第四章
何時間走らせた事だろうか。空はまだ暗く、夜明けまではまだ時間が掛かりそうだった。
ユリカは馬から降りた。
「こんな時間に付き合わせちゃってごめんね……」
鬣を撫でる。
月明かりがあるとは言え、森の中は薄暗く、こんな状況で進むのは危ないと判断できるまでに冷静さを取り戻していた。ましてや、こんな時間に馬を走らせた事などない。休息を取らせないとトールウ国まで持たない。そう判断したユリカは日が昇るまで一旦休む事にした。
ユリカは手頃な木の根元に腰を下ろした。馬も、ユリカのそばに寄り添うように横になった。
「おやすみ。また明日もよろしくね」
そう言って、ユリカも馬に寄り添うように眠りに就いた。
夢を見た。
森の中でユリカは女の子に駆け寄っていた。女の子の顔はぼやけていてはっきりしない
『もう。どこに行ってたのよ。心配したのよ』
女の子にそう告げ、視線をずらすとその先にはシュウがいた。
『シュウ!一人でさっさと戻って来ないでよね。■■が熊にでも食べられちゃったらどーするのよ』
そう言っているのは確かに自分なのだが、何か違和感があった。自分だけど自分ではないような、何かが欠けて何かが都合よく足されたような違和感。
(そうか、ここでは私は普通の女の子。変な力を持っていない。もじもじしたりしない、明るく元気な女の子。私の理想の姿)
ずっと思っていた。普通の女の子になりたい、と。
周りが普通に接してくれているつもりでも、結局自分には変な力がある。そのせいで“巫女”としての立場が付き纏い、ほんの僅かだが村人と自分の間には隔たりがあった。その隔たりは殆ど無いに等しいが、ユリカは敏感に感じ取っていた。
夢の中くらい普通の女の子になりたい。
気付くと場面は森の中から川沿いに変わっていた。
目の前には腕から血を流したトウナがいて、ユリカは泣いている。
その直ぐ近くで女の子が口を開いた。
『ごめんなさい。私のせいなの』
『どう言う事?』
ユリカはトウナからその女の子に視線を移す。
『私が……』
『■■のせいじゃねーよ』
女の子が話すのをトウナが遮って言った。
『熊が急に襲って来たんだよ。でもまあ、俺が蹴散らしてやったけどな』
勝ち誇ったように笑っている。その状況はトウナが女の子の事を庇っているようにしか見えなかった。
(この子、誰?トウナはこの子の事……?)
『とりあえず戻ろう。早く傷の手当てをしないと』
後ろに控えていたハルが声を掛け、シュウがトウナを担いだ。
再び森の中に戻り、ハルがトウナの手当てをしてくれている。
『傷はそんなに深くはないみたいだからすぐ治るよ』
少し安堵する。
『良かった』
同じく女の子も安堵したのか、小さい声が漏れていた。
『全然良くないよ!!』
女の子のその言葉が鼻についたのか、自分でも吃驚するくらいユリカは怒鳴っていた。
『ごめんなさい……』
何度も謝る女の子に、トウナが声を掛ける。
『もういいって言ってんだろ?罰として包帯巻け。これで何もかも無かった事にしてやる』
トウナは右腕を差し出して言った。
『わかった』
女の子は包帯を巻いた事がないのか、巻き方が汚かった。それではすぐに緩んでしまう。
『トウナ。腕かして。巻き直してあげる』
ユリカはトウナの腕を取ろうとしたが、避けられた。
『いいよ。これで』
包帯を巻かれた腕を愛おしそうに見るトウナ。
『そ、そう……でも!それじゃ解けちゃうよ?』
『いいんだよ。ありがとな。■■』
(やっぱり、トウナはその子の事が好きなの?)
胸が痛い。
夢の中で自分は普通の女の子で理想に近い存在になっているはずなのに、なんでこんなに苦しいのか。
夢の中でくらい幸せになりたかった。
「んん……?」
揺れる感覚に、ユリカは目を覚ました。寄り添っていた馬が目を覚まし動いた事で揺れたようだ。
辺りはまだ薄暗い。そんなに長くは眠っていなかった。
「どうしたの?」
馬が凄く不安そうにしている気がした。
「何かいるの?」
そう声を掛けた瞬間、森の中で葉が揺れる音がした。
(何かいる!?)
ユリカは慌てて立ち上がり、馬に跨る。
薄暗く進むのは危険だが、このまま此処に居ても危ない。
馬を走らせ、無我夢中で前に進んだ。
(追いかけられてる!?)
薄暗い中、何に追いかけられているのかも分からずユリカは恐怖に支配されていた。でも、此処で死ぬわけにはいかない。トールウ国まで行かなければならない。その気持ちがあったからこそ前に進む事が出来た。
一瞬浮遊感に襲われ、視界が一回転し気付いた時には空が見えていた。
「い……っ……」
頭、肩、腰、そして脚に鈍い痛みが走り、自分が落馬した事にようやく気付いた。
薄暗く足元がよく見えない中、転ばずに進める程の技術はユリカにはなかった。
痛む身体を無理やり起こし、辺りを見渡す。乗っていた馬は慌てて起き上がり、走り去るのが見えた。
「うそ!?ま、待って!!」
戻ってくるよう何度も指笛を鳴らしたが、戻ってくる気配はない。こんな緊迫した状況で音を聞き取れる方が奇跡だった。
「っ!?」
背後に気配を感じ、振り向くとそこには一頭の熊。
「うそでしょ……」
熊の恐ろしさは知っていた。強大なあの爪で引っ掻かれたらただでは済まない。力強い顎で噛まれたら噛みちぎられるに違いない。
「それでも、私はトールウ国に行かなきゃいけないの!」
ユリカは近くに落ちていた枝を手にして立ち上がった。
「来るなら来なさい!私は負けない!!」
弱いところを見せては襲われるだけだと、精一杯威嚇した。
だが、それも虚しく、熊が襲いかかってきた。
ユリカは必死に腕を振り、枝で交戦するが、いとも簡単に枝はへし折られた。
熊は息つく間もなく襲いかかってくる。
「私はこんな所で死ねないんだから!!」
思わず叫んだユリカに続くように熊は悲鳴を上げた。
「え!?」
熊はユリカに襲いかかるのを止め、悲鳴を上げながら背中を気にしている。
よく分からない状況だが、今を逃したら殺されるのは自分だと即座に判断したユリカは再び落ちていた枝を拾い、それを思い切り熊の目に目掛けて振り下ろした。
片目を失った熊は暴れ狂い、強大な爪がユリカに向かって振り下ろされる。
「危ねぇ!!」
ドンッ
誰かに押し倒され、ユリカは尻餅をついた。
その衝撃で一瞬目を閉じ、開けた時には目の前に居たはずの熊が姿を消していた。分が悪いと判断したのか、森の奥へと逃げて行ったようだ。
「大丈夫か?」
聞き覚えのある声に視線を向ける。
「良かった無事で……」
「致命傷ではないにしろ、相当な傷を負わせたから暫くは出てこないだろうが、あいつ一頭だけとは限らない。気を付けろ」
そこにはトウナ、ハル、シュウの三人が居た。
どうやら三人が熊に傷を負わせ、追い払ってくれたようだ。
自然と涙が溢れる。
「うわぁ!な、泣くなって!とりあえず、落ち着ける場所に移動するぞ!動けるか?」
そう言って、トウナはユリカの腕を掴み、立たせた。すかさずハルもユリカのもう片方の腕を掴み、支える。
「足元、気を付けてね」
トウナとハルに支えられながらユリカは歩き出した。
少しひらけた場所に移動した四人は火を焚き、まずユリカが怪我していないか確認した。
「擦り傷、切り傷、打撲もあるね……」
そう言って、ハルは持って来ていた荷物を広げた。
流石に服で隠れている部分を脱がしてまで確認は出来ないが、腕や脚など見えている部分は手当てした。
「他に痛いところとかはない?」
「大丈夫。ありがとう」
「そっか。本当に、この程度の軽い傷で済んで良かったよ……」
そう言って笑顔を向けるハル。何だか居た堪れなかった。
「さてと、次はトウナだよ」
そう言ってハルはトウナの元へ寄った。
「俺は大丈夫だって」
「もう!右腕出して」
なかなか腕を出そうとしないトウナの右腕を、ハルは半ば無理やり掴んで出させた。
「いてて!!」
ユリカは気付かなかったが、確かにトウナの腕からは血が出ていた。
(もしかして、私を庇って!?)
勝手に村を抜け出し、自業自得とも思える状況なのに、助けに来てくれた。それが嬉しくて心のどこかで喜んでしまった自分。だが、その裏ではトウナに怪我を負わせてしまっていた。何て自分勝手なんだ。
そう気付くと涙が止まらなかった。
「おい、泣くなよ。だから今出したくなかったんだぞ!デリカシーねぇな、ハル!」
「トウナに言われたくないよ!」
そう言いながら、ハルはトウナの傷の手当てを進める。
「よし!これで大丈夫!」
手当てが終わったハルは軽くトウナの腕を叩いた。
「いて!!」
「ユリカ、トウナの傷もそんな死ぬ程の大怪我ってわけじゃないから大丈夫だよ」
ユリカが泣き止むようにとハルなりの優しさだった。トウナも、思わず大声出したが、いつもの笑顔を見せる。それでもユリカの涙は止まらず、ハルは更に声を掛ける。
「確かに、さっきのままだったら化膿して腕が腐り落ちる可能性もあったかもしれないけど、しっかり消毒して化膿止めも塗ったし、傷口もそんな深くなかったから大丈夫」
「おうよ!」
涙が止まるようにと元気にトウナは返事したが、ユリカはいつまでも泣き止まない。
トウナは少し考え、ユリカに優しく声を掛けた。
「こんな暗い森の中で一人熊に襲われたら怖くて当然だよな……。ぶっちゃけ、俺らに相談もせず勝手に村を出てったりして、訊きたい事はあるけど、今日はゆっくり休もうぜ?」
トウナの言葉にハルは頷く。
「そうだね。だいぶ遠くまで来ちゃったし、この暗い中、村まで戻るのはちょっと危険だよね」
シュウも二人の意見に賛成だった。
翌朝、目が覚めたトウナ、ハル、シュウは村に戻る準備をしていた。ユリカが乗ってきた馬はどこかに行ってしまったが、誰かと二人で乗れば問題なかった。
「さてと、ユリカ、村に帰るよ?」
ハルの言葉にユリカは首を振り、座ったまま立とうとしない。
困り果てるトウナとハルに対して、シュウは冷静に言葉を発した。
「ユリカ、このまま此処に座っていても何も解決しない。帰るぞ」
シュウの言葉にも首を振るユリカに、シュウは溜息を漏らし、膝を付いた。
「昨日あんな事があったからトウナとハルはユリカを想ってあまり問い詰めようとしないが、俺は違う。このまま此処に居座ると言うなら、何故一人で村を出たのか、此処で話せ」
ユリカが村を出た理由は何となく予想はついていたが、本人の口から確かな言葉を聞きたかった。
少しの間を置いてユリカは口を開いた。
「ツツジとキキョウが私の代わりに攫われたって……」
やはり自分達の話を聞かれていたのかと、三人は息を漏らす。
「あの人達の目的は私。ツツジとキキョウは関係ない。私が名乗り出れば二人は解放されるはず!だから私はトールウ国へ行く!村には戻らない!」
「ユリカ、トールウ国へ向かう事がどれ程危険な事か分かってる?」
諭すようにハルも目線をユリカに合わせて膝をついた。
「分かってる。でも、このまま村に居るなんて出来ない!」
「ユリカ、ツツジとキキョウの事は俺らに任せてくれないか?俺ら相談しあってさ、俺らも二人を放っておくなんて出来ないから助けに行くつもりだったんだ」
トウナも膝をつく。
「なら私も行く!」
そう言って、ユリカは立ち上り、トウナが乗ってきた馬の手綱に手を掛ける。
「お、おい!」
トウナは慌ててユリカが握る手綱を掴んだ。
「いや、だから、ユリカが行くのは危ねぇって」
「……何で」
ユリカは俯き小さく声を漏らした。自然と握る手に力が加わる。
再び顔を上げたユリカは真っ直ぐトウナを見つめ声を張り上げる。
「何で!?私のせいで村の皆が殺されて、二人が危険な目に遭っているのに、村でのうのうと待っているだけなんて出来ない!!」
声を張り上げるユリカを宥めるように、ハルが優しく声を掛ける。
「だから、ユリカのせいじゃないよ」
「皆優しいから私を責めずにそう言ってくれる!けど、それが逆に私の心を抉る!私が御告の事を言わなかったからこうなってる!そもそも、こんなよく分からない力があるから皆を危険な目に遭わせてる!自分のせいで誰かが傷付くのはもう嫌!!」
その場を動こうとしないユリカ。ユリカに視線を向けられたハルは何も言えず、視線を逸らす事しか出来なかった。本当にユリカのせいではないと言いたかったが、それを分かってもらえる伝え方が見付からなかった。
しばらくの沈黙の末、トウナが口を開いた。
「どう言ったって埒があかねぇし、もういいんじゃね?」
無理矢理にでも村に戻されると思ったユリカはトウナに再び視線を向けたが、トウナの視線はユリカではなくハルとシュウに向けられていた。
「ここまで来ちまったし、ついでにちゃちゃっとツツジとキキョウ助けに行って皆で帰れば」
「トウナ、そんな簡単に言わないでよ」
ハルは反論するが、シュウはそうでもなさそうだった。
「まあ、確かに、今ユリカを連れて村に戻ったところで村を無断で出たのは俺達も同じ。勝手な行動を取った俺達の話を大人達が受け入れてくれる可能性は低くなった。だったらこのまま行ってしまった方がいいのかもしれない」
「シュウまでそんな事言って……。僕達ならまだしも、ユリカが危険な目に遭うかもしれないんだよ!?」
トウナとシュウはこのままトールウ国へ向かう気になっていたが、ハルはどうしてもユリカを連れて行くのは賛成出来なかった。
「もう、ここまで来ちまったんだし、俺らが守ってやればいいだけの話だろ?」
「トウナ……」
トウナのその言葉にユリカの顔が明るくなっていく。
ユリカ、トウナ、シュウの三人の気持ちは一つに纏まっていた。そんな状況に村に戻るという選択肢はなくなってしまったのだとハルは諦めるしかなかった。
ハルは深い溜息を吐き、重い口を開いた。
「……分かったよ。このままツツジとキキョウを助けに行こう」
その言葉にユリカは掴んでいた手綱を放し、ハルの手を握る。
「ありがとうハル!!」
村が襲撃される以前にはよく見せてくれていた笑顔がそこにはあった。その笑顔を自分に向けられてハルは嬉しいはずなのだが、心から喜ぶ事が出来なかった。
「ユリカ、このまま四人でトールウ国に向かうけど、本当に危険だと判断した時は何を犠牲にしてもユリカを最優先に逃げるって事は覚えていてね。どんなにユリカが嫌だと言っても、そこは譲れない。無理矢理にでも連れて行く。いいね?」
真剣なハルの視線にユリカは頷くしか出来なかった。
「トウナとシュウも!自分の身とユリカが最優先!」
「ああ、分かってるって!」
ハルの言葉にトウナは元気に応え、シュウも確りと頷いた。
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