第35話 式部さんの代わりをするだけの簡単なお仕事、採用結果は……?

 御簾越しに射し込む日差しが、だいぶ陰ってきた。

 夢中で手習いをしていたので、気付かなかったがもう夕刻に近いのだろう。

 遠くから、渡殿を歩く足音が聞こえて来た。国時さんがもうやって来たのだろうか? 私は筆を置いて、御簾の傍まで近付いた。

 近付いて来る足音は、上品な国時さんに似合わず、ドスドスとわざと渡殿の板を踏みつけて歩いているように聞こえる。

「どうしたのですか? 国時さん……」

 言いながら、御簾をめくって簀子縁へと出た私は、その足音の主を見て一瞬言葉に詰まった。

「……式部……さん……」

 女性の装束を身に纏った式部さんがこちらへ向かって歩いて来る。しかし、女性らしく振る舞う練習をすると言っていたにも関わらず、男性の歩き方にしか見えないし、しかも顔には……いつにも増して厳しい表情を浮かべている。

「香子殿」

 私の目の前まで来た式部さんは、

「失礼」

と言いながら、御簾の内へと滑り込んだ。

 そのまま、私が先ほどまで手習いをしていた文机までドスドスと近寄って行く。

「香子殿? これはどういうことですか?」

 私が先ほどまで手習いをしていた紙を一枚手に取って、ひらひらと顔の前で振る。

「え……どういうって……」

 私は戸惑って、うまく言い訳を紡ぐことができない。

「香子殿は、明日、月蝕の時間に安倍天文生殿と一条戻橋へ行って、元の世界へ戻れるかどうかを試すんですよね? 元の世界に戻れるかもしれないのに、なぜこんなことを?」

 式部さんは、先日私に帰ることをすすめた時以上に厳しい口調で咎め、冷たい視線を向ける。

「……だって……、私でも少しは役に立てるかもしれないって……私が式部さんの代わりに中宮様のもとに上がれば……」

「そんなことのために、帰れるかもしれない絶好の機会をみすみす逃すというのですか、あなたは?」

「そ、そんなことって……そんなふうに言うことないじゃないですか……」

 私の心の内からは、言い訳をしようという気持ちも次第に失せてくる。

「私は少しでも式部さんの役に立てたら……と。それに、物語のことも途中で放り投げるのは、気にかかりますし……」

「つまり……明日、帰る気はない、と言うのか?……」

 式部さんが、いつもより更に低い声で問う。

「式部さんが、中宮様のもとで男性だってバレて、このお家が大変なことになってしまうぐらいだったら……私、帰りません! 帰らないで、式部さんの代役を務めます!」

 売り言葉に買い言葉。

 私は激しく式部さんに噛みついた。

 パンッ!

 乾いた音と共に、左の頬が熱くなる。

 式部さんに頬を平手で叩かれたのだ……そう気付くのに、しばらくの時間が必要だった。

「どうして、あなたは……。そのような愚かなことを考えるのです!」

 愚か……?

「……式部さんと……もっと一緒にいたいから……」

 滲む視界の中、式部さんが振り返り私に背を向ける。

 私から去って行く式部さんの方に、驚いた顔をして走って来る惟規さんと国時さんの姿が見えた。

 式部さんは扇で私の方を指しながら、惟規さんと国時さんに何かを告げている。

 国時さんは私に走り寄るなり、

「ああ、美しい我が君。大丈夫でございますか? さあ、早く御簾の内に」

と、私をスマートにエスコートしてくれる。

 惟規さんは、手を叩きながら周防を呼んで

「水で濡らした布を至急」

と指示しているようだ。


 式部さんともっと一緒にいたい。

 これは私の本心だ。

 この間は、式部さんに怒られたけれど……でも、どこかで、式部さんもこの選択を一緒に喜んでくれるのではないかと期待している自分がいた。

 結果は惨敗。

 私の選択肢は「愚か」だったのだろうか。

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