第8話 乾坤一擲
1
朝から図書館を訪れていた。
普段は仕事帰りの閉館間近に立ち寄ることが多く、明るいうちに図書館を訪れることは珍しかった。さすがに祭の最終日ともなると人の姿は疎らだった。緑の法被姿の自分も図書館には不釣合いな感じがする。どこからか人の視線を感じた。
妻から預かってきた水色と黄色の線に簡単な木が落書きみたいに描かれた表紙の本を返却した。そして新しく本を借りる。今日は読み切れなかったからと読み貯めたり、もっと読みたいからと多めに借りることもない。決まって一冊返して、一冊借りる。メモには妻の字で次に借りてくる本が達筆な文字で綴られていた。しかしこの何千何万冊という本の中から目当ての本はなかなか見つけられず、観念して職員に尋ねた。
「河島さん、こちらにありますよ」
黒縁眼鏡をかけた若い女性の図書館職員はにこりと笑った。毎日通っていると顔も名前も覚えられるようだ。
「最近注目の若手作家で人気があるんですよ。こんな本まで読まれるんですね」
思わず苦笑いしてしまう。自分が読んでいると思われているようだ。自分は単なる妻から頼まれただけの単なる配達人であり、内容について何も知らなかった。
妻の借りる本は様々だった。時には花の図鑑やパソコンの参考書のようなものを頼まれることもある。本の内容はわからないために、借りるときに職員から変な目で見られることもあった。でも別にそんなことは気にならない。面白かったか、つまらなかったか、そんなことを妻から聞いたこともないし、こちらこら訊ねたこともない。そんなことよりも大事なのは一冊返して一冊借りることだ。
それに不思議に思っていることがあった。
「はいどうぞ。こちらです」
図書館職員から渡された本の表紙には若い学生の姿があり、ずいぶん若者向けの書籍の印象を受ける。借りて来いと言われて本がなかったことがない。人気の本なら尚更のことなのに貸出中だということが今まで一度もなかった。
しかも妻は本を買わない。雑誌の類はあっても家には文学書どころか文庫本の一冊もなかった。
「図書館で事足りるでしょ。うちには本を家に置いておく場所もないし、図書館なら次々新しい本も読めるし、お金もかからないから」と本人は言う。
妻とは正反対に、昔から本を読むのは好きではなかった。これから先も自ら進んで手に取ることは恐らくないだろう。勉強も苦手だった。ろくに練習もせず唯一できたのは水泳ぐらいなもので、中学校のときにたまたま校内一位になり、県の大会に出場したこもある。
しかし遥か昔の話だ。自分はその才能を活かすことはできなかった。当時から親父がやっていた鉄工所も何となく、自分が跡を継ぐことになるんだろうとぼんやりと思っていた。
本を手にし図書館を去ろうとしたとき、首からぶら下げていた携帯電話が鳴った。携帯電話が鳴るたびドキリとする。病院から妻の容態に何か変化があったのではないかと。電話は病院からではなく、娘からだったことにとりあえず安堵する。
「もしもし、お父さん、今どこにおん?」
緊迫感を帯びた声が耳に飛び込んできた。その声色を聞いて再び気を引き締める。
「大変なんよ。自治会館で内田さんらとみんなが揉めよんよ!」
急いで自治会館まで車で駆けつけた。
自治会館の前では、太鼓台反対派の内田雅大を筆頭に若い自治会青年団と睨み合っていた。内田たちは自治会館の駐車場にある太鼓台を出させまいと横一列に並んで道を塞いでいた。その手には角材や金属バットを持っている者もいる。穏やかではない。その間には自治会長の高梁修が立ち、両者を宥めていた。
「昨日のことは聞いとる。おまえら、どうせ皇野とやる気なんやろ。喧嘩すんなら太鼓台を出すな!これ以上は行かせん」
内田は龍の目のようにかっと見開き、その怒声は天を突き抜けそうな勢いだった。
「一昨年のことを繰り返す気か。どれだけの人間に迷惑をかけたと思っているんだ。怪我人だって出てる。折られたかき棒の修理代は誰が出すんぞ?普通にしよったら喧嘩にやかならんやろ。向こうから挑発されても相手にせんかったらええ」
危険を伴う太鼓台のかき夫はみんな保険に入ることになっている。一昨年の喧嘩で不運にも怪我をしてしまった人の治療にはその保険が下り、幸いその怪我も完治した。しかし喧嘩した太鼓台の修理代までは保険では出ない。数万円で済めばまだよいが、その金額は数百万円に及ぶこともある。それらは全て地元住民で負担することになる。
「あいつらに馬鹿にされたままでええんか」
「舐められたままで黙ってられるか」
太鼓台側から発せられたのは、誰かもわからないようなか細い声だった。
「馬鹿にされてもええ。舐められてええ。それが何なんや。そんなんどうでもええ。おまえらの守りたいもんってなんや。峰泉か?面子か?何のための太鼓祭りや。太鼓台が壊れてしもたら地区のみんなが悲しいなる。怪我してしもたら何ちゃにならん。一番喜んどるのは自分には被害のない野次馬の連中だけや。他人事で見とる。そんなやつらのためにおまえら喧嘩するんか。そんなこともわからんのんか」
再び内田が吠えた。一瞬、内田と目が会った。その目はここにいる一同を黙らせるに十分な覇気が満ちていた。両者ともにしんと静まり返った。その場の沈黙が重い。ほんの数秒の出来事が何十分にも感じられた。
「待ってください」
一つの声が静寂を破った。
「なんや、若造」と内田が野太い声を発した。
「内田さんが言うように、喧嘩はよくない。それはその通りやと思います」
それは、青年部長の蒼井宗志だった。
「だったら黙っとけや」
間髪入れずに、その場を支配していた内田が吠える。しかし宗志は黙らなかった。
「でも、この喧嘩があるから太鼓台にみんなが集まってくれるのも事実です。この5年の間にどれだけかき夫が減ったか知ってますか?」
宗志の言う通り、太鼓台の喧嘩を目当てに集まってくるかき夫もいる。喧嘩がないと物足りなさを感じるかき夫もいる。この中にも思い当たるやつもいるだろう。
峰泉地区の人口が減っている。それに高齢化も進んでいる。10年前と比べたらかき夫は2割以上減っているだろう。青年団を除けば、どれくらい純粋に太鼓台をかきに来る人たちが何人いてくれるだろうか。
「これまでのようなやり方じゃもうダメなんです。この太鼓祭も変わっていかなくちゃいけない。これは峰泉地区だけの問題じゃない。他の地区だって、このままだと人がいなくなってそのうち太鼓台が出せなくなる。喧嘩があるからみんながまだ注目してくれている。ぼくの考え方は間違っているかもしれない。でもそれで、そのことで、太鼓祭がなくならないなら、たとえ喧嘩しても体を張ってでも、ぼくは未来の子供たちに太鼓台を伝えていきたい。この先もずっと残してあげたい」
この地で生まれ育ったわけでもない、昔から太鼓台に関わっていたわけでもない、宗志が言った。この峰泉に来て、峰泉に住み、峰泉の人間として。
「だったら誰かがその犠牲なってもええんか。そんなん自分さえよかったらええやつの考え方や。いい加減なこと言うな」
「もうその辺にしとけ!」
それまで静観していた高梁が内田を止めた。
「それぞれが信念持って正しいと思って信じてやってるんやから、きっと正しいも悪いもない。おまえの言うことも宗志の言うことも両方ともが正しい。おまえだって本当はようわかっとるやろ。でもな、これだけは言える。次の時代を背負っていくのはわしらやない。彼らや」
いつもの温和な高梁とは違った。
「わからんのならわしがはっきり言うたる。わしらの時代はもうとっくに終っとる。次の時代には次の時代に合ったやり方がある。わしらがいつまでも居座ってわしらの考えを押し付けちゃいかん。早うそこをどいて、若者に道を空けてやれ」
高梁は指揮者に行けと合図を出した。それまで黙って聞いていた指揮者が笛を鳴らし、太鼓係が太鼓を叩き始めた。かき夫がかき棒に押し、峰泉太鼓台がゆっくりと動き始めた。それまで道をふさいでいた反対派の多数は道を譲った。太鼓台が近づくたびに、一人また一人と道を塞いでいた壁となっていた列が欠けていく。そして最後には内田一人になった。
「わしはどかん。行くなんならわしをしゃいでいけ!」
内田は道を譲らなかった。太鼓台が間近まで迫ろうとしていたが、退く気配はない。もうこれ以上、黙って見ているわけにはいかなかった。何人かの人間とともに内田をその場から引き離しにかかった。内田は手負いの獣のように手足を振り回し激しく暴れた。無茶苦茶に振る内田の指の先が頬をかすめ、鋭い痛みが頬に走った。
内田がいなくなった道を峰泉太鼓台が通り過ぎていく。反対派の何人かが「逃げんな」「金出さんからな」と野次を飛ばした。太鼓台は一切構うことなく足早に自治会館から遠ざかっていった。
取り押さえられていた内田は太鼓台が見えなくなると、電池が切れたように急に大人しくなった。内田は先ほどまでの迫力を失い、地面の一点をじっと見つめている。力なく両手をだらりと下げたままの姿はやけに小さく見えた。痛む頬を撫でてみると指の腹に薄い赤い血の色が付いた。
「おい、清市よ。負けんなよ」
ふいに顔をあげた内田は、かすれそうな声で内田は確かにそう言った。
自分は知っている。内田が太鼓台を嫌いなはずがない。若い頃にはともに汗をかいて走り回り、太鼓台を追いかけてきた。いざこざも数え切れないほどあった。お互い苦労もした。それが埋め立ての騒動で引き返せないほどの大きな亀裂を生んだ。あのときの一件さえなければ、今も内田と肩を並べてこの中にいたかもしれない。
太鼓台が好きだからこそ真剣に意見がぶつかり合う。お互い譲れない。内田のように太鼓台から離れてしまった人間を大勢知っている。自分はそれでもここから離れることができなかった。自分と内田では何が違ったのだろう。
峰泉太鼓台の太鼓の音が小さくなっていく中、内田はまだ地面に膝をついたままだった。
2
病院は静寂に包まれていた。
不思議なことに妻の病室に行くまでに誰にも会わなかった。受付にも売店にも廊下にもどこにも人の姿はない。休日とはいえ、単なる偶然にしては出来すぎていた。まるで別世界に迷い込んだような気分だった。
妻の病室には窓から陽の光が差し込み、部屋は少し暑いくらいだった。窓を開けると程よい風がカーテンを揺らして滑り込んでいく。その風はベッドで眠っている妻、河島佐和子の頬を撫でていた。借りてきた本をベッド脇の棚の上に置いた。なるべく静かに置こうと気を使ったつもりが、パタンと音が響いた。妻はまだ起きない。微動だにせず眠り続けている。再び静寂が辺りを包む。この世界にたった二人しかいないのかと錯覚してしまいそうになる。
妻との出会いは二十代前半の頃まで遡る。
鉄工所の仲間内で隣町の市役所に美人の受付がいると聞いたのは飲み会の席でのことだった。話が盛り上がり、その美人を皆で見に行くことになった。仕事中に配達に出るのを口実に抜け出し、隣町の市役所の駐車場に皆で集まった。学校の授業をさぼるような気分を思い出していた。
受付といえば1階の総合案内と思っていたがそうではなかった。そこにはヒラメに似た顔をした中年の女性が座っているだけだった。さすがに違うだろうと言葉には出さなかったが全員の意見が一致した。
市役所のロビーには受付がたくさんあった。住民票や印鑑証明などの文字が見て取れる。市役所に訪れる事は皆無だった。まして隣町の市役所に行くのは初めてだった。「どこにいんだよ」「あれじゃないのか」などと言いながら、市役所内を探し回った。
1階から2階まで探してみたが、なかなか見つからない。美人の基準なんて人それぞれの好みで、本人が目印になるものをぶら下げているわけでもない。知らないうちに見落としているのかもしれなかった。「ガセネタじゃないか」「もう帰ろうぜ」と誰かが文句が言い始めた。
「おいおい、あれじゃないのか」
ついに目当ての美人を3階で発見した。目印はいらなかった。それは一目でわかるほど、綺麗な端整が目鼻立ちをしていた。化粧品の宣伝に出ている女優にどことなく似ている。何より人を惹きつける彼女のその瞳に吸い込まれてしまいそうだった。皆の意見は異論なく一致した。
人目も気にせず浮かれて、「どこに住んでるの?」「休みの日は何してる?」「好きな食べ物は?」と、彼女に次々に質問を浴びせかける。大人が子供のようにはしゃいでいた。
「もうー、うるさい!!」
突然、一喝された。小さな体のどこからそんな大声を出すことができるのかと思うほど、その女の声はその階に木霊した。何事があったのかと市役所内の視線が集中した。
「あんたら、ここをどこだと思ってんの。いい年した大人がキャーキャーとはしゃいでみっともない。馬鹿じゃないの。だいたい昼間から仕事もせんと何しよんよ。はっきり言って仕事の邪魔!私たちはあなたたちのような人たちのためにここで仕事しているわけじゃない。市役所を利用しに来ている市民の人の…」
容赦なく捲くし立てて、次から次へと言葉が出てくる。その剣幕に圧倒された。おそらくその階と言わず、建物内にまで女の声は響き渡っていたに違いない。その間に美人は気まずそうに奥に引っ込んでしまった。そうして、しばらくここに来たくないと思うほどその女から説教をたっぷりと食らった。おかげ予定より帰る時間が遅くなり親父にまで叱られる羽目にもなった。
しかし、その一週間も経たないうちにその女と再会する。それは本当に偶然だった。市内にある居酒屋の玄関で靴を脱ごうとしたときにばったりと出くわしてしまった。
「先日はどうもお世話になりました…」
非常に気まずい。今、自分は上手に笑えているだろうか。さらに偶然は続く。互いに別々のグループでの予約だったが、仕切りのないオープンスペースで机が隣同士になってしまった。更に気まずい。
「この間はすみませんでした」
先に謝ってしまおうと、発した言葉は彼女と同じタイミングだった。一瞬、お互い顔を見合わせてしまった。
それからアルコールの力も手伝って彼女といろんな話をした。仕事の事、地元の事、幼い頃の事、少し将来の事。彼女は世界各国を旅するのが夢らしい。自分の目でいろんな町を見てみたい、と彼女はその瞳を輝かせて言った。
今のところ、自分にはそんな夢はない。敷かれたレールの上に乗り、親父の後を継ぐだけの自分には羨ましかった。いつか彼女のように自分自身がやりたいことを見つけられるだろうか。
そんな彼女に半年後に求婚するなんてこのときはまだ思ってもなかった。
あれから、もう40年以上が経過した。
寝ぼけているのか、何かを探しているのかのように布団から手が伸びた。その手は宙をさ迷う。妻の手を取ってやると力強く握り返してきた。そして、彼女はゆっくりと目を覚ます。
「来とったんやね。夢見よった。まだ彩の生まれる前の頃の」
娘が生まれる前といえば結婚したばかりの頃だろうか。
いつものように借りてきた本を渡し、返す本と借りてくる本のメモを受け取る。メモには数字と英語が組み合わさった意味不明な言葉が綴られていた。これはなんと読むのだろう。これはまた探すのに一苦労しそうだと思った。
「今からお祭りに行くんやね。怪我せんようにせんかいよ。私も今日は調子がえんよ。朝から食欲もあるし。私も頑張ってはよ元気にならないかんね」
自分の法被姿を見て、そういう妻はお世辞にも調子がいいようには見えなかった。
「退院したら旅行にでも行ってみるか?韓国とか、台湾とか」
妻が目を白黒させていた。思い当たる節はあった。先日、近所の人から韓国に行ってきたと土産話を聞かせてもらったばかりだった。良かった良かったと感想を繰り返し漏らしていた。
「最近は松山便もできて東京に行くよりも近いらしい」
実のところ、海外どころか、ここ何十年も飛行機にさえ乗っていない。どちらかと言えば苦手である。
「別に気使わんでもええんですよ。そんな遠くまで行かんでも、金比羅でも、道後でも、近場でいいんです」
「だったら早う元気にならんかい。おまえの行きたいところ、どこへでも連れていってやるけん」
目を見開いたままの妻の目から、一筋の涙が流れ星のように流れ落ちた。
「ごめんなさい。最近、涙もろくって」
妻は慌てて涙をぬぐった。しかし涙はなかなか止まらず、タイミング悪くその間に入ってきた若い看護士に見られてしまった。正直に言って気まずい。
窓を開けたままの部屋には、心地よい風が通り抜けていつしか妻の涙をさらっていった。
「そろそろ行ってこうわい」
これから八海神社でのかきくらべがある。十中八九どこかで皇野太鼓台との一悶着あることは避けられないだろう。でもそんなことは妻には言えない。余計な心配をさせたくはなかった。
「これを持っていって」
それは妻の手渡された冷たく軟らかい感触のものは、時季にはまだ早い蜜柑だった。未だ青い。それから妻はもう1つ蜜柑を手にし、
「こっちは秀磨の分。あの子、昔から蜜柑好きやったろ」
全く母親というやつは、自分がこんな状態でも子供のことを気になるらしい。
3
少し走っただけで息切れしていた。
車で向かっても駐車するところはないので、病院に車を置いたまま八海神社へ向かっていた。最近は酒も煙草も控えるようにはしているが、もう若い時のように体は付いていかない。
二車線の道路は警察が誘導して歩行者天国になり、歩く人が群れていた。吸い寄せられるように人々の群は一つの方向へと向かっていた。八海神社に近づくほど人が段々と増え、その遥か先に太鼓台の姿が視界に見えてくる。
肝心の峰泉太鼓台はどこにいるのだろうか。背中に峰泉の文字が書かれた緑色の法被を着ているかき夫を見つけて近寄ってみる。そのかき夫もこちらに気付いて振り返った。
それは自分の息子だった。
「おまえ、こんなところで何しよんぞ?」
それが十二年ぶりに息子と交わす最初の言葉になった。法被まで着ているのだからその答えはすでに出ているようなものだった。
息子からの返事はなく、再び歩き出した。その後ろを追いかける格好になった。
息子に「秀磨」と名付けたのは、努力して秀いたことを磨いて一つでいいから極めて欲しかったから。それが、自分が生業としている鉄工所に関わることだったらいいのに。そんな気持ちが少しもなかったかと言われれば嘘になる。
だから息子と訣別したあの日のことは今でもはっきりと覚えている。大阪に行くと息子はいつになく真剣な面持ちで言った。自分はデザインの道へ進みたいと言い始めた。
当時、息子は工場にある機械を一通りは使いこなせるようになっていた。忙しいときには手伝ってもしていた。当然、高校を出れば進学するにしても、いずれ自分の後を継いでくれるものだと思っていた。同時にかっと頭に血が上り、息子への怒りが沸いた。とっさに手を出してしまったのは今では悪かったと思っている。
その後、宣言通りに息子は大阪へ出て行ってしまった。それから十二年間、こちらに帰郷することも無く、まともに会話すらしていない。生活費や学費を妻が隠れて送り、陰で支えていたことも知っていたが、黙認していた。一度掛け違えてしまったボタンを元に戻すのは言うほど簡単ではない。
道一杯に塞がった稜津太鼓台が、八海神社に入る手前で待機しているその脇を通り抜けていく。その稜津太鼓台の前にも惣昭太鼓台が同じようにかき棒を下ろして宮入りする順番を待っていた。その前にも太鼓台が並んでいた。
「今日はバイトやなかったんか?」
返答はない。確か今朝も早くから家を出ていったはずだ。
ちょうど通り過ぎようとする惣昭太鼓台から御花口上の太鼓の拍子が轟く。惣昭太鼓台の紫色の青年団とすれ違った際に、皇野太鼓台とあっちの方にいると指差し教えてくれた。すでに周りも喧嘩することは知られているようだ。宗志の言った期待はあちこちにも増殖していた。
「秀磨」
十二年ぶりに息子の名前を口にした。ようやく息子の歩みが止まった。こちらを向いて振り返り、ようやくまともに息子の顔を見た。先ほど見たばかりの妻に顔立ちが昔からよく似ている。それがそんなところまで似ることはないのに同じように痩せ細っている。
二人だけ金縛りにあったように動けず、周りを人が避けて通り過ぎていく。
太鼓祭は変わらなくてはいけないと、宗志が言った。自分も変わらなくてはいけない。掛け違えてしまったボタンを正すのは今しかない。
「あのとき、殴ってすまんかったな」
ずっと後悔していた言葉を口にした。この十二年間ずっと言えなかった言葉を伝えた。息子に届いているのだろうか。その表情からは何も読み取れなかった。
「そんなこと今言うか。今から喧嘩なんやろ」
息子はそれだけ言うと再び歩き出した。前を行く息子の肩越しに、ちらりと紅白の天幕が見えてきた。峰泉太鼓台のものだった。
「バイトはさっき辞めてきた。三十歳も過ぎて何やってんだか、ほんとに社会人失格やと思う。でもしゃーないやろ。おれだって峰泉の人間なんやから」
今度は息子から話しかけてきた。十二年前のことが頭によぎる。
ふとポケットの中に軟らかい感触があった。あいつならきっとこうなることを見越していたに違いない。
「秀磨、母さんからや」
呼び止めた息子に手渡してやった。
もう一つポケットに入っていた青い蜜柑を剥いて食べた。口に入れた途端に口一杯に酸味が広がる。これは見た目以上に酸っぱい。そういえば昔から息子は顔をしかめながらでも酸っぱい蜜柑ばかりを好んで食べていたことを思い出す。目の前の表情は昔と全く変わってなかった。
どうもいかんな。どうやら力が入り過ぎていたようだ。実の息子に父親が遠慮してどうするんぞ。
「さっき謝ったのは撤回する。その代わり、気が済むまでいくらでも殴らせてやる。フリーターでも、ニートでも、社会人失格でも、別にかまん。おまえの人生じゃけん、好きにしたらええ。こっちにだってなんぼでもおったらええ。じゃけど、母さんの見舞いには行ってこい。母さんがおまえのことをえらい心配しとる。それが出来のんやったら家からとっとと出てけ」
ずっと喉の奥に引っ掛かっていたものが取れたような気がしてすっとした。
「こっちだって謝らんからな。でも母さんの見舞いは行くから」
息子のその言葉だけで十分だった。十二年前に固まったままの時がゆっくりと溶け始める。本当はまだまだ言い足りないことはまだあったが、今はいい。今はこれだけでいい。
ずっとこっちに帰らず、太鼓台に見向きもしなかった息子がまた太鼓台をかくなんて思いもしなかった。バイトを放り出してまで太鼓台に愛着を持ってくれている。父親として、峰泉の人間として、こんなに嬉しいことはない。
息子はこちらを向いて、
「一発殴ってええか?」と更に嬉しいことを口にした。
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