第1話 ホームタウン

 1


 口から大きな欠伸が漏れた。

 さすがに眠い。365日年中無休24時間営業のコンビニエンスストアに休みなどない。当然、そこで働く人間もそれに合わせるわけで。いやそれどころか、生死さえもともにすると言えば少し大げさだろうか。隣の家で火事が起きても、この町が地震に襲われても、きっと素知らぬ顔で店は開いているのだろう。もっとも今回の場合は台風だったのだが。

 窓ガラスの向こうはすでに雨が上がり、空が明るくなり始めていた。そういえば昔誰かが雲の切れ間から差し込む光が見えることを「天使のカーテン」なんて言っていたことをふと思い出す。残念ながらそこに天使の姿は見つけられず、その代わりに40過ぎの同じ職場で働く、上条響が窓ガラスに貼られたアイドルのDVD発売のポスターをニヤニヤと眺めていた。そのポスターには様々な色のウサギの格好をしたアイドルがキラキラした大きな瞳でまっすぐにこちらを見ている。

「上条さん、おれ、外の掃除してきますから」

 毒される前に外の空気を吸ってこようと店外に逃げ出す。

 上条響のアイドル好きは昨日今日に始まった話ではなく、筋金入りのホンモノというやつだった。ここまで堂々した態度を見せられると嫌悪感を抱く自分の方が間違っているような気になってくる。

 現在の時刻は6時12分。このコンビニの深夜勤が終わるまで残り1時間を切っていた。ここでは基本的に7時から15時までの日勤、15時から23時までの夜勤、23時から翌朝7時までの深夜勤に分けられている。それらは、さらに主婦や学生などの短時間勤務者のために4時間ずつに分けられていた。なるべく長く働きたいおれにとっては関係のないことだった。シフトに入るときには決まって8時間単位だった。それらは月単位にシフトが組まれ、予定が決められる。今は平均すると週4日くらいはここで働いている計算になるだろうか。それで得られる給料は税金などが差し引かれて、月に10万円そこそこにはなる。

 昨夜は台風のおかげで客足は鈍く、いつもの10分の1以下にも満たなかった。つまりは暇だったということだ。それでも全くゼロというではなく、今更にして懐中電灯やロウソクを買いに来るのんきな客もいれば、台風なんてまるで関係ないという普通にお菓子や飲み物を買いに来る不感症の客もいた。

 コンビニの駐車場には飛んできた小枝やゴミの類が散乱していた。それはいつもの3倍以上の量になった。中には割れた屋根瓦まである。拾い上げてみると硬くてずしりと重い。それも一つ二つではない。辺りを見渡してみてもコンビニ周辺の家は住宅メーカーが売る最近建てられた家ばかりで、瓦屋根の家なんて一つもなかった。いったいどこから飛ばされてきたのだろう。こんなのが頭に直撃したら間違いなく頭蓋骨の方が負けてしまうだろう。それだけ昨日の台風が凄まじかったということだ。

 掃除をしている間にもコンビニには徐々に客が増え始め、いつもの活気を取り戻し始めていた。作業現場へ向かうトラックに乗り合わせる土木建築労働者、野球のユニフォームを着た朝練に向かう男子高校生、スポーツ新聞と缶コーヒーを買いに来る散歩途中の年配の常連客、いつもと同じ顔ぶれがいつもと同じものを買っていく。これは昨日も見たのと同じ光景じゃなかっただろうか。これってデジャブとか何とか言うのではなかったろうか。違うのは天気くらいなもので同じ毎日の繰り返し。そしてようやく一日が終わったかと思えば繰り返しのまた一日が始まる。いつもの3倍以上の時間と労力をかけてようやく駐車場の掃除を終えた。

 レジに戻ると上条響がこちらを見て、「河島くん、名札名札」と指差してきた。胸元を見るとほんの少しだけ名札が斜めに曲がっていた。

「店長、こういうのうるさいから気をつけなよ」

 掃除の最中に何かに引っ掛けてしまったのだろうか。無愛想な自分の写真入りの「河島秀磨」と書かれた名札を真っ直ぐに正した。名札に貼られた顔写真は先日髪を切る前に撮られたものなので、知らない人が見ればまるで別人だろう。もうここ何ヶ月も髪を切ることがなかったのだから。

 続けて、飲み物の棚の冷蔵庫裏に回り飲み物の補充を始める。台風のせいでほとんど減ってはいないが、朝のコンビニで一番忙しい時間帯を前に補充するようにと指示されている。ちらり時計を見ると掃除に手間取ったせいで7時を回っている。いつもより遅れているせいで、その忙しい時間に入ってしまっていた。ここでは基本的に残業は認められない。やり残した仕事は時間内にできなかった従業員の能力不足として、無給奉仕してもやり遂げなければならない。

 さっさと終わらせて店内に戻ろうとしたとき、

「河島くん。それはちゃんと賞味期限を確認しているのかい?」

 急に背後から声を掛けられて飛び上がりそうになった。それは、このコンビニの経営者である谷宋太だった。棚に並べていたのは最近人気の柑橘風味の清涼飲料だった。返事に困って黙っていると、谷宋太が目の前で大きなため息を漏らした。

「もう何度言ったらわかるんだ。新しいものから出していたら、古いものがずっと残ってしまうだろ。この商品は返品が効かないんだから」

 最初にすべき仕事は一通り習ったが、すぐに全てを完璧にこなせるわけもない。あとは仕事をしながら覚えていくしかなかった。ついうっかり忘れてしまうことも失敗してしまうこともある。今回の場合は就業時間内に終わらせようとして急いでいたこともあった。いちいち賞味期限など見ていなかった。

「君もここに来て半月が経つんだ。そろそろ慣れてもらわないと困るよ」

「どうもすんませんでした、店長」と素直に非を認めて頭を下げる。しかしこれもいけなかった。

「すんませんじゃない、すみませんだろ。君は大阪弁をやめてくれるか。それにぼくのことは店内以外では社長と呼べと言っているだろ」

 そう言って谷宋太はかけているメガネをあげた。

「すみません、社長」

 「すんません」でも「すみません」でも、「社長」だろうが「店長」だろうが、そんなことは正直どうでもいい。谷宋太の言葉は耳には聞こえているが、右から左へと抜けていき頭に入っていかない。もちろんそんなことは口にも顔にも出さず、頭を下げ続ける。

 一日二三回は、谷宋太からこうした指摘を受ける。弁当を温めるときは入り口に近いレジ側が優先してレンジを使う。雑誌の棚は取りやすいようにガラスと雑誌の間を指二本分だけ空けておく。「いらっしゃいませ」の挨拶の頭を下げるのは30度で「ありがとうございました」の挨拶は45度。おまけにその声の大きさまで音量計を用意して細かく指示を出す。ここでは谷宋太が正しいか正しくないかを判断する。まさに谷宋太の王国だった。それに従えないやつはここを去るだけ。実にシンプルで分かりやすい。

 谷宋太はまだ32歳でおれの2つ上だった。来年の春には、隣の市にもコンビニをもう一店舗出すらしいと上条響から聞いていた。いつも威張りちらして文句ばかり言うコンビニのフランチャイズ本部の人間がぺこぺこと頭を下げるに来るくらいだから、かなり現実味のある話なのだろう。それに実際に見たことはないが、美人の奥さんがいて、それに小学生になる子供も二人いるらしい。

 あと2年すれば同じ年齢になる未来の自分の姿と重ねてみようとしてもそこまでたどり着けず、ただ空しくなるだけだった。

「おい。ちゃんと聞いているのか?」

 聞いてもないのに「はい」と頭をまた下げる。ようやく谷宋太から解放されると、店内にはもう次の日勤のバイトが来ていた。4つ年下で茶髪に耳ピアス5つの風見勇太と、会社をリストラになったという50代の早坂創の二人だった。正直どちらも苦手な二人だが、どちらかといえばまだ年配者の早坂創の方が話し易かった。簡単に仕事の引き継ぎを行うと、早坂創は聞こえるか聞こえないかの微かな声で返事した。その後にかけた「おつかれさま」の挨拶には何の反応はなかった。

 一方、風見勇太の方といえば声をかけるだけ無駄だったようだ。おれのことは視界にも入らないようだ。こちらは先ほどから親しそうに谷宋太と話しかけている。彼の上の人間に取り入る才能は他のことにも使えたらいいのにと心から思う。ここではきっとこんなやり取りがこの店がこの世から消滅するまで永遠に続けられていくのだろう。

 着替えて店を出ると、「じゃあ、お先に。ぼくは寄るところがあるので」と上条響は自動車で颯爽と去っていった。その後部には大きくアイドルの名前が貼られている。名前以外のプライベートなことは一切知らない。いったいどこへ寄るのか、想像もできなかった。

 駐車場に一人取り残され、まだ雨露に濡れたサドルを手のひらではたく。こんな田舎で、交通の不自由を補うには自動車やバイクが必要だった。でも今のおれにはそんなお金があるはずもなく、残りの体力を振り絞って自転車のペダルを漕ぐしかなかった。肌寒いくらい冷房の効いたコンビニの店内とは違って、外はもう10月だというのに残暑が続いていた。雨上がりのせいで風はじっとりと肌にまとわりつき、すぐに全身が汗ばんでくる。一分一秒でも早く逃れたいという不快感を力に変えて、ペダルを漕ぎ続ける。

 実家のある峰泉地区を流れる二濱川の川沿いを行くと、自分が通った小学校が見えてくる。毎日、この道を小学校まで歩いて通っていた。

 手作りの竹竿をつくってフナを釣った水門。自転車のペダルを漕がずにどこまで行けるか競った坂道。「3」という数字の札がかかった別の用水路につながる秘密のトンネル。二十年の時間が経過しても今でも変わらないものもある。



 2


 故郷の愛媛に帰ってきたのはお盆を過ぎた夏の終わりの頃だった。

 大阪から帰るきっかけとなる出来事、いや事件という方が正しいだろうか。それが起こったのは、さらに夏の始まりの7月頃まで遡る。会社が潰れてしまうことを「倒産」というたった漢字二文字で表すには簡単だが、当事者たちはそう簡単に済まされなかった。

 おれが働いていたのは全従業員がパートも含め9名の、広告チラシやホームページを作る小さなデザイン会社だった。それほど儲かってはいなかったはずだが、こんな不況の時代にも仕事は途切れることなく抱えそれなりにやっていた。

 デザインの専門学校を卒業したおれは、二十歳の頃からこの会社に勤め、それからもう十年が経つ。会社に対して何も不満がなかったといえばウソになるが、それなりに満足はしていた。地道な編集や校正を積み重ね、徐々にスーパーのチラシやホームページにつけるバナーのデザインを任されるようになり、ようやく一人前に仕事のやりがいを感じ始めた矢先だった。

 倒産した原因ははっきりしていた。数年前に会社を継いだ二代目の若社長のせいだ。仕事ができない、やろうとしない、会社にも出てこない、無い無い尽くしのやつだった。それがある日突然、若いホステスと会社の金とともにどこかへ消えた。毎夜店に通っていることは誰もが知っていたことだが、まさかここまでやるとは誰も予想していなかった。しかも駅裏の路地にあるような怪しげな高利貸しから金まで借りて逃げていた。

「んもう、なんで私がこんなことまでせないかんのよ」

 経理の酒井さんがぼやく。残された社員でしばらくの間、取引先に頭を下げて回るはめになった。会社に金がないので支払いが滞る。支払いができなければ外注先にモノを作ってもらえない。そのため新たな注文を取ることもできず仕事は回らなくなった。現在進行中だった仕事もその間ストップせざるを得なかった。

 その間、会社にはテレビでしか見たことがなかったような靴の先から頭のてっぺんまで黒尽くめの強面の人たちが、黒塗りの車で会社に毎日のように押しかけてきた。彼らは事務所の隅から隅まで物色して回った。引き出しが開きにくくなっていた傷だらけの机も、故障して間の抜けた音を鳴らすチャイムも、トイレの掃除道具さえも、こんなものまでと思うようなものまで1円1銭でも金になりそうなものは全て差し押さえられた。いつのまにかカギをかけていたはずの自分の引き出しもこじ開けられ、保管していた道具や資料もどこかへ消え失せてしまっていた。

 結局、現社長である若社長を任命した責任として、一線を退いていた父親の前社長が家も土地も売り払うことでようやく事態は収拾した。その代償としてこの世の中から会社は完全に消滅した。働いていた従業員は全員解雇となった。パソコンは一切使えないが絵を描くのだけは抜群に上手かったこの道30年のデザイナーの野崎さん、若い女子高校生と付き合いたいとよくぼやいていた営業の笹本課長、5回に1回は返ってくる領収書の番人だった経理の坂井さん。決していいことばかりではなかったが、時に喜び、時に怒り、時に慰め合った職場の仲間までも失ってしまった。

 失職してから、おれの生活は急変した。昼間から近所をぷらぷらと散歩してもいい。一日中テレビを見て過ごしてもいい。布団の中で寝て過ごしてもいい。何もかも自由だった。いつまでに何かをしなければいけない締切に追われるということもない。そんな毎日がわずかに残っていた気力を奪っていった。

「あー、だるい・・・」

 働かなければいけないと思うが、なかなか再就職する気持ちにはなれず、そんなことよりも支出を抑えて生活費を切り詰めることの方が大切なことのように思えた。人がただそこに存在しているだけでお金はかかる。夜も電気を消し、水道やガスもなるべく使わないようにして、安い食材ばかりを買い求めるようになった。ここ何週間も誰かからかかってこない、誰にもかけることもない、携帯電話も解約した。それでも貯金は目に見えて少なくなっていった。

 しばらく経って、失業するともらえる給付金の存在を知ったのは偶然だった。誰もそんなことを教えてくれなかった。夫がリストラに合い失業保険で生活しているとワイドショーで見かけた。調べてみると次の就職が決まるまで一定期間の期限付きで働いていたときの給料の何割かはもらえるらしい。働いているときには自分がそんな保険に加入していたことさえ知らずにいた。

 久しぶりに乗った電車は空いていた。満員列車に揺られていた毎日が遠い日のように思える。たった二区間の移動でさえ降りる駅を間違えないかと緊張してしまう。そのうち途中で女子高校生の集団が椅子の端に座っていたおれの席の隣に座り、他の乗客に構うことなく大きな声でしゃべり始めた。芸能人の誰々がかっこいいとか、何とか先生がウザいとか、そんな類の話だった。正直どうでもいいような話を休むことなく延々と続ける。隣に座った女子高校生の肩が触れる度に甘ったるい香水の匂いが鼻を衝く。

 窓口となるハローワークは、ラッシュ時の駅のホームのように混み合い、がやがやと騒がしかった。椅子に座り切れないほどその順番を待つ人々が行列となり、十台以上が並ぶパソコンの前で誰もが食い入るように画面を見つめていた。女性や若者の姿もあったが、その多くは自分より年齢の高い中年男性がかなりの割合を占めていた。壁には有効求人倍率とか完全失業率などの数字が並んでいた。

 有効求人倍率0.88。この数字が良いのか悪いのかもわからなかった。受付を済ましてから登録するのに待たされ、何列か並んでいる相談窓口から自分の名前を呼ばれるまでに30分以上の時間を要した。

「これが毎月提出しもらう書類になります。ここに氏名、住所、電話番号、それから、この番号をここに書いてください。この欄にハローワークに来て求人票をチェックしたとか会社に面接に行ったとか、その月に行なった求職活動を記載してください。それからこちらの欄には…」

 目の前で書類を広げて、鼻の低いサルに似た女子職員が淡々と口にする。ちゃんと人と話をするのは何日ぶりだろう。もともと人見知りなおれは緊張していた。

 隣の席からは時折「もっとよく探せ」「そんな安月給でやってられるか」という口調の強い声が耳に入る。ちらりと横目で盗み見る。白髪交じりの隣の男は、つばを飛ばし職員相手に声を荒らげていた。

「ちょっと河島さん。話、ちゃんと聞いてますか?」

 その言葉に反応して頷いてはみたものの、耳に入った言葉は右から左へ抜けていく。少しも頭に入っていかなかった。かろうじて覚えられたのは次に来るのは日時だけだった。その日は結局1時間以上待たされ10分の説明だけで終わった。ハローワークを出るときも建物の中はまだ人でごった返していた。

 帰りの電車は行きと違って、人と人が密着するほど混雑していた。夕方のラッシュの時間帯に重なってしまったようだ。目の前には50歳前後のサラリーマンの後頭部があった。髪を覆う面積よりも多く、むき出しになった頭皮をにじんだ汗が流れ伝う。そんなものを見たいわけでもないのに目が離せなかった。汗は髪の毛の間から伝い、首筋のくぼみを加速して首元のシャツの中に吸い込まれ染みを作った。

 ハローワークではフリーター、リストラ、失業者、嫌でもそんな言葉たちが目に飛び込んでくる。自分もその渦中にいる。でも、景気がいくら悪いといっても求人は出ているのだから仕事はある。選り好みしなければ働き先はあるはずだった。あそこにいる人たちはみんな贅沢なんだ。おれは違う。あの人たちとは違う。何度も呪文のように繰り返す。

 そうこうしているうちに電車の揺れも加わって、段々と気持ちが悪くなった。立っていることさえままならず苦しくなった。降りる予定の一つ前の駅でこらえ切れず下車した。降りて堪えきれずにすぐホームに嘔吐した。足早な人の群れは吐瀉物とおれを避けて通り過ぎていき、誰も近寄らなかった。人々の嫌悪の眼と声がおれの頭上を通り過ぎていく。

 日中は部屋にいると暑いので近所の図書館で過ごす。程よく空調が効いていて快適だった。時間だけはたっぷりと持て余していた。おかげで棚の一角に並んでいたデザイン関係の本は全て読破することができた。しかしそのことがたちまち何かに役立つことはない。

 朝から晩まで図書館にいるといろんな人たちがやってくる。大声で騒ぎ回る子供を注意もしない母親、地面に顔を付きそうなほど腰が「つ」の字に曲がった老人、一人でソファを占領しほとんど寝ている髭面の中年男性。そんな人たちを観察しているうちについ自身と比べてしまう。おしゃれな服を着ていたらプラス5点、仕事についていたらプラス10点、結婚していたらプラス30点、子供がいたら一人につきプラス20点。そんな風に点数にしてみたらおれの人生はこの人たちにどのくらい劣っているのだろうか。これからの人生はどうなっていくのだろうか。そんな漠然とした不安は、次から次へとやってきて頭の中を好き勝手に駆け回り辺りを散らかしていく。ゴミの山の部屋に閉じ込められてその混沌の中をあてもなく答えを捜し求める。この中に答えなどあるのだろうか。

 図書館の閉館を告げる音楽が館内に鳴り響き、現実へと引き戻され家路に着く。それで一日が終わる。次第にその不安は睡眠を蝕み、眠ることもままならなくなった。両方のまぶたはいつも重く、疲れが取れない身体は起きていても気だるいままだった。食欲も沸かない。おかげで体重はひと月で4kg近く減っていた。


 手続きのために二度目に訪れたハローワーク帰りのことだった。

 この頃にはどこへ行くにも自転車で出かけるようになっていた。電車賃を節約するために1時間でも2時間でも自転車を漕いでいく。しかし、その日は朝から土砂降りの雨が降っていて、天気予報を見ても一日中雨で止みそうになかった。悩み悩んで仕方なく電車で行くことにしたのだが、駅のホームで電車賃180円のキップを見つめながら、往復で360円も使うことを後悔していた。360円もあれば何日分の食費になるだろうか。

 隣に立った人物が視界に入った。小太りの体型を無理やりスーツの中に押し込め、噴出す額の汗をハンカチでしきりに拭っていた。その顔を見た瞬間、記憶をかすめ、一度外した視線を再び戻す。相手も同じものを感じたらしくハンカチを持つ手が止まった。

「秀磨?」

 その男の口からおれの名前が出てきた。

「信人…、宇喜多信人」

 おれの口からも自然と相手の名前がこぼれた。

「やっぱ秀磨か。ほんま久しぶりやな」

 その見た目こそ記憶の中にいる高校生だった宇喜多信人とずいぶん違ってしまっているが、その面影と声は宇喜多信人に間違いなかった。

「おまえ、太ったなぁ。ピチピチやんか」

「しゃあないやろ。スーツやか、こんな出張のときくらいで普段着んのんじゃけん。買うのもったいなかろ。それにしてもおまえ年取ったな」

 そう互いに笑い合った。

 いくつもあるこの長いホームにどれだけの人がいるのだろう。おまけに電車はほぼ10分間隔に運行している。そんな中でこの場所、この時間に、もう10年以上会っていない故郷の同級生に再会するなんて奇跡ではないだろうか。

 宇喜多信人は中学3年間のうちに8クラスある中で2回も同じクラスになったことがある。中学生にとってそれだけで仲良くなるには十分な理由だった。おまけに同じ市内の高校にも進んだ。逆に高校3年間では3クラスある中で一度も同じクラスになることはなかったが、中学からの付き合いは続いて高校時代にも互いの家にもよく遊びにも行った。しかし高校卒業後、大阪に出てからはぱったりと付き合いが途絶えてしまい連絡も取らなかった。風の噂で実家の酒屋を継いだと聞いていた。

「おまえ、高校出てからずっと大阪におるんか。今、何やりよんで?」

 おれは答えに詰まってしまった。

 今まで包んでいた二人の間に妙な空気が流れた。

「すまんすまん。おれ、もう行かないかんけん。おまえもたまにはこっちに帰って来いよ」

 動き出した電車の乗り込み、宇喜多信人は手を振って去っていった。おれはそれを見送った。同じ電車に乗るはずだったのに体が一歩も動かなかった。出張で大阪に来たという同級生の姿がとても眩しく見えた。無職だと言えなかった。自分が引きこもりの社会不適合者だと言えなかった。ホームに吹き込む風が雨を運んで、いつのまにか足元をぐっしょりと濡らしていた。

 蛍光灯が一つ切れたままの暗い部屋に戻った。まとめて洗った方が水道代が安く済むと洗濯機には、一週間分の衣類が詰め込まれたままだった。冷蔵庫の中は調味料の類が残るだけでほとんど空だった。おれは押入れの奥からスーツケースを取り出した。専門学校の卒業旅行で使った以来、その出番はなく一度もなかった。ファスナーを開くと溜め込んでいた約10年分の空気とカビくさい嫌な匂いが鼻を衝く。その中に全財産の入った通帳と何日分かの着替えを詰め込んだ。スーツケースに他に何か入れるものはないかと見渡す。その間も外は相変わらず雨が降り続き、窓ガラスを叩いていた。

 大阪の南港にあるフェリーターミナルから夜出れば朝に着く故郷行きのフェリーが出ている。待合室にはお遍路姿のお年よりの一行がいるだけだった。

 切符を買おうとすると、カウンター越しにパーマをかけた厚化粧のウマ顔の中年女性から、これを書いてくれと記入用紙をぶっきら棒に渡された。自分の名前、住所、年齢、行き先を書きながら思い返していた。おれは生まれた町でどんな日々を過ごし、何を感じて生きていたのだろうか。何に焦がれてここまで来たのだろうか。それからいったい今日まで何にしがみ付いていたのだろうか。

 夏が終わろうとしていた。おれは12年ぶりに足を踏み入れる故郷の地で、三十歳になる最初の朝を迎えた。



 3


 バイト先から実家に着く頃には、背中に汗をびっしょりかいていた。Tシャツの張り付き具合で嫌でもそれが分かる。

 家の前には「河島鉄工場」という、所々が錆びた看板が立っている。昔からこの看板も、油の匂いも、工作機械の音も好きではなかった。道路に面する工場の真裏に住んでいる家があり、工場の横を自動車一台分が通れる道がそれに向かって伸びている。はずだった。

 目の前にあるはずの道は、川と化していた。いったいどこからこんな大量の水が流れて込んできたのだろうか。茶色い泥水に埋もれて地面が見えない。自転車に乗ったまま、川となった道を水を撥ねて進む。深さは5cmくらいあるだろうか。水の抵抗で自転車の進みが悪い。家の前のいつも自転車を停めている庭にも大きな水溜りができていた。この家の庭で飼われている犬小屋も水没してしまっていた。かろうじて無事だった玄関の前で自転車を降りた。玄関の扉の前には土のうが積まれていてそれを跨いで家の中に入った。すでに靴の中はびしょびしょで靴下を脱いであがった。

 自分の部屋に入ると猛烈な睡魔が襲いかかってきた。もう20時間以上も寝ていない。さすがに眠い。そのまま布団に潜り込んだ。それから眠りにつくまで10秒もかからなかった。


 おれは布団ではなく、家の廊下の上に転がっていた。口の中には痛みとともに血の味が広がっていく。またこの夢か。もうこれで何度目だろうか。夢だとわかっているのに殴られた痛みも張り詰めた緊迫感も妙にリアルだった。

「そんなん言うんならこの家から出てけ!」

 こちらを見下ろし、目の据わった親父の怒号が家の中をこだまする。家全体が震えていた。

「今までそんなこと一言も言ってなかっただろうが。どうせいつもの思い付きだろ。そんなもんで将来飯が食えると思ってんのか!結婚して子供を養っていけると思ってんのか!」

「そんなこと、やってみなけりゃわかんないだろ。おれはデザインの勉強がしたいんだ。やるっていったらやるんだよ」

 こちらもかっとなり言い返す。

「そんな世の中、甘ないわ。どうせ諦めて帰ってくるんが目に見えとる。どうしても行く言うんならこの家から出てけ。二度とこの家の敷居をまたぐな!」

 親父の手から放り出された入学案内の書類が頭上でひらひらと舞い落ちる。それは不規則な動きでつかもうとするおれの手をすり抜けて、床の上に散らばった。


 ここで夢から覚めた。今度はおれの部屋の天井だった。額からポタポタと汗が流れ落ちた。暑さのせいだけではないようだ。

 時計を見ると眠ってからまだ1時間も経ってなかった。高校を卒業する少し前に実際にあった出来事だ。独特のこの家の匂いがあの頃のことを思い出させる。

 あの殴られた日の後、母が仲裁に入って親父をなだめた。親父とはそれ以来一度も口を聞いていない。おれは家出同然に大阪に出た。専門学校へ入学できたのは母のおかげだ。入学金から生活費まで仕送りしてもらい、散々苦労をかけたと自覚している。それなのにおれは母の恩に報いることができず、12年後、親父の予想通りになって戻ってきてしまった。一週間だけのつもりの帰郷がすでに一ヶ月半が経過していた。

 実家で食わせてもらえば、通帳から生活費の減るスピードは少し落ちた。しかし大阪には借りた部屋が残ったままで毎月の支払いがある。あと少し待てばもらえるようになる失業給付金は惜しかったが、それまで残金が持たない。

 仕方なくコンビニのバイトを始めてみた。働いてみれば何かが変わるかもと期待もあった。でも現実は何一つ変わらず、同じ毎日が押し寄せてくる。故郷に帰って来ても何も変わらなかった。寝ても覚めても漠然とした不安が背中にずしりと圧し掛かる。背中にべったりとまとわりつき、離れようとしない。

 その時、ある音が聞こえた。その独特のリズムには聞き覚えがあった。カレンダーの日付は10月16日。それで今日が何の日であるか理解できた。

 一階に下りていくと、さっき帰ってきたときにはいなかったのに親父が廊下に転がっていてどきりとした。布団がかけられているところを見ると、少なくとも死んでいるわけではなさそうだ。廊下に転がる親父の頭の毛は薄くなり、加えて白髪もずいぶんと目立つ。ぴくりと動かない。

 この光景はさっき見た夢と逆の立場だった。このまま寝込みを襲えば、おれはあの夢の呪縛から解き放たれるだろうか。不安から解消されるだろうか。親父の頭を目掛けて拳を振りかぶる。

 突然、背後から強い衝撃を受けた。その勢いでおれは床に転がった。それは寝ている親父の体を飛び越えるほどの威力のある飛び蹴りだった。

「あんた、実の親に何してんのよ」

 振り返ると4つ上の姉、久谷彩が仁王立ちしていた。姉が凄みを効かせてこちらを睨んでくる。

「お父さん、昨日は台風のせいで自治会館におって徹夜で大変やったんやけん。そのまま寝かせてやりや」

 姉は首と頭にタオルを巻き、着ている黒いジャージの所々が泥で汚れていた。頬にまで泥がこびりついていた。

「あんた、ほんとに殴るつもりやったんか?」

「そんなんするわけないやろ」

 本当にそうだろうか。姉に蹴られた背中がずきりと痛む。

「そういや、あんたもバイトで徹夜やったんやね。今から朝ご飯にするけどついでに作ったげるわ」

 先ほどの飛び蹴りといい、言葉使いといい、姉も12年見ない間にすっかり変わってしまっていた。中学生になる子供を持つ母親になるとこうも変わるものなのだろうか。昔の姉は年頃の女性が気にするファッションにも、誰しもが思春期に抱くような芸能人にも、全く興味を持たず、勉強が友達だと周りに公言するくらい真面目な人だった。それが今では髪の毛を茶色に染め、耳にピアスまで開けている。

 顔を洗いに洗面台にいくと鏡の中に自分の姿が写る。目の下のある目の隈がずっと消えない。コンビニのバイトを始めてからは時間の感覚さえ失いつつある。先週、伸び放題の髪も切って短くなった。帰郷後も体重は減り続け、もともと痩せている方だったのにさらに頬はやつれ、失業前からもうすぐ8kgの減になる。

 姉の用意してくれた朝食は、おにぎりと熱い味噌汁だった。姉とこうして顔を合わせて二人きりで食事というのは何となく気まずい。今更、何を話していいのだろう。あの音が遠く聞こえる。沈黙の中、姉は黙々とおにぎりを頬張り味噌汁をすすっている。気まずい。

「母さんの具合はどんな?」

「気になるんやったら自分で病院に行ってきたらええやろ」

 最悪だ。自ら墓穴を掘ってしまった。母は夏頃からずっと入院しているらしかったが、どんな顔をして会いに行けばいいのかわからず、病院には行けていない。

「そういや今日から秋祭なんやな。全然気づかへんかったわ」

 おれは話を逸らした。ふーんと軽く返事しただけで、姉はまた味噌汁をずずっと口にすすり込んだ。再び元の沈黙に戻る。そもそも結婚して出て行ったはずの姉がなんで実家にいるのか。聞きたいことは山ほどある。しかし逆に聞かれたくないことも山ほどあって聞くに聞けなかった。

「親父のやつ、まだ太鼓台の世話やってんのか。もういい加減、年なんやから、無理せんと若いやつに任せてそろそろ引退した方がええんやないの」

 黙っていればいいものを、おれは沈黙に耐えられずに再び口を開いてしまう。聞こえる素振りも見せず姉は口をもぐもぐと動かし続けている。元々しゃべるのが得意ではないくせに言葉を探りながら無理やりに搾り出す。そして悪い方へ導かれていくように言葉が止まらない。

「親父は昔からでしゃばりやから、周りの人間も親父がおったら迷惑しとんのとちゃうん。昔、自治会でキャンプに行ったときも張り切って仕切っとったし。前の週から下見には行くし。そのせいでおれもだいぶ付き合わされたんやから。だいたい親父は…」

 テーブルが壊れるのかと思うほどの勢いで、姉は味噌汁の椀を置いた。それはテーブルに置くというよりぶつけるに近かった。味噌汁の中身がテーブルの上に四散し、わずかに残った茶色の水面が激しく揺れていた。こぼれ散った熱い飛沫から湯気が立ち昇っていた。それは姉の手にもかかったはずだった。

「人のことなんかどうでもええやろ。あんたはいったいどうすんの?」

 真っ直ぐにこちらを見つめる姉の目は心の奥底まで見透かすかのようにおれを睨み付ける。何も答えられずに唾液をごくりと飲み込む。

 遠く聞こえるあの音がリズムが続いていた。




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