第1話 「日常」

「同じクラスになれて良かったよね、あかり

 藤原すずにそう話しかけられて、私ははっと顔を上げた。腰まである長いウェーブヘアをなびかせて、きらびやかな顔立ちをした美しい少女が、私の目をじっと見ていた。

「本当だね。うれしいな」

 私は読んでいた小説にしおりをはさみ、そっと机の中にしまった。もともと友人の多くない私にとって、彼女と同じクラスになれたことはかなり大きかった。

 

 クラスというのは、学生にとって檻のようなものだ。一年の大半の時間を、自ら望んで一緒にいるわけでもないひとたちと共有しなければならない。あんな狭い空間で、日々を共に過ごしていかなければならないのだ。苦痛以外の何物でもない。

  

 そして、いよいよ大学受験という名の怪物に追われる高校三年生になってしまった私たちにとって、クラス編成が重要なファクターであることは言うまでもない。

 クラスの雰囲気一つで、勉学に支障が出るからだ。

 そんな中で、私は一年生からずっと同じクラスで仲の良かった彼女と、再び同じクラスになることができたのだ。

 彼女さえいれば、ほかのクラスメイトが誰であろうと関係ないとさえ思った。

 

 すずは、初めて会ったときからセンセーショナルな存在だった。

 まず容姿がずば抜けてひとの目を引いた。

 もちろん、あれだけ長いウェーブヘアが注目されないわけがないのだが、彼女はいかにも外国人の血が混ざっていそうな、お人形のような顔立ちをしていた。ぱっちりと大きな瞳、高い鼻、白い肌、そのどれをとっても日本人とはかけ離れていた。「ハーフなの?」と出会ったばかりのころ私は訊いたことがある。彼女はよほど同じ質問をされて生きてきたのだろう、間髪を入れず答えた。何代も何代も前にイギリス人の血が入っただけなのだそうだ。やはり外国人の血は濃いのだろうか。

 

 彼女はあまり多くは語らなかったが、物事をはっきりと言うタイプだった。それゆえに、その容姿ともあいまってかなり男子に人気があった。

 そりゃああれだけ可愛かったら周囲が放っておくわけがないのだが、サバサバとしていて物怖じしないその性格も、好印象をもたれる一因であることは確かだ。

 当然、そんな彼女を良くは思わない女子は大勢いたけれど、彼女は少しも気にしていないようだった。

 だから、クラス内で女子のグループが出来上がりつつある今でも、彼女はひとりだった。

 しかしそれは不当な扱いを受けているというわけでは決してなく、彼女のほうからもそう望んだ結果のようだった。 

 平静と隔離を好む、そんな少女だった。


 一方、当の私はというと、決してどこに所属するというわけでもなく、あくまで中立というふわふわとした立ち位置であり、当たり障りのないようにみんなと適度な距離感を保っていた。すべては保身のためだ。

 

 しかし、彼女が(良い意味でも悪い意味でも)注目されるのは、その容貌からだけではない。

 彼女には、ただそこにいるだけで、どことなく他人を圧倒するような雰囲気があったのだ。もちろん、どこにいたって絵になるという意味でもあるのだが、決してうまく説明できるものではない。

 けれど、彼女を一目見た人は皆そう感じるに違いない。凛としたまなざしでまっすぐ前を見据えていると思いきや、ふいにおぼろげに何か捉えどころのないものを見ているように思えるときもある。

 そんな目を、彼女は時々するのだ。

 

 私は一度だって彼女の考えていることを理解できたことはない。

 「本当は、なんにも考えてないの。ぼーっとしてるだけよ」と、いつだか彼女は私に言った。

 本当にそうだろうか。

 彼女の本質は、もっともっと深いんじゃないだろうか。

 私やほかの誰かが入り込む隙間もないくらいに、彼女の中は、なにか、到底私たちには想像できないもので満たされているような気がした。

 

 彼女は、一体なにでできているのだろう。

 

 「でもさ、このクラスって完全理系って感じよね。やっぱり進路で分けてるのかな」

 きょろきょろと周りの生徒を見渡しながら、すずが言った。

 「そうだね。ある程度まとまっているほうが士気も高まるし、なにより先生方が教えやすいんじゃないかなぁ」

 と、私はうなずいた。

 「あぁ、それだよ、それ。なんかさぁ、気がつまっちゃうよね。隣の席の奴は仲間であり常にライバルってことでしょ?」

 すずが妙に納得したような口ぶりで言った。

 「結局なんなんだろうね、大学受験なんてそれで人生が決まるわけでもないのにさ。みんなで必死に勉強しなくちゃならないなんて。もういっそ進路希望に『結婚』とかなんとか書きたいくらいだよ」

 冗談めかして言っているのだろうが、彼女の目は笑っていなかった。

 「今の彼氏は?他校生だっけ?」

 「いや、それは終わった。今は大学生」

 「え、早くない?たしか三か月」

 「二か月と三週間、ね」

 と、すずが訂正した。

 彼女はいわゆる「来るもの拒まず去る者追わず」といった感じで、基本的に受け身ではあるが相手を絶やしたことがない。

 当然、彼女の人気ならよりどりみどりなのだろうけれど、いつも驚きとともに少し嫌悪感を抱いてしまう。

 いままでどれだけのひとと付き合ってきたのかはよく知らないけれど、どうしてそこまで軽く恋愛ができるのだろうと思う自分がいる。「そんなのひとの勝手でしょ」と言われてしまえばそれまでなのだが、私には到底できっこないことだから、なおさらその感情は強い。そう、私には、できない。

 

 「明はさ、なんで誰とも付き合わないの?」

  突然自分の話に持ち込まれ、「へ?」という調子っぱずれな声が出てしまった。

 「いや、だってさ、けっこう告白もされてるのにさ、彼氏いたことないなんて気になるじゃん」

 と、嬉々とした表情で尋ねてきた。

 「けっこう告白もされている」というところをまず否定したかったのだが、それよりも、私は自分の恋愛に対する持論を、一体どうしてひとに伝えられるだろうかということを考えた。

 

 「んだよね、そういうの」

 

 「重い?」

 

 「うん、重いの。彼氏彼女っていう関係、付き合うって行為が。重いの、すごく。押しつぶされちゃいそうなくらい」

 言葉に出すたびに逐一自分の中でも納得しながら話しているせいで、ものすごく不自然な話し方になってしまった。

 「たとえばね、仮に私が誰かと付き合ったとして、それでもう相手以外を好きになることが許されなくなるでしょ、当然」

と私は続けた。

 「お互いを一番好きで居続けるなんて、人間はできるのかなって思っちゃうんだよね。それでもしほかのひとに目がいってしまったら、断罪の対象になる。永遠に愛し合うとか、そんなことできやしないのにさ。一瞬の気の迷いで恋愛ごっこするなんて、私には、無理」

 言い終わってから、これではすずの人間性を全否定しているように聞こえると気づき、焦って、

 「まぁ、結局ね、そういう言葉の上だけの縛りがいやだってはなしよ」と、あくまで私自身の話をしているんだということを強調した。

 「ふーん。『重い』かぁ」

 「なぁに?」

 「いや、思うんだけどさ、それって責任が重いってことだよね」

 と、ひらめいたように彼女は言った。

 「要はさ、明は自信がないんでしょ。自分がたったひとりの相手をずっと好きでいられる自信がさ。いつか自分のせいでその関係がうまくいかなくなったときに、責任をとりたくないんだよ。相手を裏切って傷つけたくないって気持ちがもちろんあるんだろうけど、その裏にはきっと、自分が悪者になりたくないって思いもあるんじゃないかな。私なんかはさ、若いうちにいろんなひとと出会って、自分にどんなひとが合うのかとか、どんな風にすればうまくいくのかな、とか知っておきたいからたくさん付き合ってきてるわけだけど」

 彼女の言葉を聞きながら、たしかにその通りだと思った。

 

 私はちゃんと恋愛をする自信がないのかもしれない。

 だって、怖いじゃない。

 ひとを好きになるって、そんな簡単なことじゃないのよ。

 

 「まぁさ、うちらの家庭環境じゃまともな恋愛観持たないってことだよね」

 と、すずはけらけら笑いながら言った。

 新しい担任が教室に入ってきたところで、私たちの話は中断した。

 「席着けよー」という彼の声で、ガタガタとみんなが席に戻り始めた。すずも「またあとでね」とウインクしながら自分の席へ帰っていった。

 ホームルームが始まってからも、私はさっきの話を思い返していた。

 自信がない、か。

 たしかにそうだ。

 うちらの家庭環境、とすずは言ったけれど、やっぱりそのせいなんだろうなと思う。

 

 私のうちには母親がいない。

 数年前、あのひとは突然家を出ていった。父親との不仲に気が付かないほど鈍感な少女ではなかったから、いつからかふたりの間に完全な確執が芽生えていたことを、幼いながらも感じ取っていた。母親が外へ働きに出るようになってからだったと思う。

 ごく普通のサラリーマンである父には、少々気難しいところがあって、どんなときも自分の意見が必ず正しいと思っている節がある。娘である私は、たとえそれに納得できなくとも否応なく受け入れさせられるしかないのだが、母親は違った。その圧制に耐えられなかったのだろう。 

 まぁこんな言い方をすると、父親の性格の難のせいで別れた、みたいになってしまうけれど、もとはといえば悪いのはあのひとのほうなのだ。

 生来浪費性だったあのひとは、働きだすと同時に購買意欲を抑えられなくなったようだった。

 それは身に着けているものから買ってくる食事にいたるまで、すべてにおいて手に取るように分かった。少なからず私も買い物に同行していたし、選ぶものすべてが相場より大幅に高価なものであったことを知っていた。それでもあのひとも働いていたし、そのお金をどうしようと本人の勝手だとは思っていた。

 しかし、それはあのひとのお金ではなかったのだ。あのひとはどこかのオフィスビルの清掃員のパートをしていた。かなりの大手の会社が集まっているところで、そのお偉いさんに気に入られたらしい。結局は、そのひとの後ろ盾で生きていたのだ。私のお気に入りだった、あの綺麗な水色のワンピースも、本当は顔も知らない誰かのお金でできていたのだ。

 その事実を知ったのは、あのひとが出ていく前日の深夜だった。ふと目を覚ますと、リビングから罵声が聞こえてきた。最初は、また父親がよく分からないことで文句をつけているのかと思ったけれど、どうやらそれは違ったようだ。母親がなにかを言い返していた。気になって耳をそばだてると、「どうしてあなたの言うことをきかなきゃいけないの」という母親の声が聞こえた。その瞬間、私はこの家庭の終焉が近いことを悟った。

 案の定、まぁそんな事情で両親の離婚が決定したわけだけだけれど、そこに涙の別れなんてものはなく、私が学校から帰宅するのと入れ違いで、大きな荷物を抱えた母親が「じゃあね」とほほえんで去っていった。カツカツとコンクリートの床に響く高いヒールの音だけが、やけに耳に残っている。

 なし崩し的に父親のもとに残された私は、苗字も「眞岡まおか」のままだし、甲斐性なしのあのひとについていくよりは格段恵まれた状況に置かれたので、甘んじてこの結果を受け入れたのだった。


 そうして、十年が経った。

 

 一方すずはというと、つい最近まで母子家庭で育ってきた。

 父親が暴力をする人間だったらしく、耐えかねた母親が、まだ幼かったすずを連れて家を出たそうだ。

 しかし先日、すずには新しい父親ができた。ずっとひとりで彼女を育ててきた母親に対して、「もうお役御免よね」とすずは言った。

 だからすずは今でこそ「藤原すず」だが、去年の夏は「滝川すず」だった。当然、中途半端な時期に苗字が変わったことで皆事情は察していたけれど、誰もそのことについて言及することはなかった。

 

 そんなこんなで私たちの境遇はとても似ていて、初めて各々の家庭の話をした時からすぐに仲良くなった。特別趣味が合うとかではないし、物事に対する考えが特に近しいわけでもなかったが、すずといると自然と落ち着いてしまう。不思議な子だった。

 

 私が恋愛できない理由は、少なからずこの家庭環境にあると思う。ひとつの男女の形が、目の前で無残にも崩壊していった様をまじまじと見ていた。トラウマのようなものかもしれない。

 それにあの母親から生まれたんだもの、私はろくな女にならないと思うのだ。

 だから私は恋愛しない。

 結ばれることが怖い。

 はじまりがあれば必ずおわりがやってくる。

 だったら、はじまらなければおわらない。

 たしかに、今まで片想いもしたし、告白だって人並みにはされてきた。

 でも、私は相手の好意を受け入れることができない。

 まやかしみたいな「好き」を、私は信じることができないのだ。

 軽い男はいや。すぐに別れるような安っぽい関係にはなりたくない。

 私を本当に好きになってくれるひととも付き合えない。だって申し訳ないもの。

 私はあなたが思っているような良い子じゃないのよ、って言いたくなる。


 「難しいなぁ」


 私は声に出さずにそうつぶやいた。


 

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