第9話 アイムホーム
1
アルバイトに行くと、昨日に引き続き早坂創は無断欠勤していた。このタイミングで休むということはもう間違いないだろう。昨日の宇喜多信人から借りた太鼓祭のDVDに映っていた様子を見てもわかる。筋金入りの太鼓バカだ。太鼓台をかきにいっている。
たまたま空いていた風見雄太がバイトに急遽入ることになった。
朝から客がすれ違うこともままならないほど、コンビニ店内は混雑していた。この近くにある東港で舟御幸がある。それに参加するかき夫や見物客がレジ前に長蛇の列を作り、その対応に追われた。こんなことは初めてだった。このままお金を払わずに客に出て行かれてもわかないだろう。従業員二人だけでは追いつかず、奥の部屋で事務作業をしていた店長の谷宋太も手伝いに出てきた。
午前中にはそんな息つく暇もない状況だったが、午後になってから潮が引いたように次第にいつもの落ち着きを取り戻していた。
「太鼓祭なんて、いったい何がいいんすかね?」
一緒にレジに並んでいたピアス5つの風見雄太が漏らした。他人のことは言えないが、自ら進んで話しかけてくることは珍しい。単なる気まぐれか、単に暇なだけか。谷宋太も今は店の奥に引っ込んでしまっている。
「あんな金ぴかの重たいやつを、ただ持ち上げるだけでしょ。わざわざしんどい目なんてしたくないっすね。自分、上湊の人間っすけど、昔から太鼓台はかかないんすよ」
上湊は上部地区にある。風見雄太の住んでいる場所を初めて知った。
「親も祭に全然興味なかったし、小学校のときに何度か友達に誘われて見には行ったことはあるんすけど、正直、こんなに周りが騒ぐ気持ちが全然わかないんすよね。遊ぶことがこれしかないっていうなら仕方ないっすけどね」
ゲームやテレビ見ている方がいい、学校が休みになるこの期間に合わせて旅行に出かけるという友達もいた。そういう人間も少なからずいる。地域の全員が揃って太鼓祭が好きとは限らない。
「河島さんはどうなんすか?太鼓かくんすか?」
「かくんやったら、こんなときにこんなところでバイトなんかしてないやろ」
「それもそうっすよね。河島さんもおれと同じ人種っすね」
同じ人種・・・。風見雄太のいう言葉が妙に引っかかった。それはいいことなのか、それとも悪いことなのか。もし太鼓台をかいていたらどうなっていたのだろう。今とは違う人生を歩んでいただろうか。
そのとき、自動ドアが開いて店内に見知った人間が入ってきた。嫌な予感がする。こんな顔をしているときは決まって機嫌が悪い。昔、大事にしていた犬のぬいぐるみにジュースをこぼして汚してしまい殴られたときも、ちょうど今のような顔をしていた。
バイト先に姉、久谷彩が来るのは初めてだった。
「行くよ」
そう言って、カウンター越しにいきなりおれの手を引っ張る。その力は本気だった。そのせいでカウンターに並べていたチョコレート菓子が箱ごと落ちそうになる。
「ちょっと待て待て。いきなり何なんだよ。見たらわかるやろ。おれは今バイト中なんだって」
カウンターから出て行き、姉に説明を求める。突然の出来事に風見雄太も戸惑っていた。
「そんなこと言いよる場合やない。皇野の太鼓台とけんかするんよ。みんな行ったけん。あんたもはよこれ着いて行ってこんかい」
無理やり手に押し付けられたものは見覚えのある緑色の法被だった。背中には「峰泉」の赤い文字がある。
「おれはもう太鼓台はやらないんだって。峰泉がどことケンカしようがおれには関係ないけん。そもそもおれ一人行ったところで何も変わらんやろ」
次の瞬間、視界が揺らいだ。姉の強烈な平手打ちの一閃はおれの頬を強打し、吹っ飛ばされて倒れた。そのぶつかった勢いで並んでいたチョコレート菓子がボロボロと棚から落ちた。
頬と背中が猛烈に痛い。
「何寝ぼけとんの。立たんかい。もう一発殴ったろか。峰泉に生まれたんならわかるやろ。つべこべ言わずにこれ着てさっさと行ってこんかい」
姉に胸倉を捕まれて無理やり立たされ凄まれる。たかが太鼓台のけんかで何をそんなに熱くなっているのか。姉の言動におれは付いていけていない。
風見雄太も目の前で繰り広げられる光景にぽかんと口を開けていた。店内にいた客が何ごとかと一斉に視線をこちらに投げかけてくる。
「ええ加減にしてくれ。こっちは働きよんぞ」
姉の手に法被を戻した。姉が熱くなるほどこちらは逆に冷めてしまう。そこには明らかな温度差があり過ぎるくらいあった。
「あんた、また逃げる気?」
「逃げる?おれがいつ逃げたんや」
「ここから逃げたやない。父さんから逃げ出したやない。母さんから逃げたままじゃない」
「それと太鼓台は関係ないやろ」
「あんただって、小さい頃から峰泉の太鼓台の後を追いかけて来たんやないの?太鼓台からも逃げる気なんか?」
姉の言葉は、何の遠慮もなく、何の躊躇もなく、何の容赦もなく、鋭く追い詰めてくる。
「太鼓台をかけることがどんなに幸せなことなんか、わかるやろ?」
まるで熱湯を浴びせられたようだった。沸騰寸前の姉の熱気は、忘れていた遠い幼い日の記憶と重なった。これはデジャブとかいうやつ。今日の今日までそんなことを一度も思い出したことなどなかったのに。
それは、姉が小学6年生、おれが小学校2年生の時だった。
市内中の小学校では祭の初日には決まって、お祭り集会が開かれる。集会には校区内の4台の太鼓台が運動場に集結した。原則、女性と子供は太鼓台をかけない決まりだが、このときだけはかくことが許された。かくと言っても子供だけの力で太鼓台をかくことはできるはずもなく、大人も混じりかくというよりも触わるに近い感じがした。同じ市内には、大人がかく太鼓台よりも二回りくらい小さいサイズの子供太鼓台を持っている地区もある。通っている小学校の校区内には子供太鼓台を持っている地区は一台もなかった。子供にとって太鼓台に触れる貴重な機会となる。みんなが争うように自分の地区にある太鼓台に乗ったり触ったりする。かく真似ごとだけでもこの行事は子供心に嬉しかった。特に太鼓台の横棒に一枚平板を敷いて子供用の足場にして、指揮者をさせてもらうこともできた。
そんな中で姉だけは一人浮かない顔をしていたことが気になった。まじめが取り柄の姉が誰に似てしまったのか、唯一、昔から「太鼓バカ」と呼ばれるほど太鼓台好きで、毎年太鼓台について回っていた。ランドセルにも峰泉太鼓台の名前入りのキーホルダーをぶら下げている。
小学校は祭の初日は午前中だけで学校が終わる。そして後の二日は休みになる。河東の太鼓台は午後から各地区での自由行動になる。姉と二人で峰泉太鼓台にくっついて歩いていた。まだ姉はどことなく元気がない。
「指揮者やってみるかね?」
近所のおじさんから、急にかけられた言葉に戸惑う。そんなことを思ってもみなかった。ここは小学校の運動場ではない。頭が真っ白になった。たしか、この人は高梁さんと言っただろうか。腕の腕章には責任者と書かれた文字がある。
「してみんかね?」
高梁さんはもう一度言った。
その年の太鼓台運行の責任者が子供好きだったこと。親父が太鼓台の役員をしていたこと。このとき太鼓台についていた子供が姉とおれの二人しかいなかったこと。まだ色んな自由が許されていた緩い時代だったこと。そんないくつもの偶然が重なった。
「やったらええやん。こんなチャンスないよ。やらせてもらいな」
「でも、おれ…」
「つべこべ言うな。それでも男か?」
ついに姉は怒り出した。このとき、本当は誰よりも太鼓台に触りたかったのは姉だったと思う。「もしも男に生まれていたら…」という姉の言葉を何度聞いたことだろう。小学6年生になる姉にとって、このお祭り集会が太鼓台に触れる最期の機会かもしれない。「指揮者をやってみるか」なんて言葉は隣にいる姉にはかけられることはこの先も一生ないのだ。
「太鼓台をかけることがどんなに幸せなことなんか、わかるやろ?」
姉の言葉に覚悟を決めて、親父から法被を借りた。小学生の体には丈が合わずだぶだぶだったが、
「ええやね、似合とる。一丁前にかっこええなった」
そう言って笑う姉の目では我慢しているのがわかった。
そんな姉に見守られながら、その日ほんの少しの間だけ恐らく生涯で最初で最後の指揮者を務めた。懸命に笛を吹き、指揮旗を振った。かき棒の上から見下ろした景色、手に伝わる風の抵抗を受ける旗の感触、真後ろから体の奥まで響く太鼓の音。この日のことをおれは一生忘れないだろう。
店長の谷宋太が奥から出てきた。
「どうかしましたか?お客様」
店内であれだけ大声で騒いでいたら奥にも聞こえたのだろう。
「社長、すみません。姉にはすぐ帰ってもらいますから」
「何言いよん。帰るのはあんたやろ」
まだ姉はおれの手を無理につかもうとする。それを振り払おうとして、勢い余って当たった姉の手から法被が離れた。よりによって谷宋太の胸元に当たって床に落ちた。
「河島くん。そういうのは家でやってくれないか。君も子供じゃないんだ。君はここに働きに来ているんだろう。その給料分はしっかり働いてもらわないと困る。それが社会ってものだろう。君は社会人として失格だな」
谷宋太は、人差し指を立ててかけていたメガネを上げ、見た目には汚れたわけでもないのに谷宋太は、法被の当たった制服の胸元辺りをパンパンと叩いた。
「河島くんのお姉さんですか。たかが太鼓台でしょ。あなたもいい大人が太鼓太鼓って、みっともない。こんなものがいったい何の役に立つと言うんですか。はっきり言ってこんなのエネルギーのムダ使いですよ」
そこまで言われて大人しく黙っている姉ではない。
「あなたに太鼓の何がわかるって言うんよ。これは家族の問題やけん、黙ってて。だいたい太鼓台に触ったこともない部外者にそこまで言われる筋合いはない!」
今度は姉の言葉に谷宋太が顔色を変える。
「私には全く理解できませんね。そもそも五穀豊穣を祝うお祭でしょう。参加者の中でそれを分かっている人間がどれだけいるんでしょうかね。普段パッとしない低レベルの人たちが単に騒ぎたいだけだろうが。こんなときでもなかったら存在価値がないからな」
それから谷宋太は床に落ちていた法被を踏みつけた。何度も何度も、執拗に。足の裏で踏みつけられるたび、峰泉の文字が歪み跳ね汚れていく。
「やめろ!!」
反射的に体が動いた。谷宋太を突き飛ばし法被を拾い上げた。今度は谷宗太が棚にぶつかり、ガムや飴がこぼれ落ちた。
「何すんだ?河島。おまえ、こんなことしていいと思ってんのか!」
谷宋太がこちらを睨みつける。はっと我に帰り谷宗太に歩み寄る。内にいた客が何事かと騒めき始める。
「すみません。社長、大丈夫ですか」
「おれに触るな。これは立派な暴力行為だぞ。だから野蛮な地元人は嫌いなんだ。だいたい大の大人が何千万もする太鼓台をぶつけてけんかして喜んでる。小学生でもあるまいし、おまえらはそこから成長してないんだよ」
そもそも同じ人種ではないのだ。谷宗太は幼いころから太鼓台について歩いていたわけでもなければ、触ったこともない。掛け声を口にしたこともないのだろう。
「社長にはこれが何だかわかりますか?」
「そんなの知るか。ただの法被やろ」
理解できるはずがない。これは単なる糸の集まりでもなければ、記号や文字の集まりでもない。先祖代々、昔から脈々と受け継げられてきたものだ。祭りのことも知らない、太鼓台のことも知らない、峰泉のことも知らない、三十年ぽっちしか生きていない人間が踏んでいいものじゃない。
「すんません、店長。おれ、バイト辞めます」
「勝手にしろ!給料は出さんからな。さっきの暴力行為の賠償金だ。警察に突き出されないだけましだと思え。おれの前に二度とその顔を見せるなよ」
それまでのやり取りをレジから風見雄太に言ってやった。
「すまん。おれはおまえと同じ人種じゃなかったみたいやわ」
風見雄太は、いつもの軽いノリで「そうっすか」と短く答えただけだった。
コンビニを出ると一時の感情で辞めてしまったという後悔もなくはないが、それよりも清々しい気分の方が上回っていた。
遠くそびえる四国の山々の稜線が青い空との境界を分けていた。もっと寒くなれば紅葉して姿を変えるだろう。そんな四国の山と同じ緑をした法被に袖を通してみる。12年ぶりだった。「ちょっと待って」と姉が法被の襟を正してくれた。
「ええやね、似合とる。一丁前にかっこええなった」
まんまと姉に何かしてやられた感がある。でも今はそんなことよりも、
「峰泉の太鼓台は今どこにおるん?」
「この時間やったら、もう八海神社の近くまで行っとると思うよ」
間に合うだろうか。おれは先ほど姉に殴られた痛みを頬と背中に感じながら、勢いよく走りだした。
2
峰泉太鼓台はいったいどこにいるのだろう。
八海神社に向かう最後尾の太鼓台が見え始めた頃、道路には人が溢れ、ぶつかりそうになっては走ることができなくなってしまった。早歩き程度が精一杯だった。
昔から何かといざこざの多かった皇野太鼓台との因縁は深い。おれが中学生の時にも大きなけんかになったことがあった。祭の最終日で八海神社に向かう途中だった。それまでビデオで見たことがあっても、こんなに間近で生で見たのは初めてだった。太鼓台同士がぶつかり合い、大人たちが激しく怒号を発する。これまで見ていた峰泉太鼓台とは別の姿がそこにはあった。そのときのことは今も深く心に刻まれている。
太鼓祭は神事であるがゆえに規則がある。近い身内が亡くなった年は神社の鳥居をくぐってはいけないように、太鼓台も触れてはいけない。祖父が死んだ高校の年には友達が太鼓台をかきに行く中、それらをもどかしい思いで見送ったことを覚えている。けんかした翌年は太鼓台が出場できない。友達に頼んで法被を借りて他の太鼓台をかきに行ったこともある。何かが足りない気がしたことを覚えている。
太鼓台をかきたい理由は人それぞれある。日常の仕事や恋愛がうまくいかないストレスをぶつけるのもありだと思う。祭の日にたまにしか会えない家族や旧友に会うのもありだと思う。もっと単純に祭を騒ぎたいからというのもありだと思う。それぞれあっていいと思う。
昨日、宇喜多信人から借りたDVDを見たとき、峰泉太鼓台のかき棒が折られる姿を胸が締め付けられた。怒りも沸いた。まるで大切な誰かが傷つけられたようなそんな気持ちになった。
幼い頃から一日中太鼓台に付いて歩き、ずっとこの緑の法被を見て育ってきた。その憧れはこの身体にしっかり染み付いている。おれにとって峰泉太鼓台は単なる木製の構造物ではない。それは惣昭太鼓台でも秋津太鼓台でも他の太鼓台ではいけない、峰泉太鼓台でないと昂らない。記憶の奥の方に忘れていたそんな気持ちをはっきりと思い出していた。たかがかき夫が一人増えたところで状況が大きく変わることはないことは分かっている。それでも峰泉太鼓台のためになら何かしなければと体が動いた。普通の人からしたら変かもしれない。
地理的に近くの秋津や惣昭などの他の太鼓台の姿はあるのだが、峰泉太鼓台だけが見つからない。もっと先だろうか。それともどこか脇道に逸れているのだろうか。すでにけんかが始まっていたら最悪だ。
人ごみの中に同じ緑色の法被を見つけた。同じ緑の法被も何台かある。背中には「峰泉」の赤い文字が見えた。それが誰かとわかったときには手遅れだった。
おれの親父だった。ただ顔を合わすだけでも気まずいのにこんな格好しているから余計に気まずい。思わず歩みを速めるが、目的も同じなので行く方向は同じになってしまう。
帰郷してからすでに一ヶ月半が経つというのにろくに会話を交わしていない。目も合わさないまま、会話も無いまま、八海神社へと向かって歩く。
「バイトやなかったんか?」
「うっ」となるような嫌なところを突いてくる。今さっき辞めてきたばかりだったが、そんなことを言えるはずもなかった。返す言葉が見つからない。
「秀磨」
突然、名前を呼ばれて反射的に立ち止まる。12年ぶりに名前を呼ばれた。何の説教だろうか。
「あのとき、殴ってすまんかったな」
頭が真っ白になった。一瞬、何のことか分からなかった。真っ先に頭に浮かぶのは大阪に行く前の出来事だった。何かの聞き違いだろうか。あのときのことを、あの親父が。あの親父から謝られるなんて思いもしなかった。
「そんなこと今言うか。今から喧嘩なんやろ」
まだ頭の中は混乱していた。再び歩き出した。峰泉太鼓台の紅白の天幕が目に入った。
12年前から関係性はどん底に近い。これ以上悪化しても今とそう変わらないだろうと自分に言い聞かせた。意を決して口を開く。
「バイトはさっき辞めてきた。三十歳も過ぎて何やってんだか、ほんとに社会人失格やと思う。でもしゃーないやろ。おれだって峰泉の人間なんやから」
親父の腕が伸びてきて、一瞬殴られるのかと思ったが、
「秀磨、母さんからや」
親父の手渡されたのはミカンだった。
なぜにミカン?しかもこの状況で?頭の中はますます混乱した。
「さっき謝ったのは撤回する。その代わり、気が済むまでいくらでも殴らせてやる。フリーターでも、ニートでも、社会人失格でも、別にかまん。おまえの人生じゃけん、好きにしたらええ。こっちにだってなんぼでもおったらええ。じゃけど、母さんの見舞いには行ってこい。母さんがおまえのことをえらい心配しとる。それが出来のんやったら家からとっとと出てけ」
ミカンの皮には文字が書いてあった。その文字には見覚えがあった。大阪時代に何度も見た。仕送りの中の手紙に書かれていた母の字に違いなかった。あの頃は「がんばれ」といつも手紙の最後に書かれていた。その文字が変わっている。そこには「何もがんばらんでもええ」と書かれてあった。
母のミカンをむいて食べてみた。薄皮が破れて中から、果実の酸味が溢れ口一杯に広がっていく。全身が身震いするほど酸っぱい。ぱちんと頬を叩かれたような気がした。
こんな酸っぱいミカンは久しぶりに食べた。やっぱりこれくらい酸っぱくないとミカンじゃない。
「こっちだって謝らんからな。でも母さんの見舞いは行くから」
母には感謝し切れないほど、今まで苦労と心配をかけてきた。もう逃げてはいけない。母からも。親父からも。
この際、続けざまに親父に言ってやった。
「一発殴ってええか?」
ほんの一瞬だけ驚きの表情を浮かべた後、親父は黙って距離を詰めてきた。今まで気がつかなかったが、親父の頬には引っかかれたような赤い筋ができていた。
拳を固め、親父の頬を目掛けて力一杯叩き込んだ。
近くでそれを目撃した着物姿の若い女性が驚いて「ひっ」と小さな悲鳴をあげた。
まるで壁を殴りつけたようだった。全く手加減無しで殴ったのに親父はその場に踏み止まり微動だにしなかった。こちらの手の方が痛い。
「ちっとは気が済んだか?」
親父を叩きのめしたいわけじゃない。地べたに這いつくばせたいわけじゃない。こんなことをしても何にもならないことくらい分かっている。でも、これで12年間もやもやしたままの一発は返せた。
「言っとくがな、自分が間違ってるとは思てない。今でも反対なのは変わらん」
先ほど殴った手がまだじんじんと痛む。
「おい、ぼさっとするな。さっさと行くぞ」
親父は峰泉太鼓台に向かって歩き出す。その背中に追いかけて付いていく。「峰泉」の赤い文字がとても頼もしく見えた。
3
峰泉太鼓台は夕焼け色が反射して赤く輝いていた。
その正面の夕日の沈む方角に、皇野太鼓台が待機していた。ちょうど太陽を背にし、こちらに向いた正面に細長く影を落とす。天幕の括から垂れ下がる黒い房が一層色濃く染まる。両者の距離はおよそ100m。こちらを睨む指揮者の姿がここからでも見えた。ここは中学生の時に初めて見たけんかの場所と同じだった。皇野自治会館のすぐ近くだった。完全なるアウェーだった。けんかの場合は単純にかき夫の数が多いほど有利になる。
十字の交差点になっていて角には建物がなく道幅が広くなっている。障害物が少なく太鼓台がけんかし易いというのは不謹慎だろうか。
すでに両方の太鼓台は四方を飾る水引幕、高覧幕の面が全て取り外されていた。重を支える四本柱がむき出しになり、普段は面の下に隠れている太鼓係の姿が見えていた。この状態を「裸」になると言う。つまり、それはけんかの準備が整い、とことんやり合う覚悟があるということを示す。
太鼓台の前方には峰泉青年団が陣取っていた。緑色のジャージ姿なので分かりやすい。かき棒の上には通常なら指揮者が四人のところを、今は十人以上が居座り、皇野太鼓台を睨みつけていた。
それに溢れんばかりのかき夫たちが後方に控えていた。そのかき夫の中に甥の姿を見つけた。向こうもこちらに気づき、手招きしている。一人分のスペースが空いていた。どうやらこっちに来いということらしい。
「勘違いすんなよ。今は一人でも多い方がいいからな」
甥は相変わらずの甥だった。友達二人と一緒にいる。
これまで甥から話しかけてくることは一度もなかったというのに、甥といい、姉といい、親父といい、それにおれ自身も。今日はありえないような出来事が次々と続く。これも祭のせいなのか。
12年ぶりに触れるかき棒が懐かしかった。手のひらから伝わる木の感触は柔らかくて温もりがある。加えて顔を近付けるとヒノキの香りがした。
もうすぐ陽が沈むというのに肩が触れ合うほど密集した人の熱気で汗をかくほど熱い。戦意を剥き出して唾を飛ばす者、口を固く結んでかき棒に力を込めている者、太鼓台の指揮者を見上げ指示をじっと待つ者。その中に同級生だったり、近所の人だったり、見たことがある知った顔もちらほらあった。
更にけんかになると、峰泉の法被を着ていなかったり、法被を脱いで腰に巻いていたり、峰泉に加勢する他の地区のかき夫も混じる。それもけんかになれば珍しくない。まだ敵でないだけありがたい。
人の隙間からわずかに前の様子が見え隠れする。峰泉太鼓台と皇野太鼓台の間には、法被でもジャージでもない、黒い制服姿の人間がずらりと並んでいた。
体よりも大きい鉄製の盾を持ち、ヘルメットに黒のプロテクターを身に付けて、睨み合う両者の間に立ち塞がっていた。警察の機動隊だった。太鼓台のけんかを阻止するべく、その人数は二十人はいるだろうか。
「おまえら来るぞ!」
指揮者の叫び声に緊迫感は最高潮に達し、心臓の鼓動が太鼓を叩く音よりも早く脈打った。
皇野太鼓台は機動隊などもろともせず、真っ直ぐにこちらに突き進んできた。背筋がぞくりとした。2tある太鼓台の重量とかき夫の二百人分の押す力が、前方四本の直径10cm程度の棒端に集中する。たとえ分厚い鉄の盾を持っていてもこんなのをそんな勢いで受ければ、タダでは済まないだろう。
半分は脅しの意味もあった。その効果はあった。皇野太鼓台の道を開けるように機動隊は隊列を崩して真っ二つ割けた。
「そうりゃ、そうりゃあぁ」
指揮者の合図で目の前にあるかき棒を力一杯をかけて押す。この巨大な太鼓台を自分が動かしているかと思うような感覚で峰泉太鼓台が動き始める。その歩みは最初こそ遅かったが、徐々に勢いがついて走り出した。
ごつんという鈍い音がして、両者の速度が一気にゼロに戻される。そのエネルギーは慣性の法則に従って、前にいた甥の肩に顔を思い切りぶつけてしまった。
頭上には皇野太鼓台のかき棒が見えていた。長く伸びたかき棒が互いに交錯し、後ろ側へそのまま突き抜けていた。もし面を外してなければ面ごと貫いていただろう。
組み合ったままの状態で峰泉太鼓台が押され、徐々に後退していた。
「もっと押さんかい!!」
指揮者の指示する叫び声と、かき夫の興奮したかけ声が入り交じる。かき棒の上へ人が群がって上がり、相手の脇棒にロープが素早くかけられた。それと同時にロープが綱引きのように引かれた。かき棒があらぬ方向にたわみ、ぎしぎしと音を立てて鳴った。かき棒は太鼓のけんかにおいては攻撃の要。それを折ることは相手の攻撃力を削ぐことになる。
「ロープ引け、もっと引け!」
あと少しでかき棒が折れそうというところで、皇野太鼓台が後方に下がった。その弾みでかき棒にかけられていたロープが外れてしまった。
今度は峰泉太鼓台は追い討ちをかける形で皇野太鼓台にかき棒をぶつける。その衝撃は太鼓台のかき棒を通じて伝わってきた。かき棒の上からバランスを崩した何人かが上から落ちてくる。それでも落ちる人の数以上にかき棒の上には人が群がっていた。
太鼓台は互いに引き、体制を立て直し再び衝突した。皇野太鼓台の棒端が、ちょうど台場を飾る装飾をかすめて、木片が砕けて辺りに四散した。その様子を見た皇野のかき夫、観客までも湧き上がった。
太鼓台のけんかには勝敗を決するいくつかのルールがある。
四本柱が折れる。かき棒が折れる。太鼓が割れる。怪我人が出る。
太鼓のけんかで怪我人を出すのは論外として、重を支える金属製の四本柱は的が小さい上に硬い。昔は木で出来ていたのに金属製に替えられるようになってからは、よほど芯に当たらなければ円柱状の丸い金属の表面を滑ってしまうだけで傷付いても折れるほどのダメージにはならない。かき棒は先ほどのように長く組み合えばかき棒を折る絶好のチャンスにもなるが、それは相手に取っても同じ。チャンスを与えることになり、折られてしまうリスクがある。
「もっと上げ、上げ!」
指揮者の指示通り、手を伸ばしてかき棒を持ち上げる。後方のかき棒を上げるということは前方のかき棒は逆に下を向くことになる。かき棒は相手の台場の太い柱に当たって弾かれてしまった。
「もっと上げんかい!!」
峰泉太鼓台は更に下にある太鼓を狙うことは明白だった。そのために後方のかき棒をもっと上げる必要があった。前方をあまり下げ過ぎてしまうと今度は後方の後ろにいるかき夫の手が届かなくなってしまう。これでは勢いがつかない。
理想は平行な状態でできる限り勢いをつけておいて、当たる瞬間に太鼓を狙って前方の棒端を下げる。
しかしこれだけの人数がいると実際はそう容易くはいかず、かき夫の息がなかなか揃わなかった。指揮者の押せ引けの合図に合わせて太鼓台を前後させるのが精一杯だった。3回に一度くらいしか思うように下には向かない。それがたとえうまくいったとしても、勢いが足りずに円筒状の分厚い太鼓の胴を撫でる程度でしかなかった。それにこちらのかき棒が届くということは、向こうのかき棒も太鼓に届く。リーチはほぼ同じ。何度も太鼓に当たる嫌な音を間近に聞いた。
押せ引けの間隔が速くなりぶつかる回数が増していった。いつのまにか後方の人数は更に増えて密集して押し合う。足の踏み場もなかった。何度も他人の足を踏み、そして踏まれた。人の熱気が密着し、汗をぬぐう余裕もなく額から流れる汗が目に沁みた。
前進していて突然、目の前にいた人の姿が視界から消えた。密集しているために一人転べば巻き込まれて四人五人が転んでしまう。その何人かに巻き込まれ甥とその友達が転んだ。おれはとっさにかき棒にしがみついて何とか転ばずにすんだ。
こんなとき、すぐに立ち上がらなければ危ない。後から来る人間に踏まれるし、後退する太鼓台の下敷きになってしまう恐れもあった。
「大丈夫か?」
とっさに手を伸ばし転んだ甥の体を引き上げて立たせた。
「うるさい!こんなんなんちゃじゃない」
そう言った甥のその表情は、明らかに動揺して引きつっていた。これだけ言い返せるのであれば心配ない。続けて甥の友達も引っ張り立たせた。友達の方も転んだだけでとくに怪我はないようだった。
何十回と続く両太鼓台の鉢合わせは一層激しさを増し、衝突の度に太鼓台が軋んで揺れた。
「そぅりゃぁ、そぅゃぁあ」
もう叫び過ぎてかすれた声をのどの奥から搾り出すのが精一杯だった。
年齢も立場も環境も違うかき夫の中には見覚えのある人もいるが、そのほとんどが言葉も交わしたこともない。中には初めて見る人たちもいる。そんな人の群れが、今一つになろうとしていた。指揮者の指示や他のかき夫の動きに合わせることだけに集中する。蒸し返すような汗の匂いも、腫れた肩の痛みも、体の疲れさえも感じなくなっていた。自分の身体が太鼓台の一部と化しているのか、太鼓台が自分の身体の一部となっているのか。太鼓の音が心臓のように脈を打ち、全身の血をたぎらせる。
峰泉太鼓台はこれまでになく加速して勢いがつき、下を向く棒端の角度も抜群によかった。ここしかないという一点に吸い込まれていくように相手の急所に向かって、より強く、より深く、踏み込んでいった。
ぶつかった瞬間、今までにない乾いた音が足元を駆け抜けた。両方の太鼓台の動きがぴたりと止まる。峰泉太鼓台が離れると、太鼓の胴を貫いて砕けた太鼓の破片が地面に落ちた。皇野太鼓台の太鼓からはぽんぽんと間の抜けた音しか出なくなっていた。太鼓が割れた。
「そうりゃそうりゃ」と峰泉太鼓台のかき夫が囃し立て、勝利の雄叫びをあげた。その周りから一斉に歓声があがった。
太鼓台は一人では動かせない。一人一人の力が積み重なって大きな力となる。自分の力もその足しぐらいにはなっただろうか。おれにとって勝敗よりも峰泉太鼓台を守れたことが何よりも嬉しかった。目が合った甥が目の前に手を差し出してくる。こういう場合は握手だろうか、叩くのだろうか。おれが戸惑っていると、甥はおれの手を思い切り叩いた。
「ったくこれだから、おっさんは」
痛い。手加減なしだった。
太鼓台から少し離れてアスファルトの上にへたり込む。体中の力が抜けて、しばらく立てそうもない。履いていた運動靴のつま先がぱっくり裂けてその下から靴下が覗いていた。何か足が痛いと思っていたら靴下には赤い血が滲んでいた。その下は親指の爪が割れていた。こんな小さな怪我でも名誉の負傷と言ったら大げさだろうか。
「おまえも飲むか?」
背後に親父が立っていた。両手に持った缶ビールのうちの一本をこちらに差し出す。炭酸の効いた冷たい液体が水分を欲していた身体に染み渡る。半分も飲んでいないのに酔っ払ってしまいそうだった。親父は一気飲みしてあっという間に空っぽにしていた。
これからずっと先も、峰泉で生まれ育った、鉄工所の息子である事実に変わりようがない。親父にも、姉にも、甥にも、宇喜多信人にも、佐東春菜にも、谷宋太にだって、風見雄太にだって、それぞれの居場所があるように何年経っても変わらず、おれという人間をこの町は迎え入れてくれる。たとえ小さくて窮屈でも、おれにもいてもいい場所があった。
目の前にはまだ興奮が収まらない峰泉太鼓台の姿がさしあげを続けていた。おれは立ち上がりその輪の中へと戻っていく。おれは12年ぶりに自分の居場所へと帰って来た。
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