第6話 居場所がないんよ

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 太陽がずいぶん西に傾き始めていた。

 いつも人通りのない無人駅の喜多浜駅前は、間違いなくこの一時だけは一年のうちで最高潮の賑わいを見せる。四車線ある交差点は人以外の通行が止められ、すでに歩行者天国となっていた。歩道の脇には夜店がずらりと並び、コンビニよりも割高なたこ焼きやジュース類も、おそらく当たりの入っていないだろうくじ引きも、飛ぶように売れていく。それらも含めてお祭りというものなのだろう。でもそんな雰囲気も嫌いじゃない。

 学校が休みになった祭りの二日目、朝から中垣望光と二人でかき夫の中に混じっていた。見るのと触るのとでは全く違う世界がそこにはあった。初めての法被に、初めてのかきくらべに、自然と胸が高まった。学校の規則を破ったペナルティのグランドを草むしりするくらいの覚悟はできている。他の太鼓台にも同級生の姿を見かけた。みんな太鼓台をかきたいという気持ちの方が上回っている。同じ峰泉太鼓台には他にも3年生の姿もあった。ちなみに3年生は高校入試の内申書に響くという噂がある。たとえそれが事実だとしても、ぼくは3年になった来年もこの中にいたいと思う。

 各太鼓台はかき棒を下ろし待機していた。その太鼓台が止まっている間には、小さな子供や母親たちが群がり太鼓台に触れたり写真を撮ったりしている。動いていないときにはこういうことも許される。ぼくらのすぐ隣で写真を撮る親子がいて、邪魔にならないように場所を空けた。

「おい、聞いたか。河西の工場前で、三之原と湊がやったらしいな」

「三之原はかき棒が2本折られたっていよったやん」

 かき夫の誰かの話すそんな話が耳に聞こえる。そんなこともすでにじいちゃんから聞いて知っていた。この地域では太鼓台の話はどんなニュースよりも広まるのが速い。三之原と湊の両者の太鼓台は最終日を前にして、運営委員会からの命令が出て解体されたと聞いていた。さらに来年は両者ともペナルティとして祭に出られないだろう。一昨年けんかをした峰泉太鼓台も翌年出ることが禁じられた。

 喜多浜駅前のかきくらべは、河東地区の16台の太鼓台が順番に駅前の交差点でさしあげていく。一台あたり約15分としても、全台が終えるのに4時間かかる計算になる。峰泉太鼓台の順番は最後から二番目だった。その間、かき夫はひたすら待つしかない。望光とともに地面に座り待ち時間を持て余していた。休憩の間も太鼓係がドンデンドンと、全身に血を送る心臓のように脈打ち続けていた。

「あれ、あそこ見てみ」

 望光が指差す方向には、刺さったら痛そうな細い月が爪あとのように青い空に浮かんでいた。


 ぼくが高知に行ったのは、9月に入ってからの日曜だった。散々な結果の水泳大会が終わった直後だ。水泳部全体でも悪かった。結局、入賞したのは先輩一人と、望光だけだった。

 8月の終わりに届いた日浦海空から届いた絵葉書には、真っ白な砂浜、青い太平洋の水平線、さらに澄んだ青空が広がっていた。それに新しい住所が記されているだけでそれ以外に何もない。何か一言くらいあってもいいようなものなのに。何度見返しても見事なまでに何もない。

 こんな場所に海空は住んでいるのだろうか。高知はまだ暑いだろうか。新しい学校にはもう慣れただろうか。泳ぎには行っただろうか。絵葉書を眺めては、そんなことを思う毎日がしばらく続いた。でもこんなことで思い悩むぐらいなら、いっそ会いに行って確かめてみればどうだろうと思い立った。

 ぼくは高知に向かう始発列車に乗り込んだ。列車の中はガラガラに空いていて、サラリーマンらしき人が朝から大きないびきをかいて寝ていた。一度香川県に入りそこから乗り換えて南に向かって高知県に向かう。四万十川にある海空の住む町まで電車を乗り継ぎ5時間以上かかった。片道分だけでも一月分のおこづかいで足りず、毎年貯めていたお年玉のお金を郵便局でおろして補った。

 ようやく目的地の駅に降りると今度はバスに乗り換える。駅前には潰れそうな喫茶店と食料品を売る小さなお店が二つしかない。客を待つタクシーの運転手が退屈そうに大きなあくびをしていた。バス停の時刻表を見ると午前午後に二本ずつしか出ていない。ちょうどタイミングよく午前中最後のバスに乗ることができた。ここまでは事前にネットで調べてきた通りだった。駅から遠ざかるにつれて家はまばらになり、辺りの景色は緑色の占める割合が増えていた。バスの中に何人かいた乗客も気がつくと乗客は自分だけになっていた。谷沿いの道を山の奥へと進んでいき目的地のバス停に着いた。

 バス停を降りてみたものの道路に標識がぽつんとあるだけだった。右も山、左も山、山しかない。道から離れた場所に一つ二つ家が見えるだけ。車の往来もなかった。人の気配もなかった。何度も標識に書かれた地名を見直してみる。ここで間違いないはず。絵葉書にあった白い砂浜はどこにもなかった。

「すみません」

 近くの家までたどり着き声をかけてみたが、何の反応も無い。

「誰かいませんか?」

 繰り返し声をかけてみたがやはり返事はない。扉に鍵もかかっていなかった。玄関を開くと埃が舞い上がった。家の中には草が生え、床が朽ち果てて底が抜けていた。もう一つの家にも行ってみたが同じような状況だった。

 本当にここであっているのだろうか。急に不安になる。バス停の標識まで戻り、時刻表を見ると次のバスが来るのが次は6時間後だった。一度駅へ戻るか、さらに山奥へと道を進んでみるか。どうしようと標識の前をうろうろしていると一台の軽トラックが通り過ぎ、そして停車し戻ってきた。

「おまさん、こなんとこで何しゆうが?」

 車から顔をのぞかせたのは、しわしわのブルドッグみたいな顔のおじいさんだった。いきなりの高知弁にびっくりしたが、ここでじっとしてても仕方がない。

「すみません。この辺に日浦さんという家を知りませんか?」

「んー・・・、日浦なんぞ家、聞いたことないぜよ」

 そう言われて初めて気がついた。海空の母親は結婚して姓が変わってしまっている。それに先月引っ越してきたばかりで自らが進んで離婚して帰ってきました、なんて言うはずもない。待てよ。引越しのときに祖父と一緒に暮らすと海空は言っていたな。

「この辺で大工さんをやっているところってありますか?」

「ああ、それやったらわかるがよ。大工はこの辺じゃ一軒しかない実村さんとこやき。連れてってやるぜよ」

 そこから車で10分。どうやら降りたバス停は間違ってはいなかったらしい。お礼を言うと乗せてくれたブルドック顔のおじいさんは「なんちゃーない」と軽く片手をあげて笑って去っていった。

 しかしまだここがまだ海空の祖父の家だと決まったわけではない。やってきた実村家は木造平屋の大きな家だった。どこまでが敷地なのか境界がわからない。うちの家と工場を合わせたよりもまだ広かった。家の隣には作業場らしき建物があった。シャッターが開いていて上半身裸でカンナで木を削っている人の姿がある。その人物と目が合った。

「ありゃおまん、どっかで見たことがあるのう」

 それは確かに引越しのときに会った海空の祖父だった。


 9月の高知はまだ暑く、山ではセミがツクツクと鳴いていた。

 残念なことに学校に行っているらしく、海空は家にいなかった。今日は休日のはずなのだが、昼には帰ってくるというので家で待たせてもらうことにした。海空の母親も働きに出ているようでこの広い家にぼく以外に他に誰もいなかった。自由に見ていいというテレビはチャンネルが二つしか映らない。通された客間にある立派な仏壇には花が供えられていた。飾られている写真は誰のものだろうか。

 しかし昼を過ぎても海空は帰ってこなかった。海空を驚かせてやろうと何も言わずにやって来たけど、連絡してきた方が良かったかなと今更ながらにして後悔する。昼食をまだ食べてないというと、海空の祖父がうどんを作ってくれた。その麺の上には庭で飼っている鶏の産んだという卵が乗っかっていた。おなかが、ぐうと大きな音を立てて鳴った。

「ここらもずいぶん人が減ってしもてのぅ。昔はこの近くにも小学校も中学校もあったんじゃが、今は統廃合でのうなった。子供らは遠いけど町の方まで出んといかんが。昼から町に行く用事やき、海空のいっちゅう中学校までつんでやるちや」

 昼食の後で、海空の祖父に中学校まで乗せていってもらった。それにしてもただでさえ急カーブの多い山道だというのに、カーブのたびに重力がかかり心臓が縮みあがった。海空の祖父はなんてスピードを出すのだろう。さっき食べたばかりのうどんが何度も口から出そうになった。

 今朝降りた駅の近くまで戻ってくると家があって人の姿もあった。海空の祖父に「この先じゃき」と中学校がある坂道の前で降ろしてもらった。

 学校に続く坂道は、通っている河東中学校よりも更に急だった。坂道を登るだけで額が汗ばんでくる。児童数も減って廃校寸前というから、勝手に想像していた校舎とは違って、目の前に現れたのは真新しい木造二階建ての立派な校舎だった。その隣には小学校らしき校舎も並んでいる。このどこかに海空がいるはず。職員室には電気がついていて先生らしき人物が行き来しているのが見える。とにかく入ってみるしかない。ぼくは見つからないように校舎に足を踏み入れた。

 校舎内は静かだった。木の香りがそこら中に溢れていた。できるだけ音をたてないようにつま先で歩き階段を登る。廊下も階段も木でできている。2階には1、2、3年生の教室が順番に並んでいた。どの教室にも机と椅子が並んでいるだけで誰もいなかった。2年生の教室にも海空の姿はない。教室の隅に忘れられたようにサッカーボールが一つ転がっているだけだった。

 その時、突き当たりの部屋からピアノの音が聞こえてきた。そこは音楽室だった。音を立てないようにほんの少しだけ扉を開いて覗いてみるとピアノにむかって座っている二人の生徒がいた。ここからではよく見えないが、ちらりと見える二つの頭が並んでピアノを弾いている。

「おい、おまえそこで何をしゆうが!」

 背後ろから突然、大声を浴びせられ心臓が飛び出そうになった。振り返ると、先生らしき人物がこちらに向かって猛スピードで駆け寄ってくる。ここは2階で階段は先生の背後にある。もう逃げ場は一つしかなかった。扉を勢いよく開け、中にいた二人と目が合った。

「よっ、久しぶり」

 海空のそのときの表情ときたら、実際に鳩が豆鉄砲を食らったのを見たことがないが、きっとこういうときに使うのだろう。ぼくの突然押しかけて驚かしてやる作戦は大成功。想像していた形と違ってしまったけど。

 その後、知らない学校の知らない先生にこっぴどく叱られたのは言うまでもない。



 2

 

 ようやく前にいた稜津太鼓台が動き始めた。

 峰泉太鼓台も休憩していたかき夫たちがかき棒につき、いつでも動けるように準備した。昼間にあった国央川河川敷かきくらべのときよりもかき夫の数は増えていた。お祭りでも昼間に働いている大人もいる。こればかりは仕方がない。駅前中央の交差点に入る少し手前で出番を待つ。目の前では稜津太鼓台のさしあげに観客からの歓声があがっていた。

 ぼくらは右前方の脇棒の外側にいた。この位置が一番目立つから、テレビの中継にも映るかもしれないと興奮して言う望光の言葉に釣られてしまった。

「おまえら、絶対落とすなよ」

 峰泉太鼓台の指揮者が叫ぶ。かき夫たちは声を出してそれに応えた。稜津太鼓台が交差点の中央から退場して行き、いよいよ峰泉太鼓台の出番となった。

 指揮者の笛が合図して、まずは太鼓台につけられたタイヤを外すために太鼓台を持ち上げる。容赦なくかき棒からずしりと肩に重みが圧し掛かる。タイヤを外される間のほんの数分がやたら長く感じられた。じっとしているというのもきつい。

 タイヤが外されると「ちょうせいじゃ」の掛け声とともにゆっくりと太鼓台が進み出す。交差点の中心までのあとわずかの距離が遠い。一歩一歩、歩くたびに重みに耐え、徐々に下がるかき棒を「せいの」と声を合わせて立て直す。重さは痛みに変わり肩に伝わってくる。

 太鼓台を必死に支えながらも、不思議なほどに見物客の顔がよく見えた。峰泉太鼓台が進むにつれて、進路方向の人垣が割れて道を開ける。観客の中に何人かの同級生の姿もあった。その中にはクラス委員の広瀬恋の姿もあった。こちらに向かって何か言っているようだが、太鼓の音と掛け声で全く聞こえない。クラス委員らしく「太鼓かいたらダメでしょ」なんて言っているのだろうか。

 交差点の中央までたどり着き、指揮者の笛がさしあげの合図を送る。さしあげようとした太鼓台はバランスを崩し大きく揺れる。ぼくらがいる左前側のさしあげるタイミングが他より少し遅れ、他が上がった反動でこちらのかき棒が下がり太鼓台が傾いてしまう。曲がったままの腕を何とか伸ばそうとさらに力を込めるが、逆にかき棒は徐々に下がるばかりだった。

「肩、肩、肩っ。肩入れんかい」

 指揮者の指示で仕切り直しする。一度、かき棒を肩の位置まで戻した。「せいーの」と声を合わせてもう一度差し上げる。今度はタイミングがうまく揃った。腕を伸ばし、肩、背中、腰、足の先まで全身で受け止める。重みが全身を突き抜けてきしむ。きつい。差し上げた腕がぷるぷると震えた。ふと隣の望光を見ると固く目を閉じ、歯を食いしばってじっと耐えていた。負けてられない。力を振り絞り、「そうりゃそうりゃ」と力の限り吠えた。

 それも限界に近づきつつあった。次の指揮者の合図で太鼓台を放り投げるが、これもかき夫の息が揃ってない。前と後ろで動きがバラバラになってしまった。それでもほんの一瞬、太鼓台が手から離れた。力がふっと抜けるだけで楽になる。間違いなくこの巨大な巨体が宙に浮いている。それが二回、三回と続く。受け止める度にかき棒が下がり、四回目には持ちこたえる力はもう残ってなかった。落下の勢いを受け止めきれずに峰泉太鼓台の台場が地面で跳ねた。

 あとは担いで所定の位置まで移動していくのがやっとだった。最後にもう一度差し上げようと踏ん張ってみたが、すでにかき夫は力を使い果たしていた。太鼓台を定位置に着けると力が抜けるようだった。ぽたぽたとあごを伝って汗が流れ落ちた。

「おまえら、ごくろうさん」

 青年団の人がぽんと肩を叩き缶ジュースを差し入れてくれた。のどはカラカラだった。その人は「宗志さん」と皆から呼ばれている。青年団長で、しかも指揮者だった。

「こりゃ部活の練習よりよっぽどきついわ」

 息を切らしながら望光が漏らした。 ジュースを一気飲みして空にした。

 順番に一台ずつ河東地区の太鼓台がさしあげていく。タイミングが合わずすぐに落としてしまうもの、放り投げを披露するもの、そうして15台のかきくらべが終わり、本部では集計結果がとりまとめられる。

いつのまにか夜の空になっていた。煌々とライトが照らされ、露店には人々が群れていた。そして長い休憩時間を挟んだ後、結果が発表された。

「優勝は…、惣昭太鼓台」

 その瞬間、歓喜の声が沸き上がった。惣昭太鼓台は歓声とともに太鼓が打ち鳴らし、それに応えるようにかき夫たちが太鼓台をさしあげた。人数的には峰泉太鼓台より人数が多いこともあるが、それよりもかき夫も指揮者もぴたりと息があって、さしあげの時間、放り投げの回数、どれをとっても他の太鼓台を圧倒していた。かきくらべを終えたばかりだというのに、まだそんな力が残っているのかと思うくらいに惣昭太鼓台はさしあげを長く続けた。

 その惣昭太鼓台越しに細く長い月が見える。先ほどよりも空を引っ掻いていた。

 

「幼馴染で同級生の久谷志羽。こっちは高知の同級生の戸賀郁斗」

 海空は互いに互いをそう紹介した。知らない制服を着ているだけで、海空なのに知らない人間みたいに見えてくる。

 戸賀は近い短く刈られた坊主頭に、二重の瞳、余計なことだけど歯並びさえ悪くなければアイドルの中にいてもおかしくない顔立ちをしていた。おまけにぼくよりも頭1つ分くらい背が高い。望光といい勝負だろうか。

「愛媛からこんなへんぴなとこまでよう来たちや、まっこと大変ぞね」

 そう言って戸賀は愛想笑ってよく手を差し出してきた。初対面の相手に握手を求められたのは初めてのことで、望み通りにそのがっちりした手を強く握り返してやった。

「海空は帰る準備をしてくるき、ちょっと待っちょって」

 先生にも話があるらしかった。その間、ぼくはぼんやり待っていても良かったけど、戸賀がどうしても校内を案内したいというのでそれに付き合ってやることにした。

 この中学校には全校生徒8名しかいないらしい。中学2年生は戸賀と海空の二人しかいない。今年の一学期までもう一人いたのだが、海空と入れ違いに転校してしまったらしい。

「これでも小学校のときには5人もおったんぞね」

 それも一人また一人と転校してしまっていたらしい。同級生がたったの二人ということは、いつも教室に二人きり。幼稚園の頃から母親に習っているというピアノを海空に教えているらしい、土日も二人きり。

「どうちや。ここがおれの一番のお気に入りやき」

 そう言われて最後に連れて来られたのは校舎の屋上だった。ここから学校の周りが一望できた。自分が降りた駅の周りに家が密集しているだけで、あとはぽつりぽつりと家が散らばっている。山の中腹の斜面にも家がある。道らしきものがないのに、どうやってあんなところまで行くのだろうとふと思った。

「これがおれたちの村の全部ぞね。こないちんまい。でも、あんの山の形、峰の影の感じ。おれ、この村が好きやき」

 会ってまだ一時間も経っていないおれに向かって、戸賀が言った。こいつ、恥ずかしくないのか。そんなことを言われても、いったいどんな顔して何て言葉を返せばいいのかわからない。しかし戸賀のように自分の町のことを好きなんて胸を張って誰かに言えるだろうか。

 「じゃあここで」と別れるはずだったのに、なぜか戸賀も一緒に来ると言い出し、三人で海空へと家に向かうことになった。わざわざ愛媛から来ているのに気の回らないやつだ。こっちは久しぶりの再会なんだから遠慮しろよと思いながら。

 海空と戸賀は学校まで自転車で通っていた。その通学路は、行きは20分、帰りは1時間かかるという。つまり高低差で言えば、夏海の家が上で、学校の方が下にある。ぼくは海空を乗せて、二人乗りでそんな山道に挑むことになった。

「そりゃやめときや。何ならおれの自転車貸してやってもええきに」

「ぼくが自転車に乗ったら、おまえはどうすんだ?」

「走ってついてく」

 戸賀の提案を却下した。すぐに坂道に差し掛かり、自分で言ったことを早くも後悔し始める。足ははち切れそうなほどすぐにパンパンになった。途中、降りようかと海空は何度も聞いてくる。こうなったら、意地でも登ってやる。立ち漕ぎ全開。

 海空は着替えてくると言って家の中に消えた。それを見届けてから、ぼくは力尽きた。地面に仰向けで寝転がると体中から汗が吹き出してきた。鼓動が早過ぎて呼吸もままならなかった。

「やるちや、見直した」

 戸賀は感想をもらした。それから夏海の家からコップに水をくみ持ってきてくれた。井戸の水だという冷たい液体がのどから胃に落ちて体の中に染みてこんでいく。熱い地面と背中に挟まれTシャツは汗だくになっていた。戻ってきていた海空の祖父がトラックから軽々と背丈の何倍もある丸太を肩に担いでいく姿が見えた。次々と丸太が積み上げられていく。ぼくは無様に地面に転がっていたままだった。

 着替えて出てきた海空は、今日の空に似た薄い空色のパーカーに、山の向こうに見える入道雲色のショートパンツだった。

「おまえらな、ここにはこんなでっかいアユがおるがよ」

 海空の近所のあぜ道を三人で歩く。道といっても雑草が他よりも低いというだけで道らしきものが続いているだけだった。あぜ道に並んで流れる川幅2mの小さな川を指差し戸賀が言ったのだ。その手の開きは肩幅を超えていて、さすがにオーバーな気がする。こんな小さな川にそんな大きなアユがいるだろうか。

「それにな。ここらにはタヌキやろ、イノシシやろ、サルもおるが。あとシカも」

 そんなの珍しくない。ぼくの地域でもイノシシとサルなら山にいるという話は聞いたことがある。「みんな美味しい」と戸賀が続けた。

「えっ、食べるん?」

「ウソウソ。サルは食べんちや」

 確かに「サルは」と言った。、「は」ってことは他は食べんのか。

 田んぼのあぜ道に沿ってトンボの群れが飛んでいた。あぜ道に生えた草の緑、畑に植えられた野菜の葉の緑、周りを取り囲む森の緑、川の水の流れに揺れる藻の緑。同じ緑でもそれぞれに違う緑の色があった。ぼくの町も田舎だと思うが、ここはそれを遥かに上回る。

「冬には雪が積もる。ここら辺り一面真っ白になったらスキーもできるがよ。海空は、スキーできるがか?できんのんやったらおれが教えてやるちや」

「したことない。やりたいやりたい」

 いつのまにか、すっかり戸賀のペースに巻き込まれてしまっていた。そんな話をわざわざ聞くために高知まで来たわけではない。ここは一気に話題を変えるべきだ。

「海空。10月になったらもうすぐ祭やけん。今年は望光と太鼓台かくけんの」

「祭?」と間入れずに戸賀が割り込んできた。

「私の住んでいた町にはね。太鼓台っていうのがあるんよ」

 海空が戸賀に教えてやる。

「太鼓台ってなんぞ?御神輿のことか?そんならうちの村にもあるがよ。毎年に秋になったら子供も大人もみんな参加して村中を練り歩くちや」

 そういって神輿をかつぐ真似してはしゃぐ。おまけに変てこな歌まで歌い始めた。それで我慢の糸がぷつりと切れた。

「そんなんと一緒にすんな!」

 ぼくは戸賀につかみ掛かっていた。戸賀はバランスを崩して倒れた。土の上に転がった戸賀に向かって拳を振り下ろす。普段ケンカなんかしたこともないくせに。最初の何発が戸賀の顔に当たった。しかしそこまでだった。すぐに戸賀の反撃に合い、逆に羽交い絞めにされて押さえ込まれた。体格が違う。こうなるとぼくは身動きできなかった。これ以上ないくらいに最高にかっこ悪い。




 予定ではかきくらべの後は順番にそれぞれの地区に帰るはずだった。

「おまえら。来たぞ!!」

 叫んだ誰かの声で、一瞬で空気が変わった。

 歓声の沸き立つ方向を見ると、皇野太鼓台がはやし立てながら峰泉太鼓台にまっすぐに向かって来ていた。二台を結ぶ直線上にいた見物客は歓声と悲鳴が混じる中、真っ二つに分かれて道を空ける。

 2年前を思い出していた。あのときはまだ小学生でただ見ているしかなかった。何もできなかった。でも今はかき夫としてその一員の中にいる。かき棒をつかむ手にも力が入る。

 皇野太鼓台の勢いは止まらなかった。タイヤを付けていないとは思えないスピードだった。アスファルトの上を滑らせてその勢いのまま、突っ込んできた。瞬く間に両者の距離が無くなった。

 かき棒とかき棒、人間と人間が交差した。前に突き出たかき棒が中間地点くらいまで入り込んだところで皇野太鼓台は止まった。ぼくのすぐ目の前に皇野太鼓台のかき棒の先端がある。もう少し勢いがついていたら…、と思うと足が震えた。

 辺りは黒の法被と緑の法被のかき夫が入り乱れてつかみ合いとなり混沌としていた。誰が味方で敵かもわからない。それを分けるのは着ている法被の色だけだった。

 隣にいた望光が黒の法被を着た皇野太鼓台のかき夫に捕まれて、頭を殴られた。

 それを目の当たりにして、一気に頭に血が駆け巡る。

 望光がやられる。望光を助けなければ。

 峰泉がやられる。敵をやらなければ。

 足を前に踏み出した。一歩、さらにまた一歩…。

 その時、ふいに後ろから襟首をぐいと捕まれた。つかんでいたのは緑の法被、じいちゃんだった。前にいた相手のかき夫に足蹴りを食らわせて、もう片方の手に望光を捕えていた。

「おまえらは後ろに下がっとれ!」

 このままやられっぱなしでたまるか。ぼくは首を振り、じいちゃんに抵抗にしようとした。じいちゃんの手はぼくの襟元をがっちりとつかんだままで離さない。

「邪魔じゃいうのがわからんのか!!」

 眉間にしわを寄せてそんな鬼のような顔をしたじいちゃんを初めて見た。頭上のかき棒から指揮する押せ退けの怒号が飛び交っていた。

 両者の太鼓台は互いに一度下がり、ようやく離れた。その間にぼくらは太鼓台の前方から離れ、捕まれたまま後方に連れて行かれた。太鼓台の後方は入る隙間がないほど人で溢れていた。それでもその中に無理に割り込んで入った。

 太鼓台はタイヤを外してある。前方があんな混戦状態では持ち上げて動かすことはできない。太鼓台は引きずって動かすしかなかった。かき棒はタイヤがない分、二の腕まで位置が下がっていた。かき棒を脇に抱えて体重をかけて力一杯押す。それでも太鼓台はアスファルトとの摩擦でほとんどの勢いを奪われてしまう。なかなか思うようには動かない。木製の台場の底が擦れ、焦げた匂いが辺りに漂っていた。

 ぼくも望光も必死になって太鼓台を押し続けた。かき夫の息が合うと太鼓台は勢いよく滑り出し、皇野太鼓台のどこかにかき棒がごつんと当たって止まる。致命的になるようなダメージは互いに与えられなかった。一度うまくいっても次がうまくいくとは限らない。後退して再び押そうとしてもかき夫の息が揃わずうまく進まなかった。

「皇野太鼓台、所定の位置まで戻りなさい!峰泉太鼓台も挑発するのはやめなさい!!」

 制止しようとする統括する太鼓祭運営委員会のスピーカーから発せられる声色は、段々と荒っぽくなっていた。でもその効果はない。

かき夫が密集する中、人の足を何度も踏み、何度も踏まれた。そんな状態がもう10分以上続いていた。

「もう止めんかい!退くぞ」

 かき棒の上にいる指揮者が大声をあげた。それをきっかけにかき棒を抱えて峰泉太鼓台は一気に退いた。太鼓台はアスファルトの上をごりごりと滑ってその場から遠ざかっていく。

 皇野太鼓台から野次が遠く続いていたが、次第にそれも小さくなっていった。その場を包んでいた緊張は次第に和らいでいく。それと共に群がっていたかき夫もどこかへと散り、その人数は目に見えて少なくなっていた。峰泉地区のかき夫以外もかなりの人数が混じっていたようだった。

 ふと望光を見ると頬が紅く、唇には赤い血がにじんでいた。

「血出よるぞ、大丈夫か?」

「ああ、押しよるときに自分で唇噛んでしもたんや。ちょっと血の味がするけど全然こんなん痛ない」

 そう言って、望光は法被の袖で血をぬぐった。

 再びタイヤを取りつけた峰泉太鼓台は、峰泉地区へと帰路を進んでいた。途中で太鼓台には天幕の四隅からかき棒へと提灯が吊るされた。それらは30cmほどの間隔で吊るされ、台場に設置された大型バッテリーから電源が供給されると明るく照らした。面飾りの金糸にその灯りの光が反射してキラキラと輝いている。

 夜の黒をバックに巨大な金色の龍の姿が浮かぶ。昼間よりも陰影がはっきりして、また違った顔を見せる。むしろ恐いくらいの龍の鋭い眼光が闇夜に一際輝いていた。時折、観客が写すカメラの強烈なフラッシュが目に眩しい。

 ぼくの胸の高鳴りがなかなか治まらずにいた。いくら太鼓台を押しても押し足りなくて、いくら叫んでもまだ叫び足りない。どうすれば心の奥底にかかった、このもやもやは消えるのだろうか。

 夜空には細く欠けた月が忘れられたように空にひっそりと息を潜め浮かんでいた。先ほどよりもさらに天高く上っている。まるで闇夜にまぶたを閉じて眠っているかのように。


「ごめんね…、ほっぺた痛い?」

 なんで、海空があやまるのだろうか。悪いのはこっちだと言うのに。ぼくの頬には、戸賀ともみ合ったときにできた擦り傷がある。たいした傷ではないが爪でひっかいたような一筋の赤い線になって残っていた。

「郁斗、全然気が利かなくて根が正直なやつだから。なんて言うか、本能のままに生きているっていうか。とにかくごめんね」

 戸賀当人は「わけわからん」と帰って行った。ぼく自身も全くその通りだと思う。二人で海空の家まで戻ってきていた。

 祖父が作ったという木のベンチに二人並んで腰掛けた。海空の家の辺りは谷になっていて陽が落ちるのが早い。昼間とは打って変わって、空気がひんやりとして少し肌寒かった。時折、周りの森からホーホーという不思議な生き物の鳴き声が聞こえてくる。

 終電に間に合うためには夕方6時にはここを出なければいけない。残り1時間弱。ぼくに残された時間はあとわずかしかなかった。

「海空、元気そうで良かった」

 ぼくは一番言いたかったことを口にした。今日、この言葉を言うためにぼくはここまで来たのかもしれない。

 でも海空は、

「そんなことないよ。今までと全然違う。ずっと一緒に暮らしてきた家族が足りんのんよ。向こうにおったときも一緒にどこか出かけたりすることなんてなかったけど、それでもお父さんとお母さんと三人で暮らしてた。その家族が足りん」

 ぼくにも父親がいなかった。事故で死んだと母さんから聞いている。その頃、ぼくは当時まだ2歳で、父親について覚えていることは何一つない。初めからいないものだと思えば、別に父親がいなくても寂しくなかった。ぼくには想像することはできても、海空と同じ気持ちにはなれなかった。

「戻りたくっても戻れん。私にはもうここにしか居場所がないんよ。ここで生きていくしかないんよ」

 辺りはすっかり暗くなり、海空の顔にも影を落とす。

「ねえ、しいちゃん。私らもっと大人になれば、自分で働いてお金を稼げるようになったら、自分で自由に選べるようになるんやろか。今よりちょっとはマシになるやろうか」

 そう言う海空の顔はぼくの知っているどれとも違う知らない顔をしていた。

 戸賀が自分の村が好きだと言ったことをふと思い出す。何年かしたら海空も同じ目をしてそんなことを言うようになるのだろうか。どんどん、ぼくの知らない海空に変わっていってしまうのだろうか。

 ぼくは海空に何も答えられず、それからのことをあまりよく覚えていない。海空の母親も帰ってきて、海空の祖父の家で夕飯をごちそうになった。このとき、何を食べたのだろう。海空の祖父か母親が駅まで車で送ってくれたのだろう。海空も一緒に来てホームまでわざわざ見送りに来てくれたのに、ぼくは別れ際に何か言っただろうか、何か言われたのだろうか。

 それから高知からぼくの家までどうやってたどり着いたのかよく覚えていない。着いたのは夜中だったはずなのにどうやって家に入ったのだろうか。誰にも怒られなかったのだろうか。ぼくは本当に高知まで行ったのだろうか。

いっそ何もかも夢だったら良かったのに。結局、高知に行ったことをぼくは誰にも話していない。


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