第2話 元気でね

 1


 自分のスニーカーがずぶ濡れになっていた。

 昨日は母さんと二人で台風に備えていたのに、外に干していたのをしまい忘れていた。まあ、溶けてなくなるわけではないから別にいいんだけど。それでも自分のスニーカーのそんな無残な姿と自分のうっかり加減に、ちょっと悲しくなる。風に飛ばされてどこかに流されていかなかっただけでもラッキーだと思うことにしよう。

 スニーカーをつまみ上げ、陽のあたる柵の上に逆さ吊りにして干した。かかとのところには「久谷志羽(くたにしう)」と下手くそな文字が並んでいる。自分で書いたものだから誰にも文句は言えない。

 地元を直撃した台風はニュースによると瀬戸内海を東へと進み、近畿地方を北上して熱帯低気圧へと変わり日本海へと抜けようとしていた。見事に日本縦断をして行った。

 だいぶ水が引いたとはいえ、庭は大きな池になっていた。花や野菜を植えていた花壇は今となっては影も形もない。庭の隅にあった犬小屋も下半分が水没していた。昨日のうちにこの犬小屋の主を家の中に避難させておいてほんとに良かったと思う。

 庭の草花を大切に育てていた本人がタオルを頭と首に巻き、ホウキでせっせと水を掃き出している。

「志羽、あんたもこっち来て手伝って!」

 母さんの口調はいつもに増して強い。これは大変機嫌が悪そうだ。これまでの経験から、こういうときは逆らわないほうがいい。長靴を履きホウキを手に家の表へ出た。家の前の道は川になっていた。その中を、ジャブジャブと水を分けて進む。

 母さんの父さん、つまりはぼくのじいちゃんが経営する「河島鉄工場」の看板は大きく歪んでいた。これは台風の前から元々歪んでいたけど、台風のせいでさらに歪んでしまっていた。きっとじいちゃんなら全く気にしないか、このくらいなら自分で直してしまうだろう。

 真っ先に吹き飛んでしまいそうな古い工場は見たところほぼ無傷だった。あちこち穴が開いてある。前に勝手に中に入ったことがばれて、じいちゃんからこっぴどく叱られたことがある。それ以来、工場へは足を踏み入れてはいない。

 同じ市内でもたくさんの被害があったと聞いていた。とくに山側の近くでは土砂崩れに巻き込まれて潰れた家もあったらしい。我が家でも玄関近くまで水位があがってきてあと少しでやばいところだった。これくらいの被害で済んだのなら、まだマシな方だと思うのは悪いことだろうか。

 庭で母さんの手伝いをしていると、家の方からトントンと誰かが階段を上っていく音がした。それは母さんの弟、つまりはぼくのおじさんだろう。12年前に会ったことがあると言われても、当時2歳のぼくが覚えているはずもない。

 おじさんは一月ほど前に大阪から何の前ぶれもなくやってきた。自分の家に帰ってくるのは別にかまわない。でも二、三日のことかと思っていたら、そのまま二階に住み着いてしまった。

 帰ってきた頃には、病人かと思うほど顔色は悪くやつれていたし、ひげも剃らず髪は伸び放題だったし、バイトを始めると言って散髪に行ったのも最近のことだったし。そのことに関して、じいちゃんも母さんも何も言わない。

 それにしても台風が来てあと少しで浸水するかもしれないという家の一大事にもバイトに出かけて行き、帰ってきても何も言わず何もせず自分の部屋に引きこもる。いったいどういう神経しているんだか。ぼくは絶対にあんな大人にだけはなりたくない。

「何をのんびりしてんの。朝ご飯用意しとるけん。さっさと食べて学校に行く準備しなさい」

 母さんからまた叱られた。手伝いしろと言ったり、今度は学校に行けと言ったり、全く自分勝手な人だ。

 はたしてこんな日に学校があるのだろうか。家の前は未だに川のようになっていた。

 予定以外の日に学校が休みになるのは、おこづかい日でもないのに急におこづかいをもらえるくらいうれしい。一日の休みを何して過ごそうかとウキウキと考えていたところで、家の電話が鳴った。それはクラスメイトから学校があるという悲しい知らせだった。


 ぼくの通う河東中学校、通称「河中」は小高い丘の上に校舎自体がまるで砦みたいにそびえ立っている。校舎から街が一望できる。沿岸部の工場地帯に並ぶ煙突。その先にほんの少しだけ瀬戸内海が見えた。

 丘に沿って伸びる学校へと続く坂道は毎朝、ぼくらの行く手を阻む。このきつい坂道のおかげで自転車も徒歩の通学者も進むのが遅くなる。坂道には長く伸びる生徒の列が続いていた。でも、ここに通う全校生徒の足腰を知らず知らずのうちに強くするはずだった。

 まだ風が強かったが、いつのまにか空を覆っていた厚い雨雲は消え去り青空が見え始めていた。前を行く女子生徒が、スカートが風で広がらないように手で押さえながら歩いている。

「痛っ!?」

 突然、ドンと頭に重い一撃を受けた。その勢いで前のめりに転びそうになるが、何とか足を踏ん張って耐える。前を見るとそのまま犯人は校舎の方へと一目散に走って去っていった。不意打ちのラリアットも、ぼくらにとってはあいさつ代わりだった。

 ぼくはそいつの後をすぐに追いかけた。他の生徒たちの視線も気にせず坂道を全速力で駆け上がっていく。

「まだケツ痛いわ。志羽、ちょっとは手加減せえよ」

 目の前にいる犯人は自分の尻をさすっていた。さっきのラリアットのお礼にケツキックを返してやった。

 犯人の名前は中垣望光(なかがきのぞみ)。昔から家が近所で親同士も仲が良かったこともあって、まだ母親のお腹にいる、生まれる前からの付き合いだった。同じ幼稚園、小学校、中学校と進み、昔からよく一緒に遊んでいた。その間一度も同じクラスになったことがなかったのに、それが今の中学2年になって、初めて同じクラスになった。

 小学校まで同じ背の高さだった望光の身長は中学に入るとすくすくと伸び、ぼくを含めてクラスメイトを大きく引き離した。いつのまにかクラスの誰よりも背が高くなっていた。おまけにジャニーズの誰々に似ていると女子の間で噂しているのを知っている。コンビニで雑誌をちら見してみたけど、望光に似ているとは思わなかった。

「今日、やたら休み多くねえか?やっぱ台風の被害がだいぶ出とんのかな」

 望光が言う通り、もうすぐチャイムが鳴るというのにあちこち席がまだ空いていた。

「うちの近所の佐方さんって覚えとるか?」

 ぼくは佐方さんを知っている。いつも薄くなった前髪を妙に気にしている人で、定年した後、地区の公民館で働いている。

「昨日、台風で家が雨漏りしてたんだって。佐方さんが屋根に上って応急処置したまでは良かったんやけんど、はしごが風で倒れてしもて屋根から降りれんなってしもて、近所の人に助けられるまで6時間も、屋根の上におったんだって」

 気の毒な佐方さん。そんなときでも前髪をきっと気にしていたのだろう。そんな被害者が他にもたくさんいるのだろう。

 結局、チャイムが鳴っても教室の席は全部埋まらなかった。

「おまえら、チャイム鳴ってんぞ。席につけ」

 出席簿で黒板をバンバンと叩きながら担任の上山京子が入ってきた。あだ名は「カミキョ」。黙っていれば見た目は女性なのに、口を開けば男よりも男らしい。年齢はまだ20代のはずだった。ゲンコツ、ビンタは当たり前。他のクラスの同級生からもカミキョが担任だと知るとずいぶん同情された。この2年生になって何度しばかれたことか。

 体罰だと言って、親が学校に乗り込んできたのは1度や2度のことではない。それでもカミキョは自らのスタイルを崩さなかった。校長や教頭でさえもビビって何も言えないという噂もあった。影の校長とも言われ、河中で最悪最凶の教師。

 カミキョから、昨日の台風の説明があった。名前までは出さなかったが、生徒の中にも被害が出た家もあったらしい。学校でも、池の水が溢れて鯉が逃げ出してしまったり、部室の倉庫が浸水して野球部やサッカー部の道具が濡れてしまったり、体育館の窓ガラスが割れてしまったり、被害が出ていた。次から次へとカミキョは淡々と告げていく。

「報告はここまで。それからおまえら、わかっているだろうな」

 急にカミキョの口調が変わった、というよりはいつもの調子に戻った。

「今日から秋祭が始まるが、改めて言っておく。おまえら、祭だからって浮かれ過ぎんなよ。この中学校では太鼓をかつぐことを禁止している。つまり触るなってことだ。これは学校が決めたルールだからな。このルールを破ったら1週間グランドで草ひきだ」

 鋭く低い声で言い放たれた言葉に全員が息を呑んだ。

「私のクラスでそれだけで済まされると思うな、覚悟しとけ」

 今にも飛びかかってきそうなカミキョの気迫というより殺気に教室は更にしんと静まり返る。

「返事は?」

 クラスメイトから一斉に「はい」の返事が教室に響いた。そう返事するぼくの声は裏返っていなかっただろうか。これでなぜか一部に熱狂的な生徒から支持があるのは不思議で仕方がない。まあ、たしかに大人しくしていれば、美人だとは思うけど・・・。

 その日、遠くから聞こえる祭りの太鼓の音が気になって、授業に集中できなかったのはぼく一人だけではなかったはずだ。普段より時間が経つのがやたら遅く感じる。授業の終了を知らせるチャイムが鳴るのが待ち遠しかった。

 ようやく授業が終わり、今は掃除の時間になっていた。

「つまり、見つからねえようにうまくやれってことやな」

 浮かれ過ぎている一人の、望光が都合のいいことを言った。

「ネットの掲示板はずいぶん盛り上がっとるみたいやけん。河西の方じゃ、三之原と湊がケンカするって話になっとる。二台ともケンカして去年は出てないけん、一昨年のリベンジマッチやな」

 望光はぶんぶんとホウキをバットのように振り回しながら言った。

「ほら、中垣。サボってないでちゃんと掃除しなさい。久谷もそうよ」

 その様子を見ていた学級委員の広瀬恋から注意された。そんなことを言われても教室の掃除をしている誰もが祭りのことで心はここにあらずだった。

 ぼくらのクラスは学級委員を学期ごとに投票で決めることになっていた。男子は票が割れるのに対して、女子は広瀬が圧倒的な票数を集め、一二学期連続で当選を決めていた。人一倍責任感を持ち行動力もある。まさに学級員になるために生まれてきたような女子だった。

「中垣。おまえら、峰泉やろ」

 同じクラスメイトの皇野地区に住む、実須原駿平が割り込んできた。実須原はサッカー部でレギュラーに選ばれている唯一の2年生だった。プロのスカウトが見に来ているという噂まであった。実須原も望光には負けるが背が高い。ぼくからは二人とも見上げる格好になる。

「峰泉やか相手にもならんわ。またやったるけんの」

「何言よんでや。前のときもやられてへんし。今年もやられへんわ」

 望光も負けずに言い返す。互いに一歩を退かなかった。

 無視され続け黙っていた広瀬の怒りはついに頂点に達した。メガネの奥にある瞳が真っ赤に吠えた。次から次へと広瀬の口から繰り出される言葉は決してきれいなものではなかったが、ぼくらを黙って掃除させるには十分な効果があった。両方の肩へと伸びた三つ編みがぜいぜいと息をするたび揺れていた。

 それからも広瀬に見つからないように望光は太鼓の話を続けた。ほんと、こりないやつだ。いつものぼくならそんな話に喜んで加わるのだろうが、そんな気持ちにはなれなかった。熱く語れば語るほど、望光の話は透明な体をすり抜けるようにただ通り過ぎていった。

 その理由は、ぼくの斜め前の席が空いていることにある。



 2


 日浦海空(ひうらみそら)がこの学校を去っていったのは、まだ暑さの残るお盆を過ぎたばかりの頃だった。

 学校もまだ夏休み真っ最中でぼくがそのことを知ったのは、引っ越しの一週間前だった。しかも聞いたのは海空、本人からではなく人伝にだ。

 ぼくは息を切らしたまま、水泳部の部室に駆け込んだ。

「ごめんごめん。あれ?私、しいちゃんに言うてなかったっけ?」

 わざとらしい。黙って行くつもりだったのか。

 海空は机の上に立って先ほどから部室の窓ふきを続けている。それでも背がまだ届かずに背伸びをしていた。上下するたびに目の前でスカートの裾がひらひらと揺れた。

「親が離婚するんよ。せめて私が中学校を卒業するまでなんて最初は言よったんやけど、お互い我慢の限界みたい。まあ、大人の事情ってやつ。こればっかりはしゃーないわ。まー、隣の高知県やけん、近いもんでしょ」

 中学生にとって隣の市に行くのも遠いのに高知県が近いわけがない。それに四国で一番広い高知県はここから南東にある尖った室戸岬に行くのと、西南端にある足摺岬に行くのではまったくの逆方向だった。海空は足元に置かれたバケツで雑巾を絞る。ぽたぽたと落ちる雫のしぶきがはねて机の上に散った。ぼくが部室に入ってから海空はこちらを一度も見ていない。

「じゃあ、今度の大会はどうすんだよ」

 全員を入れても10人足らずの弱小水泳部に、海空もぼくも、ついでに言えば望光も所属していた。冬には片道1時間以上かかる市営の温水プールに通い、まだ水が冷たい頃からプールに入り練習を重ねた。来月9月にはその集大成とも言える市内の中学生が集まる大会を控えていた。この大会で上位に入れば県大会、その先には全国大会への道も開けてくる。可能性は低いが、ゼロではない。

「そんなの、パス、パス。転校先の学校でいきなり大会に出してくださいって言えるほど、私は神経太くないけん。しいちゃんだって知っとるでしょ」

 その言葉もこちらを振り向くことなく海空は言った。ぼくは、思い切り戸を閉めて部室から出た。こんな間際になるまで引越しの言わなかったこと。そんな簡単に大会を諦めてしまうこと。高知に引っ越すことをまるでその辺に買い物に行くみたいに言うこと。昔からぼくのことを「しいちゃん」と呼ぶこと。何もかもに腹が立つ。

 今でこそ、ぼくはじいちゃんたちと一緒に暮らしているが、それまでは母さんと二人でアパートに住んでいた。そこは望光の家が、歩いて1分、走れば20秒の所にあって、その斜め向かいに海空の家もあった。そんなご近所同士ということもあって3人でよく遊んでいた。親同士も仲が良かった。望光のオムツを変えてあげたとか、海空にミルクを飲ませたとか、母さんからそんな話を山ほど聞かされていた。

 昔、小学校の帰り道でぼくらは子犬を拾ったことがあった。たしか小学四年生になったばかりの頃、それを言い出したのは海空だった。

「飼おう。だってかわいそうやんか。こんなん泣いてるし。うちらで助けてあげないかん」

 「そうだそうだ」と望光も海空に調子を合わせた。でも、当時のぼくの家はペット禁止の超がつくほどのオンボロのアパートだったし、望光の家にはまだ幼い弟がいたし、海空の家にはすでに3匹の猫が飼われていた。

 ぼくらは近所にある「播生神社」という、忘れ去れたかのようにひと気のない小さな神社に子犬を連れてやって来た。山の傾斜に沿って伸びた長い階段を登ると境内があり、その裏には広大な森が広がっていた。なわとびの縄の片方を子犬の首に結び、もう片方を手ごろな大きさの木に結ぶ。つまりここでこっそり飼うことにしたのだ。

 それからおこづかいを出し合って神社の階段を降りた少し先にある「ウサギ屋」という、さびれた駄菓子屋でお菓子を買い与えた。そんなものを犬が食べるのだろうかと心配したのがバカらしくなるくらい、ベビースターでも、うまい棒でも、子犬は遠慮なく、あっという間にばくばくと平らげてしまった。よっぽどお腹が空いていたのだろう。

「ねぇ、この子の名前何にしよっか?」

 それを最初に言い出したのも海空だった。頭をなでられている子犬もうれしそうにしっぽを振っていた。子犬の毛は耳の先から、しっぽ、足に至るまで全身が白い。全体的に毛は短くて硬い。さわるとチクチクした。それにどうやらアレが付いてないのでメスのようだ。

 3人からいろんな案を出し合った。それは近所の犬の名前と同じだとか、この子犬のイメージに合わないとか。ぼくの考えたいくつかの名前も、かわいくないとかダサいとか何とか言われあっさりと却下された。なかなか決まらず、ぼくらは行き詰っていた。そのとき、海空が閃いた。

「『ポチ』が女の子だったら『ポチコ』。それやったら何か変やけど、『リ』をつけて『ポチリ』だったらかわいいんやないん」

 本人が言うには最後につけられた「リ」の文字は好きな芸能人から取ったらしい。

「みっちゃんがそういうならいいんじゃない。丸くてぽっちゃりしているし、ちょうどええや」

 望光はすでに名前を考えるのに飽きてきているのだろう。ブンブンと拾った木の枝を振り回してクモの巣をつついていた。

「さすがのんちゃん、話がわかる。『ポチリ』でええよね。しいちゃんもええやろ?」

 こんなことを言うときの海空にぼくが逆らえるはずなかった。当時から、海空は「みっちゃん」、望光は「のんちゃん」、ぼくは「しいちゃん」と呼び合っていた。

 それからぼくらは学校に行く前、学校から帰った後、ご飯の残りやお菓子を家からこっそり持ち出しポチリに会いに行った。ポチリもぼくたちが来るとしっぽを振って喜び、首にかけられたなわとびを放してやると辺りをさらにうれしそうに駆け回った。反対にぼくらが帰ってしまうときには悲しそうに鳴きまくる。

 望光と近くのスーパーで段ボールをもらってきてポチリの犬小屋を作ってやった。入り口のところに「ポチリ」と名前をマジックで書いたのは海空だった。このときのぼくらはこんな日がずっと続いていくとそう思っていた。

 いつものように学校前に神社に寄ってみるとそこにポチリの姿はなかった。段ボールの犬小屋の前になわとびの縄だけがぽつんと取り残されていた。もしかすると誰かに拾われていったのかもしれない。それならまだいいが、自分から逃げ出して車にひかれたり、もしも保険所の人に連れていかれたりにでもしていたら… 。

 ぼくらは学校が終わると、家にも帰らず播生神社に集まってポチリを探した。神社の周りを中心に細い路地裏まで家の庭先、ポチリを拾った空き地、段ボールをもらったスーパー、ウサギ屋の方まで行ってみた。しかしポチリの姿はどこにもなかった。

 もうずいぶん陽は傾き始め、辺りは夕焼けのオレンジ色に包まれていた。夕方6時までに家に帰るのがぼくらのルールだった。もう少しでその6時になってしまう。

「ポチリ、どこに行ったんやろんね。これだけ探していないんだったらこの辺りにはもういないんじゃないかな。そんな遠くには行ってるはずはないと思うんだけど…」

 そこでぼくは気づく。隣に立つ海空の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。声を出すの我慢して必死に涙をこらえようとしていた。すべり台から落ちて縫うほどひざから血が出たときも、保育園のお化け屋敷でやり過ぎの父兄に驚かされたときでさえ、海空は泣かなかったのに。そんな見たことがない海空の涙に心が締めつけられた。

「もっと探す範囲を広げてみようや。暗くなってしもたら探すのも今より難しなる。のんちゃん、手分けしよ」

 ポチリが戻ってくるといけないからと、海空には神社に残って待ってもらうことにした。

 ぼくは望光と別れ、一人で普段なら来ることのない海沿いの防波堤まで来ていた。この少し先は別の小学校の校区になる。防波堤の向こうには瀬戸内の海が広がっていた。ぼくが生まれるずっと前に中止された工事の跡が今も残っている。

 海空に何か言ってあげた方が良かったのだろうか。海空を一人にしたのは間違いだったろうか。防波堤から身を乗り出し、ぼくは海をのぞき込んでぞっとした。黒い海の水が塊となり生き物のようにゆらりゆらりと不気味にうごめいている。昼間に見る海とはまるで違う別の姿がそこにはあった。飲み込まれたら二度と上がって来れない、そんな気がした。

 再び神社に戻ってきたときには、もうすっかり陽が落ちて真っ暗になっていた。もう誰も何も言わなかった。ぼくは何もできない自分が悔しくて涙が出た。望光も泣いていた。海空だけがもう泣いていなかった。

 このとき、ちょっとした騒ぎになっていたことをぼくたちは知らなかった。6時になっても戻らない子供たちを大人たちが探していた。家に戻ると、ぼくの住むアパートの前には望光の両親、海空の母親の姿もあった。あと少し遅ければ警察に届け出ようかという話にまでなっていたらしい。

 望光は父親の胸に飛び込んでいき、海空も母親に抱き締められている。それなのに、ぼくの母さんが胸に抱いていたのはなぜか、ポチリだった。

「なんで?母さん、その犬どしたん?」

「えっ、何かわからんけんど、仕事から帰ったら家の前におったんよ。お腹空かせてるみたいやからパンやったらすっかりなついちまって」

 そう言って母さんはポチリに頬を寄せた。

 考えてみれば、偶然ぼくの家までたどり着いたというよりは、ぼくの匂いをたどってやってきたという方が正しいのだろう。三人の中で、ぼくの家が一番食べ物を調達し易かった。兄弟も父親もいない。ポチリはこう思ったのだろう。あいつの家に行けば食べ物がたくさんありつける、と。

 それから3人一緒に、大人たちにこっぴどく叱られた。ポチリが見つかったことがうれしくて、叱られていても少しも叱られている気がしなかったのは悪いことだろうか。叱られながらそういえば昨日最後になわとびをつないでいた望光があんまりきつく首を締めるのはかわいそうだと言っていたことを思い出した。

 もうこんな騒ぎは二度とごめんだと、犬を飼えないアパートからじいちゃんの家に引越しまでしてポチリを飼うことになった。引っ越し先といっても、じいちゃんの家は同じ地区にある。以前からばあちゃんからは一緒に暮らさないかと誘われていたようで、いいきっかけになったと母さんはあっけらかんと言った。それからポチリはじいちゃんの家で一緒に暮らしている。

 その後も家の距離は前よりも少し遠くなってしまったが、海空、望光、ぼくの三人の関係は続いていた。近所にある二濱川にかかる橋をカラフルな色に塗り替えようとして近所の人に見つかって叱られたときも、上級生にからまれて集めていたカードを取られそうになって立ち向かったときも、毎日のポチリの散歩のときも、ぼくらはいつも三人一緒だった。

 


 3


 海空の引越しの日。旅立ちを祝うような晴天に、空を恨んだ。

「悪いねぇ。二人とも」

 引越しの手伝いに望光とぼくは、朝から海空の家に押しかけていた。久しぶりに訪れた海空の家のベーシュ色のレンガ造りの壁にもこの檜の木のベンチにも見覚えがある。小学生までしょっちゅう遊びに来ていたこの家も中学生になると、回数が減るどころかゼロになってしまっていた。お互いに行動範囲が広がったり交友関係が変わったりして三人で揃うことは部活以外ではなくなっていた。

 海空の母親は、台所で荷物を整理していてぼくたちに気づくと深々と頭を下げた。しばらく見ないうちにずいぶん年をとった気がした。その顔には明らかに疲れの色が浮かんでいた。すでに多くの荷物が片付けられ箱詰めにされ、ゲームのテトリスみたいに高く積み上げられていく。

「海空の友達か。こっち来てちっくと運ぶの手伝ってくれんかの」

 顔をのぞかせたのは高知から手伝いに来ていた海空の祖父だった。今でも現役の大工だという祖父は肌の色が黒く焼け、むき出しの太くたくましい腕はタンスや机などの重い荷物も軽々とトラックに次々と荷物を積み込んでいた。それでも大きな荷物は一人では持ちにくい。

「おれ、やります」

 望光が自ら進んでそれを手伝った。海空たちはこの祖父と一緒に暮らす。

 ぼくは海空と母親と一緒に段ボールに荷物を詰めるのを手伝った。割れないようにコップを新聞紙で丁寧に全体を包んでいく。お皿やコップを段ボールに積めるたび、タンスを外に運び出すたび、海空との別れが近づいてしまう。それなのにぼくらは黙々と作業を続けた。昼過ぎにはトラックに全ての荷物が運び込まれた。家の中にはテレビや冷蔵庫など、まだ荷物が残っていたが、残りは父親の物だと言う。その父親の姿はどこにもなかった。

 作業が終わると手伝いのお礼に、市内にある回転寿司に食べに行こうかという話になった。礼なんていいと断ったのに、「何をこんまいこといよるがかや」と海空の祖父が、強引にぼくらを車に乗せた。前方の助手席には海空と母親が座り、まだ空いている後方の荷台のスペースに大量の荷物に並んでほくと望光が乗り込んだ。これはきっと交通違反なんだろうと思いながら、風が心地良かった。

 ぼくは開いた口がふさがらなかった。それは望光の食いっぷりは凄まじく、ぼくの目の前で、遠慮もなく、容赦もなく、ものすごいスピードで皿を積み重ねていった。それはやけ食いってやつじゃないのか。「そろそろ止めとけ」とひじで突ついてやったが、望光は止めなかった。その姿を見て海空の祖父は、「若いんだ、食え食え」と豪快に笑った。結局、望光一人で、他の3人分と同じくらい皿を積み上げていた。

 回転寿司の帰りは三人だけで海空の家まで歩いて帰ることにした。それを言い出したのは海空だった。海空の母親と祖父は「ゆっくりしておいで」と言い残し、一足先に家に帰ってしまった。

 しかしこの日の気温は暑過ぎて、すぐにぼくらは後悔することになる。海空、望光、ぼくの順に並んで歩く。髪の短い望光の頭越しに海空の長い髪が見える。踏みつけるアスファルトは照り付ける太陽の熱を十二分に吸い込み、陽炎が揺れていた。

「覚えとるか。小学校のとき、こうやって市民プールまで行ったことがあったよな」

 あの頃、子供だけで行っていいのは校区内までだった。市民プールは校区外で子どもだけで行ってはいけないルールになっていた。それなのにルールを破って三人で出かけた。

「帰りにのんちゃんの自転車がパンクして、みんなで押して帰ることになったんよね。せっかくプールで涼しくなったところやったのに、また汗だらだらかいてね」

「ちょっと待て。それっておれのせいなん?」

「そりゃそうでしょ。そういうことになるんは、のんちゃんの日頃の行いが悪いけんよ」

「暑いけんって、川に飛び込んだのは海空やったやろ」

 すぐそばには二濱川が流れる。今の時期、田んぼに入れるための水が溢れていた。

「それ、私?しいちゃんやなかった」

「いやいや、ぼくじゃない。それは確かに海空やったって」

 それから、休日の小学校の体育館に忍び込んでローラースケートをしたこと。線路道で貨物列車に追いかけられたこと。山でクリ拾いして焼却炉で焼いて食べたこと。近所で起きた火事を最初に知らせて表彰されたこと。思い出は後から後から沸いて尽きることがなかった。

 でも本当はこんな昔話をしている場合じゃない。海空にもっと言わなければいけないこと、聞かなければいけないことがたくさんあるはずなのに、それらは一つとして言葉にはならなかった。

「ねぇ、ウサギ屋に寄ってみない?」

 ウサギ屋は小学生のときとほとんど変わりがなかった。見た目はつぶれそうなくらい古い店舗付き住宅、いやこれは住宅付の店舗なのか。自転車が道路にはみ出すほど、店内はたくさんの小学生で溢れていた。小学生の頃はお店といえばこのウサギ屋と言ってもいいくらいだった。それが中学生になると行動範囲が広がり、コンビニ、ゲームセンター、他にいくらでも遊ぶ場所やお菓子を買える場所がある。それとともにウサギ屋から足が遠退いていった。

 子供にも買いやすい値段のお菓子やおもちゃなどの商品が所狭しと並んでいる。その中にはどうやって遊ぶのかもわからない古いおもちゃや、見たこともないアニメのキャラクターが並んでいる。何と言ってもこの店で一番古い店主のおばあちゃんは当時の姿を留めていた。店の冷蔵庫から海空はビンのオレンジジュースを、望光はコーラを、ぼくはラムネを取り出した。どれもその場で飲んでビンを返せば10円が戻ってくる。これも当時のままだった。

 ぼくたちは店の外に置かれたベンチに並んで座った。自転車の小学生たちが目の前を通り過ぎていく。その中にその小さな体に合わない大きな自転車を乗る女の子が「待ってよ」と先の行く友達の後を追いかけて行った。

 ビンの中のラムネが半分になりかけた頃、ふいに海空が口を開いた。

「二人とも、元気でね」

 それはまるで遠い異国の言葉のように聞こえた。その言葉の意味をぼくはうまく飲み込めなかった。そのとき、海空の瞳から頬を伝って一筋の涙が零れ落ち、夕映えの中に溶けた。

 海空の涙を見るのはこれで二度目だった。望光もそれに気づき、うつむき黙ったままだった。沈みかけたオレンジ色の空が辺りを飲み込むようにぼくらも染めていく。あのときと同じ。海空の横顔から目を逸らすことができなかった。思わず見惚れてしまったこの光景をこのままラムネのビンに閉じ込めてしまいたかった。

 ぼくらに残された時間はもうなかった。祖父のトラックに海空は乗り込んだ海空は笑顔でぼくらに手を振っていた。ぼくと望光は見えなくまでそれを見送った。

「ほんとに行っちまったな」

「志羽。別に泣いてもええんぞ」

「そっちこそ無理すんな」

 望光とも別れて自転車をこいで家路を進む。こんなときだっていうのに、なぜか全身に有り余るほど力がみなぎって、ぼくはまっすぐ家に帰る気にはなれず、ひたすら自転車を漕ぎ続けた。ハンドルを強く握り締め、真っ暗な道をひたすら南へと進んだ。

 このまま四国山地を越えれば高知県まで道は続いている。2つトンネルを越えた辺りで足がつって派手に転んでしまった。ぼくはそのまま力尽き、しばらく動けそうにない。道路に転がったまま仰向けに夜空を見上げた。高知県はまだまだこの先にある。全然近くない。遠い。

「ちくしょう…」

 空に浮かぶ星の光が涙でにじんだ。


「…な。おい、志羽。聞いとんのか?」

 その声にはっとした。望光がこちらを見て、明らかにこちらの返事を待っている。でも、いったい何の話なのか、さっぱりわからない。

「ごめん。聞いてなかった」

 望光は大きなため息をついて、

「おいおい。今日の7時にコンビニ前。夜太鼓に見に行くやろ」

 望光にそう言われて初めて気がついた。太鼓の音が近い。ここから太鼓台の姿は見えないが、音の大きさからするとすぐ近くにいるのだろう。

 ぼくたち二人はウサギ屋にいた。あの日以来、学校の帰りにウサギ屋に寄ることが多くなっていた。太鼓を打つ音はウサギ屋の戸をビリビリと鳴らした。ウサギ屋のおばあちゃんも店の外に出てきて、きょろきょろと太鼓台を探して見回していた。

 ぼくは返事の代わりに残りのラムネを一気に飲み干し、ビンの中のビー玉をカラカラと鳴らした。

「じゃあ、一回家に帰ってまたここに集合な」

 そう言ってコーラを飲む望光の顔を夕日が赤く染めていく。ぼくはラムネのビンを透かして覗いてみる。でも、何度見ても、あの日見たのと同じオレンジ色はもうどこにもなかった。


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