第五章 ―春―
陛下から殿下の動向を探るよう言われてから数日、内廷へと戻った殿下をずっと監視しているのだが、いつも同じ場所で見失ってしまう。そして、日付が変わる頃にはいつの間にか自室へと戻って来ている。どこかに隠し通路か何かあるのだろうか。
廊下を隈なく調べてみたが特にそれらしきものは見当たらない。
あるのは小さな窓のみ。格子が邪魔で人が通れるものではない。
「っ!」
微かに物音が聞こえ、身を潜める。
殿下が部屋から出て来た。今日こそ殿下が何処へ行かれるのか突き止めないと僕の身がそろそろ危ない。殿下は良くしてくれているが、陛下は僕の事など道具としか思っていない。使えないと思えば捨てる事も可能だ。例え殿下の側近だとしても、従者を決める最終的な決定権は殿下ではなく陛下にあるのだから。
殿下は廊下を曲がり、僕もそれに続いて曲がる。
「!!」
やはり殿下の姿が消えた。
廊下に仕掛けなど何もない。ではどこへ消えたのか……。
ふと、窓を見てみると格子が先程より少し傾いていた。
「まさか」
少し捻ると格子が外れた。格子が外れた窓枠を見てみると複雑な形の溝が彫られている。普通に動かすだけでは外れないが、格子を上手く動かせば外れる仕組みのようだ。
「殿下は毎晩此処から外へ……?」
あまり近付いては殿下に気付かれてしまうと思い、ある程度の距離を保って尾行していた事もあり、その僅かな時間で格子を外し外へ出て行ったのだと思われる。
僕も窓から外へと出た。
だが、此処は居住区である内廷だ。賊が容易に侵入出来ないように、内廷は最深部に位置する。城外へ出るにはまだ距離がある。此処からどうやって衛兵に気付かれず城外へ出るというのか。
僕は周囲を確認して回った。そして、唯一ともいえる警備の穴を発見した。
「排水路……」
排水路が通っている扉の閂が外されていた。勿論、普段は施錠されている。一年に一度清掃や整備目的で開く事もあるが、それ以外は滅多に開く事がない場所だ。それ故、誰も近付かない。だからこそ落とし穴とも思えた。
僕は扉を開き、中へと入る。しばらく排水路を道なりに進むと、扉が見えた。押してみると簡単に開いた。こちらも閂が外されていた。
外には排水が溜まる溝。そして、塀。
一体此処は城のどの辺りに位置するのだろう?
今の位置を確認してみようと、塀をよじ登り外側を確認してみると城の裏側のようだった。
「そうか、内廷での排水を流す道を通っていけば、排水が溜まる溝に繋がっている。つまり外だ」
流石に、外へ直接繋がるのは危険だ。だからこそ、この塀があるのだろうけど、内廷からいくつもの扉や塀を潜ってようやく外へ出る事を考えたらこんな塀一枚、外へ出るには簡単すぎる。
閂が外されていた事もあり、殿下がこのルートで外へ出ている事は明白だった。
次の日、僕は城内から殿下を尾行する事は止め、昨日見つけたルートの出口である塀の外から身を潜めていた。
本当に殿下があのルートで外へ出ているのであればそのうち来るはず。
そう思い、身を潜めているとやはり出て来た。
何度も通っているルートなのだろう。塀の越え方も慣れている。
殿下に気付かれないように後を付けると小さな厩が見えた。そして、殿下はそこから馬に乗って走り去ってしまった。
「嘘でしょ……」
流石に走って追い付けるわけがない。
ようやく行き先が突き止められると思っていただけに、敗北感が凄かった。
そして、また次の日。今度は馬も用意して殿下が塀から登って出てくるのを待った。
昨日と同様に慣れた様子で塀を越え、厩に向かい、そこから馬に乗って何処かへと向かって行った。
今日こそ必ず突き止めてやると思い、ある程度の距離を保ちながら殿下の後を追う。
殿下は人里離れた小さな家の前で馬から降りた。そして、馬を近くの木に結び付け扉を叩く。家の中から女性が出て来た。とてもにこやかな雰囲気だ。殿下のあんな表情も初めて目の当たりにした。
殿下が家の中へ入るのを確認した僕は乗って来た馬を近くの木に結び付け、家に近付く。
窓から殿下の笑い声と先程の女性の声が聞こえる。
僕は見つからないように二人の会話を盗み聞きする。
「ああ、マツリカ!それは私が持つ!マツリカは座っていてくれ」
「もう、そんなに心配しなくたって大丈夫ですよ」
「いや、だが、もう一人の身体ではないのだから――」
え?今何て言った?聞き間違い?
「本当は、昼間も一緒に居られれば良いのだが……」
「何を言っているんですか。ジンさんにはお仕事があるんですから。私なんかに構ってばかりでは左遷されてしまいますよ」
「そうは言っても心配で心配で……一緒に住めれば一番良いのだが……」
「分かってます。官吏のお仕事はよく分からないけれど、全寮制で一緒には住めないって最初に教えてくれたじゃないですか。だから分かってます」
殿下が官吏?どういう事?
「それよりも、こうやって毎日来てくれるだけでも私は嬉しいです」
本当に嬉しそうな女性の声。
二人の会話から、殿下は官吏だと偽ってこの女性に毎晩会いに来ているらしい。
それよりも、気になったのが『一人の身体ではない』と言った殿下の言葉。つまり女性は身籠っているという事?一体誰の子?
二人の仲睦まじい会話から女性は殿下の子を身籠ったのだと推測できる。
僕は頭を抱えた。
陛下に何と言えば良いのか……いや、言えるはずがない。
陛下は早く世継ぎを欲しがっている。その為に後宮に多くの女性を集めている。その中の一人が身籠っているなら話は別だが、身籠ったのは平民の女性だ。それに、最近、殿下は後宮に出向いていない。元々そんなに行って居なかったらしいが、陛下の手前行かないわけにもいかない。たまに行く事もあったみたいだがここ一ヶ月行ったという話は聞いていない。その原因が平民の女性に現を抜かしている事だと分かれば、あの女性を斬り捨てる事もやりかねない。陛下は国第一だ。国の為なら一人くらいの犠牲は厭わない。そういう御方だ。
殿下の楽しそうな声が聞こえる度に心が痛む。
陛下には言えないよ……。
それから暫く二人の楽しそうな会話を聞いていた。本当に楽しそうな殿下。こんな柔らかい声の殿下は初めてだ。僕に対しても優しいが、僕に対する優しさとはまた違う優しさを女性に向けている。
これが“愛”というものだろうか。
最初に愛してくれるだろう両親も僕が今よりずっと幼い頃に失っている。もう顔も覚えていない。本で読んだ知識としての“愛”は知っているが、実際に愛された事のない僕には“愛”が分からない。
初めて感じる“愛”に戸惑う気持ちと、陛下に何とお伝えすれば良いのか分からない気持ちが混ざり合う。僕はそれを自分の中で処理しきれず、思わず頭を抱えて身を丸める。少しでも情報量を減らそうと耳を塞ぎ、二人の楽しそうな声が聞こえないようにした。
殿下は僕にとって大切な御方だ。命を救って下さり、衣食住を与え、学ぶ機会を与えてくれた恩人だ。そんな方を悲しませるような事は出来ない。だが、此処に来たのは陛下に殿下の動向を探れと言われたから。この事をお伝えしなくてはならない。でも、そうすれば殿下が悲しむ結果になるのが目に見えている。僕個人としては陛下ではなく殿下に付いて行きたいと思っているが、皇帝と皇太子では皇帝の方に権力があり僕なんかが逆らえるわけがない。どうしたらいいんだ……。
「ハ、ハル!?」
え?
此処で殿下に呼ばれるはずがないのだが、顔を上げると殿下の驚く顔がそこにあった。後ろには先程仲睦まじく話していた女性が居る。
何も聞こえないよう耳を塞ぎ、身を丸めていた事により二人が出てくる事に気付けず、見つかってしまった。
「ジンさんのお知り合いですか?」
「え、あ、ああ、そうなのだが……」
殿下は説明に困っている。身分を偽っているのだから当たり前だ。
殿下は再び僕の方を向き、口を開く。
「ハル、何故此処に居るのだ?ああ、やっぱりいい。理由は後で聞く」
そう言って、女性の方を向き直し、両肩を掴み家の扉の方へ押していく。
「冷えるのだから、見送りは此処までで大丈夫だ」
「ええ?!ジンさんのお知り合いの方でしょ?こんな所までわざわざ来てくださったのだからご挨拶くらい――」
「身体を崩しでもしたらどうするのだ」
「もう、ジンさん心配性ー」
なんだこの茶番劇……。
殿下は女性を玄関まで押し戻し、一息漏らす。
「とにかく、今夜は冷えるから温かくして寝るのだぞ」
「はいはい。分かってますよー」
女性は僕の方に視線を向けた。
「ハル君、でしたっけ?」
殿下がそう呼んでいたのを聞き逃さなかったようだ。
「もし良かったらまた今度いらしてくださいね」
笑顔を向けてくれる。
「ジンさんも!今度ちゃんとハル君にご挨拶させてくださいよ」
「ああ、分かった。ではな」
そう言って、扉を閉めた。
「さて、何故此処に来ているのか理由を聞かせてもらうぞ」
女性の家から十分過ぎるくらい距離を取った帰路の途中、何故あの場に居たのか殿下に問い質された。
「ええーっと……こんな時間に殿下をお見掛けしたので……何処へ行かれるのかと思いまして……」
陛下に言われて動向を探っていたなど言えるわけがない。それは陛下に対する叛逆行為だ。
「それはこっちの台詞だ。こんな時間に私を見掛けるという事は、こんな時間に出歩いていたのか?危ないぞ」
「そ、それよりも、先程の女性とはどういうご関係なのでしょうか?随分親しそうに話されておりましたが……?」
「う……どこまで聞いていたのだ?」
「ええーっと……一人の身体じゃないとか何とか……?」
「最初から聞いていたのか……」
殿下は深い溜息を漏らす。
「聞かれてしまったのであれば言い逃れは出来ないか」
観念したように殿下は話し出した。
女性の名前はマツリカ。元々甘味処をやっていてそこで仲良くなったと。父親を病気で亡くし、一人にする事も出来ず一緒に居る内にそういう関係になったと。
「マツリカは幼い頃に母を亡くしている。父も母も居ない、身寄りが居ない中、身籠った身体で一人にするのは心配なのだ。だから、せめて夕餉だけでも一緒に、と……」
「だから最近、朝早く仕事に取り掛かり夕刻には終わらせるという生活を送っていたのですね」
僕は溜息を漏らし額に手を当てる。
「陛下には何とお伝えするおつもりですか?」
「父上には……言えない」
それはそうだ。
いっそ、遊び呆けてくれていた方がマシだった。先程のマツリカさんと話している殿下の声色は幸せそのもの。本当に“愛”しているのだろう。
「殿下、陛下は世継ぎの事を気にされております。マツリカさんの事を放っておけないのは分かりますが、マツリカさんの為にも陛下の前では世継ぎの事を考えている姿勢を見せてください」
「ハル……」
「今の状況がこのまま続けば陛下にマツリカさんの存在を気付かれるのも時間の問題です」
「マツリカの事を黙っていてくれるのか?」
「お伝えしても良いのであればお伝えしますが、その場合マツリカさんの身が危ないです。僕も、無駄な犠牲は出したくありませんので」
世継ぎさえ出来ればマツリカさんの存在が陛下にバレても殺すまではいかないだろう。僕がそう思っていると、突然殿下が抱きついてきた。
「ハル!ありがとう!やはりハルを側近にして正解だった!」
嬉しいのは分かったので放して欲しい。苦しい。
「前任者は何かあれば直ぐに告げ口されるわ、口煩いわで気が休まる時が一切なかったのだ。味方が居るのは心強いな!」
殿下のその言葉に心が痛んだ。
「この際だ!ハルに知られてしまったのは逆に好都合かもしれない」
そう言って僕を腕から解放する。
「ハル!今後は国の状況を視察しに城下へ降りる名目でマツリカに会いに行こう!ハルが一緒となればコソコソする必要もないだろう」
まあ、確かに、誰かと共に仕事で城下へ降りている体で行った方が良いのかもしれない。だけど……。
殿下を見ると、味方を得て心強くなったのか、凄く良い案を思い付いたと言わんばかりだ。
その表情に殿下の提案を断る事も出来ず、溜息が漏れた。
「僕を利用するのは構いませんが、世継ぎの事はしっかり考えてくださいね」
「ああ、もう、そうやって世継ぎ世継ぎって……どうやって子供が生まれるかも知らぬくせに」
そう言って僕の頭をグシャグシャに掻き回す。
「そう簡単に出来るものでもないのだ。父上にはやっている風を装うので今は待ってくれ」
どうしたら子供が出来るのか、それぐらい僕だって知っている。だからこそ、マツリカさんの存在があるのに出来るはずもないのも分かっているつもりだ。それでも、殿下はトールウ国の次期皇。皇家を繋げていくのも責務だ。嫌だからと拒否する事は出来ない。
「さて、明日からは堂々と城を出られるのだな!それだけで一気に気が楽になったと言うものだ!」
満面の笑みの殿下に今は何を言ってもマツリカさんの事しか頭に入らない事が分かった。
子供が生まれて暫くすれば落ち着くだろう。陛下が殿下を授かった年齢を考えれば、まあ少しは遊ばせてあげてもいいのかな、という気持ちになった。
そう思うと同時に、二重間諜のようなこの状況に胃が痛んだ。
陛下に何とお伝えするべきか……。
僕は殿下の事をお伝えする為に陛下の元へと向かっていた。
マツリカさんと一緒に居る時の幸せそうな殿下。それを壊させない為にも僕の行動も慎重に選ばなくては。
トントン
「陛下、ハルにございます」
「……入れ」
陛下の部屋に入り、跪く。
「此処へ来たと言う事は、ジンが一体何をしているのか分かったという事だな?」
「はい。殿下は陛下に秘密で城下へと降りておりました」
「それは気付いておる。城下へ降りて一体何をしていたのだ」
「今のトールウ国の状況を実際に肌で感じようとしておられました。実情を知らずして対策など取れぬと……」
「本人から聞いてきたような口振りだな?」
「も、申し訳ございません。途中で殿下に気付かれてしまいまして……。ですが、陛下に言われて探っていた事は伏せております。殿下も、陛下には内密にして欲しいと仰っております。実は……」
僕は言いにくそうに一拍間を置く。
「……殿下も、中々子宝に恵まれない事を気にされておられまして……。それで最近、後宮に行く気になれなかったと仰っておりました。だからこそ、せめてトールウ国が良くなる事を願ってお忍びで城下へ降りられて居ると聞きました。陛下には後で吃驚させたいから内密にして欲しいと言われました。これは殿下なりの親孝行だと思われるのです。ですから、今しばらくそっとしておいていただけないでしょうか?」
陛下は瞳を閉じ、何やら考え込んでいる。そして、暫くの沈黙の後、大きく息を吐いた。
「子が授からぬもどかしさは私もよく分かっている。ジンにも辛い想いをさせてしまったのだな……」
「殿下はお優しい方です。僕に心配掛けまいと笑顔で話してくださいましたが、内心はお察しします……」
「焦る気持ちは抑えられぬが、少し様子見するべきか……」
「殿下も、世継ぎの事は気にされております。少し時間を空ければ再び後宮へと足を運んで下さると思います」
「そうだな、分かった」
それだけ頷き、陛下は僕に下がるよう命じた。
僕は今すぐにでも逃げ出したい気持ちを抑えながら、平静を装い自室へと戻った。
「はぁ……」
一気に緊張が途切れたのだろう。
僕は部屋の扉を閉めた瞬間、溜息と共に足の力が入らなくなり座り込む。
それもそのはず。皇に対して嘘を付いたのだから。
「嘘だとバレたら首が飛ぶなぁ……」
それでも、殿下は僕の恩人だ。あの幸せそうな表情は守っていきたい。
僕は陛下に嘘を付いた罪の意識に震えていた。
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