第3話 塞翁失馬

 1


 普段自分が寝ている天井ではないことに気づき一瞬戸惑った。

 いったい自分はどこで寝ているのか。徐々に意識がはっきりしてくるに連れて、ここが自分の家であると認識して安堵した。ただし自分が寝ていたのは寝室ではなく玄関に伸びる廊下だった。

 先ほどからポケットの中の携帯電話が振動と共に鳴り続けている。目覚まし代わりにしているアラームにも気づかない程に深く眠り込んでいたらしい。身体には布団が掛けられていた。普段は家の庭にいるはずの孫が飼っている犬のポチリがすぐ傍で、寝息を立てて気持ち良さそうに寝ていた。立ち上がろうとして立ち眩みした。そういえば久しく徹夜などしたことない。身体は正直だった。

 昨夜の記憶を手繰り寄せて、自治会館から家には辿り着くことができた。しかしそこから先の記憶が無かった。

「お父さん、朝帰ってきていきなり玄関で寝てたんよ。なんぼ揺すっても起きんし。私一人じゃ運べんし。そのまま床で寝てもろたんよ」

 外で掃除をしていた娘からそう聞かされて、60歳を過ぎた身体はもう若くないと一人合点がいった。

 家の外の道路はまだ雨水に埋もれてしまっている。壁際に残る水の跡や道路の脇に溜まった枯れ木やゴミの量を見ただけでも周辺一帯の被害の凄まじさを物語っていた。自身が経営する「河島鉄工場」の看板も強風で歪んでしまっていた。これくらいなら自分で叩いて直せるだろう。

 工場の中はまだ残る台風の強風に揺られる度に、建物全体がぎしぎしと音を立てた。建物の中だというのに時折髪を揺らすほど風が吹き抜けていく。そんな状況でも工場の壁も屋根も壊れてはいなかった。30年も前に建てられた工場には天井にも壁にも穴や隙間が、年を重ねるにつれて人の皺の様に増えていた。結果、夏は暑く冬は寒い。でも今回は適度に抜ける風の具合が幸いしたようだった。屋内に雨が少し入った様で、所々が床が濡れる程度の被害で済んだ。

 商売道具である金属を加工するための、大型旋盤、フライス盤、ボール盤など、順に動かしてみたが、異常は見られず一安心した。


 昨夜は自治会館に詰めていた。

 天気予報によると、台風は夜半過ぎから翌朝にかけてこの地域の真上を通過する。自分たちが住む峰泉地区の自治会館には、地区を5つの区に小分けした各区長、それに青年団の有志を加えた12名が集まり、万一の事態に備えていた。

 今年は台風の多い年だった。台風が来るのは7月から数えてもう5つ目になる。しかも明日から秋祭が始まる。よりによってこんな時にと、ここにいる皆が同じ思いだろう。

 窓の外には太鼓台に被せたブルーシートが吹き飛ばされそうになるくらい強風に煽られていた。先週末に地区の人間が総出で一日がかりで組みあげたものを、今更解体することもできない。ただ台風が過ぎ去るのを見守ることしかできなかった。

「知っとるか。今年は三之原と湊が喧嘩する言うてインターネットで噂になっとるやろ。ほんまにやるんやろか?」

「わしもそれ見た。掲示板やろ。湊も喧嘩になりそうになったらいっつも引くけんの。どうやろか」

「今年は山代と宮瀬も出れんけん。河西の方は盛り上がらんなぁ」

 そんな話をしている若い衆の前にはすでに空いた缶ビールが並んでいた。すでに酔いが回って顔が赤くなっている者もいる。若かりし頃ならば真っ先にそんな話にも喜んで食いついただろうが、今の自分はもう歳を取り過ぎてしまっていた。

「おまえら、あんまり飲みすぎるなよ。いざっていうときに動けんかったらなんちゃにならんけんの」

 そう言うと一杯やっていた面々は、ばつが悪そうに顔を見合わせて身を小さくした。そのやり取りを見ていた自治会長の高梁修に、「清兄、ちょっと」と部屋の外に促された。

「清兄、あんま厳しいに言うてやるなよ。若いもんも自分の家を放り出してまでこっちに出てきてくれとんやけん」

「修さん、それはわかっとるって。これくらいまだまだ厳しいうちに入らんよ」

「あのな、それを決めるのはおまえやないんぞ。言われた相手の方やろ。おまえは黙ってても顔が怖いんやから。とにかくあんまり言わんといてやってくれ」

 そういって高梁からぽんぽんと背中を叩かれた。

 現在、自治会長を務めている高梁は、周りから「修さん」の愛称で親しまれていた。若い衆にも気配りができて信頼も厚い。1月のとうど焼きに始まり、4月には子供相撲、7月には般若入れ、そして明日からの太鼓祭、11月に校区の文化祭、自治会の行事ごとは山ほどあった。こういうときに歳も違う、考え方も違う、色んな種類の人間をまとめ、円滑に事を進めるのが役目だった。口で言うのは容易いが相当にこれは難しい。

 自分も一昨年に60歳を越えた。自治会との関わりを持つようになってから30年以上になる。最近では自分よりも年齢が上の者は段々と居なくなり、若い衆にも色々なことを伝えていく役回りになっていた。自分の呼び名も何時の頃からか、呼び捨ての「清市」から「清兄」に変わっていた。

 自分達の時代には、親に首根っこを捕まれて嫌でも無理矢理に手伝いをさせられながら自治会のことを教え込まれた。「今は時代が違う」とそんな簡単な言葉で片付けたくないが、向こうからすれば教えてもらえる立場にあり、こちらからすれば教えてあげなければいけない立場にある。それが歯痒く感じる時もあるが、大抵のことは受け入れられる覚悟ができた。

 5年前に娘が子供を連れて戻ってきた時も黙って受け入れたし、一月半前に十年ぶりに息子が大阪から帰ってきた時も何も問わずに受け入れた。辛抱することで物事が上手くいくこともある。一昔前の自分なら許せなかったことが今なら許せてしまう。それが決して悪い事ばかりでもないが、良い事ばかりでもない。何時か予想さえしない変化の渦に飲み込まれてしまうのではないかと、自分が変わっていくのが時々恐ろしくなる。ただ平穏な日々が続いてくれればそれ以上望むものは何もない、とそう考えるようになったのも歳のせいだろうか、それともこれもまた時代のせいだろうか。


 今年の春先の出来事だった。

 妻の佐和子が定期検診で引っかかり検査入院することになった。始めのうちは、たとえ何も異常がなかったとしても結果その方が安心するだろうと思い気楽に考えていた。しかし1日だけのはずだった検査入院が、次の検査のときには3日まで延びることになった。

「自覚症状は全くないんやけん。私、これまで一度も大きな病気にかかったこともないし」

 妻はそう言うが、心配するなという方が無理な話だった。

 明確な検査結果が出ないまま、妻に変化が現れたのは夏に入ってからのことだった。今年は特に猛暑続いて、昼夜を問わず30度を越える真夏日が続いていた。自分も暑さのせいで幾分体重が減っていたが、妻は食欲がないと体重が急に7キロも落ちた。

 2度目の検査入院の直前になって腹痛を訴えた妻は病院に担ぎ込まれた。その時、血溜りができるほど出血した妻の血で、家の床は赤く染まっていた。



 2


 叩きつけるように突風が樹木を揺らし、殴りつけるように雨粒が窓ガラスを撃っていた。

 台風の中心は天気予報では四国山地を横断して、そろそろこの地域に最接近しようとしていた。太鼓台を置いてある自治会館の広場は雨が溜まり、ほんのわずかな間に池と化していた。

「こりゃいかん。いい加減やばいぞ」

 自治会長の高梁修が表情を曇らせた。ここまで雨脚が強まると、太鼓台が水に浸かる心配をしているだけの問題では済まない。

「二濱川まで見に行ってくる。誰か一緒について来てくれんか?」

 二濱川は峰泉地区を流れる小川だった。自分を含む4名が立候補し、気休め程度の懐中電灯の小さな明かりを頼りに、闇夜の中に飛び込んだ。雨合羽からむき出しの顔に横殴りの雨が直撃する。まともに目を開けていられないほど激しく痛い。

 幼い頃に魚や蟹を捕まえた思い出がある二濱川は、自分の工場を建て替えした30年前の同じ頃に両岸をコンクリートで整備されてその姿をすっかり変えてしまった。完全に農業用水と生活排水を運ぶ水路と化し、人々の暮らしを支える水路へと変貌した。その代償として、生き物の住む機能を完全に失ってしまった。普段は5m程の川幅の底が乾いて剥き出しになるまでに水が細る。他の用水路から水を引き込んでようやく川壁の高さの半分まで水が満ちるのは、6月から9月にかけての稲作の時期ぐらいだろうか。

 しかし、目前には慣れ親しんできた二濱川のそんな普段の穏やかな面影はなかった。川幅一杯まで土色の濁流が激しくうねりをあげて飛沫をあげる。水の嵩は、川壁の縁にまで迫ろうとしていた。濁流に紛れて人の胴回りほどもある丸太や大岩がごろごろと転がりながら流されていく。二濱川に初めて恐怖を覚えた。もしも川が決壊するようなことが起これば、ここら一帯の地域は水没してしまう。

「このままだと大事になるやもしれん。誰か自治会館に戻って消防署への連絡と応援を呼んできてくれるか」

 高梁に同じことを三度も言い直してようやく話が通じた。風の音に掻き消されて大声を出さないと互いに言っていることがよく聞こえない。

「修さんたちはもっと川上の方を見に行ってくれるか。わしらはこのまま降って斉木さんの家を見に行ってくるけん」

 斉木家は二濱川と山に挟まれる場所にあって、周りより土地が低くなっている。この地区に住む人間ならこれほど増水して最も危険なのは斉木家だろうと察しが付く。その隣には息子夫婦の家も軒を連ねていた。

「清兄とおれも一緒に行こわい」

 一緒に行くとついて来たのは峰泉自治会青年団長の蒼井宗志だった。ここで高梁たちと二手に分かれた。

 宗志は数年前に縁もゆかりもない峰泉に土地を購入して家を建てた。今年30歳で息子とちょうど同じ歳だという。例年であれば誰もが嫌がり、大抵はくじ引きになる青年団長に自ら立候補した。それは地区では異例のことだった。宗志は何年間も途絶えていた自治会の愛護会旅行を復活された。バスを貸しきり高知の桂浜まで行くと計画を立てた。「なぜ今更復活させる必要があるのか」「なぜ団体で行く必要があるのか」とそんな反対の声もあったが、結果として峰泉地区に住む半分以上の小学生が参加することになった。その影には宗志が一軒一軒訪ねて説明しに回った努力があってのことだった。

 その他にも地区の清掃活動や火の用心の夜回りなど自ら率先して務めた。その一方でそれを快く思わない人間もいる。「要らないことをして面倒事が増える」「なんでこんな事しなけりゃいけない」とそんな声が耳に入る。やる気のある若い者の足をいい歳をした大人が引っ張ってどうする。自分にできることといえばそんな文句ばかりを並べて何も行動しない連中に言って釘を刺してやるぐらいだった。

 雨が降りしきる闇夜の中、斉木家の前で小さな灯りが揺れていた。

「斉木さん、大丈夫か?」

 家主の斉木昇が土嚢袋に土を詰め、その息子が土嚢を玄関の入り口に積んでいた。しかし水の勢いは止められず、濁った茶色い水が押し寄せててきた。隣に建つ息子の家は土地を高く造成しており、今のところは水が入ってくる心配はなさそうだったが、問題は父親の家の方で、すでに玄関まで水が入り込んでしまっていた。

「おう清兄か、来てくれたんか。見ての通りの有様よ、家の中に水が入ってしもてどうしようもないんじゃ。ほんとあっという間やったんや」

 そう言う斉木の顔には、疲労と心労が色濃く出ていた。

「消防署へはもう連絡したんか?」

「連絡したんじゃけど、他にも市内で被害が出とるところが何ヶ所もあって、すぐには来れんらしい」

 未だ雨風は衰える様子はなく、辺りを覆いつくしていく。脛の中程の高さの水嵩は時と共に更に増すばかりだった。

 すぐに宗志と一緒に土嚢を積む作業を手伝った。山の斜面から土をスコップですくって土嚢に入れていく。水を含んだ土は重い。この繰り返しの作業が腰に堪える。斉木家の玄関を覆う土嚢の壁が出来つつあった。しかしそれでも完全に防ぎ切ることはできず、土嚢の隙間から水が漏れて浸入してくる。

 突然、尻がぶるぶると震えた。ポケットに入れておいた携帯電話が着信を告げる振動だった。この雨の中ではすぐには出られず、雨を避けるため斉木家の玄関を借りた。家の中にはすでに踝の高さまで水が入り込んでいて、歩くたびに飛沫をあげる。雨合羽の下に着たズボンのポケットから電話を取り出すのに手間取ってしまい、ちょうど電話に出る寸前で切れてしまった。

 掛け直そうとして着信履歴が並んでいることに初めて気がついた。それは全て高梁からのものだった。掛け直すと電話口から、

「清、大変や。飯丘さんところの裏山が崩れかかっとる。すぐこっちに来てくれるか」

 その声色から深刻な様子だと判った。飯丘家の裏山の斜面は険しく、その近くには播生神社という山の神を祭った社があった。こんな状態のままこの場を離れるのは心苦しかったが、宗志と共にその場を後にした。ここにいてもこれ以上出来ることがない。あとは台風が通り過ぎるのを待つしかない。

 飯丘の家に向かう途中、どこかで引っ掛けてしまったのだろうか。着ていた雨合羽の右ひざから大きく裂けていることに気付いた。その隙間から雨が入り込み、長靴の中まで濡らして徐々に体の熱を奪っていく。

 辿り着いた目前には崩れた山肌が見えていた。山の中腹から爪で引っかいたように森が裂けていた。山に降り続ける雨の通り道となり、更に山肌を抉り取っていく。斜面に生えていた何本かの木は根元から崩れ、葉と根が上下に逆さまになっていた。高梁が言うようにいつ崩れてもおかしくはない。その直線上には飯丘家があり、すぐ間際まで迫ろうとしていた。この状況で今更、土砂や水を防ぐための防護壁を作れるわけがない。ましてや安全なところまで家を持ち上げて動かせるわけでもない。自分たちに出来るのは住んでいる人間をそこから避難させることだけだった。

「大丈夫か、飯丘さん。立てるかい」

 まだ家の中にいた飯丘壱吉は放心状態で、声をかけてもまともな返事は返ってこなかった。通帳印鑑などの貴重品を持たせ、自治会館まで宗志に送らせた。

 家主のいなくなった家の中をぐるりと見渡してみる。一昔前の旧型テレビ、傷だらけの使い古されたちゃぶ台、畳の上に他には扇風機が一つあるだけだった。

 数年前に病気で妻を亡くしてからというもの、一人で暮らしていたはずだった。二人いた娘たちは、二人とも四国から嫁に出ていた。一人暮らしにしては食器棚に並ぶ食器の数が多いと気付く。その中には欠けた湯のみやひびの入った皿もある。それらはたとえ古く壊れていても替え難い物なのだろう。しかしこの風雨の中、それらを持ち出してやることは出来なかった。

 自治会館にいた面々で夜を徹して見回りを続けた。出来る事は限られているかもしれないが、地区には他にも気になる箇所が幾つもある。疲れて次第に誰も口を開なくなり、酒を飲む者もいなくなった。相変わらず風は強かったが、朝が近付くにつれ雨は次第に弱まっていった。

 すっかり雨があがった頃には、東の空が明るくなり始めていた。幸い飯丘の家は大事に至らずに済んだ。しかし裏山は今後崩れないように何らかの対処が必要になるだろう。翌朝、深々と頭を下げて去る飯丘を見送り、自分も自治会館を後にした。

 朝の陽射しが眩しい。眩暈を覚えるほど、意識が朦朧としていた。この歳になるとさすがに徹夜は身に沁みる。



 3


 夕方になってから病院を訪れた。

 「河島佐和子」の名札の書かれた病室の扉で立ち止まる。娘が用意してくれた紙袋の中には着替えと果物が入っていた。

 病院に運ばれたあの日以来、妻はそのまますぐに入院することになった。妻の病は子宮頸がんだった。幸い他へ転移してないことが唯一の救いだった。年齢のことを考えると子宮を全て摘出するほうが再発の可能性も少ないと医者から言われた。今なら病室も空いていてこの機会を逃すと次に病室が空くのは1ヶ月先になると言われた。どの道手術しなければいけないのなら早い方がいいと妻から言われた。結果、手術は入院の4日後に行われた。

 病室を覗くと妻は手にした本に目を落としている。こちらにはまだ気づいていない。もっと痩せないといけないとぼやいていた頃のふっくらとした頬は、その面影はなく痩せこけてしまっている。ページをめくる骨と皮だけの指も見ているだけで痛ましい。緩く巻き癖のついた髪にも白いものが目立つようになった。薬の影響だと看護師は言う。

 こちらの視線を察したのか、顔を上げた妻と目が合った。その目には以前の溌剌としていたが生気が感じられない。

「来てくれたん」

 部屋に入ると薬品の匂いが鼻をつく。妻は未だ緑色をした銀杏の葉を栞の代わりに読んでいた本を閉じた。

「調子は?」

「お昼も残さず食べられたから、まあまあというところでしょうかね」

 昔からこういう時の妻の「まあまあ」は普通よりも良ろしくない。

「いつも悪いんやけど、これ返しといて」

 そう言って先ほどの本を差し出してきた。

「まだ読んでる途中じゃなかったんか」

「もうこれで3回目やったけん。もうえんよ。病院って他にすることないけんね」

 妻から受け取った本には怪獣なような絵が描かれていた。これがタイトルにもある怪獣の名前であろうか。代わりに頼まれていた意味不明の数字と英語が合わさったタイトルの本を手渡した。何と読むのかさえ判らなかった。いつのまにか図書館で本を借りるのが日課になっていた。

「昨日の台風ひどかったんやね。うちの家は大丈夫やった?」

 それから台風に関する出来事について妻に話した。家の庭が水没してしまったこと、同じ地区でも被害を受けた家があったこと、昨日は自治会館で一夜を過ごしたこと。それらを妻は一喜一憂して聞いていた。今日の祭も午前中の予定こそ中止になってしまったが、午後からは当初の予定通り運行されている。この後も夕方から稜津地区にあるコンビニ前で夜太鼓が行われる。ここは大型トラックが何台も停められるほど駐車場が広かった。

 妻の手術は成功した。しかし術後の容態がすこぶる悪かった。床に落ちたものを拾おうとしたり、棚の上に手を伸ばしたり、そんなちょっとしたことで出血してしまう。その繰り返しが今日まで続いている。もともと血が止まりにくい体質であったこと、老化のせいで回復力が衰えていること、精神的なストレスから来るもの、マイナス要素の原因は色々あった。先月には退院できるはずの予定は更に延びて目処が立っていない。

「明日は本はええけん、私のことなんか気にせずにお祭り行ってこんかいよ。お父さんから太鼓祭取ったら何にも残らんのんやから。こんなときやっていうのに迷惑かけてしもてごめんね」

 そんなこと言うな、と口に出そうとして止めた。既にその言葉は何度言った事だろう。

「それから、秀磨のこと、あんまり厳しいに言わんといて下さいね」

 その言葉ももう何度も聞いた。

 大阪から息子が帰ってきたことは、きっと娘が伝えたのだろう。会社のことも家のことも何も心配要らない。おまえが気にすることなんて何もない。自分のことだけ心配してればいい。そう何度も妻には言ったのに、その性格は一向に直りそうもなかった。


 この地域のことを語るのに、別子銅山の存在は欠かせない。かつて何もない農村地だったこの地は、銅脈が発見されたことをきっかけに変貌していくことになる。固い岩盤を掘削するためには道具や機械が要り、掘り出した鉱石から銅を精錬するためには高炉や薬品が要る。何よりそこで働くための人手が必要だった。その結果、工業都市として飛躍的な発展を遂げた。それらは約280年間続き閉山したが、その後も多くの企業が存続し、それらはこの地を支えるものづくりの礎となっている。

 自らが経営する河島鉄工場は、父親が創業して以来、鉄やステンレスなどの部品加工をしていた。今でこそ何tもある大型製缶品も出掛けるようになったが、昔はネジやボルトなどの小物を作っていた時代もあった。

 地元にある工業高校を卒業してからずっと親父の仕事を手伝っていた。ある日、親父は風邪をこじらせて体調を崩し、そのまま一月も経たないうちに帰らぬ人となった。本当に突然の出来事だった。当時は従業員も少なく、親父の一人夜遅くまで働いていた姿が記憶に残っている。だいぶ無理をしていたのかもしれない。

 自分はまだ33歳だった。それはちょうど息子が生まれた年でもあり、先に生まれた姉もまだ4歳でまだ手の掛かる時期であった。自分もいずれは社長になると自覚はしていたが、予想していたよりもその日が来るのが早く訪れることになった。

 当時は従業員が5人いて、皆、親父を慕ってここまで付いてきた職人たちだった。今思えば親父が急に亡くなり従業員も先行きに不安を感じていたと思う。自分も経験を積み、仕事をこなすだけであれば、ある程度のことはできる自信はあった。

 しかし会社経営となると話は違った。足りないものばかりだと日々痛感した。資金の回し方、客先への営業、同業社との付き合い、銀行との接し方など、まだ一つだけなら何とかなるが、それらが複雑に絡み合い、より容易くはいかない。どうしても上手くいかず歯痒い思いをすることも度々あった。

 当時、毎夜遅くまで仕事をしていたことを覚えている。記憶にある親父の背中、親父の呼吸、親父の指使いを真似してみた。「こつこつとしっかりやれ」と何度も言われたことを思い出す。しかし幾ら仕事をこなしても不安は解消されることはなかった。その不安を誤魔化すために多少無理してでも仕事を受けた。睡眠時間は次第に削られていき、いつしか1日2日くらいなら徹夜しても丈夫な体になったのもこの頃だった。

 ところが社長に就任してもうすぐ一年になろうとしていた時、大口の取引先が倒産した。それは自分が社長になってから営業して新しく取引を始めた会社だった。納期には厳しかったが仕事量が確保できるので優先的に仕事を受けるようになっていた。これまでに納品した代金は先月末に支払われる予定になっていたのに口座には入金がない。すぐに取引先へと向かったが、既に遅かった。大型トラックが出入りして金目の物は次々に運び出されていた。会社には数人の事務員が残るばかりで、自分の担当だった責任者だった部長は行方知れずになっていた。

 河島鉄工場にはその会社から受注した在庫が未だ大量に残っていた。従業員らとともに汗水垂らして機械を動かして製作したものだったが、もはやそれらは製品ではなく単なる鉄の塊に過ぎなかった。悔しさの余り、在庫が山積みにされた段ボールを蹴つり飛ばさずにいられなかった。

 当てにしていた金が入って来ないということが何を意味するのか、その身を持って知る羽目になった。借金して購入したばかりの工作機械の支払いも今月末から始まる。それに加え仕入先への支払い、従業員への給与も合わせて、たちまち月末までに後三百万円ほど足りなかった。支払いができなければ会社は潰れてしまう。取引先の銀行も何度も頭を下げて頼んでみたが、すでに住む家も工場の土地も担保になっていてこれ以上の追加融資は望めなかった。懇意の得意先に頼み込んで何とか支払いを待ってもらうのが精一杯だった。このまま今月を仮に乗り越えられたとしてもわずかに寿命が延びただけで来月には次の支払い期限が来てしまう。

 深夜も工場に一人残り黙々と仕事を続けた。何かの足しにはなるだろうがまるで足りない。しかし今の自分にはそれぐらいしか出来ることが残されてなかった。夜は不安から眠れない日々が続いていた。目前の作業に集中できていなかった。

 突如、指に激痛が走った。不注意で指を機械に巻き込まれてしまった。すぐに水洗いして布を巻いて止血した。真っ白な布にはみるみるうちに血で赤く染まっていく。後から後から血が溢れてくる。血が止まらない。家に駆け込み妻の運転で深夜の病院へ駆け込んだ。幸い骨にも神経にも異常はなく、人差し指の爪を半分失う程度で済んだ。指を失ってもおかしくない事故だった。指を失わずに済んだ実感としてじんじんと痛む。

 その翌日、夜一人で作業をしていると工場に妻がやってきた。痛み止めの薬で痛みが和らぐとじっとしていられず工場で作業している時だった。普段立ち入りを禁じている工場に妻が来るのは珍しかった。昨日は病院で散々泣かれていたので、咄嗟に包帯の巻かれた手を背中に隠した。

「遅くまで御疲れ様。ここらで一息入れて、ご飯でもどうですか?」

 化粧っ気がない妻の背には息子が寝ていた。ようやく寝返りを始めたと聞いてはいるが、実際には見たことは一度もなかった。子育てに何一つ協力してやれていない。

「ありがとうな。まだ途中やから、切りがええとこまで片付けてからにしよわい」

と言った目の先には、その途中の仕事が翌朝でも追いつかないほど材料が積まれている。

「これ使って」

 妻から手渡されたのは通帳だった。それに記載された金額を見て驚く。会社が数月持ち堪えるのに十分に足りる金額だった。我が家にそんな余裕などないはずだった。

「それは独身の時の私のへそくり。子供が大きくなったら海外旅行にでも行こうと思って貯めてたんよ」

「ばか。そんな金受け取れるか」

 綺麗ごとかもしれないが、これは自らで招いた事だ。その責任は取らなくてはならない。

「お父さんこそ、ばかなことを言わんといて。私たちは家族なんやけん。家族が困っているのに助け合うのは当たり前のことでしょ。こんなときに使わんと、いつ使うんよ。それにまた昨日みたいに怪我でもされたら、その方がもっと迷惑やけん」

 それはこれまで一度も見たことのない顔だった。妻とも母親とも違う別の顔をしていた。何も言い返せなかった。

「はいはい。この話はこれでお仕舞い」

 妻はさっさと工場から出て行ってしまった。工場に取り残されて、それは社長業を継いでから一人で奔走し続けていた足が止まった瞬間だった。

 翌日から過去の帳簿を全部引っ繰り返して疎遠になっていた以前の取引先を回り始めた。これらは親父の残してくれたものだった。どんな小さな仕事でもいいから下さいと頭を下げ続けた。従業員たちも心配して自分たちにできることは何でも協力すると給料の減額を自ら申し出てくれた。それから妻にも事務仕事の手伝いをしてもらうことにした。徐々に受注が増え始め、何とか河島鉄工場は危機を脱することができた。

 その後、バブル経済の景気も手伝って一時は従業員が10名を越えた時期もある。それでもどんなに他の同業者が儲けていても身の丈以上の仕事は請けなかった。父の残してくれた言葉通り、「こつこつとしっかりやる」が我が社の社訓になっている。今も会社があるのはそのおかげだと思っている。


 病院から出て、空を見上げるとすでに辺りは暗くなり星が出ていた。

 もう夏が過ぎ近頃は陽が落ちるのが随分と早くなっていた。遠くから太鼓の音が聞こえる。歩道を行き交う人の足はその音のする方へ向かっていた。少し遠回りしても違う道を通った方が良さそうだ。自宅とは逆方向へ車のハンドルを切る。下校する中学生が自転車を漕ぎ、中年女性が犬の散歩をさせている。馴染みの居酒屋には提灯が灯っていた。台風は去り、町は日常を取り戻しつつあった。

 生まれて60年、この地と共に生きてきた。それは自分の力だけでやってこれたとは思っていない。従業員がいて、仲間がいて、家族がいて、そして妻がいて、今日まで自分を支えてくれた。引退の歳が近づき、ようやく妻にも少しは孝行してやれると思っていた矢先にこの有様だった。心配と苦労ばかりをかけ、まだ海外旅行どころか、ろくに旅行さえも連れて行ってやれていない。代われるものであれば自分が代わってやりたいと思うのに、自分には毎日の退屈をほんの僅かに埋めてやるくらいことしかできることがない。病室で衰えていく妻を見るたび、心底辛い。



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