第5話 「来訪」

 

 すずが学校を休んだ。

 これまでずっと同じクラスだったから、彼女が風邪で休むなんてことは幾度かあったけれど、私になんの連絡もなく欠席したことは一度もなかった。

 だからすごく驚いたし、心配もした。

 先生はなにも言わなかった。


 

 放課後、私は担任の先生に呼びだされた。

 職員室に入るなり手招きされ、先生は私を椅子に座らせた。

 「お前、藤原と仲良かったよな?」

 「あ、はい」

 「家も近いし、悪いんだけど、これ届けてくれないか」

 今朝配られた、インフルエンザの流行に対する健康資料だった。

 インフルエンザ予防には手洗いうがいですよとか、こういう食べ物が免疫力を高めますとかいう、あれだ。

 「あの…これ、今日届けるべきプリントですか?」

 決して届けるのが億劫だったわけではない。

 緊急を要するわけではないプリント一枚を、生徒にわざわざ届けさせるだろうか。それともほかに、なにか理由があるんじゃないだろうかと思った。

 「いや…まぁあいつもいろいろあるんだろうな。今日連絡がつかなかったんだよ。無断欠席するような奴じゃないし、少し様子をしてやってほしいというか…な」

 そんなの、言われなくたってやるわよと、少し憤りを感じた。

 「ほら、先生会議があって…」

 自分の生徒なんだから、ちゃんと目を配ってあげるべきなのに。

 「本当は先生も行ってやりたいんだが…」

 どうして自分からはなにも動こうとはしないのだろう。

 「あいつの家庭も大変だろ…」



 なにがわかる。



 大人なんて、いつもそうだ。

 


 自分の立場・体裁ばっかり気にして、がんじがらめになっている。

 自分にとって面倒なことは生徒に押し付けて、責任逃れしようとする。

 そのくせいざとなったら、自分はちゃんと教師してましたって顔して平気で偽善者ぶるんだ。

 


 ほんとうに、無力だ。

 


 「わかりました。でも、細かい住所までは知らないので、教えていただけますか?」




***




 最寄りの駅に着いて、私はあたりを見回した。

 私の家とすずの家は近いとはいえ、駅にすると一駅ほど違う。よくふたりで話す公園を過ぎ、だんだんと知らない道になってきた。

 もらったメモ用紙を確認しながら、私は目的地を目指す。やがて閑静な住宅街に入り、たどり着いたのは小さなアパートだった。

 私の家に負けず劣らず、年季の入った古びた家だった。

 そういえば、すずの母親の再婚相手は有名な大企業のセールスマンだった気がする。暮らしには不自由しないはずなのに、なぜまだこんな家に住んでいるのだろう。

 二階への階段をのぼり、

 「203、203号室…」

 と、表札を確認した。

 「藤原」と書かれた扉を見つけた私は、躊躇せずに呼び鈴を鳴らした。がたがたと音がして、「はーい」という声とともにすずが出てきた。

 「明…」

 扉を開けた瞬間、一瞬彼女がたじろいだのが分かった。

彼女は、長い髪をひとつにまとめて、ジーンズとシャツというラフな服の上から、赤いチェックのエプロンをしていた。

 「な…んで」

 「今日休んだのに連絡くれなかったから、心配したんだよ?はいこれ、プリント」

 「…ありがとう。わざわざ」

 少し困惑の色が見えた。

 なぜ?私に来られてはまずい理由でもあるのだろうか。

 「それより、だいじょうぶ?なにかあったの?」

 「いや…ちょっと、その、家のことがたまってて、やらなくちゃいけなくてさ」

 「そっか。大変だよね」

 「…でも平気よ。ほんとに。ごめんね、心配かけて」

 「元気ならいいの。じゃあ、帰るね」 

 私は笑顔で手を振った。

 すずは私が見えなくなるまで、こちらを見ていた。


 なんだろう。彼女は疲れた顔をしていた。

 一体なにがあったのだろう。

 それでも、彼女がなにも言わないのなら、無理に詮索する必要もない。



 すずの家からは、歩いて帰ることにした。

 たった一駅だし、たまには違う景色も見てみたいと思ったからだ。


 少しばかりの、探検気分。


 だいたいの位置は把握しているから、よほどのことがない限り迷うことはないだろう。

 しばらく歩くと、普段とは全く違う光景だった。

 知らないひと。知らない家。知らない笑い声。

 路地裏であくびをする猫。

 道路で追いかけっこをする小学生。

 不思議な気分だった。

 夏の日差しがまぶしい。

 もうすぐ日も暮れるだろう。

 




 このまま、どこか違う世界へ行けたらなと思った。


 

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