第19話 迷走6 (51~60)

 そんな二人の様子を見ていた近藤も、影響されたかのように再びキャップを開けてお茶を飲み始めた。今回はかなりの量を飲んでいるようで、ボトルの薄い緑色のラインがドンドン下がっていく。既にその場での「必要量」を取り終えた西田が、今度は逆に近藤の飲みっぷりを窺っていたが、近藤はそれに気付いたか突然ボトルから口を離すと、またキャップをキュッキュと締めてテーブルに置いた。

「ツルハシのことですけど、今お茶飲んでたら、ちょっと気になることを思い出しましたよ」

「どんなことでもいいのでお願いしますよ」

「あの時増田さんがジープの後ろのドアを開けて、色々工具が積んであるのを専務に見せて確認させてたんです。自信はないですが、かなり色々あった記憶があるんで、もしかしたらその中にツルハシもあったんじゃないかと思います。ただ、自分で言うのもなんですが、自信はないんですがね」

近藤は念を押すように西田に自信の無さを繰り返したが、そういう可能性が残っただけでも、十分期待させる内容だった。


「いや、そりゃ仕方ないですよ。3年前の話ですし、いちいち意識して見てたわけじゃない。その件も含めて、近いうちにその増田さん? にも確認しないと」

「実はね、その増田さんなら、まさに今こっちの現場にも参加してもらってますよ。うちの橋関係の仕事ではいつも世話になってますから。残念ながら、廃車にしてしまったらしく、今は当時の車じゃないですけど」

「ほ、本当ですか! それを先に言ってくださいよ! さっき話に出てきた増田さんにも話は聴かないといけないとは考えてましたが、まさかこの場にいるとは! 実に都合がいい! 勿論この後で話聞かせてもらえますよね?」

思いがけない近藤の言葉に、西田は色めき立った。肝心のジープが廃車になったことはどこかに飛んでしまった。

「そいつは申し訳ない。さっきジープの持ち主について聴かれた時に言おうと思ったんですが、すぐに『分かりました』と話を切られてしまったんで、言いそびれてしまって……。増田さんにはこの後私から話してみます。まあ増田さんが拒否することはないでしょう」

「いやあ、こいつは非常に助かりますよ!」

西田は自然と笑みがこぼれたが、横の満島はそれほどでもなかった。


「増田さんは紋別の会社だから、ここに居なけりゃ紋別まで行かなくちゃならなかったわけで、確かに刑事さんは運がいいかもしれない。うちも橋脚の工事はそんなに頻繁にやってるわけじゃないんでね」

西田としては紋別に行く方が、知床に来るよりも物理的な距離の近さでは上だったので、喜んだ理由は全く別だった。「手間が省けた」ことと、証言者が同時に二人居ると、相互に記憶の補完が出来るので、証言の確実性が高まることがその理由であって、近藤の話は正直言って的外れだったが、そんなことは気にならないレベルの幸運だったことは間違いなかった。それでも今は篠田のことについて聞くのが先決だ。

「増田さん関係の話は後で聞くとして、ひとまずはその後の篠田専務の話を聞かせてもらえますかね」

「それで車を借りて出て行ったまま、工事が終わって皆が現場から戻ってきた頃に、専務も戻って来ましたよ」

「その時の様子はどうでした? 出来れば詳しく」

「かなり疲労してた感じはありましたね。私が『お疲れ様です』と言ったら、か細い声で反応しただけでしたからね。あの割と横柄な人が……」

満島の質問に答えながら、近藤は苦笑していた。やはりここでも篠田の評判は悪かった。


「作業着の汚れなんかはどうでしたか? 如何にもどこかでスコップを使って作業したような形跡はありましたか?」

「凄い汚れていたという強い記憶はないですが、それなりには汚れていたかもしれません……。その部分は余り印象には残ってません、残念ながら。ただ、とにかく疲れているように見えたのはよく憶えてます」

「なるほど、それなら結構です」

近藤は目を細めて一生懸命記憶を辿ろうとしていたが、その部分ははっきりしないようだった。ただ、自信を持って適当な証言をされるよりは、むしろ西田としてはありがたかった。誤った情報は誤った捜査に繋がるのは自明だ。

「ところで、その作業着ですが、帰る際には背広に着替えて戻ったと思うんですが、どうなったかわかりますか?」

「確かに背広には着替えてたように思います。作業着については、そのまま専務が持って帰ったと思いますよ。私は受け取ってませんし。まあ会社の重役に『貸した作業着返せ』ってのもねえ……。余分に置いてあるモンですから。ただ、さっきの汚れの話に戻りますけど、わざわざ着替えたのだから、少なくとも汗はかいていたんじゃないですか。真夏でしたから。そういう風に考えると、やっぱり汚れていたんですかねえ……」

仮に返していたとしても、その作業着がそのままの状態で保存されているわけもなく、西田は口に出した後に『無理だな』とは思ったが、出てしまったものは仕方ない。ただ、血痕のようなモノが作業着に残っていればかなり有力な証拠になるのは確かで、聞かずにはいられなかったのだ。


「そう言えば、専務は現場の事務所に戻ってきてから社長に何らかの連絡はしたんですかね?」

満島が西田がすっかり忘れていたことを聞いてくれた。

「いや、私達の事務所の電話ではしてなかったはずですね。とは言っても、携帯も当時はまともに湧別の工事現場には電波が来てなかったはずですし、持ち歩いてなかったとも思います。結局北見に戻ってから、何の話かわかりませんけど報告したんじゃないかと。まあそもそも携帯が持ってて通じてるなら、社長は直接専務に掛けますわな。専務がこっちに戻ってくる途中で公衆電話とかで掛けてたら、それはこっちも知り様がない。行った場所自体は、推測する分にはどこかの山の中っぽいしねえ……」

近藤はこちらがすべき推理までしてみせた。


「それじゃあ8月10日の話はここまでにして、次に翌日以降の話も聞かせてください。翌日も早い時間帯に来たんですよね?」

西田はメモで見開きのページが一杯になったので、次のページをめくりながら聞く。

「11日はまず、朝一で専務から電話が来まして、『喜多川専務の名前が裏に入った時計がそっちにないか』って言われました。で、簡単に探したところ見つからなかったので、『見当たりません』と言ったら、『本当にちゃんと探したのか?」と聞かれまして、挙句『おまえらじゃ信用出来ない!』と言って、結局現場までやってきましたよ。午前10時ちょっとには来たように思いますよ。それで、いきなり作業員集めて荷物検査ですからね。こっちも『信頼関係に関わるからやめて欲しい』と頼んだんですが……。出てこなかった後は、現場や事務所を片っ端から本人と私で探しましたけど、勿論見つからず。そして、そのまま、午後には去って行きましたよ」

「その11日ですが、車は白のランクル、来た時点で服装は既に作業着だったという証言を既に得てるんですが、それは合ってますか?」

「よく調べてますね。誰に聞いたんですか?」

「それについてはちょっと……」

満島は口を濁した。正直、西田は別に富岡の存在を「出して」も良いと思ってはいたが、収監中の富岡と篠田との関係性の発覚の経緯を考えたのかもしれない。

「捜査情報の秘密って奴ですか。いやその通りで、こちらこそ失礼しました。合ってるのは確かです。会社のランクルでしたね。多少、色々ひっくり返して探すのに、埃なんかで汚れる可能性はありましたから、そのために作業着を着て来たんじゃないかと思いますが」

近藤は2人の様子で察したか、それ以上の追及は止め、聞かれたことに答えた。

「しかしそれだけだとランクルだった理由はイマイチ説明がつかない。汚れた服で乗っても構わないということはあるかもしれないですが……」

西田が疑問をぶつけた。勿論ランクルだった理由は、生田原の現場に行くためとほぼ断定していたからこその言動であった。

「そう言われるとそうですね……。役員車が使えなかった場合でも、会社の車には普通のセダンタイプもあるはずですから……。前日同様の場所か前日と同じ場所に寄るためだったかもしれないです。まあそこら辺は素人の私が考えるべきことじゃないでしょうから」

「それは確かにそうです。流れでついムキになってしまいました」

率直に西田は頭を下げた。


「じゃあ11日の件はこれぐらいにして、話を12日に移します。その日のことをお願いします」

「12日は電話も掛けずに直接やってきて、11日に探したところをまた念入りに探し直しという感じでしたか。私はその日は忙しかったこともありますし、専務の前日の態度に呆れたこともあって、手伝いませんでしたね。あっちも特に何か言ってこなかったってのもありますが」

「12日もランクルと作業着でしたね?」

「ええ、そうです。ただ、その日は11日よりは早く戻っていったような記憶がありますよ。まあ前日に出なかったもんが、同じ所から出てくるわけもないですよね」

この点も富岡の証言と一致していた。口裏合わせをしたはずもなく、両名の証言の確度はかなり高いはずだ。

「作業着に汚れはありませんでしたか?」

「いやなかったですよ、確実に」

西田は質問の答えに対する近藤の確信が、10日の作業着の件と違って、どこから来ているのか気になった。

「そこまで言い切れる理由は、失礼ですが、単なる記憶の強さからですか?」

「勿論ですよ。役員の作業着は一般の作業着とはちょっと違うんですが、色も2種類ありましてね、灰色と薄い水色のですよ。11日は灰色、12日が水色だったんです。だから印象に残ってるんです。因みにさっきはそういう話にならなかったから言いませんでしたが、10日に専務に貸した作業着は、うちの一般作業員が着ているのと同じ奴でした」

「そういうことですか。それなら印象に残るはずです」

納得出来る回答だったが、近藤と違って富岡が作業着について記憶がはっきりしなかったのは、おそらくそういう予備知識がなかったこともあるかもしれない。


 いずれにせよ、近藤の証言が事実だとすれば、11日に湧別の工事現場を離れてから、生田原の殺害現場に行き、作業をして汚れたとしても、翌日にはその汚れを持ち越すことはなかったはずだ。ただ、計3日間に渡って、篠田が会社に戻った際の状況についての証言が得られることは、前日の伊坂組からの返答よりまず考えられず、この部分については推測の域を出ることはなかった。


 西田も満島も近藤に現時点で聞くべきことは聞き終えたと考え、いよいよ、車を貸したという増田への聴取をすることになった。二人を事務所に残して、近藤が増田に話をつけに行ったが、ほとんど時間も掛からず、増田を連れて戻ってきた。


 席を立って自己紹介した視線の先にいた増田は、かなり年配の、おそらく60代半ばは行っていそうな風貌だった。日焼けした顔付きに背は小柄で痩せ型ながら、腕はかなり太く見えた。社長とは言っても、この年になっても現場に出てくるのだから、余り大きな会社ではないことは確かだろう。社長というより、いわゆる「親方」タイプだと、西田は思った。


「お呼び立てしてスミマセン」

「いやいや、事情はよく飲み込めないが、大事な捜査みたいだから……。近藤さんにも頼まれたし仕方ないべ。名刺今持ってなくてねえ、申し訳ない」

増田は手で「勘弁」のジェスチャーをすると席についた。

「近藤さんから聞いた分には、あの時の伊坂組の「お偉いさん」に車貸した時の話を聞きたいんだって?」

お偉いさんという言い方に、篠田とそれ以前の親交はなかったのだと西田は判断した。

「その通りなんです」

「まあ、近藤さんに頼まれて仕方なくってやつよ。以前も現場で何度か見かけてたが、偉そうな態度だったんで、伊坂さんところの偉い人だとは思ってたけど、知らない人には貸したくないからね、俺の愛車だったから」

言い終えたところで、近藤から缶コーヒーを手渡された増田は、躊躇なく開けるとそのまま飲んだので、西田は質問のタイミングを失った。すると満島が質問権を奪うように、

「近藤さんの話では、ジープは既に手放されたそうですが、間違いないですね?」

と言った。

「あれ? 近藤さんから聞いたの? そうそう、さすがに15年乗ってたから、昨年の春にお釈迦にしたよ。おつかれさんってやつ」

「そうですか……。やっぱり廃車ですか」

満島は思わず舌打ちした。悪態のつもりはなかっただろうが、西田は一瞬前の二人の表情を見た。特に気になってはいないようだった。


 しかし、すっかりどさくさに紛れて、西田は事の重みに気付いていなかったが、確かにジープが廃車になったのはかなり痛い事実だった。可能性は高くはないが、増田の所有でなくとも、車自体が他人名義であれ残っていれば、3年経っているとは言え、血痕などの残留物を調べてみる価値もあったかもしれない。また生田原の現場に行った物証が得られる可能性もゼロではないかもしれない。さっき増田がこの現場に来ている事実を知らされた時に、満島が大して喜んでいなかったのは、この意味をあの時の西田より大きく捉えていたからだろう。西田はやや恥じ入った。ただ、失くなったものは、残念ながら今となっては仕方がないことだ。切り替えていくしかない。


「篠田にスコップの必要性を言われて、色々道具が後部に積まれているのを見せたそうですが、その中にツルハシはあったか憶えてますか?」

西田は待ちきれないように、いきなり核心をついた。

「勿論あったさ。そして篠田ってお偉いさんも勿論知ってた」

勿論を2度使った増田。余程確信があるようだ。

「篠田が知ってたっていうのは、どういう理由でそう言えるんですかね? ツルハシについては特に要求していたわけじゃないようですが」

西田は、せいぜい『道具を見ていた時に、必ず目につくはずだ』程度の返答だろうと高を括っていた。

「車を貸した翌日、その人がまた来た時、俺に言ったんだ。『車に積んであったツルハシを2万円で譲ってくれってね。ツルハシに2万って言われたら、そりゃびっくりするべさ!」

「えっ! それは本当ですか!」

西田はそう言うと前のめり気味になった。満島もメモを取る手を止めて、話に集中していた。ツルハシの値段が幾らするか、西田にははっきりとはわからなかったが、2万もするとは思えない。そう考えると、増田がびっくりしたのもおかしな話ではないだろう。そしてよく印象に残っているのも筋が通る。そして何より、ツルハシに2万も出すのは、そうまでしてそのツルハシを欲しかったという証拠でもある。


「それで譲ったんですか?」

「勿論だよ。なんでそんなに出すのか不思議だったけど、こっちとしては理由なんかどうでもいいことだべや。違うかい?」

「そうですね。もし私がそう言われてもそうするでしょうね」

西田はそう答えたが、内心では、既に現物が篠田に回収されていたという事実は重くのしかかっていた。おそらく既に処分されているだろう。ジープ同様、貴重な証拠が2つ失われたわけだ。すがる思いですぐに次の質問に移った。

「前日の10日、車を返す時にはそういう話はなかった?」

「ああ、なかったね。車を貸したことで、感謝の言葉すらなかったよ。まあ疲れていたから、忘れていたのかもしれない。それとも2万でツルハシ買ったのは、謝礼のつもりだったのかもと、後から思ったりもしたもんだ。まあそれにしても高いけどな」

増田は笑い飛ばした。

「失礼ですが、車が返って来てから、篠田に渡すまでにツルハシを見る機会は、おそらくあったんじゃないかと思いますけど、何か問題があるような形跡は?」

「問題? 特に欠けたりとかはなかったと思うけど」

「そうですか。その渡したツルハシは工事とかに使っていたものですか?」

「いや、基本的にウチの仕事は、10年前ぐらいからはツルハシを使うようなことはやらなくなってたからね。積んであったのも、仕事というより、自分の山菜採りなんかに使うかと思って、予備に積んでた程度。多分、買ってからもほとんど使ってないような、新品同様の状態だったはずだな」

「当時買ってからどれくらいだったかわかりますかね?」

「……。そこは難しいが、その前に持ってた奴の柄が緩くなってることに気付いてね。それで買い替えたのが、既にそのジープにはかなり乗ってた頃だったから、まあ3年ぐらいかな、長く見積もって。正直はっきりはわからない」


 ここまでの増田の言ったことを総合すると、おそらく篠田が買い取ったツルハシは、米田を殺害する以前からそれほど傷んでもおらず、同時に殺害後にも特に歯が折れたり、血痕が目に見えて残っていたようなこともなかった可能性が高かった。特に血痕については、おそらく篠田は車に積む前には、拭きとっていたか、地面に刺して拭ったかぐらいのことはしていただろう。とにかく、総じて買った当初とほぼ変わらないままだったと見て間違いない。ただ、前日の10日中に増田から買い取るなり、或いは盗んでおくなりしなかったのは、篠田の物忘れしやすい性格か、或いは戻ってきた際に、作業員が仕事から戻ってきたのと重なって、他人目が気になったかして、その場では持って帰れなかったということだろうと西田は考えた。殺害現場はともかく、戻ってくる途中の山道にでも捨てなかったのは、増田のモノだから、失くなると騒がれる恐れがあって、「穏当」な手段で確実に入手しておくことを、殺害の直後は考えていたのかもしれない。ただ、色々焦っていて東実は忘れてしまったと。


 いずれにせよ、西田がそこまでツルハシの状態にこだわったのは、既に「現物」がない以上、そのツルハシと同じものを入手して、米田の頭蓋骨に残った創傷と比較するしかないため、その現物の状態が、貸す前後でどうだったか確認しておきたかったからだ。


「そのツルハシですけど、さすがにどこで買ったかとか商品名とか憶えてませんよね?」

「いや、よく憶えてるぞ。渡したの奴を買ったのも、買い直したのも紋別のホームセンター「エステルホーマー」だ。商品名はわからんが、今、俺の車に同じモンが積んであるからそれ見ればいい。売った後に、当時同じモンを買い直したはずだから」


 矢継ぎ早の西田の問いに答えていた増田と、それを機械的に処理していた西田だったが、再び西田は前のめりになった。

「それならすぐに見せてください!」

「刑事さん、なんでそこまでツルハシにこだわるんだ?」

文句も言わず応対していた増田だが、さすがに西田のさっきからの言動には、違和感を感じていたようだ。そして、西田自身、捜査している内容について、どこまで打ち明ければ良いか、その前から考えあぐねていた。


 だが完全に黙っているという選択肢は、相手に協力してもらうことを考えれば、やはり無理があるだろうと、西田は増田の発言から再認識させられた。どこまで明かすか、難しいさじ加減が必要だ。しかし、警察が篠田について今更調べており、しかも念入りとなると、それなりの事件だということは、相手も既にわかっているはずだ。しかも調べれば調べるほど、何を調べているかもバレていく。どちらにしても、結局は相手にバレるのは時間の問題だと西田は覚悟を決めた。


「篠田さんとある殺人事件の関係を調べています」

「殺人!? 篠田専務が人殺しをしでかしたんですか?」

 いきなり刑事の口から「殺人」という言葉が発せられたことに、二人はかなり動揺した様子を見せた。特に近藤は、かなり驚いて飲んでいたお茶にむせ、西田に聞き返した程だった。

「そいつはえらいこった。刑事さん本当だべな?」

増田は目を丸くして西田に確認したが、西田も真剣な顔でそれを肯定した。

「まいったなこれは……。俺が売ったツルハシで人が死んでたってことでいいんだろ……?」

しばし呆然とした増田だったが、なんとか気を取り直したように、

「それじゃあ、すぐに今あるツルハシを見せないと。確認してもらうべ……」

と言うと、やおら立ち上がって、西田達を案内しようとした。刑事二人と近藤も増田の後を付いていく。


 西田達も駐めていた駐車場の端にあった車は、パジェロだった。こういうオフロード系の車がお気に入りなのか、必要なのかわからないが、買い替えた後も同車種なのは事実だ。後部ドアを開けると、そこには数点の工具が積まれていた。おそらく、ジープにも同様に積んであったのだろう。


「これだよ。同じ奴のはずだ」

増田が手にとって渡してくれたツルハシを、念入りに確認する西田と満島。これまたかなり状態が良く、ほとんど使っていないのは明らかだった。増田がこれまで発言したことが事実なら、おそらく「傷」はほぼ一致するはずだ。無論、製造工程などが違った場合には、そうとは言い切れないが、その場合には、ツルハシの柄に張ってあるメーカーに直接確認するしかない。

「申し訳ないが、これしばらく警察に貸してもらえませんか?」

「いやいや、勿論持っていってもらって結構だ。特に使うこともないし」

西田の申し出に、一も二もなく快諾した増田だったが、実態は快諾というより、自分が証拠を犯人に売ったかもしれないという後ろめたさから、NOとは言えないという気分だったのかもしれない。ただ、勿論その過去の行為に悪気などあるはずもなく、西田はむしろ増田の証言含めた協力に、感謝しかなかった。


 12日については増田は篠田と一切コンタクトしてなかったということで、今回の聴取はここまでに止め、鑑定のために借りた代替品のツルハシを持ち、西田達は北見方面本部へ向かった。米田の頭蓋骨から型取りした創傷部分の模型が鑑識課に置いてあるからだ。


 同時に、かなり大きな「収穫」があったので、鑑定前に概要を無線で署に連絡すると、沢井課長は急な進展にかなり驚いていたが、西田が想像していたよりは冷静な態度を取った。実際のところ、もうちょっと喜んでくれてもいいと思ったぐらいだった。


 2時間とちょっとで北見に到着し、北見方面本部の建物に西田と満島は入っていった。しかし、いつもの活気はなく、かなり静謐な雰囲気に包まれていた。先日までの空気と違ったことで、異次元の世界に迷い込んだかのような錯覚を西田は感じたが、よく考えれば連続女性殺人の捜査の為、相当数の刑事が、北見署にある特別捜査本部に出払っているせいだと気付いた。


 そして廊下で先日まで一緒に捜査していた宝来という刑事と出くわした。方面本部付で捜査本部から送られてくる情報を整理するため残っているらしい。捜査状況を尋ねると、腐乱死体の方も強姦の痕跡はあったが、特定できていないとのこと。失踪届が出てない可能性が高いようだ。思ったより長引くことも考慮しているようで、しばらくは方面本部からの協力を期待するのはやめた方がいいと西田は悟った。


 鑑識課の部屋に入り、鑑識課主任であり、米田殺害事件の担当鑑識官の柴田に、増田から借りてきたツルハシを渡す。柴田は、二人の話を聞きながら、ツルハシより二人の顔をジロジロ見ていたが、話を聞き終えるや、

「本当かねえ、これが凶器と同じツルハシなの?」

と、お得意の無意識な憎まれ口を叩いたが、持ってきた模型の傷口の部分とツルハシと合わせる。

「ほう。こいつは驚いた。ピッタリ一致してるよ! 今すぐ確定というわけにはいかないが、こりゃ間違いないだろうなあ。お手柄だねえ。おめでとう」

余り本心から褒めているようには思えない口ぶりだが、真意は違うはずだ。西田と満島は文字通りの意味に受け取っておくことにした。


「それで、この後の展開はどうなるんだ? 死んだ篠田とか言う男が米田を殺害した確率がグンとアップしただろうけど、お決まりの書類送検という形?」

「柴田さん、凶器がおそらくこのツルハシと同じモノだということが証明できただけで、篠田が実際に殺害現場に行ったかもはっきりしてない。俺は幾つかの状況証拠から、行ったと考えてますがね……。客観的には、そこはまだせいぜい『行っただろう』という段階ですから、そこをなんとかして証明しないと厳しいんじゃないかと思いますよ。極端な話、誰かにツルハシを又貸しして、そいつが米田を殺したって論理も、ありえなくもないですから。状況証拠は確実に篠田の犯行を示しつつありますが……」

「西田の言うこともわかるが、あくまでも机上の可能性の話で、普通なら借りた篠田の犯行だよな、実際問題。ここまで来たら、後はなんとかなるんじゃないの? 結局は不起訴って結末になるのはわかりきってるけど」

「相手が故人であっても、不起訴でもそこは慎重にやります」

「そいつは刑事の鑑ってやつだ。取り敢えず、これ預かっておくから。報告書は数日掛かるかもしれない。わかってると思うが、ただいま女子高生殺しでこちらも手一杯」

柴田はぶっきらぼうにそう言うと、ツルハシと模型を持って奥に消えた。


 遠軽署に戻ると、西田と満島による報告もそこそこに、篠田の書類送検のために、どう「詰める」かが話し合われた。沢井課長も西田同様、「篠田が実際に殺害現場に行ったかどうか」或いは「実際に篠田が殺害したか」をどう証明するかが難しいという認識だった。


「ジープの廃棄は、今回の聴取で唯一の大きな失望結果だな……。凶器のツルハシは代替品の入手が可能だったから、増田の証言含めてなんとかギリギリで踏みとどまったが」

課長は渋い顔でそう漏らした。既に死んでいるとは言え、ホシを追い詰めつつあったからこそ、篠田の死亡とジープの廃棄は残念な事実だったが、1ヶ月前までのことを考えれば、相当の進展を見ていることは明らかだった。だからこそ、最後の「王手」が見当たらないことがもどかしい。考えが浮かばないまま会議は続いた中、竹下がおもむろに口を開いた。


「伊坂……、死んだ先代社長の伊坂大吉ですけど、今回の証言で、どうやら湧別の工事現場に居た篠田に8月10日電話を掛けてきたんですよね? その内容ついては、はっきりとはわからないということですが……」

「その通りだが? 竹下は何かあるのか?」

「係長としては、それについてどう思いますか?」

「どう思うと言われても困る。言い争っていたというのだから、それなりのことなんだろう」

「篠田と意識不明の喜多川は、佐田実の失踪事件にも関与している可能性が高いというのが、これまでの捜査情報も加味した結果ですが、その電話がそれと何か関係しているという可能性はどうでしょう?」

「主任! しかし佐田の事件は8年前、今回の篠田の話は3年前ですよ?」

小村が当然の疑問を投げかけた。しかし竹下は怯まない。

「当時の工事関係者の証言を聞く限り、『そんなわけはない』とか『確認する』とかそういう話が、いわば伊坂と篠田の言い争いの中で繰り広げられていたというのが今回の聴取で出て来た話だろう。勿論純粋な仕事の話の可能性は完全には否定出来ないけど、その後の篠田の行動を見ても、単なる仕事絡みというにしては、不可解な行動が目立つような気がします。一方で、言い争いになったという点からも、相当大きな問題がその時急に生じていた可能性が高いのは間違いない。仕事ではないが、それ以外で大きな問題が生じていた……。しかもかなりアウトドア的な準備が必要な場所へと、『確認』のために向かう必要が生じた。これらを加味すると……」

竹下はそこまで言うと、その先をやや躊躇したように西田からは見えた。しかし息を飲むような動作をすると、

「かなり飛躍した推理になるけど、もしかすると、『確認する』というのは、佐田の遺体を確認することだったんじゃないかと」

と突拍子もないことを言い出した。この大胆過ぎる推理に西田は竹下の顔を思わず二度見してしまった。沢井課長、小村、澤田、吉村、黒須、大場の他の遠軽署員6名、満島、北村の北見方面本部の2名の計8名も竹下に視線を集中させた。

「随分、大胆過ぎる発想だな」

課長は椅子を回転させて横向きになった。

「そもそもですが、米田が殺されたのは、状況から見て、たまたま何かに巻き込まれたからというのが、これまでの捜査から出た有力な仮説です。何に巻き込まれたかという点においては、最も可能性が高いのは、『犯罪の現場に出くわした』というモノでしたよね?」

竹下は周りから反応が出ないことなど構わず続けた。

「その『犯罪の現場に遭遇』とは、8年前に篠田が……、いやこれには喜多川始め、他にも共犯がいた可能性がありますが、佐田を殺して捨てた遺体を3年前に『確認』のため再び掘り返した、丁度その場面だったんじゃないか? そういうことです。なにしろあの場所は、篠田と喜多川にとっても昔から土地勘のある場所ですから、佐田の遺体の遺棄場所としてはありえますよね? 課長」

「その説には、問題があるように思えるなあ」

満島が間をおかずに異を唱えた。

「まず、佐田が殺されていたとして、その遺体を再確認する必要がどうしてあったかがわからないということ。少なくとも、佐田の失踪から5年は事件を隠蔽できていたのは確かだから。伊坂と篠田のやりとりから見て、それなりの重大な何かがあったのは可能性としては十分あり得るとしても、それが佐田の遺体の確認まで結びつくかどうか……。そして万が一……、仮にそうだったとして、その確認する理由は何か? 推理としては面白いが、そこにまで至る過程にかなり無理があるように思えるなあ」

「伊坂と篠田に共通しているのは、佐田の失踪に何か関わっていそうだということはその通りだが、そこから今回発覚した事実を直接結びつけるのには、まだ弱い気がする。1つの可能性としては考慮しても良いとは思うが……」

西田も満島に同調した。

「竹下、ちょっといいか?」

沢井が再び正面に向き直って竹下に喋りかけた。

「仮に竹下の推理の通りだったとしてだ……。問題は、今その佐田の遺体はどこにあるかということになる。どう考える?」

「米田が、篠田が掘り返したところを目撃後、すぐに殺害されたと言う想定が、自分が考えた説の中でも最も説得力があるのは自明です。そして米田の遺体も、殺害場所からそう遠くないところに埋めたと見るのが賢明でしょう。それを前提とすると、必然的に米田の遺体があった場所と佐田の遺体があった場所はそう離れてはないと言えるのでは?」

「うーん……」

沢井はうめくように声を絞りだすと、今度は背もたれにもたれかかって天井を見上げた。先程まで竹下に集中していた皆の視線は、今や課長の「だらしない」姿に向けられていた。誰も一言も発しないまま、時間だけが流れていく。ただ、誰も発言をしない理由は、何も思いつかないからというより、課長が何を次に言うか待っていたというのが正しい理由だったろう。


「西田! 米田の遺体が見つかってから、俺達がしてきた捜査は、当たり前だがまず米田の殺害犯人を挙げることだったよな?」

沢井は姿勢も直さず、いきなり西田に話を振ってきた。

「は? あ、はい……そうです。そりゃ当然です」

突然の質問にも当然の内容にも、不意を突かれた西田は一瞬口ごもった。

「そして、向坂から8年前の佐田の失踪事件を聞き、その後の捜査も含め、米田の殺害と佐田の失踪に、喜多川が関与していたのではないかという前提で捜査が進んだ。そうだな?」

「ええ」

皆が頷くが課長の意図を図りかねていた。淡々と事件の経過を話し始めたことに、他の刑事達も態度にこそ出さなかったが、沢井の「変調」の理由を飲み込めていなかったのだ。


「しかし結局喜多川は、アメリカに当時長期滞在していたので、米田の殺害には直接的に関与していなかったわけだ。それにより、当初もくろんでいた喜多川の立件から「上(上層部)」には文句を言わせずに、佐田の事件と喜多川の関与を捜査していくという狙いは完全に崩れてしまった。一方で篠田という存在が急浮上し、篠田も佐田の事件に関与していた可能性が出てきた。だから篠田の件から佐田の事件の捜査という別のルートが見つかったわけだ」

沢井はここで姿勢を改めると、更に話を続ける。

「今日の西田と満島の捜査により、米田の殺害については、死んだ篠田がクロであるという心証はある程度高くなった。が、残念ながら最後の一押しのピースが見つからない。これが現状だと思う。そして、経年数と現状を考慮すれば、そのピースはかなり見つけるのは厳しいとも考えられる。だとすれば逆の発想が必要になってくるかもしれない」

「逆の発想ってのは?」

吉村が疑問を口にした。


「今、遠軽署が置かれている状況は、正直言ってかなり特殊な状況だと言うことだ」

課長はそのまま押し黙った。待ちきれなかったかのように竹下が口を開いた。

「なるほど! 課長が言いたいことは、今遠軽署がほぼ単独で捜査に当たっている特殊事情を最大限利用しようと言うことですか……」

「竹下の言う通りだ!」

竹下が課長の意図を代弁できたようだ。課長はそれを契機とばかりに熱弁を奮い始めた。

「今の捜査本部は満島と北村こそ『北見(方面本部)』のメンバーではあるが、基本的に『遠軽』単体で捜査している。しかも北見と『本社(道警本部)』が完全に端野の女性殺しに集中しているから、『本社』もこちらには『監視』が及んでいない。千載一遇のチャンスでもある。本来踏むべきだった、『上』からの新たな捜査方針の許可という『手順』を踏まずに、佐田の事件を自分達で勝手に先に捜査していくことも出来る状態なわけだ。倉野さんや大友さんや向坂がやりたくてもできなかったことが、今なら遠軽署単独でやれるかもしれない! そして、竹下が最初に言った通り、佐田の事件と米田の事件が直接的にリンクしているとすれば、佐田の事件を先に解決することが、篠田の米田の殺害を証明することに繋がるかもしれない。当初とは全く逆のアプローチになる!」

ここまで課長が言うと、西田は敢えて口を挟んだ。

「ちょっと待って下さい! 確かに最後のピースの発見は難しいとは思います。ただ、篠田関連のガサ入れで、篠田が増田から買い取ったツルハシが見つかるかもしれません。また米田が行方不明になった際の捜査資料の洗い直しと言う手はあります。まずはそれをやるべきじゃないですか?」

「うむ、それは否定しない。しかし、米田が失踪した直後の資料については既に洗い直しはやっているから、新材料が出てくることはほぼないだろう。ガサ入れするにも、既に死亡している相手へのガサ入れの根拠としては、やはり篠田が、殺害現場に8月10日の米田が行方不明になった当日行ったという根拠がなければ、令状は下りないんじゃないか? そうなると今言ったこともやり方として考えておくべきだと考えるが」


 確かに課長の言うこともかなり筋が通っていた。米田の行方不明時に篠田と結び付けられる情報があったなら、そもそも今こうなっていないわけだ。推理上、理屈としては十分ありだとしても、死んだ人間に関しての捜索令状を裁判官に出させるほどの状況にはおそらくない。かと言って、いきなり佐田の事件を捜査出来る程の情報が遠軽署にに蓄積されているわけででもなかった。捜査資料は、捜査会議で得た分は持っているにせよ、遠軽署が独自に動く際に大きな助けになるほどのものとは言えないだろう。このことから、西田は課長の「ギャンブル」に一定の共感を覚えてはいたが、全面的な同意に達することは出来ず、考えあぐねた。


 そんな西田の様子を見かねたか、課長が助け舟を出した。

「さすがに佐田の事件も8年前と言う、かなり厳しい時間の壁が立ちはだかっていると思う。現に当時の捜査ですら、『本社』からの制約こそあったが、結局行き詰まっていたこともまた事実だ。米田の事件から佐田の事件という流れが行き詰まったから、今度は逆の佐田の事件の解決を以って、米田の事件を解決しようと言うのは、机上の空論で安易かもしれない」

課長はいつの間にか、両手を机について、立ち上がっていた。

「しかし、その当時はわからなかったが、その後喜多川と篠田という国鉄からの転職組が、理由もはっきりしないまま、転職先の伊坂組で出世劇をタイミングよく繰り広げたという事実が今回の捜査の過程で明らかになった。それが当時とは違う」

「しかし、その喜多川は意識不明、篠田も死んでしまっているわけですから……。回復する可能性があれば別ですが、起訴はかなり難しい状況です」

北村の反論も尤もな言い分だ。


「そこで、さっきの竹下の話だ。まずは佐田の失踪と米田の殺害が直接リンクしているという大胆な仮説が正しいか、そこから調べてみる価値はあるんじゃないか? それを起点に調べていく手法だ。もしかしたら、そちらから更に別の人間の関与が出てくるかもしれない」

「そうなると、さっきの主任の考えじゃないですが、米田の遺体が埋まっていた近くに佐田の遺体がある可能性を考慮して、佐田の遺体を見つけるために生田原の現場の捜査のやり直しですか?」

「黒須、そうだ。佐田の遺体がまだあそこにあるかもしれない」

「ちょっと待って下さいよ」

ようやく、長く沈黙を守っていた西田が話に入った。

「今回の一連の事件の発端である吉見の事故死……。まあ完全に事故とは確定させてはいませんが、結局はそういう方向での解決になるとして、その時に見つかった6箇所の喜多川が掘り返したと思われる場所……。あれを自分達は、『喜多川が米田の遺体の場所を特定できずに、目印としての白樺が太い場所を前提として色々掘り返していた』という考えで今まで来ました。しかし課長と竹下の考えを考慮すると、ひょっとしたら、あの中に佐田の遺体が埋まっていた場所もあって、既に喜多川に遺体は回収されていたという可能性はないんですかね? 太い木が目安というのは、埋めた当初からの目安ということも勿論ありますが、米田の遺体回収の際に鑑識の松沢が言っていたように、『遺体の分解過程で肥料として機能する』からこそ太くなっている側面もでてくるわけですから」


 西田の意見は、喜多川による「佐田の遺体の回収」が、全く考慮されていなかった可能性についてだった。捜査に追われていなかったらそういう考えも出てきたかもしれないが、忙殺されていたため、そういう発想すら出てこなかったのだ。

「あー、言われてみればそういうこともあるよなあ。喜多川が佐田の事件に関与しているとすれば、最低でもある程度は埋めた場所は憶えているだろうからな……」

沢井は顔をしかめた。西田の考えのように、佐田の遺体が既に回収されていたことが実際に起きていれば、今更現場を再捜査したところで佐田の遺体は出てくることもなく、米田の殺害と佐田の失踪の「結び付き」は、あくまで推理上だけで終わってしまう話だ。


「ちょっと待って下さい! だとしても、少なくともそこに佐田の遺体が埋まっていたかどうか程度はわかるかもしれないですよ」

竹下が突然口を開いた。

「なんだ、竹下。考えがあるのか?」

「はい。鑑識主任が「あの時」言った話を考えると、遺体が埋められてから分解され始めて、木に栄養が行くようになったと言えるはずです。そうなると、その時期から初めて木が太くなったということですから、その徴候は年輪に顕れるはずです。もし佐田が8年前の秋に現場に埋められていたとすれば、年輪としては8年前の秋から7年前の春の前までの細く黒い部分が、それまでの秋から冬にかけての部分より太くなり、同様に春から秋にかけての成長部分も太くなる。そういう変化がでているはずです。ですから遺体が回収されていたとしても、そこに埋まっていたか程度はわかるでしょう」

竹下の話が終わると、北村が思わず手を叩くほど、他の捜査員も納得した様子だった。

「鑑識の松沢呼んで来いよ、澤田! 理論的にはそうだが、そこはプロの意見も聞こうや! 今はあいつらも暇だろうし」

課長の指示で澤田が鑑識係の部屋に松沢主任を呼びに行った。


 やはり暇だったらしい松沢を連れて、澤田はすぐに刑事課に戻ってきた。松沢は急に連れて来られたこともあり、事情を完全には飲み込めていなかったようだが、竹下からの説明もあって、そこは専門職ということもあり、すぐに理解した。


「竹下の言うことは確かにあり得ますよ、課長。森林地帯での死体遺棄では、たまにそういうことが事件の解明に関係してくることもありますね。被害者の失踪時期と捜索願からの一致時期の調査とか」

「見りゃわかるか?」

「まあ、切ってみて、年輪にそういう影響が出ているのが判れば」

「ああ、やっぱり切らないとわからんのか……。そりゃそうだよなあ」


 課長は軽く頭を抱えた。生田原の現場は私有地だったことが遺体捜索後判明していたが、白樺の木を切るとなると許可を得ると同時に、おそらく「補償」が必要になるだろう。「相場」がどの程度かは刑事は門外漢だからわからないが、木材としては聞いたことがない白樺だったとしても、さすがに6本切るとなるとそれなりの値段はしそうだ。


 遠軽署で捜査本部を立ち上げた際に、署内で消費したものは弁当含め全部所轄の予算から支出されるのが通例なので、今回も遠軽署は既にかなりの額を支出していたはずだった。殺人事件など遠軽ではまず起きない犯罪であるから、小規模と言っても、あの規模の捜査本部が立つとなると、予算はかなり食われるのが現実だ。そこに更に、私人の木を切るとなると、予算はオーバーすると見て間違いない。予算を請求する時に想像される署長の渋面を考えると、課長の「苦悩」も西田には理解できるものだった。


「どうすっかなあ」

課長は再び椅子を左右に回転させて考えを巡らせ始めたようだが、現場の刑事にも金のことは如何ともし難い部分だ。いざとなったら「自腹」という手もあるが、数十万となるとやはり分担しても厳しい。

「とにかく、署長に相談しましょう。ここまで来たらぶつかってみるしかないですよ!」

思案したままの課長に、業を煮やしたかのように、竹下が進言した。、

「竹下の言う通りだな。署長に直談判するか……。西田付き合え」

沢井の腹もやっと決まったようだ。巻き込まれた形の西田としては、少々納得出来ない部分もあったが、仕方ないことだ。


 沢井と西田はその後すぐに署長室で、槇田署長に現場の再捜査とそれに伴う「伐採」についてのお伺いを立てた。署長は案の定、

「おいおい、今更何考えてるんだ!」

と一喝してきたが、その理由は予算の問題というより、佐田の事件を重点的に捜査してみるという、捜査方針の転換についての文句だった。署長としても、本部からの妨害が入った過去の経緯が気になったらしい。沢井が方針転換の理由について丁寧に説明すると、それ自体については納得はしてくれたようだ。


「お前たちのやりたいことは大体わかった。だが勝算はあるかは疑問だぞ? 大体遺体が埋まっていた痕跡がわかっても、喜多川が佐田の殺害に関わっていたということをより強固にする程度だからなあ。それで即、喜多川を佐田殺害で立件出来るかというと無理があるわけだから……」

槇田もかなり悩んでいる様子は見えたが、より責任ある立場だけに逡巡するのも当然だった。

「しかし、このままじゃにっちもさっちもいかないんだろ?」

「署長、現時点ではかなり厳しいと思います。少しでも前に進むためには痕跡でもないよりはマシです。勿論遺体が発見出来ればそれがベストですが」

沢井はきっぱりと答えた。

「わかった……。じゃあ好きにやってみろ! どっちにしても、捜索するにはまた地主に許可とらないといけないから、その時に補償の件も安くできるように頼んでみるしかないな……。前回の捜索の時は最初国有地だと思って、勝手に捜索してしまったので、俺が謝る羽目になったが、確か地主は……」

署長は机の引き出しをかき回しながら、思い出し思い出ししながら言ったが、すぐに地主の情報が書かれた紙が見つかった。

「あったあった。そうそう、旭川文化大学の英文学の名誉教授の寺川さんだった。今から電話してみるから。名誉教授って立場だと、実質隠居だから多分家に居るだろ」

署長はそう言うとすぐに電話を掛けた。


 それにしても、地主が英文学の名誉教授とは沢井も西田も初耳だった。あの時は署長が地主に謝ったという話しか聞いていなかったからだ。生田原の山林の地主と名誉教授というアンバランスな繋がりは、二人にとって少々奇異に映った。


 電話がつながった後、槇田はしばらく向こうと会話を続けていたが、会話の後半ではにこやかな表情で、なごやかな雰囲気の会話をしている様子が手に取るように二人にもわかった。そうしている内に、署長は電話を切った。

「大体聞いてたらわかったと思うが、捜査の許可を得たのは勿論のこと、伐採については、殺人の捜査にどうしても必要なら、タダで構わないと言ってもらった。白樺自体、木材としての価値はほぼ皆無らしい。ただ、伐採する場合には、周辺の木なんかの伐採が必要になる場合もあるし、自分の目で確認してからにしたいので、自分が盆に戻る時まで捜査は待って欲しいと言われた。伐採も自分の知り合いの地元の林業やってる幼なじみにやらせたいらしい。まあ警官じゃ所詮山仕事は素人だし、こっちとしても願ったりかなったりだ。多少再捜査が遅れることになるが、おまえらも異論はないな?」


 槇田の発言は、刑事課にとっても悪い話ではなかった。盆休みとなると、今日が8月7日だから、1週間前後は捜査が遅れることになるかもしれないが、どっちにせよその程度の期間では、今北見方面本部が追っている端野の女性殺しは、犯人が逮捕出来たとしても、後処理を考えたら捜査集結するまでもっていけるはずもなく、こちらの捜査に戻ってくることもない。遠軽署独自の捜査が出来る状況は大して変わらないだろうからだ。

「それで、具体的には15日前後になるんですかね?」

「そこはまだあちらも現時点で断定は避けたが、早ければ14日、遅くとも16日という感じだ。既に生田原にあった実家は、オヤジさんが亡くなってから処分して、墓だけが残っているらしい。墓参りに来るときは、その幼なじみの家に泊まるのが恒例だとさ。日程が決まったら電話してくれるらしいから、それまで待つしか無いな」

西田の疑問に余計な情報を交えつつ槇田が答えた。

「わかりました。こちらとしては異存はありません。とにかく余計な出費が抑えられたので、署長のおかげでこんなことを言うのもおかしいですが、こちらとしても署長に迷惑かけなくて済みました」

沢井は感謝の言葉を述べた。

「それはもういい。ところで、年輪から判明しなかった場合、どうすんだ?」

「それは遺体がそこに埋まっていなかったということを示唆することでもありますから、米田が埋まっていた近くの他の場所を、色々掘り返すという戦術になってしまいますかねえ……。勿論、そこに遺体が埋まっているかどうかもわかりませんが。判明しないことを良い方に捉えれば、遺体は喜多川に回収されていなかったということですかねえ」

「人海戦術になると、遠軽署うち単体だと限界があるなあ。それと例え年輪から判明して、遺体が過去におそらく埋まっていたことがわかったとしても、さっきも言ったが『現物』がなきゃ話にならんのだぞ。喜多川関係については色々捜索済みで、どっかに隠したとしてもわからんだろうなあ、本人はあの状態だし……」

署長は西田の煮え切らない言葉に、軽い失望を覚えたようだが、取り敢えず、佐田の失踪が殺人事件になるという心証を得るためには、後先考えずやるしかない捜査でもある。


「とにかく、再捜索に当たって目の前の障壁は取り敢えず乗り越えたわけだ。色々文句を言ってきたが、よく考えたら、最初の吉見の変死体の発見からここに至るまで、お前達の地道な捜査と発想と強運がなければ絶対無理だったんだよな。今回のここまでの捜査について言えば、北見(方面本部)組の援助なんてよりも、うちの捜査員のおかげと言っても過言じゃない。そうやって考えてみると、ここに来てああだこうだと事前に色々言っても始まらないというか、無意味というか……。目の前のことに全力でぶつかっていくしか、打開の方策はないのかもしれんな……。後の高い壁を乗り越えるためには、結局おまえたちの頑張りがまた必要になる。遮二無二頑張ってもらうしかないことも確かだ。一々悩んでいてもしゃあないとも言える。わかった。取り敢えずやってみろ! 頼むぞお二人さんよ!」

そこまで一気に言うと、署長は拳を軽く二人の方に向けて突き、鼓舞した。


※※※※※※※


 署長室から刑事課に戻る間、沢井は西田に話しかけた。

「ちょっとの間だが、時間に余裕が出来たな。ほとんど休みなく捜査してきたし、短い間だが休みを入れた方がいいかもな」

「そうですねえ。課長が良ければ入れていいんじゃないでしょうか?」

「よし、そうするか……。若い連中も大変だが、おまえもカミさんと娘に会いたいだろ? もうかれこれ2ヶ月近くになるか?」

「そうですね……。5月の末だったか2日間帰ったっきりですから、そうなりますか……。ただ1日程度の休みで帰っても日帰りじゃあかえって疲れてしまいますから、休みならこっちでゆっくりさせてもらいます」

「1日じゃ意味なしか……。ところで娘は何歳だ?」

「今年の10月で8歳、今7歳ですね」

「なんだ、まさにこの先、父親を避けるようになる一歩手前ぐらいの年齢じゃないか。可愛いく感じるのも12歳ぐらいまで。中学生になったら父親なんて避けられるようになるぞ。今の時期に娘に甘えられなかったら、娘なんて持ってる意味なんてないようなもんだ」

妙に説得力があるのは、課長が二人娘の父親だからだろうか。

「でも、電話では頻繁に連絡取ってますから」

「電話? 意味ないぞそんなもんは」

こんなことで、たわいもない「異見」の交わし合いをしている場合ではなかったが、さすがに部下の前で繰り広げるべき話でもないと二人ともわかっていた。それ以上は話を展開せず、刑事課室のドアを開けた。


「課長の許可が出たぞ! 伐採の件も何とか片付いた。だが、残念ながらすぐにという訳にはいかないのが玉にキズだな」

と沢井がすぐに皆に報告した。

「へえ。案外簡単に決まりましたね」

と竹下が喜ぶと、

「案じるよりなんとやらかな……」

と沢井は笑顔になった。

「あともう一つ、吉報があるぞ! 現場捜査まで1週間弱の猶予が出来たから、交代で休みとることにした」

これには、吉村が大袈裟に喜んだので、西田に軽く小突かれた。


 それから休みを取る順番を決めたが、課長と小村が殿<<しんがり>>、西田と北村がその前の組という順番になった。北村は実際に西田と組んでいるからともかく、課長とは組んでいない小村が数合わせに組まされたのは気の毒だった。課長、係長、主任の3人のうち2人が同時に休みというわけにはいかないのと、満島は北見方面組なので配慮されたということもあり、小村にしわ寄せが行ったのだ。そしていきなり翌日の8日から休みに入るというのも、予定などがあるから無理ということで、9日から13日の5日間に渡り交代で休むという形を取ることに決めた。


※※※※※※※


 8月8日、午前10時、西田は北見の鑑識主任・柴田に電話を掛けていた。ツルハシの柄についていたシールに印刷されていた、札幌の「山王金物」という製造販売会社にツルハシの製造状況が年ごとに変化していなかったか電話確認しようとしたところ、品番を要求されたからだ。メーカーさえわかれば、ツルハシは1種類だけだろうと考えていたのが甘かったのだ。


 担当者によれば、会社名の下に小さく印字されているはずだということで、預けていた柴田に確認する必要があった。柴田は女子高生殺しの現場から押収された証拠品の分析のため、かなり忙しいらしく、なかなか電話に出なかった。一度切って掛け直そうかと思い始めた矢先、不機嫌な声が受話器から響いた。

「はい、柴田だ」

「忙しいとこ申し訳ない。昨日預けた例のツルハシ、ちょっと調べてもらいたいことがあるんですが?」

「あのツルハシ? 何をだよ?」

「柄についていたシールに書いてある文字を教えて欲しいんですよ」

「うんなもん昨日ちゃんとメモっとけよ!」

柴田らしい物言いではあるが、普段以上に苛ついているのは明らかだった。やはり事件発覚から2日目ぐらいだと、相当忙殺されているようだ。地方ニュースでも連日トップクラスの扱いが続いていただけでなく、全国紙も一面で取り扱っていた。そして柴田に取り次いでくれた他の鑑識職員も、なんとなく刺々しかったのを西田は感じていた。

「ちょっと待ってろよ! 数分掛かるからな!」

保留にしつつ受話器を置く音も、こころなしか雑なものに聞こえた。


 しかし、柴田が受話器の前に戻ってくるまでには、実際には1分も掛からなかったように思えた。憎まれ口ついでに大袈裟に言ったかもしれない。

「あったぞ。ヤマオウだかサンノウだかしらんが、山に王に金物と書いてあるぞ」

「その下になんかアルファベットと数字が書いているらしいんですが……」

「うむ、確かにあるな。TH……900とあるぞ」

「あ、それですね。どうも。まあ、それにしても大変みたいですね……」

「ああ、捜査本部ちょうばは強姦の前歴者中心に当たってるようだが、それらしいものが今のところなくてな……。前(歴)がないとなると、結構面倒なことになりそうってか、実際なりつつある。遺留物も体内に残った精液と被害者に付着してた陰毛ぐらい。B型というのはわかったが。車が犯行に使われてるが、現場が舗装路からすぐ草が生えてる部分が遺棄現場まで続いているんで、下足痕もタイヤ痕も出てないし。車が踏み潰したと見られる草の状況も、一般的な乗用車のタイヤの太さぐらいなんで、これまた特徴にはならん。衣服も見つかってない」

「腐乱死体の方の身元は、まだわかってないんでしょ?」

「ああ、状態がかなり悪いからな。指紋での判定は無理だし、歯型と血液型で判定すると思う。今のところ、北見方面管内の捜索願の中には該当者は居ないようだ。道警全体の情報と照合してる段階だ。次の犠牲者出さない前に、デカ連中には頑張ってもらわないといけない。どうも美幌署の他に網走署にも捜査協力要請したみたいだな。遠軽も今回のヤマを抱えてなかったら、協力させられたんじゃないか?」

「網走もですか……。かなり大変な状況はわかりました。報道より厳しいみたいですね。ただ、こっちのヤマも継続中なんで、邪魔したくはないですが、多少の手間はとらせることがあると思いますから……」

「わかったわかった。まあそっちも遊びじゃないから仕方ない。あと、鑑定結果報告は、ちょっと時間掛かるかもしれんが、こういう状態だから勘弁してくれ。それより用事済んだら、さっさと解放して欲しいんだが。いいんだな?」

「わかりましたよ。じゃあ切りますよ」

西田が言い終わる前に、受話器は向こうからすぐさまガチャンと切られていた。耳をさすりながら静かに受話器を置くと、西田はすぐに山王金物に電話を掛け直し、1982年より一切のモデルチェンジは行っていない言質を取った。また、ホームセンターのエステルホーマーとは、エステルホーマーが設立された1975年から取引があるので、ツルハシもずっと納品しているはずだと言う確認も出来た。こちらの面からも、増田の証言と篠田が持っていったツルハシと創傷の一致の確度は更に上がった。

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