第3話 「懐古」
新学期が始まって、二か月が経った。
通常三年生はこの時期には部活を引退しているのだが、運動部と違って文化部にその風潮はなく、私の所属するこの文芸部も例外ではなかった。
文芸部とは名ばかりの、運動はしたくないし、これといって熱心に部活動をするつもりもない生徒が所属だけという形で入る部活だ。
部員だって多くない。
部長はすでに後輩にバトンタッチされ、前の部長は顔すら出さなくなった。
三年生と言えば私と、同じクラスの
そのくらいの、存在。
その日の部活は、私と界人くんのふたりしかいなかった。
とはいえ、これがいつも通りなのだけれど。
部室に入ると、界人くんがふかふかの一番良い椅子にもたれて本を読んでいた。
「おはよう」
放課後だけど、私はいつもと同じ挨拶をした。
「おはよ」と、界人くんは本に目を落としたまま答えた。
私は界人くんから一番遠い席に座り、数学のノートを広げた。
我々文芸部はとても自由な部活だ。
現に部長は陸上部と兼部しており、常にそちらを優先しているし、部員全員が集まるのは夏休み明けに発行する部誌について会議をするときだけ。活動内容も至極自由で、界人くんや私なんかはわりと「文芸部」らしく読書をしに部室へ来ることが多いのだが、後輩たちはただ談笑したり宿題をやったりと、「放課後の居場所」くらいの使い方をしている。
でも、それでいいと私は思う。
熱心に部活に打ち込んでいるひとは尊敬に値するけれど、同時に私はそうはなりたくないとも思う。
なにかに強く依存すると、その分裏切られた時のダメージが大きすぎるから。
自分を裏切るのは他人だけじゃない、なんて言うとベタな台詞だけれど、行為や自分自身もいつ裏切ってくるかわからない。
特に運動部なんて結果がすべての世界で、どれだけ練習しても記録が残らなければ意味がない。練習した過程に意味があるんだなんて、挫折した人間の妥協でしかないのに。
なにかに期待した分だけ、後でつらくなるんだ。
今日は授業の復習をするために部室へやってきた。家での勉強は集中力に限界があるし、かといって教室にはほかに勉強している生徒もたくさんいる。
部室なら、まず誰もいない。いたとしても今日のように、彼ひとりだけ。
勉強するにはちょうどいい環境だ。
しばらくして、
「なに、やってんの」
と、界人くんが訊いてきた。
「勉強」
「それは見たらわかる。じゃなくて」
「あ、数学」
さっきまで本を読んでいたんだからそのまま黙っていればいいのに、と心の中で思った。
「ふーん」
そして興味のない返事。
一体なにがしたいんだ。
もともと界人くんは口数の多いほうではない。同じクラスといっても、教室で会話をすることなんてまずなかった。
それでもまだ「界人くん」なんて呼んでいる。
私たちは幼馴染だった。
あのひとが出て行ってから父とふたりで小さなアパートに引っ越すまでは、界人くんとは家が隣同士だったのだ。
だから昔は毎日一緒に遊んでいたし、まだ平和だった我が家にもしょっちゅう訪れていた。当然その崩壊も知っているわけで、直接その話をしたこともされたこともないけれど、気を遣われているのがわかる。
しかしまぁ幼馴染といっても中学校も別だったし、高校で初めて会ったときも、彼だと認識するのに少し時間がかかったくらいだ。
彼は昔からとても本が好きだった。
子どものころは絵本ばかり読んでいた気がする。文芸部に入って、見る限りあらゆるジャンルに触れていたが、特にミステリを偏読しているようだった。
そして彼はクラスの中でも特にこれといって目立つわけでもなく、かといって孤立しているわけでもなく、そういう意味では少し私と似ているかもしれない。男子と女子とじゃ、そのへんの事情は全然違うとは思うけれど。
窓辺にある椅子に腰かけているせいで、彼の無造作な黒髪も、夕日に透けて少し明るく見える。ツリ目気味の凛々しい瞳は、ずっと膝に置いた小説を捉えていた。
いつからそこにいたんだろう、そう思ったけれど訊くのはやめた。
ようやく予定していたところまでの勉強を終え、顔を上げると外は暗くなっていた。
いつのまにこんなに時間が経っていたのだろう。
ぱたんと、界人くんが小説を閉じる音が聞こえた。そのまま大きく伸びをした彼は、
「終わった?」
と、訊いてきた。
「うん」
「そっか。おつかれ」
そう言って彼は立ち上がり、首をぐるぐる回し、かたまっていた体勢をほぐしていた。
「読み終わったの?それ」
と、訊いてみた。
「うん。ちょうどね」
「どうだった?」
「俺はけっこう好き。明も気に入るやつだと思うけど…いる?」
そう言って彼は本を差し出してきた。
彼もまだ、「明」と名前で呼んでくれるのだ。
「ありがとう。でも…今借りても、いつ返せるかわからないし。最近本読む時間あんまりなくて」
「あぁ、別にいつでもいいよ。ずっと持ってたっていいし」
「ほんとに?」
「うん。読めるときに読めば」
「ありがとう。じゃあ…借りるね」
実際問題今の私に読書をする余裕なんてない。
裕福な家庭では決してないから、なんとしてでも国立の大学に進学する必要がある。
だから少しの時間でも勉強していなければならない。そこまで切羽詰まった状況かと言われれば、必ずしもそうではないかもしれないけれど、なんだか落ち着かないのだ。
これがこの先一年間続くと思うと、それだけで気が滅入ってしまいそうだった。
暗くなった帰り道を、私たちは並んで歩いた。
部室へ行った日は、駅までの約十五分間をいつも一緒に帰っていた。
別に彼を避ける理由もないし、時間が合うから一緒に下校する。それだけの仲だ。
こうして隣にいたって、特にこれといって話すこともない。話すことと言えば、専ら読んだ本の話くらいだ。
懐しい思い出話など、しない。
お互いにそれがわかっていて、それでもこの恒例の流れを断ち切ろうとはしない。
その理由ははっきりしていた。
「あの…さ」
界人くんが口を開いた。
「なに?」
「勉強…」
「ん?」
「そんなに勉強して、どうすんの」
「どうするって…大学に行くんだよ。行きたいの」
「…そっか」
彼の納得のいく返答ではなかったのだろうか。なにか言いたげな様子だった。
そういえば、見る度彼はずっと本を読んでいて、勉強をしているところなんて見かけたことはなかった。彼はどうなのだろう。
「界人くんは?」
と訊いてみた。
「俺は、行けるところで」
「あ、進学はするんだ?」
「いちおう。でも、特に目標とかないし。上を目指すつもりも、ない」
「そっかぁ、でもそんな感じする」
「なにが?」
「界人くんが。なんかマイペースっていうか…誰になに言われても、界人くんは…自分をさりげなく押し通すんだ」
「なんだ、それ」
と、彼は少し笑った。笑うときは目をくしゃくしゃにして笑う。昔からのクセだ。
「さりげないってのがいいな」
「でしょ?そういう感じ。うらやましいな」
今度はふたりで笑った。
私は初めてこういう話をするな、と思った。
彼は私の境遇を知っている。だから変に意識することもなく一緒にいられる。
このひとは、私を好きだなんて、決して言わないから。
安心する。
私の男性恐怖症は今に始まったことではない。
こういうと語弊があるのだが、普通に道を歩いている男性が怖いとか、男の先生が嫌だとか、そういう話ではない。
私に好意のある男性が苦手なのだ。
男性に自分のことを「恋愛対象」として見られることに、とてつもない嫌悪感を抱いてしまうのだ。
もちろん、自意識過剰だと言われてしまえばそれで終わりだ。
でも、男性が私に「男」を見せる度、急に虚しさにからめとられる。
胸の奥に閉じ込めたなにかが、襲いかかって来る。
まだこの気持ちがなんなのか、自分でも理解ができない。
だから、私はそういう男性と距離をおいてきた。
でも彼は違う。
彼は私を好きにならない。
そう言ってくれた。
だから、私はこのひとの隣にいられるんだ。
その日は、珍しくお互いの話をしながら帰った。
駅に着くと「それじゃ」と一言告げて、彼は改札をくぐって去っていった。
その日から、私たちは徐々にお互いの話をするようになった。
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