第4話 群雄割拠

 1


 ここの方言で物を担ぐことを「かく」と言う。

 それに倣って、太鼓台をかくと言い、前後に突き出た四本の木柱を「かき棒」と言い、太鼓台を担ぐ人夫たちのことを「かき夫」と言う。

 祭二日目の空は雲一つ無かった。青空の下、峰泉太鼓台は動き始めた。かき夫の大半は若い青年団で占めていた。かき夫は地下足袋を履き、真っ白い鳶ズボンを履いている。上半身には白い襦袢の上に唐草模様の緑の法被を羽織る。背中には黒字に白縁の地区の名である「峰泉」の二文字が秋風に揺れていた。

 峰泉太鼓台は西に向かっていた。今年は市制七十周年に当たる年で、記念行事として十年ぶりに国央川河川敷で市内中の太鼓台が集まるかきくらべが予定されていた。昔は市内の太鼓台が統一行動も恒例行事の一つだったが、今は東西に伸びる国道の付近より南側の上部、市の中央を流れる国央川を境に西側の河西、東側の河東の3つに分けられていた。

 太鼓台の歴史は古く、江戸時代以前にもあったという記録も残されているが、その全貌は明かされていない。各地にある神輿や屋台、山車と称されるものと系統は似ているが、別子銅山が開鉱したこの町の繁栄とともに、独自に進化して豪華絢爛になっていった。太鼓台を持つ地区も増えていき、昨年新たに加わった結浦地区も入れて今では53台になっている。

 峰泉太鼓台は二濱川にかかる橋に差し掛かった。一昨日に比べれば水位は減っているが、川にはまだ茶色い水が轟々と流れていた。今朝の新聞には一昨日の台風の被害が生々しく伝えられていた。市内だけでも床下浸水108戸、床上浸水19戸の被害、負傷者も出ていた。その数の中には峰泉地区の被害も含まれている。今年の太鼓祭はそんな被害のこともあり慎むべきではないかという声も出た。その一方で多くの人間が祭を待ち侘びていたのも事実である。どちらの気持ちも判る。太鼓祭の運営を決定する運営委員会でも夜遅くまで議論したと聞いている。その結果、太鼓祭は予定通りに行われることになった。その待ち侘びた一人として嬉しく思う。

 見上げた太鼓台は、塔のように高くそびえ立つ。中央部分の高さは5mを超える。中央部分の四面には、前後左右にそれぞれ金色の「面」が飾られてある。かき棒より上部にあるこの面が三段に積み重なったような形をしていて、下の面から順に「高欄幕」、「水引幕」、「重」と呼ばれている。

 まず横長の長方形状をした高欄幕と水引幕の面には、龍、鷲、獅子、歴史上物語などをあしらった人物や建物が立体的に金色の糸で刺繍されている。ある面には龍が大口を開き真っ赤な舌を覗かせながらぎょろりとした眼でこちらを睨み、ある面では鷲が窮屈そうに今にも飛び出しそうに大きな翼を広げていた。またある面では神社仏閣の張り出し屋根にぶら下がった金銀の飾りが太鼓台の動きに合わせて揺れていた。金と銀の糸からそれらが造形されている。それら前後左右に四面に二段ずつ並び、同じ図柄のものは二つと無い。中段の水引幕よりも最下段にある高覧幕の方がやや大きい。高覧幕、水引幕は上端だけが固定されていて、そこを捲って中に人が出入りできる構造になっていた。

 水引幕の更に上にある最上段の重の部分には赤の布団地が積み重ねられ、そこに一際大きい金色の龍が居座る。上から見下ろす昇龍と下から見上げる降龍の二匹の龍が互いを睨み合う形で一対になっていた。重にはそれぞれの四面に二匹ずつ、全部で八匹の龍が納まっていた。水引幕の上端から、上部の重が上方に向かってやや台形状に広がった形状をしている。重の上端部分の全周は高覧幕の下部の全周よりも長く広がっていた。人の体に例えれば、重がたくましく厚い胸、水引幕が引き締まった腹、高覧幕がどっしりとした腰にも見える。

 重の更に上には格子状の紅白の布が張られた半球状の「天幕」があった。重の上の四隅には、背の高い太鼓台が電線や看板などの障害物を避けるために見張り役となる、『重係』が座っていた。また上方の四隅には雨雲を表す、人の頭よりも大きい太さの黒い布団生地の一本の紐を結んで結び目だけが塊となった「括」が取り付けられている。その括から紐の端から雨を表す、淡い緑色の幾本もの紐が束ねられた「房」が二つずつ垂れ下がっていた。

 全長10m以上にもなる4本のかき棒は外側にある2本を「脇棒」と言い、内側の2本を「本棒」と言う。これらのかき棒は丸い形状をしていて、人の頭程の太さがある中央部分から先端に向かうほど徐々に細くなり、直径10cmほどの先端は「棒端」と呼ばれ、円筒状の鉄のカバーが取り付けられている。昨年に新調した二本の脇棒は木目の艶が違った。縦に伸びた4本のかき棒を固定させるために、かき棒と直角に「横棒」が中央の塔部の前後に二本ずつ並んで縄で頑丈に結ばれていた。

 塔部の最下部の台場には、太鼓台の重量を支える二つの大型の車輪が左右平行に並んでいた。つまりかき夫が支えていなければ太鼓台はこの車輪を支点に前か後ろかのかき棒が地面に着いてしまうことになる。この車輪を転がして進むにしても3トン近くある総重量をかき夫が支えて、平行に保ちながら前に進んでいく。車輪は脱着できるようになっていて、かきくらべや宮入するときには外される。今はかき夫が30人程と少ないが、かき夫も祭の要所要所ではその数は200人近くにまで膨れ上がる。

 横棒の少し前あたりに脇棒と本棒の二本をまたいで太鼓台を指揮する『指揮者』が立つ。その手には30cm四角の黄色い布の端面に棒がついた「指揮棒」を持つ。指揮者はその中程を握り、それを笛の音に合わせて両腕を開いたり閉じたりして振り合図する。太鼓台の前方に二人、後方に二人、合計四人の指揮者がいて太鼓台の進行方向や速度など指示する。また中央部分の高覧幕、水引幕の内側には空洞になっていて、面に隠れて見えないが『太鼓係』がいて文字通り太鼓を叩く係だった。太鼓は中央部下部の台場に収納されていて通常は二人体制で向かい合って座る格好で交互に叩き続ける。

 時折、かき夫の押す力が弱ければ太鼓台の進む速度も遅くなってしまうときもある。そんな時にはかき夫の誰かが、

「ちょうさじゃー」

と声を張り上げる。すると他のかき夫も「ちょうさじゃー」と続き、自然と力も入り太鼓台は再びするりと進み出す。その後も「ちょうさじゃー」の掛け声は繰り返される。

 ちなみに「ちょうさ」には太鼓台という意味があり、上品に言えば「太鼓台のお通りですよ」ということになるだろうか。太鼓の音は「ドン、デン、ドン」と三つ打って一つ休む。次の四拍子を指揮者の笛の音が「ピー、リッ、ピー」と三つ鳴らして一つ休む。それにかき夫の「ちょうさじゃー」の掛け声が合わさる。つまり太鼓と笛の音が交互に鳴らされ、自然と二組に分かれた掛け声が交互に繰り返される。ここぞという力が必要な時にはこれらのテンポが早くなり掛け声が「そうりゃそうりゃ」に変わる。

「とうーざい、とざい」

 突然、指揮者が声を張り上げ、太鼓の音がぴたりと止まった。手には祝儀袋を手にしている。これは「御花口上」と言い、秋の五穀豊穣を祝う祭の主役である太鼓台には個人や企業から祝儀が出される。韻を踏んで言うのが慣わしで、ここで言う「とうーざい、とざい」とは字で書くならば「東西東西」となる。

「ただいまくだしおかれまする、お、は、な。賞金で百万両。右は御当所、伊場様ごひいきとあって峰泉太鼓台若手連中くださるぅー」

 ここで太鼓が連打され、「おぉー」とかき夫が声を出してかき棒を上下に大きく揺らしてそれに応える。この場合は伊場さんから太鼓台に頂いた祝儀に対する礼を示し、「お、は、な」は祝儀である御花を指す。時と場所によって「百万両」を「一億円」にしたり、「ただいま」を「またまた」などと言い方を変えたりもする場合もある。

 峰泉太鼓台の先導するのは右肩の腕章に『総責任者』と書かれた、高梁修だった。一人だけ違う赤色の法被を着て大きな旗を手にしている。稲刈りされたばかりの田んぼの上を塩辛とんぼの群れが飛んでいた。それと平行して太鼓台は秋空の下を進んでいく。会場の河川敷まではこの調子でいけばまだ2時間以上かかるだろう。太鼓祭は体力が要る。

 自分が経営する河島鉄工場もこの祭の三日間は毎年臨時休業にしていた。現在3名の従業員も皆、この土地で生まれ育ちだった者ばかりで、各々地区の太鼓台の運行に携わっている。この特別な三日間はこの土地だけの行事で、他の市や町には日常が流れている。市外の取引先には事前に連絡して詫びを入れた。当然相手にも仕事があるわけで、それは仕方がないと理解を示してくれる所もあれば、そうではない所もある。それでも文句を言われながらも頭を下げるのも経営者たる務め。それくらいは容易いことだ。



 2


 河川敷まで、あと少しという距離で隣の地区の稜津太鼓台と合流した。

 重に二匹の龍がいる所は全太鼓台が共通して同じだが、作られた年代によってもその趣きが異なり、近年では重の平面から、豪華に見えるように立体的に張り出したものが多い。稜津太鼓台は峰泉よりも面も太鼓台も作られた年が古い。両者ともに古い部類の太鼓台に入る。

 稜津太鼓台の水引幕、高欄幕の面柄は戦国時代の合戦を題材としていた。刀や弓を持った武者の姿も見られる。源平合戦が題材になっていると聞いたことがある。天辺の天幕は帯状の赤、白、水色の三色が順番に規則的に配置されていた。法被は水色を基調に格子柄をしており、その背中には真っ赤な「祭」の文字があった。房は法被に合わせて淡い水色をしていた。

 休憩していた水色のかき夫の中に知った顔を見つけた。

「清ちゃんか。久しぶりやの」

「又やん。どんなんで、元気にしよんかい?」

 「又やん」こと、芦尾又二郎は半世紀も前に通っていた小学校の同級生になる。

「定年退職してからすっかり足が悪なってしもて病院通いしよる。全然いかんわや」

「そりゃ太りすぎと違うんか」

と突き出たお腹を指差してやると、又やんは自分のぽんぽんとお腹を叩いてみせた。

「清ちゃんとこはまだ会社やりよんだろ?」

「わしら貧乏人は働かなきゃ食べていけんきん。大手に勤めとった又やんがうらやましいわ」

「何を言よんだろか。まあ、お互い来年も太鼓に触れたらええねぇ」

 動き出した稜津太鼓台へと又やんは戻っていった。中肉中背の又やんの背中は以前に比べて小さくなった気がする。今は息子夫婦と一緒に暮らしているはずだった。隣の地区に住んでいても、祭の時くらいしか顔を合わす機会がない。

 本市のほぼ中央を二分する形で国央川が流れる。架かる平宗橋の上から見下ろすと、川縁の堤防に沿って露店が並んでいた。離れていても食物の美味しそうな匂いが風に乗って漂ってくる。河川敷はかきくらべを見に来た観客で溢れ返っていた。定刻を過ぎても一番手の太鼓台が河川敷に入っていく気配は未だない。

 前が閊えてしまい、峰泉太鼓台はかき棒の棒端を地面に着けて休憩していた。その間に峰泉太鼓台のかき夫の数は徐々に増えていった。移動は青年団に任せて、要所の行事にだけ参加するかき夫も少なくない。それでも参加してくれるだけ有難いというものだ。缶ビールを飲む者、煙草を吸う者、座り込んで話をする者、各々がいつでも動けるように周りで待機していた。

 その中に法被を着た孫の姿があった。中学生の孫はその顔立ちにも体付きにもまだ幼さが残る。背が低いせいで大人用の法被が随分と大きく見える。ついこの間まで太鼓台に付いて歩ていたはずなのに、もうかき夫の中に混じっている。月日が経つのは本当に早い。孫は友達と一緒らしかった。その隣に立つ背の高い、くっきりとした顔立ちの子と話をしている。確か中垣の家の倅だったと思うのだが、名前までは思い出せなかった。「おまえら、怪我せんようにな」と二人に告げた。

 今から市内中の太鼓台が河川敷に集い、「かきくらべ」が行われる。かきくらべは、太鼓台をかき夫が担ぎ上げる。そこから、さらに腕を伸ばして頭上に高く差し上げることを「さしあげ」と呼ぶ。このさしあげを出来るだけ、高く、そして長く担ぐことがかきくらべの優劣が決まる。至極単純だが、3トン近くある太鼓台を200人程のかき夫でさしあげるのはそう簡単にはいかない。普通に考えれば、かき夫は多ければ多いほど有利にはなるが、その分、統率が取り辛くなってしまう。一本のかき棒にもかき夫が入れる数にも限りがあり多過ぎても身動きが取れずに逆にかきにくくなってしまう。かき棒には左右に交互に詰めて入るのが良いとされる。かき夫の年齢構成も重要だった。20代以下の若い連中は若さゆえの瞬発力はあるが、まだ鍛錬されていない筋肉には粘り強さがない。その点、50代以上の年輩者は瞬発力には劣るが、使い込まれた筋肉と経験でこれを補う。その中間にあたる両者の良さを持ち合わせた30、40代が貴重な戦力となる。しかしこれらの年齢構成にはどうしようもない部分で、高齢化の進む地区、新興住宅地の多い地区、農家や漁師の多い地区などバラつきがあった。

 さしあげの際には更なる負担が掛かる。かき夫の息を合わせてこそ、太鼓台は効率的に高く長くさしあがる。一際、指揮者は重要な役目だった。いつ太鼓台をさしあげ、いつ一呼吸を置くか、再びさしあげさせるのか。それらの上手い下手で勝敗が決まると言う人もいる。年齢も環境も違うかき夫のまとめ役、日頃からの信頼関係も要る。その指揮者の中には青年団長の蒼井宗志の若い姿もあった。

太鼓台の運行の準備、組立から始まり当日の運営だけでなく、運営費の徴収、かき夫への飲食の手配などするべきことは山程あった。それらの活動の大半を青年団とその家族が担っていた。

 

 予定よりも遅れて河川敷入りとなった。峰泉太鼓台も他の太鼓台に倣って川沿いに並んだ。国央川河川敷には、市内各地から総勢49台の太鼓台が集結していた。事情に出られなかった太鼓台が数台あるにしても新たに作られた地区の太鼓台も加わり、これほどの台数の太鼓台が一つの場所に集うのは珍しかった。

かきくらべは河東、河西、上部ごとに分かれて順に行われることになっていた。最初は峰泉地区がある河東の出番だった。峰泉太鼓台の4本のかき棒には群がったかき夫が準備を始める。まだかき夫の数は少ない。まだ8割程度というところだろうか。

 まず初めに太鼓台の下部に取り付けられた車輪を外す。2つの車輪は車軸と取付金具と一体となっており、留め具を外せば簡単に脱着できる構造になっていた。そのためには太鼓台を一度持ち上げなくてはならなかった。自分は中央部に近い位置、太鼓が見える位置に付いた。中央から離れるほどにかき棒がしなって撓むが、つまりはここが一番重い。

「肩入れんかい。おまえら、絶対落とすなよ」

 指揮者が叫び指示を出す。かき棒の丸みに合わせて肩から首にかけてぴったりと合わせることを「肩を入れる」と言う。肩を入れて担ぎ上げるのだ。しかし背の低い自分の身長では肩に届くには少し届かず、その代わりに手の高さを足してかき棒を支えてやる。車係の2名がタイヤを外す準備が整うと、指揮者の合図でかき夫が息を合わせる。

「せいーのぉ」

 最初の掛け声で太鼓台の巨体が地面から浮き上がった。しかしまだタイヤを外すには高さが足りなかった。「もう一丁」と誰かが叫んだ。二つ目の掛け声で頭の高さまで持ち上がった。

「じっとしとけ、絶対落とすなよ」

 タイヤが外されるまでじっと体勢を維持しておかなければならない。車係の手によってタイヤは外された。その間、一分を要しなかった。よく訓練されている。はずすのに手間取ればその分かき夫に負担が掛かる。

太鼓台はその重量を支えていたタイヤを失い、太鼓台の約3tの重量がかき夫に分散される。外側の脇棒よりも内側にある本棒、棒端よりも太鼓台の中心に近い程重量が掛かる。かき棒はその重みで中央部分に向かうほど反って撓み、かき棒に結ばれた縄がぎゅっぎゅっと音を立てて鳴った。一歩進むたびに太鼓台の重みがずしりと肩に圧し掛かり、足先の骨にまで響いた。それは重みというよりも痛みに限りなく近い。

「ちょうさーじゃぁ」

 苦しさを紛らわせるためにかき声を張りあげる。支えるかき棒に対して体をなるべく真っ直ぐになったままの体勢の方が力が入り支え易い。まるで人が太鼓台と地面の間を支えるつっかえ棒のようになる。しかし太鼓台の重量は容赦がない。かき棒の高さが維持できずに徐々に下がってくる。下がるにつれてその体も斜めになりより支え難くなる。傾いた体勢になりながらも、かき棒を境に左右のかき夫が体重を掛け合ってバランスを保つが、それにも限度があった。

指揮者の吹く笛を合図に太鼓が早打ちに変わった。

「そうりゃあ、そうりゃぁあ」

 それがさしあげの合図だった。今まで進行方向を向いていた体をかき棒に向けて両手で一気に押し上げる。歯を食い縛り、両腕を一杯に伸ばし突っ張った。太鼓台の重みで全身の骨が軋む。かき夫の息が揃い、前後左右全てが水平でないと上手くはさし上がらない。一方を上方に持ち上げる力は一方を押し下げる力にもなる。少しでも下がる弱いところがあればそれ以上の力を持ってさしあげるか、さもなくばそこから一気に崩れてしまう。

 上手く息が揃って、峰泉太鼓台は天に向かって高くさしあげられた。かき夫にとっては心地良い瞬間であるが、その悦びに浸る間はない。太鼓台の重みは両腕の力を徐々に消耗させていく。指揮者の笛の合図で体勢を立て直そうと再び息を合わせる。

「せいーの、そりゃ」

 かき夫は力を振り絞り、峰泉太鼓台の重量に抗った。その勢いが重量に勝った時、かき棒がかき夫の手から離れる瞬間がある。ほんの一瞬とはいえ3tある太鼓台が宙に浮くのだ。その一瞬でも腕の力が抜けてかき夫は少し楽になる。さしあげの最大の見せ場となる「放り投げ」と言う。二度三度と峰泉太鼓台は宙を舞った。

 そこまでが限界だった。最後は力任せに放り投げをしようとして息が合わず一気に崩れてしまった。峰泉太鼓台は傾き、台場の底から地面に落ちた。その衝撃で辺りには砂埃が舞う。限界を迎えた両腕には力が入らない。頬を滴り落ちる汗が土に染みを作った。

 まださしあげを続ける太鼓台もあった。その中でも群を抜いて目立っていたのは、惣昭太鼓台だった。惣昭地区は地区の面積も広大で、その分戸数も多い。紫の法被を着たかき夫の数も明らかに多かった。四角の括りから垂れ下がる、薄紫の房の先が規則的に閉じたり開いたりしていた。これはかき夫が意図してかき棒を小気味良く揺らし、上手く揃った時に一定のリズムで房が綺麗に割れる。惣昭太鼓台はさらに勢いをつけて、惣昭太鼓台はかき夫からの手からも離れて放り投げを行った。房が豪快に縦横無尽に揺れ、軽々しく舞う太鼓台の姿は目の前でまるで手品を見せられているようだった。見ている者を魅了し、惜しみない拍手が送られた。河東地区の中で最後までさしあげを続けた後、惣昭太鼓台は地面に着いた。

 上部地区の太鼓台は、今や定番となっている「寄せ太鼓」を披露した。6台の太鼓台が横一列に並び、太鼓台の脇棒を合わせてさしあげを行う。6台の太鼓台の全てが平衡に保ち、かつ一気に頭上まで持ち上げる。これだけの人数のかき夫の息を合わせるのも相当に難しい。何ヶ月も前から集まり入念に打ち合わせると聞いていた。河東地区、河西地区の太鼓台にも簡単には真似できないだろう。人々の歓声が最高潮に達し、この日一番の拍手が会場を埋め尽くしていく。

 そんな時だった。観客の中にある人物の姿が目に止まった。すぐに後を追いかけたが、太鼓台が動き出しそれに伴い人混みが動いて姿を見失ってしまった。白髪でひょろりと背が高く他の観客より頭半分抜き出ていた。はっきりと顔を見たわけではないが、その雰囲気はよく似ていた。峰泉地区に残る数少ない同級生の一人だった。名を内田雅大と言う。



 3


「だから、そんな金がどこにあるんぞ」

 建物が震えるほどの怒号が自治会館内に響いた。内田雅大とは昔から何かと反りが合わなかった高梁修は「いつも文句ばかり言うとる。批判ばっかりするどこぞの野党みたいなやつやな」とそう漏らしたことがある。それが先々週の出来事だった。

「とにかくわしらはそんな金は出さん。やるんならおまえらだけでやれ」

 内田はまだ言い足りない不満そうな顔で白髪の混じる薄い頭をぼりぼりと掻いた。それをきっかけに一斉に野次が飛び交う。こうなるとその場は混乱し、収拾がつかなくなった。

「太鼓に触らん人間にはそんな倉庫なんかいらん」

「そうは言うても、太鼓台以外の物もようけ入っとる。今のままほっとくわけにもいかんけんの。それにこれからどんどん若い人も少ななりよる。年寄りだけで太鼓台組み立てるのも大変ぞ」

「だったら普通のでええやないか。今の大きさでもなんちゃわしらは困らん。そんなんわしらには関係ないわ」

「おまえらは自分らだけ良かったらそれでええんか」

 最初のうちは、まあまあと宥めていたい高梁までもが珍しく熱くなり声を荒らげている。誰かが言葉を発するとそれに呼応して、幾つもそれぞれを反論また擁護する声が重なる。

 事の発端は、老朽化して雨漏りする自治会館の倉庫の建て替えだった。近頃は太鼓台が収容できるような大型の建屋、それに加えて天井クレーンを備える地区もあった。ただそうなると費用も格段に嵩んでしまう。見積金額の千二百万円は自治会費の積立金だけでは賄い切れず、地区に住む世帯全体に負担を求めることになった。それに反対したのが内田を中心とした二区の人間だった。峰泉地区はその中で更に一区から五区までに分けられていた。

 賛成と反対がほぼ半分ずつだった。議論は平行線のまま、何度も話合いの場が開かれたが、一向に埒が明かない。

「これ以上時間をかけても全員が納得するような答えは出んだろう。前にも話したが、民主主義に乗っとって公平にここは多数決で決めようと思う。異議のある者はおらんか?」

 高梁に反対する者はいなかった。そのためにもこの場には各地区から3名ずつ全部で15名が揃っていた。

 各自が配られた紙に賛成か反対かを明記して投票していった。全員が終えるその間、誰もただの一言も発しなかった。部屋にはコツコツと筆記物の書く音と折り畳む紙の摺れる音だけが響いていた。

「それでは今から開票する」

 皆が投票したばかりの箱が開封され、二つに折り畳まれた用紙が机の上に散らばった。それらを開き「賛成、反対」と高梁が淡々と読み上げていく。

 誰もが息を呑んで見守る中、一進一退のまま、開票は続けられた。途中白紙の投票もあった。どちらも選ばなかったということだ。それも一つの選択だろう。

淡々と開票を続ける高梁の口調は変わらない。最後の一票を残し、賛成6反対7までもつれた。反対が上回っていた。次の一票で反対か引き分けかが決まる。そして最後の一票が開票された。

「反対」

 そこには反対の文字が記されていた。

「決まりやな」

 内田はつぶやくように言った。それ以上、勝者も敗者も誰も何も発しなかった。自治会館の一室には重苦しい空気だけが漂っていた。

「なんで、内田さん。あんなに目の敵みたいに言うんですかね。何かにつけて文句ばっかり。何が楽しいんすかね」

 投票が終わり、後片付けをしていた時に代表の一人だった蒼井宗志が話しかけてきた。結果は結果として、賛成を押していたその表情は不満で溢れていた。

「そうやったな、おまえは知らんかったな」

 宗志は峰泉に来て日がまだ浅い。それにまだ若い。すでに内田をはじめとする二区の主要メンバーはこの場から立ち去っていた。一瞬、話そうかどうしようか迷ったが、宗志には知ってもらった方がいいだろう。

「ええか、ここだけの話ぞ‥‥」


 未だ日本が高度成長期にあった時代、もう三十年以上も昔の話になる。

 峰泉地区にある海岸を、外資系の企業が埋め立てをして工場地帯にしようと乗り出してきた。計画には誰もが一度は耳にしたことがあるような国内の大手企業までもが参画していた。その当時は、環境や自然保護に関する意識も規制も今ほど厳しくない時代だった。そんな景気のいい話に地元は湧いた。

 峰泉地区に流れる二濱川の河口は、瀬戸内海を正面に臨む湾になっている。少し先には唯一の島、大島が見える。干潮時には沖の方まで遠浅の砂浜がその姿を現す。夏には海水浴や潮干狩りなどの行楽を楽しむ家族連れの姿をよく見かける。休日には釣り客も多い。この辺りはカレイやチヌが釣れるのでも有名だった。埋め立てされればそれらを失うことになる。その一方で工場地帯ができれば、直接に関わる建設、製造の仕事が増える。仕事が増えれば雇用が生まれて人が増える。人が増えれば、飲食、小売、サービスなど、多くの業種がその恩恵を受けることになる。しかしそこで生活する当事者達にとっては由々しき問題で、町の発展を取るかそれとも自然を残すか、選択を迫られることになった。

 峰泉地区の中でも、賛成と反対の意見が真っ向から衝突した。反対するのは内田を中心とした二区の住民だった。二区は二濱川の河口に位置し、もろに影響を受ける当事者達だった。

 連日連夜、自治会館で協議の場が持たれたが、議論が白熱することはあってもお互い歩み寄ることはなかった。話し合いは平行線どころか回を重ねるごとに遠退いていく有様だった。一向に光明が見出つからず、最後は峰泉地区で多数決を取ることになった。一区から五区まで各区で3票ずつ票を持つことにした。誰か代表者となるか、代表者がどちらに投票するのか、3票の行方は各区に委ねられた。二区に賛同する区もあって、一進一退のまま、どちらに転んでもおかしくない状況だった。

 均衡が崩れたのは、外資系の企業から地区に保証金を支払うという話が出たことが発端だった。一家につきと提示されたのは、大卒の初任給にも相当する金額だった。それに加えて環境整備費という名目で峰泉地区自体にも毎年何百万円という金が支払われることが提示された。住民から毎月の会費で成り立っている自治会に取って、これは大金だった。もちろんそれらを受け取れば計画に賛成したことになる。

 この時を境界に明らかに流れが変わった。投票の日が近づくにつれ、不穏な空気が地区全体を包んでいった。賛成派と反対派と分かれ、互いに敵視するようになった。金で故郷を売ったと一方が言えば、他方はその金で地域が活性化するのにどこが悪いと応戦する。道で会っても対立派同志は目も合わせない。他方が取り仕切る地区の行事にも出てこない。次第に誰もがその話題を口にするのを避けるようになり、どちらを押すのかも禁句となっていた。

 ついに投票の日がやってきた。それぞれの地区の代表3名が自治会館に集まり投票した。結果が気になる地区の人間も自治会館に自然と集まってきた。投票の結果、蓋を開けてみれば予想以上に差がつき、賛成派が勝利した。

「これで決まりやな」

 投票を開票した当時の自治会長は、深呼吸をして言葉を続けた。

「すでに皆も重々解っていると思うが、誰もがこの地区を愛して、少しでも良くしようと思っての真剣に考えてくれた。その結果がこれだ。今回の件で地区につまらぬ諍いが生んでしまった。こんな事はもう沢山だ。それも今日ここで決着した。もうこれで終いにしようじゃないか」

 終止符が打たれた瞬間だった。そのはずだった。だが、それで終いにはならなかった。

 埋立工事の起工式には地域住民も招待されたが、反対派の人間は誰一人として姿を見せなかった。翌日から待ち構えていたかのように一斉に工事が始まった。海岸は建設用の重機械で埋め尽くされ、工事車両が出入りするようになった。騒音が瀬戸内の海に木霊し、夜遅くまでライトが照らされ、海岸は瞬く間にその姿を変貌していった。

 しかしその着工から半年も経たないうちに工事は中断されることになる。日本経済はバブル崩壊を迎え、蜘蛛の子を散らすようにこの計画に群がる人々は一様に消え失せた。海岸の一部は工事も中途半端なまま投げ出され、崩されたままの岸壁と海に伸びる土で固められただけの道が時間とともに風化していった。地域住民の反対を受けたことにより当初計画より工事の遅れたことが幸いして、大部分は以前のままの姿を留めていたのがせめてもの救いだった。

 結局、地区には深い怨根だけが残った。地区の決定的な亀裂を生む端緒となり、それまで太鼓台に積極的に関わっていた人達も太鼓台から離れていった。内田もその一人だった。

 目には見えないが、その時のしこりが雪の様には溶けることなく、峰泉地区に今も深く降り積もっていたままだった。


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