第34話 式部さんの代わりをするだけの簡単なお仕事 手習い最後の日

 いよいよ明日は月蝕が起こるという日。

「姫様、本日の夕刻、安倍天文生様が宮中からのご帰宅の際に、こちらへいらっしゃるとのことです」

 いつものように朝の身支度を調えてくれながら、周防さんが私に告げる。

「わかりました……」

と答えつつ、思わず溜息が漏れる。

 今日このタイミングで国時さんが来訪するということは、おそらく明日の月蝕についての相談があるのだろう。国時さんは、私が元の世界に戻るための手段をいろいろと画策してくれているに違いない。

 そもそも相談を持ちかけたのは、私の方だ。

 しかし、明日。私は元の世界に帰るつもりはない。そのことを国時さんに告げねばならない。そう思うと、自然と憂鬱な気分になる。


 手習いはその後、ごく標準的な頭しか持ち合わせていない私にしては順調に進んだと言っていいだろう。

 すべてのかな文字を憶えきるのはさすがに無理があったが、ところどころ拾い読みできれば、そこから読めない文字を類推してなんとか文章の全体を想像することができるレベルまでには到達していた。書く場合にも、自分が憶えている文字を優先的に使用すればなんとかなるだろう。

 ただ、誤算だったのが漢字である。

 式部さんや惟規さんの部屋にあった漢籍が、現代の私たちの書く文字に近く、一文字ずつ分かち書きされたものだったので、漢字はかな文字と違ってそのような書体で書くものだと思い込んでいた。

 しかし、漢籍の場合と、女性の読み書きする和歌や物語の場合とで、漢字の書体が異なるのである。和歌や物語の中で漢字を使用する場合には、周りのかな文字の流れを崩さないように、これもまた流麗にくずした書体で漢字を書き入れないとならないのだ。そして、この和歌や物語の中に隠れた漢字を解読するのは、かな文字の解読よりもさらに難しかった。文字によっては、それが漢字なのか、その漢字を崩したかな文字なのかの判別が要求されるものもある。

 漢字に難儀している私に周防さんは、そっとアドバイスをしてくれた。

「本来、我々女子は漢字を使わないものです。ですから、全部かな文字で和歌を書いたとしても咎められることはありませんよ」

「でも、他の方からいただいた文に漢字があったらどうすれば……」

「“一”という漢字すらわからない振りをしてしまえばよいのです。本来、漢字は男が使う文字。漢字が読めると賢い振りをするよりは、読めないと言ってしまった方が奥ゆかしい女性と受け取られる場合もあるのですよ」

 そういうものなのか。

 私は周防さんのアドバイス通り、「奥ゆかしい女性」を演じることに決め込んだ。

 いや、時間的にもうそれしか取れる戦略がないのである。


 月蝕前の最後の日。

 そして、出仕前の最後の日。

 私は、国時さんが訪れるまでの間、最後の仕上げの手習いを続けた。

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