夏の雪と麦わらの少女

戯 一樹

第1話

 僕の住むこの白樺町には、年中止む事のない雪が延々と降り続けている。と言っても今の時季……夏の暑い日なんかは水分の多い雪しか降らないし、一面雪景色になるような事は滅多に無い。積もるほどの雪なんて、他の地域同様、せいぜい冬ぐらいなものだ。

 それでも一年中降る雪というのは、他の人にしてみれば物珍しいらしく、割と有名な観光名所となっている。冬は少なめだが、今の時期、夏も真っ盛りという八月になると、観光客もぐっと増える。もっとも地元民の僕からしてみれば、もはや見飽きた光景なので、感慨なんてものは微塵も持ち合わせていない。それでもまあ、こんな周りに畑しかないような田舎に、各地から様々な観光客が訪れては感嘆の声を漏らす所を見るのは、地元民としては悪い気分ではない。

 そんな観光客を横目で見つつ、いつも通り変わりばえしない畑を道沿いに歩きながら、傘越しに舞い落ちる雪を眺める。

「少し風が強くなってきたな……」

 下校前から吹雪いてくる前兆はあったが、途中から本格的になってきたみたいだ。こうなってくるとしばらくは横殴りの雪が続くから、濡れる前に早めに帰った方がいいだろう。

 最近、高校からの帰り道はいつもこうだ。夕方遅くなると、こうして妙に吹雪いてくるのだ。積もるような雪ならばまだしも――いや、豪雪地帯みたいになるのもどうかと思うけど――こういう水っぽい雪は全身がやたら濡れるから嫌なのだ。

 だったら吹雪いてくる前に帰ればいいじゃないかという話になるが、生憎と美術部の部長を任されて、尚且つ図画コンクールも近い今、悠長に帰宅している暇なんてなかった。

 唯一の救いは、この暑さのおかげで風邪を引くような事はないぐらいだろうか。もともと半袖が必要なほどの気温だし、体が冷えたりしない分にはいいんだけれど、この服が濡れて肌にまとわり付く気色悪い感触だけは如何ともし難い。

「もうコンクールも近いのに、どうしたもんかなあ」

 見渡す限り広大に続く畑道を早歩きで渡りながら、僕は憂鬱げに呟く。

 夏季図画コンクールの締め切りは、八月末日。そして今は八月中旬。もう半月もないというのに、未だに僕のキャンバスは真っ白なまま。他の部員達は着実に進んでいるというのに、部長として立つ瀬が無いにもほどがある。

 いつもだったら――少なくとも去年までの僕だったらとっくに着手していたはずなのに、今回に限ってまるでイメージが湧いてこない。部長という責務が僕に重圧を与えているのか、自分の描きたい構図が全く思い浮かばないのだ。

 本当にどうしたものかと俯きながら溜め息を吐いた――そんな時だった。



 ふと視線を前へと戻すと、道の向こうに中学生ぐらいの少女が、空から降る雪を見上げながら、一人佇んでいるのが見えた。



 麦わら帽子に白いワンピース。それだけなら、この町でも見慣れた格好ではある。けれどその顔つきは、この辺りではあまり見慣れないものだった。

「観光客かな……」

 通り過ぎていく僕に気付く様子もなく、少女は何かを望むかのように、ただひたすらに傘を差しながら空を見つめていた。

 そんな少女に終始目を奪われつつ、何となく後ろ髪を引かれるような思いを抱えながらも、僕は自宅へと向かった。



 今日もまた、帰りが遅くなってしまった。

 コンクールに送る作品は、全くと言っていいほど進んでいない。どうにもインスピレーションが湧いてこないのだ。このままだと、夏のコンクールには間に合わないかもしれない。

「どうしよう。一度先生に相談してみようかなぁ……」

 と言っても、大した助言はきっと得られないだろう。なんせうちの顧問は美術教師である癖に全くやる気のないお人なのだ。仕事している暇があったら酒を飲むと豪語していたぐらいなので、真剣に取り合ってくれるとは微塵も思えない。

 そんな絶望感に苛まれながら帰宅路を歩いていると、見覚えのある少女が目の前に立っていた。

「あ、あの子だ……」

 昨日見たワンピースの少女が、あの時と同様、雪を静かに眺めていた。

 観光客だとばかり思っていたが、こんな所にまだいるという事は、親戚が誰かが地元にいて、泊まりにきているのだろうか。今は夏休みだし、僕みたいに部活動でもなければ、ここにいるのも不思議ではないのかもしれない。

「君」

 気付くと、自然と口が開いていた。作品が思う通りに進まないフラストレーションが溜まっていたせいなのか、少しでも気晴らしになればという考えが、頭を掠めたせいかもしれない

「そこで何をしているの?」

 僕の問いに、果たして少女は視線だけをこちらに向けてこう言った。

「雪」

 蚊の鳴くような、ともすれば、聞き逃しそうなほど囁き声で、少女は答える。

「雪を……見ていたの」

 少女に倣うように、僕も空を見上げる。

 見上げた空に、これといって変わった点はない。相変わらずの曇り空で、そこから金平糖みたいな雪がしんしんと降り続けている。昨日と違って風がないので、いつもより緩い降り方だけど、もう見慣れた、見飽きた光景である事に違いはない。

「雪、そんなに珍しい?」

「雪自体はそれほど。でも、夏に降る雪を見るのは、昨日が初めて」

 言って、少女は再び視線を空へと戻した。僕になんて関心はないと言わんばかりに。

 そっか、と僕も相槌を打って、しばらく少女を観察する。

 少し経っても、少女は帰る素振りを見せなかった。只々、絶えず降る雪を憑かれたように眺めていた。

「好きなの? 雪」

 ややあって、全く移動しようともしない少女に、そう僕は声を掛ける。

 少女は目線すらこちらに向けずに、「どちらかと言えば」と返す。

「でも、私は積もる雪を見てみたい。小さい頃、亡くなった祖母が話していた、夏に積もる雪を見てみたいの」

「夏に積もる雪?」少女の言葉を繰り返し、僕は続ける。「そんなの、僕が生まれるずっと前から無いって聞くよ」

「知ってる。もう五十年近く、こんな温み雪ばかりって事ぐらい」

 それでも、と少女は雪に手を触れながら、言葉を紡ぐ。

「私は見たいの。子供の頃に聞いた、夏に積もる雪を。それを見ないと、いけない気がするから」

「いけないって、どうして?」

「分からない。理由があるとしたら、多分、祖母との思い出を心にずっと留めておきたいからだと思う」

「そっか。知った風な口を利くようであれだけど、そのおばあちゃんの事、よっぽど好きだったんだね」

「そうね」

 少女は反芻するように目を細めて、次の言葉を発した。

「祖母ぐらいしか、都会にいた時に私の相手をしてくれなかったから」

 複雑な家庭なのだろうか。ここにこうしているのも、何かしらの事情があったのかもしれない。

 しかし、それ以上踏み込むような事は訊かなかった。赤の他人があれこれ詮索するのもどうかと思ったし、何よりもう時間も遅かったから、帰らなければならなかったのだ。

 去り際、少女の方を振り返ると、彼女はまだ雪を見つめていた。

 いつ来るともしれない、積もる雪を延々と求めて。

 けれどその積もる雪は、以外にも早く降る事となった。



「雪だ……!」

 不思議な少女と出会ってから数週間が経った後、学校の美術室の窓から雪が降るのが見えた。

 雪と言っても、いつも見ている雨に近い雪ではない。いかにも軽そうな、綿毛のようにふわふわと漂う雪が、町を白く染め上げようとしていた。

 積もる雪ならば、これまでにも冬が来た時に何度も目にしているが、夏にこんな雪を見るのは、初めての体験だった。

「あの子、今頃どうしてるんだろう」

 暫し感傷に浸った後、不意に頭を掠めたのは、温み雪を眺める少女の姿だった。

 今迄、どうしている事だろう。初めて話し掛けてから久しく会っていないけれど、一体どんな表情を浮かべて、この雪を眺めている事だろう。

 そう思うといても立ってもいられずに、気が付けば、僕は学校を飛び出していた。



 いつもの夏と違い、冷たい風に肌を撫でられながら、僕は少女の元へと急ぐ。

「あっ。いた……!」

 少しすると、ワンピースに麦わら帽子という見覚えのある格好の少女が、傘も差さずに振り積もる雪の中をくるくると楽しそうに走り回っているのが見えた。



 儚げに佇むだけだった少女が、しんしんと降る雪と戯れながら、嬉しそうに微笑みを浮かべて踊っていたのだ。



 感嘆の息を漏らしながら、僕は眼前の景色に見入った。

 よく絵になる光景とは言うが、まさしく絵に残したくなるような光景だった。

 描かなければ。唐突にそう思った。それこそ今迄にないくらいに、強く、強く、強く。

 その後の行動は早かった。すぐさま学校へと出戻った僕は、美術室に篭って一心不乱に筆を取り続けた。

 湧き上がる衝動を少しでも形にせんと筆に力を入れて。いやそれ以上に、熱く魂を込めて。

 その衝動は日が過ぎても収まらず、他の部員達が帰って夜遅く掛かろうとも、見回りの先生に閉め出されるまでずっと続いた。

 そうして一週間後。僕はついに一つの油絵を完成させた。

 夏に降る雪の中を、戯れるように踊るワンピース姿の可憐な少女。それはあの時に見た、少女の姿そのままの絵だった。

 タイトルに「雪と真夏の少女」と付けたこの絵は、そのまま夏の図画コンクールに出され、そして有難くも見事入選を果たした。美術部部長としてのメンツを守ったばかりか、予想外に株を上げる結果ともなった。

 ちなみに、図らずもモデルとなった少女とは、あの時を最後に一度も会っていない。もう満足して都会へと帰ってしまったのか、それとも偶々顔を合わす事が無いだけなのか、真実は定かではない。さながら、温かい陽だまりの中で溶けた雪のように、いつの間か消えていなくなっていたのだから。

 それでも、いつも見慣れた雪を何気なく見ると、ふとした瞬間に真っ白な景観の中で踊るあの少女の姿を、ぼんやりと思い出す。

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