第四章 「東京探検」

「この橋を渡れば東京か……」

俺たちの目の前には、トラス構造の水色の橋が、対岸へと続いていた。

「とうとうだね」

「そうだね」

しかし、あともう少しだ、と手放しで喜べる状況ではなかった。

「でも……この橋渡れるか?」

ここまでの三日間、幾度となくぶつかってきたこの課題。

いや、厳密には旅を始めた直後からあったこの課題。

車だった。

人が消えても、車までは消えるはずもなく、運転手を失った動かぬ鉄の塊と化した車がそこらじゅうに転がっている、というのは前から分かっていたことだし、吉川もそう言っていた。

だが、車線変更で避けることができていたそれは、都心に近づくにつれ数が多くなり、横道にそれなければ避けられないほどになる。そして、県境の川を渡るためのこの橋には、まるでバリケードのように車が並んでいた。

渋滞でもしていたんだろうか?

「さて、今考えられる方法は二つだ」

「なにー?」

「この橋を避けて迂回するか、頑張って邪魔な車をどかしつつ進むか、だ」

はぁ、と三人そろってため息をつく。

「それにしても、ここから見える範囲で車が渡れそうな橋ってありそう?」

児玉が、若干不安げに聞いてきた。

「まあ、橋はいっぱいあるだろうが……。まあ、こういうときには―」

トランクを開け、詰め込まれているボストンバックの一つに手を伸ばす。

「ん?双眼鏡持ってたの?」

「ああ、家に眠ってたやつをな。いつか使うと思って、バックに忍ばせておいたんだ」

レンズにこびりついた指紋や埃を服の裾で拭き、接眼レンズからのぞきこみ、ピントを合わせる。

像がはっきりと見えるようになったところで、左右を軽く見まわし、橋らしき建造物を探す。

見つけたのは、今の橋の北側に鉄道用の橋が二つと、南側に目の前にある鉄道用の橋とさらに遠くに……あった。

形からして車の渡れそうな橋だが、ここからはかなり遠そうだった。

「で、カズっち、なんか見えた?」

「南のほうに渡れそうな橋が一つ。でも距離は遠めかな」

「んーそっかー、この橋より大きければ渡りやすそうなんだけど、今と同じ状況じゃ目も当てられないねぇ」

「どうする?高山君」

これ以外にも他にも橋があれば、と思ったが、生憎ここから見える範囲に車で渡れそうな他の橋がない。だからといって、鉄道用の鉄橋を渡るわけにもいかない。

南のほうの橋に頑張って行ったとしても、ここと同じ状況じゃ目も当てられない。そこに到達するまででも散々苦労しそうだが、

「……頑張ってこの橋を渡るかぁ」

という結論に落ち着いた。

「そーなりますかぁ~」

「車どかすの大変そう……」

「ま、頑張るっきゃないな」

はなから挫けそうな根気を奮い立たせて、俺たちは車をどかす作業にとりかかった。

始めてすぐに、これはどんなピースの多いパズルより大変だと思い知った。もちろん肉体的な疲労は言うまでもないが、それをいかに最小限に抑えられるかを考えるのもまた大変だった。

「日が沈むまでに渡れるかな……」

現状を考えると、それは無理そうであったが。


もみじが色づきはじめ、同時に秋の色が深まってきた、十月のある日の出来事だった。


                  *


「もーダメっ」

「流石にこの数はしんどいな……」

「明日も続きだよね、ちょっとキツいかな……」

日が沈んだ午後六時、作業は視界の悪さ疲労など様々な要因で中断となり、橋の脇の土手の斜面で寝転がりながら各自音をあげていた。

「もー今日はさっさと寝ようか。夕飯は保存食でいいっしょ」

「さんせー」

「それじゃ、私持ってくるね」

「「お願いしまぁ~す」」

上半身だけ起こし、車のほうへ歩いて行く優ちゃんの背中を見送ると、再び斜面に大の字で寝転がる。

かすかな草いきれに包まれている間に意識が霧散していく。

あと夕飯食べて寝るだけなのに、もう少しくらい頑張ってくれよ私の体……。

「あれー?高山くーん、保存食ってどの辺に仕舞ってあったっけ?」

「黒田のボストンじゃなかったっけか?」

「んー。あっ、これかも。み―っけ」

おなか……すいた……すぅ。

意識が徐々にフェードアウトしていく。


おやすみ、明日はどこまでいけるだろう。


                    *

翌日、作業は再開された。

前日から引き続き、移動の方法を試行錯誤しながら徐々に道をあけていく。

そして、正午を少し過ぎたころ、やっと道が開通した。

逸る心を、いやまだ早い、と抑えつつも、車へ戻る足が自然と速くなっていく。

一足早く車に戻っていた女子二人が早く車を出せとせかしてくる、急いでエンジンをかけ、車を出す。

くねくねと曲がりくねった狭い道を慎重にハンドルを操作して通過する。

そして―

「「「東京上陸ーっ!!」」」

水色の鉄のトライアングルの連鎖が途切れ、足元にはしっかりとした地面の感触。

とうとう橋を渡りきったのである。

第一目的地である東京。

まだ都会というよりは下町といった風景だが、青く霞む遠方には高層ビルが林立していた。

その様を見て、ふと思い出したことがあった・

去年くらいだっただろうか、友人に勧められ読んだ小説に、戦争とそれに起因する汚染で滅亡した首都を舞台にしたものがあった。

挿絵には、傾いたビル、コケやツタまみれになった学校や工場、ガラスが砕け散りカーテンが風にたなびいているマンション、そこらじゅうがひび割れて雑草が顔をのぞかせている道路など、荒廃しきった首都が描かれていたが、実際に似たような状況になってみると、そんなことは一切ないのだ。

いや、戦争は起きてないとかあまり年月が経っていないとかの違いはあるけれど、少なからずどっかしらは崩れているだろう、なんてぼんやりとした予想は当たらなかった。

今までもそうであったが、視界に広がるのは、人が消える前とほとんど変わらない建物の数々。元々を知らないので断言はできないが、たぶんこんな感じなんだろう。

今までの世界―人=今の世界といった感じである。

荒れるでもなく、ただ静かに佇んでいるだけだった。

時が止まった、という表現が正しいかもしれない。

ただ、嫌に静かに無機質な建物が林立している様を見ると、時々空恐ろしく感じる。

「ちょい、なにぼーっとしてんのカズっち!」

「早く行こうよ!」

二人の声で、意識が現実に引き戻される。

とりあえず、今は前に進まねば。

「それじゃあ、行きますか」

さっさと車に乗り込み、身を乗り出せるように窓を全開にし、早く早くコールをしている二人をなだめつつ、高山は運転席に座る。

橋の上と違って、通れない道があれば迂回するといった融通がきくため、車はスムーズに進んだ。

右、左、ここは無理そうだから横道へ、ハンドルを操作する。

東京についても、ただひたすらに人がいなかった。

一台の車のエンジン音がただ虚しく響いた。


                   *


じゃまな車を避けて、あっちの道こっちの道とちょくちょく進路変更をしているせいで、ここさっき通った道じゃん?なんてことも茶飯事であった。

だが、後ろと横にいる女子二人は時々茶々をいれつつも、窓から見える風景に見入っていた。中でも二人の視線を集めたのは白い電波塔だった。日本一の高さを誇る電波塔。白のスッとしたフォルム。テレビでは見たことがあったが、こうして実物を間近で見るのはもちろん初めてだった。

「ねぇっ、あのタワーの足元まで行ける?」

児玉が窓から顔を出したまま聞いてくる。

「どうだろうな、これだけ大きく見えるんだからそんな遠くはないはずだけど…」

「じゃあ行ってみようよ!出来れば登ってみよう!!」

黒田が嬉々とした声でとんでもない提案をしてくる。

ムチャ言うな黒田。こういうのは普通エレベーターを使うもんだろ。

「……まあ足元まで行くのはいいか」

幸いなことに、目的地を見失うことは確実になさそうだ。

相変わらずの近づいては離れることを繰り返し、タワーの足元につけたのは三時間くらいが経過したころだった。


                  *


「ねぇ~、まだ着かない~?」

「まだ半分もいってなさそうだな」

見上げると、銀色に鈍く光る階段が延々と続いていた。

「うそ~っ、も~疲れたよぉ~。足くたくた」

「登りたいっつったのはお前だろうが」

「そーだけどっ!」

高山の正論に黒田がむくれる。

現在位置はあの電波塔の中。正確には外にある非常階段を上っている。

こういったタワーには必ず非常階段があり、タワーによっては期間限定で公開しているところもあるとか。

だが、本来は階段で登るものではない。でも、エレベーターがただの箱と化した今は階段で登らざるを得ない。例え、タワーが日本一の高さだったとしても……。

黒田の登ってみたい!の一言で、約六百メートルあるタワーの四百メートル付近にある第一展望台まで、こうして階段を上っているのである。まあ、なんだかんだで賛成した自分も自分だが。

「でも、いい景色だね。ここまで高い場所に来ると」

「俺の方としては日が沈むまでに地上に帰れるかが心配だな」

その可能性を考慮して、一応LEDライトは持ってきたが、あまり使いたくない。ていうか、どうか使わずに済みますように。

「も~ダメっ!ちょっと休憩!」

階段の途中で長めの休憩をとり、展望台を目指し、ひたすらに登り続ける。

最終的に着いたのは、太陽が南中してからずいぶん経ったころだった。

「ふー、着いた~。足が死ぬかと思ったぁ」

「流石、450mからの眺めは違うな」

「それにしても、非常口の扉が開いててよかったね。誰かいたのかな?」

展望台はきれな円形をしていて、晴れている今日は東京湾まで見渡すことができた。

近くにあったカフェのようなスペースの椅子に腰をおろし、疲れた足を休ませつつ、地元では決して見ることのできない景色を堪能していた。

「そういえば、ここまでどのくらいかかった?」

児玉が心配そうに訊いてきた。

「んー、大体……二時間くらい、かな」

時計と記憶を頼りに大体の時間を推測する。

「じゃあ、ちょっとゆっくりできるね」

「そうだな、せっかく頑張ってここまで登ってきたんだし。原因が何であれ」

「……」

その原因は隣の椅子ですやすやと寝息をたてていた。

「…っておい。一番乗り気だったのにさっさと寝るバカがあるか」

相変わらず寝るのが早いやつだ。

「咲ちゃんには、私がついてるから、高山君は少し散歩してきたら?」

「児玉はいいのか?」

「私はいいよ、疲れっちゃったから」

「んじゃ、お言葉に甘えて」

よいしょ、と立ち上がり、先ほど見つけたパンフレットを片手に高山は歩き出した。


パンフレットによると、この展望台は地上から世界最速級のエレベーターでアクセスし、構造は三階建て。中には先ほどのカフェ、レストラン、売店などがある。真下を見下ろせる透明床なるものもあるようで、ここからさほど遠くない。ちょっと行ってみることにした。

「……いや、流石にこれは怖いって」

高所恐怖症ではないが、それでも足が少し震えるくらいの恐怖は感じた。

さっさとその場を離れ、さきほどパンフレットにあった売店へと足を向ける。

案の定、あった。

小さなソーラーパネルがついているLEDライト。これだったら電池切れの心配もない。

失礼、と一声かけてから、そのLEDライトを三つほど失敬した。

店を出ようとしたとことで、壁際のアクセサリーのディスプレイに目がいく。

そこには、この電波塔をモチーフにしたネックレスだった。

女子二人にあげようか、と色違いを一つずつ失敬して、売店を後にした。

                    *

カン、カン、カン、つい何時間前かと同じ音をたて、俺たちは階段を下っていた。

「あともう少しだぞ、ほらガンバ」

「うへ~い」

あたりも暗くなり始め、頼りなくなってきた足元を先ほどのLEDライトで照らしながら、一段一段下っていく。

一瞬、向きを変えたLEDライトの光を反射し、きらっと見えるものがあった。

それは、先ほど売店に置いてあったネックレスだった。

児玉には青、黒田には赤。半分ねぼけていた黒田の反応は薄かったが、児玉は喜んでくれたようだ。

「どうしたの急に?」

と聞かれたが、なんとなくなので答えようもなく、

「気分だ」

とだけ答えておいた。

やがて、階段は建物の中に入り、ほどなくして地上へ帰還となった。

きゅー

「ごめん、お腹すいちゃって」

児玉が恥ずかしそうに言った。

「疲れてるけど、面倒くさがらないでちゃんと作るか」

作業スペースを確保するため、階段を下りている途中に見えたショッピングモールの入り口前広場に車を移動させる。手早く食材を確認し、調理を始めた。

少し多めに作ったつもりだったが、ほとんどが黒田の胃に収まり、見事完食となった。

片付けも終わり、そろそろ寝るかという時、

どこかから、ドサッ、という音が聞こえた。

自分たち以外が立てる音は滅多に聞こえないので、ちょっとビビったが、

「何だろう?今の」

「さ、さあ?」

「ま、いいか」

黒田も気付いたようだが、特に気にすることなく二言三言交わした後そのまま眠りについた。


―この音の正体を知ったのは翌日、移動を始めてすぐの事だった。


可能性はゼロとは言いきれなかった。

だが、本当にそれを選んでしまった人がいるとは思いもしなかった。


こんな世界、何があってもおかしくない。

                 

                 *


翌日目が覚めてすぐに、筋肉痛気味の足を動かし、出発の準備を整える。

一応人並みに体力はあるつもりだったが、女子二人が平気そうにしているところを見ると、まだまだ足りていないようだ。

「今日はどっちに行く?このあたり結構道あるけど」

児玉が毛布をたたみつつ訊いてきた。

「このあたりだと、昨日走ってきた大通りにまた出れば、えっと……上野?だっけか?までは迷わずに行けるんじゃない?」

「その、上野ってとこまでどのくらい?」

「わからん」

そんな会話を交わしながら、車に乗り込んだ。

電波塔横の橋を渡り、見覚えのある大通りに出る。

事件が起きたのは、そのすぐ後の事だった。

まだ走り始めてから一分もたたないころだった。

「なっ!何あれっ!」

窓の外を見ていた黒田が突然素っ頓狂な声を上げた。

驚いて、反射的に急ブレーキを踏む。車は強力なGを三人に与えて止まった。

「どっ、どうした!?」

「ひ……、人……」

「―人ぉ?ならいいじゃないいか。そんな驚くこともないさ」

「ち……違う…、倒れて…た」

「倒れてたんだったら、助けに行かないと!」

児玉が言う。

「そうだな」

俺も言う。

「……」

黒田だけは、なぜか怯えるように震えていた。

「とうした?」

返事までに少し間があったが、

「―ううん、大丈夫」

とは言ったもののまったく大丈夫に見えない黒田と、すでに救急箱と水の入ったペットボトルを持った児玉とともに車を降りる。

黒田が見た方向と示すと、児玉は先に走って行ってしまった。

やれやれ、と思い黒田と歩き始めた時だった。

「きゃぁぁぁっっ!!」

建物の角を曲がった児玉が、突然悲鳴を上げた。

思わず逃げようとして転んだのか、救急箱が地面にたたきつけられ、中身が飛び散る。

「行こう!」

黒田の手を引いて、児玉の所へ走っていく。

建物の角を曲がって見えたものに、高山は驚愕した。

―確かに黒田が見つけたのは人だった。

―だが、その人は……死んでいた。

見た目からして男だろうか。うつぶせに倒れ、頭のあたりから血の池が広がっている。

目の前の光景があまりにも異常すぎて、感情がマヒして驚きを感じない。ただ、網膜に映った事実だけが頭の中を駆け巡っていく。

この男は、何故死んでいる。―ああそうか、自殺だ。

棒立ちになっている高山の横で、驚きのあまり泣いている児玉を黒田がそっとなだめている。

ふと、倒れている男の横に、封筒が落ちているのに気づいた。

「やめなって…、カズっち…」

力なく言う黒田をよそに男に近づき、かろうじて血の池に浸っていなかった封筒を拾い上げると、表に震える字で「遺書」と書いてあった。

「何…?それ」

「この人の遺書だ」

「い…しょ。ってことは…自殺?」

「そうだろうな」

一瞬のためらいはあったが、封を切って中の便箋を取り出し、読み始めた。


                    *

 「遺書

 こんなになった世の中、人がほとんどいなくなったこの世界で、遺書なんか書いても意味はないかもしれない。

だって、誰も見てくれないだろうから。

だって、俺の死になど、誰も気づいてくれないだろうから。

でも、今の心の内を、出来事を遺しておきたいから、やっぱり書くことにする。


俺は、出張先でこの状況に出くわした。

最初はわけがわからなかった。

朝起きて、テレビをつけても映らない、フロントに内線をかけても誰も出ない。仕方なくロビーに降りてみるとホテルの従業員は誰もいない。食堂をのぞいてみても、とっくに開いている時間のはずなのに人の気配がしなかった。

一体何が起きたのかと一旦ホテルの外に出てみて愕然とした。

誰も、いなかった。

見知らぬ土地とはいえ、決して人通りが多い所でないというのは分かっていたが、こんなことにはならないはずだ。

ホテルを見失わない範囲で周囲を見まわってみたが、やはり人の気配はなかった。

まさか、まさか人がこんな風に、まるで神隠しのように消えるなんて……。

その時、ふと息子や妻の顔が思い浮かんだ。家族は、二人は消えていないだろうか。

その後の自分のとった行動には、迷いやためらい一切なかった。

ホテルに急いで戻り、少し散らかっていた荷物を大急ぎでまとめると、自宅と仕事場のある東京の方へ向って歩き出した。

心の中で、家族の無事をひたすらに祈りながら。

途中で体調を崩したり、道を大幅に間違えたり、ちょっとしゃれにならないほど時間がかかってしまったが。

途中、神奈川の辺りだっただろうか?人が集まって生活している小さな集落のようなものがあった。

二人がそこへ来ていないか、または見かけなかったか、と尋ねたが、答えは否だった。

やがて、東京の仕事場に着いた。中に入ってみても、誰もいなかった。

同僚はみな消えたか、と絶望した。

自宅までそう遠くはない。その日のうちに自宅にたどり着くことができた。

小型キャリーバックの重さをものともせずに階段を駆け上がる。

二人がいる、もしいなくても、どこかに避難しているかもしれないという証があることを祈って、ゆっくりとカギを開けた。


中に人は誰もいなかった。非常持ち出し袋や保存食の部類が持ち出された形跡もない。


避難などしていない。この部屋は、あの日に住む人を失い、時が止まっていた。


俺は、その場に泣き崩れた。


大切な家族が消えてしまった。

守るべきものが、守ることこそが生きがいだった家族が、消えてしまった。

生きがいを失い、身も心もボロボロになった俺に、もはや生きる余力など、気力など、残っていなかった。

神様、死を選んだ俺を許してくれ。

これ以上生きることを諦めた俺を、許してくれ。


                   さようなら 十月**日 木村 毅   」

                     *

読み終えた直後は、なんの感情も浮かび上がってこなかった。

なにか自分も感じたことのある何かが、猛烈な勢いをもって俺の中を通り過ぎて行って、それがなんなのかわからなかった。

けど、遺書から目を離し、木村という人の死体を見た時、強い、怒りのような、非難のような、それでいて悔しいような、気持ちが湧き上がってきた。

「なんで死ぬんだよっ!なんで自殺なんかしたんだよっ!家族が消えてもっ、自分がいるだろっ!そこまで家族のこと考えてるならっ!いなくなった家族の分まで生きるという選択肢はなかったのかよっ!死ぬのが……、死ぬのが怖くはなかったのかよっっっ!!」

俺はその場に崩れ折れた。

死体から発せられる血の臭いにまみれながら、ただ肩を震わせて泣くことしかできなかった。

「高山君……」

「カズっち……」

嗚咽は二人以外の誰の耳にもとどかぬまま、ビルの間に響き、やがて吸い込まれるように空へと消えていった。

                 *

車に戻っても、ハンドルを握る気になれなかった。ただ、頭の中で先ほどの光景が、激しい感情が、血の臭いが、何度もめぐっていた。


遺体をそのままにしてはおけず、だからといってアスファルトにびっしり舗装されたこの土地に、埋められるはずもなく、結局、近くの民家から毛布を一枚失敬して、遺体をくるんでおいた。

くるんだ毛布の上に先ほどの遺書を置いて、三人でしばし、手を合わせた。

児玉も黒田も、少し泣いていたように見えた。

見ず知らずの赤の他人だったとしても、それでも人の死というものは悲しいものだ。

それを目の当たりにしていればなおさら。

車に戻ってもどこか上の空な俺を、二人はせかしたりはしなかった。

二人も同じような心境だったのだろうか。

「……行くか」

「……え?」

「ここでぼーっとしてても仕方ないな。俺らは生きてるんだ。だったら、動かなきゃ勿体ないだろう?」

「……」

「そうだねカズっち。私たちに旅はまだ終わってないんだから。やることは一つ。このたびを続けること、だね」

「その意気だ」

そう言って、俺は車のエンジンをかけた。

「高山君」

「ん?」

「無理……、してない?」

「してねぇよ」

「よかった」

ハンドルを握ると、軽くアクセルを踏み込んだ。

人気のない街に、エンジン音だけがただ空しく響いた。

三人の会話は、なかった。

                 *

気づいたら、太陽が沈みかけていた。

そう表現するくらいに、あっというまに時間は過ぎていった。

「今日はここで休むか」

車のスピードを緩めながら、高山が言った。

「そうだね」

朝の出来事のせいなのか、児玉の返事にいつもの明るさはなかった。

「夕食どうする?」

児玉が二人に尋ねる。

「ごめん、俺はパス」

「……私も」

「せめて夕食くらいは……、でも私もパス」

三人とも夕食をとることなく、結局いつものより早い時間の就寝となった・

「おやすみ。ライト消すぞ」

「「おやすみ」」

パチン、とLEライトのスイッチを切った。

                  *

やはり中々眠気は訪れてくれなかった。

明かりを消してから、もう一時間以上は経っているというのに、ちっとも眠くならない。

左からも後ろからも体勢を変えたりするごそごそとした音が頻繁に聞こえる。

「……少し外に出るか」

二人が起きているのは何となく察しがつくが、それでもいつもやっているように、そっとドアを開け、外に出る。

それからトランクを開け、小さな折りたたみ椅子を出し、車から少し離れたところに腰掛ける。

見上げると、ビルの黒い輪郭に切り取られた、それでもなおはっきりとした輝きを持つ、満天の夜空がそこにあった。

都会は星が見えにくいと聞いたことがあるが、人が消え、電気も止まって街灯やネオンといった明かりがすべて消え、ほぼ完全な闇の中だと意外によく見えるものだ。

……

俺を含め、三人が寝れない原因はやはり今朝のことだろう。

生きがいを失った。自分の生きることの理由づけをしてくれるものを失った。

自分がこんなことを考えるのもなんだが、木村さんも自分と同じように「生きる意味」について考えていたのかもしれない。

でも、「生きる意味」は一つじゃない。一つでなければならない決まりもない。

例え、自分の思う「生きる意味」が無くなったとしても、また違う「生きる意味」を見つければいい。例え辛くても、失った痛みに耐えられなくなりそうでも。

どんなささいな事でもいい。

それでも自分が「生きたい」と思えるものに出会えたら。

「生きる意味」に出会うことが出来たら。

それはとてもよいことなのではないだろうか。

だからこそ、自殺という選択肢はとってほしくなかったな、と思う。


「なあ、俺が生きる意味って、俺たちが生きる意味って、なんだと思う?」


                   *

―なあ、俺が生きる意味って、俺たちが生きる意味って、なんだと思う?

独り言のようで、まるで誰かに問いかけるように、高山は言った。

私が生きる意味。

今まで考えたこともなかった。

だって、そんなもの考えなくたって生きてこれたから。

意識しなくても、困ることはなかったから。

だけど、今朝の一件と今の高山の一言で改めて考えさせられる。

だって、生きるも死ぬも元々は自由なのである。

今となっては、たとえ自殺しても、誰にも咎められることもない。

ならなおさら、自分の生死は、今までより強い意志を持って、決定しなければならないのだ。

流されるようにして生きるのではなく。

大人であって、まだ子供な、そんな不安定な時期にいる自分はなおさら。

今の自分は、生きることを選んでいる。

それは何故か、理由は何か、流されているだけではないか?

いや、そんなことは、ない。

こんな世の中になっても、高山に会えたから。

旅を始めたから、黒田に会えたから。

三人で旅をしているから。


あれ?


生きる理由って、こんなんでいいの?


でも、いいんだろう、と思う。大体そんなものなのだろう。

これから会う人々にも、生きる理由や意味が見つからず、悩む人がいるだろう。

そんな人に言ってあげたい。

ささいな理由であっても、生きることは素晴らしいことだよ、と。

―でも、まずその言葉は、誰より先に、高山に言ってあげてほうがいいかもしれない。

                  *

翌々日の昼下がり、三人は上を見上げ、唖然としていた。

「「「でっけー!!!」」」

でかい、といっても一昨日上っていた電波塔には及ばない。

何より驚いたのはその数だ。

ここは新宿、二~三十階建て―いやそれ以上か?―のビルがボンボン立ち並ぶ地区。

上野のあたりでも充分すごいと思っていたらこっちそれを上回るすごさだ。

竹林のごとく立ち並ぶビル。地上がどこかわからなくなる複雑な駅、無駄に幅の広い道路。そして進路に立ちふさがる無数の放置自動車。

こんなになる前には、きっと溢れかえるほど人が居たのだろう。でも、今の新宿はカラスの鳴き声さえほとんど聞こえない。相変わらず、車のエンジン音と自分たちの会話が響くだけだ。

「すごいねー!、地元だと建物は上じゃなくて横に広かったもんねー」

「そうだな、ホームセンターとかスーパーとか。……そういやあまりこっちで見ないな」

「気づいてないだけだよ。こっちは大きさより数なんだねー」

そんな他愛もない会話をしながら、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。

けど、児玉は、

「……なんか、気味悪くない?」

「えっ?なんで?」

黒田が不思議そうに訊く・

「なんていうか、本来は人でいっぱいだったはずの所に誰もいないなんで……気味悪いというか……怖い」

「俺、なんとなくわかる気がする」

その後も、そろそろ別の所へ、と考えつつも、新宿の街を散策していた。

黒田は、車の窓から体を乗り出すようにして、ビル群に見入っていたが、児玉は特に興味を示すでもなく、ただ窓から見える景色を見ている。

「すごーい!、あのビル展望台あるってー。上ってみた―い」

「もう勘弁してくれ。上るのは電波塔だけで十分だ」

―ただ、児玉がどの会話にも乗ってこないので、車内には若干ではあったが気まずい空気が流れた。

そのまま走り続け、日が沈む頃、新宿御苑というだっだっぴろい公園で一夜を明かすことにした。結局新宿から出ることはできなかった。

主に…というか、完全に一人のせいである。


                  *

人類のほとんどが消えてから、三人が旅を始めてから三か月半くらいが経った。

大きな変化は、時間を気にしなくなることだった。

基準となる腕時計は、もうあてにならない。やがて、時間の感覚もおぼろげになっていく。

もう今は、太陽の位置で今何時頃かを判断するという原始的な事しかしていない。

そうやって、おぼろげな時間感覚も、やがて失われていくのだろうか。


時間感覚だけではない。


人類が築きあげてきた技術が、文化が、習慣が、少しずつ消えていく。


自分たちの中からも少しずつ、色が褪せるように消えていく。


少しずつ消えていき、やがて、無になる。

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