第七章 ―仁―
マツリカと別れてからひと月が経った。
間もなく臨月だろうか。
マツリカの身が心配で寝られるはずもなく、今夜もまた眠れぬ夜を過ごしていた。
「今日も起きていたのか?」
そう言って部屋に入ってきたのはセイエイ。
「寝ないと身体壊すぞ?」
分かっている。だが、目を閉じると最後に見たマツリカの姿が浮かんでくる。今にも泣き出しそうな顔をしていた。出産を控えた大事な時期に精神的苦痛を与え、一人にしてしまっている。こんな状態で眠れるわけがない。
「ハルも一緒なんだろう?なら心配しなくても大丈夫なんじゃないか?」
城を追い出され居場所を失ったハル。ハルが身重なマツリカを一人にするとは考えられない。おそらく一緒に居てくれているとは思うが、流石に出産時は不安である。
先程から黙り込む私に、セイは深く息を吐き、続けた。
「正直、俺には人間の愛だの何だのがよく分からん。だから、ジンがマツリカとやらに執着する気持ちも分からん。好きなら好きでいても構わないと言ったが、それはやる事をやった上で許される事だ。お前には皇太子としての義務がある。その義務を果たしてもらわなければ国が傾く。国が傾けば俺の身が危ない。だからやる事はしっかりやってもらわないと困る」
耳に胼胝ができる程、何度も言われた台詞だ。
「つまりだな、俺が言いたいのは、今はカイが皇の座に就いているが、ジンが皇になるのも時間の問題だ。皇にもなれば、誰を妾に迎えようと文句が付けられない。その為に、今は辛抱の時だ。俺の言ってる事、分かるか?」
確かに、皇の決めた事に文句をつける者などいない。国の行く末が左右される政に関しては別の話だろうが、正室や側室ではない妾なら何の権力もない。そこに誰が居ようと権力がない者なのだから、文句をつけたところで何の意味もない。
私はようやく口を開いた。
「そうだな……マツリカを“妾”と呼ぶのは不本意だが、それしかないのであれば仕方ない」
「カイを納得させる為にも、辛抱してくれ」
「ああ……」
セイは安堵の溜息を漏らし、部屋を出ようとしたが、何かに気付いたようで口と鼻を手で覆う。
「セイ?どうした?」
「血の臭いが近付いて来る」
「!?城内で血が流れているという事か!?」
神にとって血は穢れそのものだ。平和な世界で血が流れる事はない。つまり、血は危険の象徴。身の危険を感じる血に敏感なのも神の特徴だ。
セイは後退り、扉から離れる。
コンコン
誰かが扉をノックした。血の臭いを纏った者だろうか。
「殿下、いらっしゃいますでしょうか!」
聞こえた声に思わず目を見開き、扉を開ける。
そこには顔面蒼白なハルの姿が。
「ハル!?何故此処に!?いや、父上に気付かれたらまずい。中に!」
「殿下、それどころではありません!マツリカさんが!」
「!?」
「とにかく、一緒に来てください!」
マツリカの名に私はすぐさま部屋を出た。
セイが血の臭いがすると言っていた事から、マツリカの身が危険な状態なのだと予想が付く。
今まで使っていた隠しルートで城外へと向かう間、ハルから事情を訊いた。
「マツリカさんが破水してしまって、お医者様を呼びに行ったのですが、戻った時にはマツリカさんの意識が朦朧としていて……お医者様も、出血が酷いからこのままでは母子共に危ないと……」
それで危険を承知で城に忍び込んだのか。
「お医者様はマツリカさんを助けたければ子供を諦めろと言うし、子供を助けたければマツリカさんを諦めろと」
「!!?」
「僕にどちらか一方のみを選ぶ事ができるわけないのに……」
「とにかく、マツリカの元へ急ぐぞ」
「はい」
馬を全速力で走らせ、マツリカの家に到着した。
「マツリカ!!」
「おぎゃー!おぎゃー!」
子供の泣く声が響いていた。
「ジン……さん……」
今にも消えそうな声だが、マツリカが生きている事に涙がこぼれた。
すぐさまマツリカを抱き寄せる。
「マツリカ、頑張ったな……ありがとう!」
「ジン、さん……本当に、ジンさん……?」
「ああ、私だ」
「最後にもう一度、会えて良かった……」
「最後?何を言っている!?」
「ユウは、ジンさんと私を繋いでくれる大切な子なの……」
「ああ、そうだ!」
「だから手放すなんて、出来なかったの……」
「勿論だ!私も手放すつもりなどない!」
マツリカの視線が段々私と合わなくなってきた。
「マツリカ!気をしっかり持つのだ!私が皇になった暁にはマツリカもユウも傍に置くつもりだ!それまで、少しの辛抱だ!」
「ジンさん……独りは寂しい事よ……ハル君も、ユウも……独りにさせないで……」
「少し辛抱すれば、また皆一緒になれる!だから、それまで待ってくれ!」
「どうか、悲しい想いをする子が増えない国に……」
私の声が聞こえていないのか、マツリカは自分の事よりも国の行く末を語っている。
「ジンさん……貴方の優しさがあれば、きっと、素敵な国になるはず……」
マツリカは最後の力を振り絞るように私の顔に触れてきた。何かを探るように手を這わせ、唇に触れると止まった。
「ジンさん……“愛”をくれてありがとう……」
「……っ」
私はマツリカの頬に手を添え、接吻けを落とす。
私に触れていたマツリカの手は力を失い落ちた。それがどういう事か理解したくなく、接吻けを落とし続ける。
少し辛抱すれば、またマツリカと一緒に居られる。そのはずが、もう叶わない。
生きていてくれさえすれば、いつの日か会える日が来る。だが、それももう叶わない。
「マツリカ……」
まだ、マツリカには温もりがある。だが、息はもうしていない。鼓動も感じられない。
「マツリカ……」
傍にいてやれれば助かったのだろうか?
父上に逆らい、マツリカの元に居れば助かったのだろうか?
そもそも、私が無責任にマツリカに触れてしまったから死なせてしまった。もっと良い環境で出産を迎えられていれば死ぬ事もなかったかもしれない。私の選択がマツリカを死なせてしまった。私がマツリカの命を奪ってしまった……私が……
「おぎゃー!おぎゃー!」
「っ!!」
自暴自棄になりかけていた私を冷静にさせるかのように赤子の泣き声が届いた。
視線を向けると、一所懸命に泣く男の子。
「お母さんが頑張ってくれたお陰で助かった命です」
そう言って、助産師が私に赤子を渡す。
「おぎゃー!おぎゃー!」
マツリカと私の子だ。
「マツリカ……」
マツリカは穏やかな表情で眠っている。
「ありがとう……ありがとう……」
私の方こそ、“愛”をありがとう。
それから三年の月日を経て、私はトールウ国の皇に即位した。
戴冠式には即位を祝う為にボルク皇とザフリイ皇が来てくれた。とても有難い。唯一、ナルーン皇は来てくれなかった。ナルーン国とはあまり良い関係を築けていないからだ。それは今後の課題でもある。
戴冠式後には皇家同士の会食。折角トールウまで足を運んで下さったのだ。国内を案内する予定が沢山あった。
即位から数日、忙しなく流れる日々を過ごした。そして、漸く落ち着き始めた今、私は三年振りにこの家を訪れた。
人里から少し離れた場所にある家。元々、旅人の休憩の為に甘味処を開いていた家。そうマツリカの家だ。
トントン
扉を軽く叩く。
あれから三年だ。まだハルが此処に住んでいる保証はない。それでも、私が分かる唯一の手掛かりが此処しかない。
「やはり居ないか……」
反応がなく、諦めて帰ろうとした。
ダァンッ
「っ!?」
内側から扉を叩く音が聞こえた。
「ハル?居るのか?」
私は恐る恐る扉を開く。
そこには幼い子供が俯せで倒れていた。
この子は……まさか……
「うー、あああああああああああああはああうううううううああああああああああ!!!」
「っ!!?」
幼子が突然泣き出し、私は慌てた。
「だ、大丈夫か?!転んだのか?!」
「ああああああああああはあああうううううううう!!!はあああうううううううう!!!」
身を起こさせ、怪我をしていないか確認する。特に血が出ているとかではない。
「ああああああああああ!!!」
一向に泣き止まない幼子。その泣き声に奥から少年が現れた。
「ああ、ユウ!ごめん、ごめん、今行くか、ら――」
その少年は私の存在に気付いた途端、動きが止まり持っていた洗濯物を床に落とした。
「殿下……」
背が少し伸びたハルの姿がそこにあった。
「は!いえ、大変失礼致しました!」
ハルは慌てて跪き頭を下げる。
「御即位おめでとうございます!新たなトールウ国皇、ジン皇帝陛下!」
床に擦り付けるように頭を下げるハルに寂しさを感じた。
三年前までは共に生活していたというのに、三年の間に大きな壁が出来てしまったように思えた。
私は今も尚泣き続ける幼子を抱え、ハルに近付く。そして頭を撫でる。
「苦労を掛けたな……。この子はユウなのだろう?此処までよく一人で育てたな。ありがとう」
頭を下げたままで表情は分からないが、次第にハルの肩が震え始めた事から察するに、涙しているようだ。
「どうか頭を上げ、私に顔を見せてくれないか?」
ハルは恐る恐ると顔を上げ、袖で顔を拭った。
「ご無沙汰しております。陛下……」
やはり泣いていたのだろう。目が赤い。
「ハルも、こんなに大きくなって……」
私は思わずハルを抱き締めた。
「で、殿下!?あ、いえ、陛下!?」
呼び慣れていた敬称で言い間違えるハルに私は少し安堵した。確かに三年の月日が私とハルの間に“身分”という壁を作らせてしまったのかもしれない。それでも『殿下』と呼んでくれていた思い出は無くなっていないのだ。
「本当に、元気そうで良かった!ユウの事も、ハルに押し付ける形になってしまって申し訳ないとずっと思っていた!」
父上にマツリカと縁を切るよう言われていた手前、ユウを城に連れて行く事はマツリカが命を張って生んでくれたユウの身を危険に晒すようなもので、出来なかった。
だが、今は違う。
今は私がこの国の皇だ。ユウを城へ置くという選択肢を選べる権力が今の私にはある。ずっとこの時を待っていた。
慌てふためくハルを離し、今日此処を訪れた理由を話す。
「私はハルとユウを迎えに来たのだ」
「……え?あ、でも……」
ハルは父上に城を追放された事を気にしているようだ。
「皇になった今、私には信頼できる者を近くに置く必要がある」
皇位が私に移ったとは言え、今尚父上の息の根が掛かった官吏が沢山居る。目指すところがトールウの繁栄という同じ方向でも、やり方は色々ある。私には私のやり方がある。父上の息が掛かった者があまりにも居過ぎる今の状況では私のやり方を通す事は難しい。それは私が父上の傀儡と言う事と何ら変わらない。そう言う意味でも、ハルには私の傍に居てほしい。
「陛下がそこまで僕を信用して下さっているのはとても嬉しい事です。でも……」
ハルは私から視線を逸らし、続けた。
「僕が城を離れてから三年間、本当に色々な事がありました。こんな事を言ってはあれかもしれませんが、僕一人なら此処まで大変ではなかったかもしれません。それでも、ユウは――ユウ様は僕の家族です。陛下とマツリカさんが繋いでくれた大切な家族です。見捨てる事など出来ません。大切な家族を守る為に日々生きるのに必死で、官吏としての知識など捨てたも同然。そんな僕に再び官吏になる資格などありません。どうか、城へお戻りください」
そう言ってハルは頭を下げた。
マツリカを失った今、私が気を許せる相手はハルしかいないと思っていたから拒否された事がとても悲しかった。
思わず掌に力が籠る。
「では、ユウのみ城に連れて行くと言ったらどうする?」
頭を上げたハルはとても悲しそうな顔を見せ、俯く。
「ユウ様は陛下の子です。僕には引き止める権利はありません……」
本当は手放したくないのだろう。握り拳を作り、必死に堪えているのが見れば分かった。
いっそ、『育てたのは自分だ。手放したくない』と言ってくれた方が良かった。それならば、嫌なら一緒に城へと来いと言えた。でも、ハルは言わない。
一度、“家族”を知ってしまえば、再び“独り”になるのは辛いだろうに。そして、独りになるよう仕向けたのは私だ。
心が痛い……
ぎゅっ
「ん?」
気付けば抱えていたユウは泣き止んでおり、私の服を握り締めていた。
「はるをいじめないで」
「ユウ、この方はユウの御父上様だよ。決して僕を苛めているわけではないんだよ」
「おちちうえさま?」
そう呟き、腕の中から私の顔を覗いてくる。
マツリカと瞳の色が同じだった。髪の色は私と同じ。間違いなく私とマツリカの血を継いだ子だ。
マツリカが命を掛けて守ってくれた子。
そう思うと自然と涙が溢れた。
「へ、陛下!?」
涙を流す私にハルは動揺している。ハルの前で涙を流したのはマツリカがユウを生んで亡くなった時しかない。
二度も涙を見せたのだ。身分が何だ。駆け引きなどもう要らない。私の素直な気持ちを伝えよう。
「ハル、お願いだ……私の元へ戻ってきてくれ……。ハルは私の心を許せる唯一の“家族”なのだ……私を“独り”にしないでくれ……」
ハルと会う前はこんな気持ちになる事もなかっただろう。だが、出逢ってしまった今、ハルが傍に居ない未来など考えられない。
「陛下……」
ハルは溜め息を漏らし、続けた。
「……分かりました。でも、お願いがあります」
「ん?何だ?」
「もう一度、僕に科挙を受けさせてください。このまま城に戻れば周りの者から陛下に贔屓されていると非難の嵐に晒されるのは目に見えています。ならばもう一度正規のルートで官吏になります。なので、僕に少し時間をください」
ハルは真剣そのもの。
一度科挙を受けているのだ。例え、三年の空白があったとは言え、首席で通った実績があるのだから再び受ける必要などないはず。
それでも、ハルは再び受けるの一点張り。色眼鏡で見られるのが嫌だと言う。
「分かった。科挙が終わるまで待つ。だが、わざと落ちるなどはしないでくれ」
「分かっています」
その言葉通り、ハルは科挙を受け、再び首席で通るという快挙を成し遂げた。
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