第六章 ―春―

 僕は大量の書類を抱え外廷を走り回っていた。この書類を届け終われば今日の仕事は終わりだ。その後は殿下と共に城下へ降りるという名目でマツリカさんの家へと向かう。そんな生活もまもなく半年になる。

 執務室を開けようと触れた瞬間、中の声が嫌に耳に付いた。

「でもさ、実は女だっていう噂もあるぞ」

「あー、それな、俺も聞いた事がある。女だと官吏にはなれないから男だと偽っているってやつだろ?」

「あのくらいの歳じゃまだ男も女も同じような骨格だから何とも言えないけど、確かに女みたいな顔しているよな」

「うん。うん。何でも、殿下のお気に入りだから側に置いているってやつ」

「孤児じゃ後宮に入れる事も出来ないしな」

「そもそも、六か七くらいで科挙を首席とか怪しすぎるだろう」

 ここで僕の事を話しているのだと気付いた。

 言いたい奴には言わせておけばいい。

 バンッ

「っ!!!」

 僕は思い切り音がなるように扉を開いた。

 噂話で盛り上がっていた奴らは慌てて仕事に戻る。

 ドンッ

 書類を机に置き、睨み付けたい気持ちを抑えながら笑顔で言い放つ。

「こちら全てに目を通して下さいね!それがあなた方のお仕事なのですから!それでは失礼致します」

 黒い笑みを浮かべたまま部屋を後にする。

 バタンッ

 扉を閉めた瞬間、真顔に戻った。

 殿下が僕を贔屓にしているのは事実だ。殿下はただ単に目の前で死にかけていた僕を助けただけだと思っているだろうけど、同じような境遇の孤児が沢山いるトールウではそれは“特別扱い”になる。贔屓だと思われない方が可笑しいくらいに。だからこそ、妬んで陰口叩かれるのは日常茶飯事。もう慣れた。それでも、性転換された噂話は初めてだ。

「勝手に言ってろ」

 僕は小さく吐き捨て、殿下の元へと向かった。



「マツリカさん、どうぞ」

「ハル君、ありがとう。いつも本当にありがとうね」

「いえいえ、気になさらないでください」

 マツリカさんの自宅で夕餉を摂り、食後のお茶を淹れる。最初は勝手に人様の家の物を触るのに抵抗があったけど、今では慣れたものだ。

「今日は小豆茶にしてみたのですが、どうでしょうか?」

 ゆっくり飲むマツリカさん。

「……うん。ほんのり小豆の香りと味がして美味しい!」

「本当ですか!?良かった……」

 悪阻は落ち着いたものの、あまり食欲は湧かないみたいで、どうにか口に出来るものがないかと色々試行錯誤していた。

 あれから半年でマツリカさんのお腹は大分大きくなっている。元々細い方だからこそ大きく見えるのか、もういつ産まれても可笑しくないと思えるくらい大きい。もうすぐ殿下も“お父さん”になるのだと思うと不思議な気分だ。

「うーん。私はもう少し甘味が欲しいところなのだが……」

 殿下の口にはちょっと合わないみたいだった。

「ジンさん、甘いのが好みですもんね」

「ああ、また白玉あんみつが食べたい……そうだ!子供が産まれてある程度手が離せるようになったらまた甘味処を開こう!」

 そういえば、マツリカさんは元々甘味処をやっていたのだっけ?

「ふふ、そうなれればいいですね」

 嬉しそうにマツリカさんは微笑む。

「僕も、マツリカさんのお店の味、味わってみたいです!」

「じゃあ、心機一転開店第一号のお客様はハル君ね」

「何!?第一号は私が!!」

 張り合おうとする殿下はまるで子供のようだ。

「ジンさんは私と同じで店員側ですよ」

「そうか……第一号は捨てがたいが、マツリカと二人三脚――いや、三人四脚になるのか……感慨深いな……」

「まあ、実際問題、御役所勤めとの二足のわらじは難しいと思うので、私とこの子で頑張ってやっていく事になると思うんですけどね」

 そう言ってマツリカさんはお腹を撫でる。

 殿下もマツリカさんのお腹に触れ、愛おしそうに呟く。

「私がマツリカの傍に居られない時は頼むぞ」

 マツリカさんとお会いしてから本当に殿下の色んな姿を見るようになった。城の中では皇太子としての立場がある。上に立つ者にはそれなりの威厳がなくてはならない。だからこそ、本当の自分というものは圧し殺して振る舞っている部分が多いのだろう。こんなに表情を崩して笑ったり、時々頬を染めて愛おしそうにしたり、まだまだ子供のような部分もあったりするのが殿下なんだ。

 僕はそんな殿下を守っていきたいと改めて思った。そして、この温かい日々がいつまでも続けば良いと――

 ガタンッ

「!!!?」

 突然、扉は開け放たれ、数人の兵士が入り込んできた。

 僕たちはあまりにも突然の事で言葉を発する余裕もなく、床に押さえ付けられた。

 押さえ付けられ自由を奪われた頭を必死に起こし、状況を把握する。

 殿下とマツリカさんも押さえつけられている。押さえつけている兵士の鎧は青色。見覚えのある色だ。そう、トールウの兵士が乗り込んできたのだ。

「その方をどなたと心得る!!」

 僕は声を張り上げた。

 兵士如きが皇太子を床に押さえつけるなど、あるまじき行為だ。

「トールウ兵ならば知らぬとは言わせぬ!!」

「私が命じたのだ」

「!!?」

 聞き覚えのある声に目を見開いた。

「へ、陛下……」

 そこに居たのはトールウ国皇――カイ皇帝陛下だ。

 言葉を失った僕の代わりに、殿下が口を開いた。

「何故、此処に!?」

「私はジンを甘やかしすぎたようだ」

 陛下は殿下に向かって溜息を漏らすと視線を僕に移した。

「私はお前にジンの動向を探れと命じた。お前はジンがトールウの状況を把握する為に城下へ降りていると言ったな。それが、これか。あの娘は何だ?見たところ妊婦のようだが?誰の子だ?いや、言わずとも分かる」

 再び溜息を漏らし、続けた。

「用心の為、暫く泳がせていたが……真実を告げず、嘘偽りを報告していたとはな。これは立派な叛逆罪だ。死罪に値する」

「死!?父上!!ハルは何も悪くありません!!全て私が命じた事です!!」

「お前は黙っておれ!!」

「いえ、黙りません!!父上に黙っているよう、ハルに命じたのは私です!!」

 別に、殿下に命令されて黙っていたわけではない。

「ハルと共に行動する事でマツリカの事を隠せると思い、私が命じたのです!!罰するのであれば、私を罰してください!!」

 殿下は僕を守ろうと必死になってくれている。

 殿下の言葉に陛下は耳を傾ける事無く、刀を鞘から抜いた。

「父上!!お願いです!!ハルは何も悪くないのです!!」

 首の後ろに冷たいものが当たる感触がした。

「父上!!」

 冷たい感触が離れ、振り下ろす為に構えているのだろうと思った。

 短い人生だった。

 殿下に拾わられなければ消えていた命だ。元々死ぬつもりだったのだから、もう終わりにしてもいい。皇に嘘を吐くという大罪もそうそう出来るものでもない。それを成し遂げたのだからある意味十分人生を楽しんだ。今死んでも後悔はない。

 そう思った視線の先には必死に訴える殿下の姿があった。

 もう僕の為に必死にならないでください。この世に未練が出来てしまう……。

 陛下が此処へ来たのは僕を殺す為だ。それが済めば終わる事なのだから。


 ――殿下、どうか僕のような子が増えない国を築いてください――


 刀が空を切る音が聞こえた。

「ハルを殺せば、私は皇太子の座を降ります!!!」

 殿下の最後の訴えに、刀がすんでのところで止まった。

「こんな小さな命ひとつ救えない私に国を支える力などありません……。故に、私には皇太子で居る資格などありません……」

 暫く沈黙が続いた。

 誰も身動きの出来ない冷たい空気を切り裂いたのは陛下の深い溜息。そして、刀を鞘に納める音。

「ハル、お前は罷免に処す。故に、城内に住まわす事も出来ない。好きな所へ行くがよい。二度と我々の前に現れるな」

 殿下の必死の訴えに、官吏職剥奪程度で済んだ。

「ジン、私はお前の訴えを聞き入れた。だから私からの条件も聞き入れてくれるな?」

「……はい」

 殿下が頷くのを確認した陛下は兵士達に退くよう命じた。

「ジン、今後一切あの娘との接触は禁止する」

 その言葉に、殿下は目を見開く。

「破った場合には娘を斬り捨てる。分かったな」

「……分かりました」

 殿下は頷くしかなかった。

 陛下は冷たい視線をマツリカさんに向ける。

「腹の子を産み育てたいと思うのならば、皇太子の子だと決して誰にも知られるな。知られるようなら命はないと思え」

 それだけ言い残し、陛下は殿下を連れて部屋を出て行った。

 嵐が去って静けさを取り戻した部屋には僕とマツリカさんのみ。

 僕は殿下と出会う前に戻っただけ。むしろ、あの時よりも知識や知恵を得ている。一人でも何とかなるはず。

 でも、マツリカさんは違う。

 もうすぐ出産を控えている大事な時期だ。殿下の正体もいつかは話さなくてはならないと覚悟はしていたが、こんな形で知られるのは良いとはいえない。

 マツリカさんは頭が追い付いていないのか、殿下が出ていった扉を見つめたまま動かない。

「マツリカさん……」

 殿下が皇太子という事実も、もう会えないという事実も、受け入れるには時間が掛かるのだろう。

「……ごめんなさい」

 マツリカさんへと伸ばしかけた手を引っ込めて呟いた。

 こんな事なら先に正体を明かすべきだったのかもしれない。忙しなく時が流れる皇都と違ってここは穏やかに時が流れる。それが心地好くて、いつまでも続けばいいと思ってしまっていた。だが、先伸ばしにして最悪な結果を迎えるくらいなら、いずれは会えなくなる可能性もあるのだと覚悟させる時間を与えるべきだった。

 僕は何も言えず、謝る事しか出来なかった。

「ハル君は……」

 ようやく口を開いたマツリカさんの声は弱々しい。

「……ジンさんが皇太子様だって知っていたんですよね」

「はい」

「……私、馬鹿みたい。ジンさんと一緒になれるかもって夢見てて……相手が皇太子様とも知らずに、沢山甘えて……つらい時に傍に居てくれたのは、ジンさんが優しい方だったから……身の程知らずに頼って、いつまでも傍に居てほしいからって赤ちゃん作って、ジンさんに迷惑掛けて……私、最低……」

「マツリカさん、それは違う!殿下がマツリカさんの元に居たのは殿下の意志です!」

 肩を震わせながら顔を両手で覆うマツリカさんを目の前にして僕は口を閉じる事が出来なかった。

「僕は城の中での殿下も、マツリカさんの前に居る殿下も知っています。マツリカさんの前に居る殿下は幸せそのもの。声色も、あんな柔らかい声色は初めて聞きました。本当にマツリカさんを愛しているんだと見れば分かります。だからこそ、僕は陛下にマツリカさんの事は言えなかった。僕が上手く立ち回れなかったのが原因で二人は離れ離れになってしまった……。僕がいけないんです……ごめんなさい……」

 楽しい事はなくていいから、辛い事もなくていい。淡々と日々が過ぎていく事だけを望んでいたはずなのに、いつの間にかこの幸せな時間が続けば良いと願ってしまった。

 欲を出したばかりに不幸を招いてしまった。


 僕はそれ以上何も言えなかった。

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