第20話 陰陽師が新たなヒントを携えてやって来てくれたと思ったら、なぜか修羅場になってしまったのですが

 明けて七月五日の朝。

 いつものように侍女さんに、十二単、つまり女房装束を着付けてもらいながら

「あの、私のこの髪、実はかつらなんです。はずしてもいいでしょうか?」

と、勇気を出して尋ねてみた。

 昨日、式部さんがふだんはかもじという付け毛を使って髪の長さを足していると言っていたのを思いだしたからだ。

「まあ、そうだったのですね。長さにもよりますが……」

と言いながら、侍女さんは私の鬘をはずしてくれる。

「あら、なんと見事な黒髪。長さは腰の辺りまでですか。少し足りないので、かもじを使いましょうか」

と、侍女さんは私の地毛を褒めてくれた。

「あの、髪を洗うことは、やはりできないんですよね」

「そうですね。ただ整えることはできますので。そういえば、今日は午後に安倍天文生あべのてんもんしょうと様がいらっしゃるそうですから、髪を洗うのに良き日を占ってもらってはいかがでしょうか。では私は整髪の道具を持ってまいりますね」

と告げて、侍女さんはどこかへ行ってしまった。

 国時さんが来るのか。何か新情報でもあるのだろうか、と考えていると、侍女さんが大きな蓋付き茶碗のようなものを持って戻ってくる。茶碗のような形だけれど、それは金属でできているようで、鈍色に輝いていた。それを漆塗りの台座の上に載せ、蓋を開ける。

「それは何ですか?」

「これは泔坏ゆするつきと言って、整髪に使う、米のとぎ汁を入れる《うつわ》です」

 そういえば、現代のドラッグストアでも、米ぬかを使った化粧品が陳列されているのを見たことがあるような気がする。ということは、米のとぎ汁にも何らかの美容効果があるのだろうか。

 そう思っていると、侍女さんは米のとぎ汁をつけた櫛で、私の髪をき始めた。

 洗髪はできないものの、とぎ汁とは言え、水で髪を梳いてもらうというのは、想像以上に気持ちがよかった。櫛の歯がときどき頭皮に当たるのも、適度な刺激があって心地よい。

 ああ、最初から鬘をはずしてこうしてもらえばよかった、と私は後悔した。

「やはり、ゆするで梳くと、御髪おぐしが輝いてさらに見事になりますね。量もたっぷりとして、なんとお美しい。きっと、一の君様も文章生もんじょうのしょう様も、姫様の美しさの虜になりますよ。さあ、かもじを付けて……、これで仕上げです。美しいですわ、姫様」

「そんな髪だけで、大げさな……」

 言いかけた私の言葉を、侍女さんが遮る。

「『髪だけ』だなんて、何をおっしゃいますか! 髪の美しさが、女性の美醜を決める一番の基準でしょうに!」

 そう言われて、この時代、女性は顔を見せないのが普通だったということを思い出す。

 親しい仲、つまり夫婦にならないと顔を見せないということは、顔で美醜を決めるわけではないということか。後ろ姿で決めるとなったら、髪が綺麗な人を選ぶということなのだろうか。さらに、あの尋常ではない夜の暗さ。夫婦の営みを行うであろう夜には、闇が邪魔して相手の顔はろくに見えないのではないだろうか。

 この時代だったら、私も乙女ゲームのヒロインのごとく、モテまくることができるかもしれない、という気がしてきた。

「これで、化粧もしたら、都一の美しさと謳われるようになると思いますよ」

と、侍女さんはにっこりと笑う。すると、黒く染められた歯が、ほころんだ口元から覗いた。

「いや……化粧は、結構です……」

 そうか、忘れていたが、お歯黒というハードルがあったのだ。

 この時代でモテまくるためには、現代人から見たら奇妙にしか見えないお歯黒を施さなければならない。

 逆ハーレムというおいしい状況を、リアルに体験してみたいのはやまやまだが、お歯黒をする勇気は私にはまだなかった。


 夕方近くなった頃、国時さんが私の居候部屋に現れた。

 昨日、さんざん式部さんとの密着イベントをクリアした私は、経験値がかなり上がっているはずだ。この前みたいに、国時さんが何を言ってきても、言葉だけならスルースキルで乗り切れるはず! と、自信を持って、国時さんに対面する。

 対面……と言っても、今回も形ばかり几帳きちょうを間に立てて向かい合った。

「ああ、美しい我が君。ご機嫌はいかがですか? 今日は、先日とは違って、香をきしめていらっしゃるのですね。沈香じんこうの芳醇にして気高い香りに甘い丁字ちょうじが加わって、ああ、これは“侍従じじゅう”の香りですね。この秋の日の逢瀬に似合いの香りでもありますし、我が君のその聡明な美しさをより際立たせています。とてもよくお似合いですね」

 ああ、経験値が上がったから大丈夫と思った先ほどの自分を、深い穴を掘って埋めてしまいたい。久しぶりのイケボと甘々な台詞に、私は既に腰くだけ状態である。

 何か長々と私を褒めているらしいが、その内容は途中から頭に入って来なくなっていた。まだ挨拶の段階でこの調子とは。この後どうなってしまうのだろうか、と頭が痛くなる。

 仕切り直しだ、とばかり、私は両頬をピシャリと自らの手で叩いた。

 正気を保とうと努力するそばから、国時さんは

「ああ、それに、今日は御髪の様子が先日とは違うようだ」

と言いつつ、几帳の端からこぼれ出ていた私の髪を、手にすくい取る。舞でも舞っているかのような、実に優雅な動きで、私はあらがう声を上げることも忘れてしまった。

「なんと美しい。ああ、小町もかくやと思われる御髪の艶やかな輝きよ。ぬばたまの闇のごとき、その美しさに、私の心はすっかりあなたの虜囚となってしまいました」

 このやりとりは、いったいいつまで続くのだろうか。

 なんだか、前回よりもグレードアップしていないか。何が前回と違うのだろう、と国時さんと初めて会ったときのことを思い返してみる。そして、前回は惟規のぶのりさんが側にいて、国時さんの暴走を止めてくれていたことを思い出した。

「あの、今日は惟規のぶのりさんは……?」

「さあ、まだ公務の途中でしょうか。前回は初めてお会いするということで、取り次いでいただきましたが、今回は二回目の逢瀬となりますので、私一人で参りましたよ。美しい香子殿に一刻も早くお会いしたく、私は公務が終わり次第馳せ参じましたので」

 ああ……、惟規さん……助けて。早く帰って来て!

 私は心の中で惟規さんに助けを求めたが、テレパシーなど使えるわけもないので、とりあえずこの場は自分自身の力量でスマートに切り抜けなければならないだろう。

 まあ、もし万が一、何かあったとしても大声で叫べば、窓を開け放した隙間だらけの木造建築、侍女さんか誰かが気付いて助けに来てくれるだろうし。そう気を取り直して、私は本題に入ることにした。国時さんのペースに乗せられていては、いつまで経っても、会話が進展しそうにない。

「それで、国時さん。今回、やって来てくれたのは何か新しい情報が見つかったからでしょうか? この前、来月以降の日蝕や月蝕の日にちを調べて来てくれるとおっしゃっていましたよね」

「その通りです、今日はそのことをお話しに参りました。本当は、香子様を帰すお手伝いなどしたくはないのですが、愛する人にとって一番の幸せを願うことこそ、本当の愛だと思いますので」

 まだ、だいぶ余計な話が多いが、なんとか本題に入ることができたようだ。

「さて、次の十五日の月蝕が過ぎた後ですが……。次の日蝕も月蝕も今年中には起こりません。次にもっとも近いのは、来年の一月十六日の月蝕、そして同じく来年の八月一日の日蝕になります。ああ、私としては、来年まで我が君にこの時代を堪能していただいた方が嬉しいのですが。我が君が早く元の時代に戻りたいと言うのであれば、今度の十五日に一条戻橋にいらっしゃった方がよろしいかと思われます」

 国時さんのくだくだしい台詞をまとめると、要するに、“次の機会は来年までない”ということだ……。

 確かに、現代でもそう頻繁に日蝕や月蝕が起きていたわけではなかったと思う。だから、タイミングを逃せば、当然、この時代に長くとどまることになってしまうだろう。

 そして、その日に帰れるかどうかというのも、まだ仮説の段階に過ぎない。日蝕でなければ同じ条件ではないかもしれないし、そもそも日蝕とは何も関係ないかもしれないのだ。

 だからまずは、目前に迫った十五日に、時空の綻びが再び現れるかどうかを確かめなければならない。そこでダメなら、また別の帰り方を模索しなければいけないのだ。

 そして、この仮説が正しければよいのだが。いろいろと模索しているうちに何年も経ってしまったら……浦島太郎のように、時ばかりが過ぎて、私はこの平安時代でおばあさんになってしまうではないか。そのような想像をすると、あらためて自分の置かれた境遇に、ゾッとした。

 私の心の内を占める不安が国時さんに伝わってしまったのだろうか。

「我が君。大丈夫です、きっと、帰れますよ。私が責任を持って、帰る方法を見つけて差し上げますとも」

 先ほどまでの人をからかうような言い方ではなく、その真剣さが伝わる口調で、はっきりと国時さんは言った。

「ありがとうございます、国時さん。それと、一条戻橋以外で綻びがある場所は見つかりましたか?」

 礼を言ってから、私は時空の綻びが起きる場所についての質問を重ねる。

「そうですね、これはまだ私の想像でしかないのですが……。もしかすると、六道ろくどうの辻と呼ばれる場所も、異界との境界に当たるのではないかと考えています」

「六道の辻?」

「はい、我が君は小野篁おののたかむらという人物をご存じでしょうか?」

「いえ……小野と言えば、小町か妹子いもこぐらいしか……」

 毎度、毎度、自分の日本史知識のおそまつさが恥ずかしい。

「そうですか、その二人は有名ですからね。小野篁という人は、いまから二百年近く前に生まれた人物で、非常に漢籍に明るい聡明な方です。白居易はくきょいに比されるほどの素晴らしい詩人だったと言われていますね。漢籍、ということで、我が君はご存じかもと思ったのですが。さて、ここまでは事実、史実です。ただ、小野篁には、妙な噂がありまして……」

「妙な噂?」

「はい、昼間は参議さんぎとしてこの世の朝廷で働きながら、夜になると東山の六道珍皇寺ろくどうちんのうじにある“死の六道”を使って冥府へと行き、閻魔大王の補佐をしていたという噂があるのです。そして、大覚寺の門前辺りにある井戸、ここは“しょうの六道”と呼ばれる場所ですが、朝になるとその井戸を通ってこの世に帰って来る……、と」

 ……昨日の河原院に引き続き、またホラーな展開だ。

 “井戸からこの世に帰って来る”という話を聞いて、私は子どもの頃に見た、有名なホラー映画の一場面を思い出した。映像として、その場面が脳内でリアルに再生される。霊が少しずつ、少しずつ、井戸から手を出して……、その手は井戸の縁を掴み、身体を引き上げる。そして、井戸から這い出して、少しずつ少しずつ、こちらに近付いて来る。テレビの画面すら超えて、どんどんどんどん近付いて来るのだ。

 ご丁寧にテーマソング付きで再生された。

「い、いやぁぁぁぁぁぁ!」

 私は想像だけで怖くなり、思わず大声を上げ几帳を倒して、自ら国時さんの胸に飛び込んでしまった。鈍感な式部さんとは違って、国時さんは怖がって震える私を、その腕でギュッと抱きしめ、耳元で

「大丈夫ですか、我が君。そんなに脅えてしまわれるだなんて思いも寄らず、香子殿を怖がらせてしまって大変申し訳ない。どうか、機嫌を直して、笑ってくださいませんか。その美しい笑顔を私に見せてはくれませんか?」

と、囁いた。

「あ、ごめんなさい、思わず……」

 国時さんの声が脳内をとろかせてくれたおかげで、私はホラー映画の呪縛から解かれ自由になり、国時さんを両手でぐいと押しのけながら、几帳の向こうに帰ろうとした。我ながら勝手だと思う。

 国時さんは、霊が見えないと言っていたから、映像として井戸から人が上がって来るところはイメージできないのだろう。しかし、現代人は霊感があろうがなかろうが、ホラー映画を見ることで、霊を見る疑似体験をすることができるのだ。だから、私は国時さんの話を聞きながら、リアルな想像をしてしまった。妄想力が激しいのも、ときに考えものである。

 いろいろな意味でバクバクした心臓を落ち着けようと、深呼吸をしていると、

「大丈夫ですか?」

という声と共に、式部さんが部屋の中に勢いよく駆け込んで来た。

 走って来たのであろうか、息が上がっている。

 しかも、いつも邸の内では女の格好をしている式部さんが、なぜか昨日と同じ男性の装束のままである。

 式部さんは、部屋の中に見知らぬ男がいることに気づき、

「あっ」

と声を上げた。

 それは、男の姿を見られたからだろうと思ったのだが、式部さんはそのまま国時さんに詰め寄り、

「悲鳴を聞いて駆けつけてみれば、そなた、香子殿にいったい何をしたのだ?」

と強い口調で詰問する。

 え? なんでこんな展開になるの?

 なんとか国時さんの無実を証明し、この場を収めないと、と

「違うんです、ちょっと怖い話を聞いて驚いただけで……ほら、昨日も私、河原院で怖がっていたじゃないですか、私ってばすごく恐がりで。で、国時さんは、ただ元の世界への帰り方について教えてくれていただけなんです、本当です!」

と、私は必死に弁明を試みた。その甲斐あって、

「そうだったのか、誤解をして申し訳ない」

と、式部さんは国時さんから離れ、深く頭を垂れたのだが、おそらく国時さんはこの状況をまだ理解できていないはずだ。なぜなら、前越前守さきのえちぜんのかみには、一の君と呼ばれる姫君と、文章生もんじょうのしょうである惟規さんの二人の子どもがいて、この四条の邸で三人は共に暮らしている、と世間的には知れ渡っているからだ。

 国時さんは前回、惟規さんと連れ立ってやって来た。だから、惟規さんの顔は知っているわけで、当然この見知らぬ男は誰だということになる。

 そして、想像通り、その疑問を式部さんに対してぶつけ始めた。

「それはよいが……そなた、いったい誰なのだ?」

 さらに

「まさか……香子殿……、あなたには既に通う男性がいらっしゃるのですか? ああ、だとしたら私は、この男と我が君を奪い合わねばならぬ!」

と、大きく現実とはズレた解釈をしてしまったようだ。

 そして、その国時さんの言葉を聞いて、ようやく式部さんは自らの犯した過ちに気付いたらしい。

「あっ」

と声を上げて、自分の装束を見下ろした。

 今度こそ、男の姿を見られてしまったがための「あっ」だろう。

「こちらの方は、私の帰り方を探してくれている陰陽師の安倍天文生殿です」

と、あらためて紹介をしつつ、私はチラチラと式部さんの方を見て、その出方を探る。式部さんがどのように自己紹介をするかわからなかったので、私は式部さんを紹介することはやめておいた。

 すると、

「これは失礼しました。このような男のなりをして、恥ずかしいところを見せてしまった。私は、前越前守の一の姫で……」

と、式部さんは女性が男装をしているという言い訳を始めたのだ。

 ああ、やはり私から紹介しなくてよかった、と思う。しかし、そんな言い訳も、暗闇の広がる夜ならともかく、この白昼では通用しなかったようだ。現代人の私から見ると充分美しく見える式部さんだが、女性のような化粧をしていないし、何より今日は男の姿で髷を結っている。

 国時さんは式部さんの弁解を遮るように、これまで聞いたこともないような厳しい声で

「この私が、男と女を見間違えるとでも?」

と、言いながら、式部さんの胸を手のひらでまさぐった。

 これはこれで、とてもおいしい状況かもしれない。

 腐心を出して鑑賞させてもらっていると、

「ああ、バレてしまいましたか。ここだけの話にしておいてくださいね、私が前越前守の子であるというのは本当のことです」

と、式部さんは性別を偽るのは諦めてさっさと真実を告げた。

 しかし、国時さんはなぜか怒りを解かず、それどころか、さらに激昂しているようだ。

「先ほど、昨日、河原院でと香子殿がおっしゃっていたが、そなたは、この美しい姫と既に契りを交わしたというのか! 牛車で共に出歩くほどに!」

と怒鳴り、胸元をまさぐっていた手をそのまま上に移動させ、胸ぐらを掴んだ。

 あれ……? 男×男という腐女子においしい展開が目の前で繰り広げられていると思ったら、いつの間にか私を取り合う喧嘩に発展している?

 リアルではいまだかつて経験したことのない状況を見て、私はどうすることもできず、そのまま凍りついてしまった。

 ああ、選択肢を出して……目の前に選択肢出して……!

 何を言ったらいいのか、頭が混乱してしまって自分でうまく言葉を紡ぐことができない。

 一方、ここで弁解して事態を収めねばならない当の式部さんは、

「わ、私と香子殿は……そ、そういう仲では……。それに私はふだんは本当に女性の装束を身につけているのです。だから、香子殿も私のことを男性だと意識していらっしゃらないと思いますよ」

と、またも鈍感な受け答えをしている。

 それを聞くと、「本当に鈍い! 昨日の私は何度もあなたを男として意識したというのに!」と、またもいままでに抱いたことのない怒りの感情が私の胸に湧いてきた。昨日も感じた苛立ちだ。

 そして、国時さんは国時さんで、違う方向の怒りを感じているらしい。

「何をたわけたことを! そんなバカな話を信じると思うか! 我が君、この男と共に河原院まで出かけたというのなら、いまから私と一緒に、一条戻橋と六道珍皇寺に行きましょう!」

と、私の方を振り返って、叫ぶ。

 あれ……、これは……。

 私の中の説明できない怒りの感情。これは、いま目の前の国時さんの怒りと同じ質のもの……?

 国時さんは私と式部さんの仲を疑い嫉妬して、私は私で式部さんが私のことを全然女性扱いしてくれないことに苛ついているの?

 つまり、国時さんも私も、思う相手の心が手に入らなくて、怒りを感じている……ということだろうか。

 っていうか、国時さんの私へのくどき文句の数々は、冗談ではなかったの!?

 そんな私や国時さんの怒りや動揺をよそに、式部さんだけは一人、

「昨日出かけてから、筆がのってしまって、昨日の装束のままずっと物語を書いていただけなんですってば」

と、的外れな言い訳を繰り返していた。

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