれる布は、アイヌの独特の模様が入っていたのが、汚れがあっても判別できた。

(テクンペ参考 http://www.city.sapporo.jp/shimin/pirka-kotan/jp/kogei/hos--tek-un-pe/index.html)


 再び報告書を読み始めた西田に、少々気になる文章が目に入ってきた。甲と乙には一緒に缶の中にそれぞれキセルと刻みタバコ(作者注・タバコの葉を細かく刻んだモノで、キセルに詰めて吸う)の箱が埋葬されていたというのだ。おそらく「お供え」だと見られた。中身は多少抜かれていたが、両方とも半分近くは残っていたようだ。缶の中に入っていたので、保存状態はそこそこだったらしい。直接土中に埋葬されていれば、朽ちていただろう。刻みたばこの銘柄は共に「富貴煙」とあったようだ。当時の「専売公社(今のJTの前身)」に調べてもらったところ、その銘柄は明治41年から終戦間際の昭和19年まで存在していたもので(作者注・銘柄・存在時期共に史実通りです)、これまた時代の特定としては幅がありすぎた」ようだ。

(富貴煙及び刻みタバコ参考 http://ameblo.jp/jibikiya/entry-10225146287.html)


 このような状況において、刻みタバコ銘柄の存在時期を考察すると、少なくとも埋葬されたのが戦前であることまでは確認出来た。ただ、それ以上の甲と乙の埋葬時期や生存期をピンポイントで特定するのは無理筋というのが当時の捜査員の考えであった。そして、甲が自然死なのか、乙が事故死なのか他者による危害行為による死なのかも特定できず、時効も絡んで立件しなかった、或いは出来なかったというのが結論だった。


 また、被害者についての特定は、遡れる範囲での北見方面本部内の行方不明登録者と照合してみたが、やはり年月の経過に限界があり出来なかったとあった。該当地は私有地だったが、地主も心当たりはないという証言をしたようだ。聴取した地主の名前が寺川松之介とあり、おそらく署長が捜索許可を求めた寺川大介の親などの親族なのだろうと西田は踏んだ。


 西田が読み終わった頃には既に北村は読み終えて、西田を待っていた。敢えて互いに何も聞かず報告書を交換し、今度は主に「丙」こと、2体の傍から発見された白骨遺体についての報告書を見始めた。


 現場での捜査開始後に発見された「丙」は、ほぼ並んで埋葬されていたところから2mほど離れた場所に、2体と違い墓石に該当するものもなく、着衣もなく、かなり乱雑な形で埋葬されたとあった。現に、現場での全体が写った写真では、遺体が四肢がまとまりない形で埋められていたのがわかり、おそらく掘った穴に「投げ棄てられた」ような印象を西田も受けた。また、一緒に埋葬されていたのもの見当たらなかったようだ。この点が「タコ部屋労働の被害者」と言う説に一定の根拠を与えるものとなっていた。ただ、それも断定出来る程ではなく、埋葬場所が近かったことがただの偶然なのか、2体と何らかの関係があった故なのか、当時の捜査員も頭を悩ませたらしい。


 そして男性で推定年齢は乙同様20代から40代、身長が170前後と、戦前としては割と高い部類だと西田は思った。死因はこれまた乙同様頭部の陥没骨折だが、写真を見る限り、明らかに甲より程度が酷い。具体的に言えば複数の陥没痕が、患部拡大写真に見受けられた。このことと、埋葬の仕方に乙と明らかに差異があったことから見て、当時の捜査員も殺人か傷害致死であると言う心証を早い段階で持ったのは当然のことだった。ただ、こちらは純粋に時効を理由として立件は見送られた。また甲・乙同様、被害者の特定は出来なかった。最終的に3体の遺体は白骨化していたが、きちんと荼毘に付し、発見場所の生田原町にある「弘安寺」に無縁仏として預かってもらったらしい。


 弘安寺は生田原駅から歩いて5分ほどの場所にあり、生田原で一番古い寺だ。西田も住職が警察署協議会員(端的に説明すると、警察署と地域住民代表との評議会の会員)を務めている関係で、あちらが西田をどれだけ認識しているかどうかは別にしても、西田側にとっては面識があった。現代は葬式仏教、生臭坊主と揶揄されがちな僧侶が多い中、周囲の評価も高い人格者だと、巷では噂されていた。


 ただ、西田はこの時になってやっと気が付いたことがあった。あの慰霊式典での供養を行うために出席していた住職が、今の住職である「松野 真安」とおそらく違っていたことにだ。今まで慰霊式典の冊子を見ている間はそのことに気が付かなかった、いや少なくとも弘安寺からの出席者については、意識して確認していなかったからだろう。


 引き出しから冊子を取り出し確認すると、やはり当時の弘安寺からの出席者は住職「岡田 総信」と僧侶「岡田 興隆」とあり、興隆はおそらく、遠軽にある「弘恩寺」の今の住職である、岡田 興隆」と同一人物ではないかと考えた。岡田興隆も警察署協議会員である。いずれにせよ、この2人は親子だったのではと西田は考えた。そして、今の松野住職は理由あってその跡を継ぐことになった、2人とはおそらく直接的な血縁関係のない僧侶であると考えた。いずれにせよ、そのうち遠軽の弘恩寺の岡田住職に、この点について確認しておかないといけないはずだ。


 西田はそこまで考えると資料を閉じたが、今度は内容量が西田の方が少なかったので、北村より先に読み終えていた。現時点で西田が言えたことは、当時の遠軽署の先輩刑事達は、捜査開始時点で既に時効が濃厚な「事案」の割に、「キチンと」調べたということだ。「今」同様「暇」だったからということもあるかもしれないが、田舎の警察の職員については、かなり杜撰な捜査がされることを、西田は経験上知っていたため、ある意味丁寧な捜査及び調査に敬意を表したくなったほどだった。立件しなかった事件の資料を残しておいたのも、「たまたま」ではなく、3人の死が絡んだにも関わらず、真相を究明出来なかった無念さを、後世に残したかったのかもしれないとすら西田には思えてきた。


 しばらくすると北村も読み終えたので、西田は感想を聞いてみた。

「不思議な事件ですね。時効じゃなかったら、犯人検挙目的というより、単純に解決するためだけに徹底的に調べてみたいですよ」

「確かにな。しかし、よく考えてみたら、今追っている米田の犯人も篠田だとすれば既に死んでるわけで、検挙できないという意味では、俺達のやっていることは北村が言ったことと同じなのかもしれん……」

「言われてみりゃそうかもしれませんね」

北村も噛みしめるように言った。


「おい! 二人共そんな感傷に浸ってないで、読み終わったならどうだったか報告しろよ!」

沢井の低く響いた声で現実に引き戻された西田は、

「課長、まずは今の事件とは無関係でいいと思います、残念ですが。たまたま今回の喜多川と篠田が過去にも関わった事件があったというだけで。しかもあくまで純粋に『発見者』として」

と報告した。

「そうか……。想定内とは言えそいつは残念だ。『余興』にしかならなかったか。ただ、なんか面白そうな事件だから、俺もいっちょ拝見してみるとするかな」

沢井は夕刊を読み終えて暇なのか、2つの捜査報告書を西田と北村から奪うように脇に抱えると、自分の席に持ち込んで黙々と読み始めた。


 それから30分ほど読みふけった沢井は、2冊をダンボールに戻すと、

「あの現場近辺には、最初2つの名も無き『墓標』が立っていた、そういうことになるんだな、2つの」

と「2つ」を繰り返した。それを聞いた西田の脳裏に、沢井が以前慰霊碑を前にして口にした「辺境の墓標」という表現が、ふと蘇った。


※※※※※※※


 8月11日、午前7時半朝から小雨がしとしとと降る中、西田は署の玄関前で傘の雨を振り払って閉じると、急いで署内へと入った。しかし、直後に交通課の高田巡査に呼び止められた。

「西田係長、大変なことになりましたね」

「!?」

高田の言うことが理解できず、西田は怪訝な表情を浮かべた。

「あれ新聞見ました?、今朝の道報」

「俺は単身赴任だからこっちじゃ家では新聞取ってないんだよ。やっぱり取った方がいいかな?」

「あらあ……。取ったほうがいいですよホント。いやいや、そんな話はどうでもいい! 早く見たほうがいいですよ! 大変なことになってますから」

高田に言われるまま、西田は刑事課室へと急いだ。ドアを開けるとそこには普段は西田より後に来ることが多い課長が既に居た。本日休んでいた竹下と満島、そしてまだ北見から着いていない北村以外の部下達も、夜勤組含め既に揃っていた。高田のように新聞で何かを見て慌ててやってきたのだろうか? そして西田が声を掛ける前に、

「おい西田、これ見ろ! お前新聞取ってないから見てないだろ?」

と沢井課長が丸めた新聞を突き出してきた。西田は躊躇なく受け取ると、丸められた新聞を開いた。すると、一面の強烈な文字郡が目の前に現れた。

「道警 無実の人物を別件逮捕。取調べ中に意識不明」

西田は思わず目を丸くした。

「何ですかこれは!」

「一面スッパ抜きときやがった。やられたな。全く頭になかったわけでもなかったが、実際にやられると結構効くなこういうのは……」

課長は机を拳で軽く叩いた。西田はそれを見ながら、今度は紙面をしっかりと読もうとした。


「北見警察署にて、殺人事件の被疑者を交通事故で別件逮捕した後、殺人について無実が確認出来た後も勾留を続け、その後被疑者が取調べの最中に意識不明に陥っていたことがわかった」という出だしに始まり、喜多川が7月25日に逮捕されてから、7月29日にアリバイを主張し成立した後、8月1日に意識不明になって、今も意識不明で入院したままであるという流れが記事になっていた。


 ただ、喜多川が別件逮捕された際の容疑内容が単なる「交通事故」にしかなっておらず、あたかも軽微な事件での別件逮捕であるかのように誤解させるようになっていた。別件逮捕と言えども、一般的に十分逮捕に値する飲酒事故だったのは事実だ。そして、アリバイが成立したとしても、喜多川がカメラを死体から奪ったことや、一連の事件との関連性が疑われたことなど、警察にとって有利、喜多川にとって不利なことがはっきりと書かれないなど、警察が一方的に「悪者」であるかのような記事内容だった。


 西田は最後まで読み終えると、大きくため息をついた。

「殺人について喜多川がシロだったとしても、それ以降も事情聴取する必要性があったことは無視ですか! 大体、別件も普通に逮捕案件レベルですからね!」

やりきれない怒りが口をついて出た。

吉村が、

「まあ警察が悪いというのはブン屋としてもやりやすいところですから」

と投げやりな言葉を発した。

「正直、ひょっとするといつかこういう報道が出てくるかとは思ってはいたが、いざ出てくるとやられた感が強い」

課長は西田から新聞を受け取ると、自分の机に軽く叩きつけた。

「これ北見は大騒ぎでしょうね」

大場の一言に、

「大騒ぎなんてもんじゃない。連続殺しの捜査でエライことになってる上に、今度はこれについての対応もしないといけないだろ。本社(道警本部)も巻き込んで、しばらく収拾がつかないんじゃないか?」

と言いながら、課長は椅子を左右にせわしなく回転させ、落ち着きの無さを隠さなかった。

「女子殺しの件が解決してない上に、これじゃあマスコミと市民の風当たりも更に強くなるかもしれないな」

西田はこの後の捜査への影響を気にした。

「ただ、うちとしては助かりましたね。もしあの時、北見署じゃなくて遠軽署で意識不明になってたら、うちも矢面に立たされたところでしたよ。一応捜査本部が本来あるのは遠軽署だけど……」

大場の言うことはもっともだった。確かに北見方面本部が主導して捜査していることは同じだが、喜多川の意識不明が北見署の取調室で起きたか、遠軽署で起きたかの違いは、少なくとも遠軽署にとってはかなり大きな違いとなった。もし捜査本部のある遠軽署で起きたとなれば、釈明会見をするとすれば、槇田署長も同席しなくてはならなかったろう。マスコミもこちらにも押しかけたことは間違いない。

「あと、別件逮捕自体が飲酒人身事故だったのも不幸中の幸いですよ。通常、逮捕しないような案件だったら、問題がもっとでかくなったはずですから」

黒須が付け加えたことも否定できない事実だった。


「しかし、松田弁護士の差し金ですかね?」

黒須が疑問を口にした。

「北川が意識不明になったのが8月1日で、今日が8月11日。松田が告発目的で道報に情報流して、道報が裏付けして出したのが今日ってところかな」

課長が自分の考えを述べた。

「しかし、それに10日も掛かりますか? 当事者ですから鈍感になってましたが、よく考えたら結構ニュースバリューがあるような記事の気がしますけど」

小村の指摘は確かに一理あった。冤罪やこの手の話はマスコミとしては飛びつく価値がある。捜査本部詰めの捜査員達の口が重かったにせよ、それなりに「コネ」があるブン屋なら、捜査本部外の北見方面本部の捜査員にでも聞く手はあったはずだ。幾ら捜査員が口が堅かったとしても、やはり完全に情報が外部に漏れるのを阻止することは、余程の緘口令を敷かない限りは、刑事たちの経験上もかなり無理があった。それほど裏取りに時間が掛かるとは思えない。

「松田が色々やることがあって、すぐには道報にタレコミできなかったんだろうよ。とにかく、こっちは自分たちのやるべきことをやるしかない」

課長はイライラしながらもそう断定すると、捜査員に発破を掛けた。各々がそれを受けて席に戻るが、やはりソワソワした空気が刑事課に充満したままだったことに変わりはなかった。


 午前9時前、

「すいません、遅くなって」

と北見から通勤している北村が息を切らして駈け込んできた。

「道報みたか?」

課長が声を掛けた。

「はい。勿論。気になったので方面本部も寄ってきましたが、殺伐としてたというより、みんなかなりマイッちゃってるってところですか。本部長も一課長も刑事部長も苦虫噛み潰したような顔してましたね。管理官だけは飄々としてましたけど」

「あっちはこれから記者会見とかやることあるからなあ。そりゃなあ。本社からも怒られただろうし」

沢井は心底同情していたようだった。

「いや、道警本部にはむしろ怒ってましたけどね。道下さんなんか寄越したせいだと。とにかく、しばらくは落ち着かないでしょうね……」

「連続殺人の方はどうなってんだ?」

「手掛かりなしですね。腐乱した方は未だに身元不明状態です」

西田に答えた北村の口調は重かった。

「前門の虎、後門の狼。どっちもちゃんと処理できないと、マスコミの格好の標的になる」

課長は深刻そうに言った。

「遠軽署がうらやましいですよ。今回は上手く避けたタイミング良すぎじゃないですか」

北村は悪意はなかったのだろうが、そのセリフを聞いた遠軽組としては、否定はできないだけに余計に複雑な心境になった。


 その時だった、重い空気を切り裂くように突然電話が鳴った。大場が電話を受けると、

「係長、田中、多分田中清のことだと思うんですが、その田中から係長に電話がかかったんで、こっちに繋いだそうですが……」

と西田に告げた。

「田中清?」

一瞬、田中から電話が掛かってきたことに困惑したが、すぐに「喜多川の記事を見たのか」と合点がいった西田だった。正直受話器を大場から受け取らないで済むならそうしたかったが、そういう訳にもいかない。

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