第2話 「出逢」


 満員電車は苦手だ。

 私の使う沿線は、毎朝通勤通学するひとたちで溢れかえっている。

 電車を使わなければ通えない高校を選んでしまってから、私はひどく後悔した。

 小さな箱の中にぎゅうぎゅうに押し込められて、素性も知れない赤の他人と密着していなければならない時間に、毎日うんざりしていた。

 駅のホームへの階段を下りながら、たくさんのひとが私を追い抜いてゆく。ひときわゆっくりと歩を進める私を横目に、邪魔だな、といった感じで体格の良い男子学生が駆け抜けていった。

 

 人間は時間という目に見えないものに支配されている。

 そんなものにせかされて、足を早める人間がとても哀れに見えて仕方がない。自分もそのひとりなのだと思うと、余計に気分が悪くなった。

 だから私はせめてもの抵抗のように、いつも少しだけ早く家を出て、電車を一二本見送っても平気なようにしていた。

 あなたたちとは違うのよ、と私を追い越してゆくひとたちの背中をぼんやりとみていた。

 だから今日も、たくさんのひとを乗せた電車のドアは、私の目の前でゆっくりと閉まった。

 駅員さんが、「いいのかい」というような目でこちらを見たので、私は「いいんです」とほほえみ返した。「そうかい」とでもいうように踵を返した彼は、表情一つ変えないまま、指さし確認をして勢いよく発車の笛を吹いた。


 電車が過ぎ去ったあと、ホームにぽつりと残された私の視界の端っこに、人影が見えた。

 普段は周囲のひとのことなんてまるで無関心な私だったが、となりに立ったその人物を、なぜかまじまじと見てしまっていた。

 

 サラリーマンだろうか。でも、そんなに年上にも見えない。ぴしっと整ったスーツをまとい、背中には黒いリュックサックを背負っている。なんてアンバランスな。さらに野暮ったい黒いふち眼鏡をかけ、色素の薄い髪の毛はすこしだけくるくると波打っていた。

 そしてなにより、その顔を認識するには見上げなければならないほど、彼は背が高かった。


 なぜだろう。


 どうしてこのひとから目が離せないのだろう。


 

 徐々にまたホームにひとが集まりつつあるなかで、私ははっと我に返ったように彼に向けていた視線を自分の足元へ戻した。

 きっとものすごく背が高いから気になったのだろうな、と自分に言い聞かせ、私はやってきた電車に乗り込もうとした。

 

 その瞬間。

 うしろからどんっと誰かがぶつかってきて、幸い転ぶことはなかったものの、私は並んでいた列から外れてしまった。

 「すまんね」と小さく詫びる声が聞こえた気もするけれど、そのぬしを確認する間もなく、私はあっという間に押し寄せてきたひと波に飲み込まれてしまった。

 姿勢を立て直し電車に乗ろうと顔を上げると、扉の向こうにはもはや私の入るスペースなどなく、皆すこしきまり悪そうな顔で、ホームに取り残された私を見ていた。

 「まぁいいや」と腕時計を見て、遅刻はしないだろうということを確信した私は、またホームの白線から少し離れたところに並びなおした。

 

 あぁ、おなじだ、と思った。

 

 私は、電車ひとつうまく乗ることができない。

 それはきっとこの世の中とおなじことで、呼吸するのとおなじくらいにみんなが容易くできることを、私はこなすことができないというだけのことだ。

 ほんとうは、少しがんばれば乗ることだってできた。

 皆そうやって自分の乗りたい電車に乗ってゆくのだ。

 でも、私はそうはしない。

 できないのだ。 

 自分を押し通して進んでゆくことが、とてつもなく貪欲なことであるかのように思えてならない。ただ、電車に乗るという行為ですらだ。

 一体いつからだろう、自分にこんなに自信がなくなったのは。

 こんなに、自分に期待しなくなったのは。

 

 朝はいろいろ考えこんでしまうから嫌いだ。

 

 

 そんな思考に陥っていたときだった。

 

 「あの」

 と、どこからか声がした。

 その声の出どころを把握するにはほんの少し時間がかかった。

 なぜなら、その声は私のはるか頭上から降り注いていたからだ。

 見上げるようにして目が合ったそのひとは、先ほどの長身の彼だった。

 ばちっと音を立てて、ふたつの視線が重なった気がした。

 「あの」ともう一度声を出した彼の目を、今度はちゃんと捉えることができた。

 「は…い」

 「これ」と言って、彼はちいさな黄色のパスケースを差し出した。私のものだった。

 さきほど突き飛ばされた拍子に自分のパスケースを落としていたことに、私は全く気づいていなかった。

 「落ちましたよ。だいじょうぶでしたか」

と、穏やかな優しい声色で、彼は言った。

 「あ、ありがとうございます。すみません」

 危うく大事なものをなくすところだったという危機感と、ついさっき彼のことをじろじろと見てしまっていたことに対する後ろめたさとで、私の心臓はうるさかった。

 私は差し出されたそれを受け取り、しっかりとかばんのポケットに仕舞った。

 ようやく少し落ち着いてきたところで、ふと、さきほどまで自分の隣にいて電車に乗ったはずのひとが、なぜいまだここにいるのかという疑問が浮かび上がってきた。

 まさか。

 「あ、あの」

 と、気づいた時には彼に話しかけていた。

 少し猫背になる形で私の身長に合わせてかがんだ彼は、「はい」と少し不思議そうに返事をした。

 「もしかして、いやあの、勘違いだったらごめんなさい。これ、拾っちゃったから今の電車、乗らなかったんじゃないですか」

 だとしたらとてつもなく迷惑をかけた。

 謝らなければ。

 「あぁ、だいじょうぶですよ」

 と、彼はほほえんだ。

こんなにも優しい笑い方をするひとを、私は見たことがなかった。

 「いやぁ、ほら、混んでたじゃないですか。ぼく、いつも電車を一二本見送っても間に合うように家を出ているので、平気です」

 少し自慢げに、彼は言った。

 


 おなじだ。


  

 「そう…ですか」

 うまく反応ができなかった。

 

 ほんの少しの会話なのに、彼の物腰やわらかな話し方や言葉づかい、笑うとできる小さなえくぼまではっきりと覚えてしまった。

 そうこうしているうちに、次の電車が到着した。

 「では」と軽く会釈をして電車に乗り込んだ彼のうしろ姿はすぐに見えなくなり、耳に残る彼の声も、雑踏にまぎれて消えていった。


 



 それきり、彼と会うことはなかった。

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