エピローグ


 朝から家の中が騒がしかった。

 こちらは朝食の用意をしているというのに、体が痛い痛いと男どもがわめいてうるさい。あまりにうるさいのでわざと息子の肩を触ってやると、よっぽど痛いのか悲鳴をあげて飛び跳ねた。それは大げさだろうと試しに弟の肩を同じように叩いてみると奇妙な声をあげて同じく痛がった。これはこれで面白い。

 昨日は父、弟、息子の3人で太鼓台をかきに行っていたから、少しくらい仲良くなっているかと思えば食卓に顔を並べても相変わらず会話はない。しかし昨日までとは何かが違う。そもそもこの三人が顔を付き合わせて同じ席につくなんてことはただの一度もなかったのだから。

 先ほどから父はずっとお茶をすすりながら新聞を読みふけっている。父の様子をうかがっていると視線を感じたのか、こちらの方をちらりと見て新聞で顔を隠した。他二人は目が合うたびにまた肩を叩かれるのかと警戒して身構えられた。

「あのさ。おれ、明日大阪に戻るわ」

 突然、何の脈絡も何の前触れもなく弟が言った。もう一度デザインの仕事をしてみると言い出した。それはこの家では禁句だろう。十二年前のことを忘れてしまったのか。宣言通りに弟は家を出ていったが、あれは家出というのに近かった。父をなだめるのに母と二人でどんなに苦労したことか。弟が出て行ってから少なくとも半年以上は機嫌が悪かったと思う。そんなことを軽々しく二度も言って欲しくない。

「彩。すまんけんど、新しい着替えとタオルを母さんに持っていくけん、用意しといてくれ」

 父は弟の言葉を無視した。まったく相手にしていない。

「母さん、カミキョがうちに来たとき何か言うてなかった?昨日ばれてしもたけん。今日から草むしりやらされる。もう最悪やわ。」

 息子はそう言いながら茶碗を差し出しご飯のおかわりを要求する。弟のことよりもやらされる草むしりの方が気になるらしい。

「おまえら、無視すんな。こっちはまじめに言ってんだよ」

 その大きな声と勢いに驚いた。相変わらず空気の読めないやつだ。

 しかし大阪から数ヶ月前に戻った時には会社が潰れたとか何とか言って魚が死んだような目をしていたが、この調子ならもう心配することはないだろう。

 父が、こほんと一つ咳払いをして新聞を畳んだ。

「おまえが決めたんやろう。ここまで好きにしたんだ。遠慮なんかいらん。今更、引き止めてほしいんか?」

 父がきっぱりと弟に告げた。

「大阪に帰るんならその前に母さんに一度くらい顔見せにいってこい。それから一年にいっぺんくらいはこっちに帰ってこい」

 それだけ言って再び父は新聞を広げ読み始めた。それを聞いて、ほんのちょっとだけ気が晴れた。

 

 今朝、そんなやり取りがあって弟と二人で母の病院に来ている。

 「あんた、喧嘩見たんかね?」「八海神社でやりよる言うけん」「わしもすぐ見に行ったぞね」と病院もあちらこちらで昨日の峰泉と皇野太鼓台の喧嘩話をしている。男も女も関係なく老いも若きも関係ない。

 ここまで来て弟が母の病室の前でもぞもぞと入るのを躊躇っているので、背中を蹴つり飛ばしてやった。往生際が悪いやつだ。

「秀磨。久しぶりやね。元気にしとったかんか?」

 十二年ぶりの母子の再会だった。弟の姿を見て母は泣き出してしまうのではないかと心配していたが、意外に平気そうだった。逆に弟の方が泣きそうな顔をしている。

「お祭は楽しかったで?太鼓かきに行ったんやろ」

「かいた」

 十二年ぶりに会って言う言葉がたった三文字、それだけか。散々迷惑と心配をかけておいて、他に言うべきことがたくさんあるだろ。いったい誰に似たのか、ほんと不器用なやつだ。

 病室には若い看護士がやってきて来て点滴を変える時間になった。母の細い腕に細い針が通され、そこからほんの一瞬だけ赤い血が逆流するのが見えて、また母の身体の中へ吸い込まれていった。

 母から飲み物を勧められて、弟は冷蔵庫からラムネを取り出し私も缶コーヒーをもらう。一気に飲み終えた弟はその後もカラカラとビー玉の転がる音を鳴らしていた。耳障りだったが、それでも憂鬱な点滴を刻む機械の音よりまだマシだった。

「ここの病室からだと病院の前を通り過ぎて遠ざかっていく太鼓しか見れんのよ。あそこの看板がもうちょっと横にあったらまだましなのにね」

 窓から母が指差す方を覗いて見ると、言うように大きな看板が邪魔になって道路が見づらい。看板には「宇喜多酒店」と書いてある。確か皇野地区ではなかっただろうか。ここでも峰泉の人間の邪魔するか。

「だんだん身体の調子もようなりよるけん。来年は母さんも退院していて見に行けるんやないの」

 一時期に比べたら母の顔色はずいぶんと良くなっている。病院からの説明によれば完治したわけではないが、この調子でいけば来月には一時的に家に帰れるという話だった。このことはまだ母には知らない。

「そうじゃね。年にいっぺんしかないんやけん。そんときはまた秀磨も帰ってこんかいよ。見に行くけん」

 父と同じようなことを言った。弟はラムネを相変わらず転がしながら頷き返事した。そういえば母に弟が大阪に戻ると誰か話しただろうか。

「あと362日」

 母がぽつり漏らした。地元人ならピンと来る。来年のお祭りまで365日から3日を引いて、362日という計算だった。日本中の一年の始まりが元旦の1月1日だとしても、この土地の一年は10月16日から始まる。

 きっと一年なんて笑ったり泣いたりしているうちにあっという間に過ぎていくだろう。私もまた一つ歳を取り、中学3年生になった息子も来年は高校受験がある。母もその頃には退院しているはずだ。そしてまた来年の今頃には家族が集まって、みんなで太鼓台を見に行けるはずだ。

 あっ、そうだ。喧嘩したから来年、峰泉太鼓台は出れんのやった…。



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