花信風
以来その行方、杳として知れぬと。かなうならばわたしとても、そのように噂をつむいで
いまだわたしの意思を乱雑にもつれさせ、時に心の臓をきりりと縛りつける男。
そんな彼がふらりと行方をくらましてから、既に半年。当初は慌ただしく、しかし少しばかり苦々しげに彼の無事を案じていた佐々原家の親族たちも、
こうして銀座の街までひとり出向いてきたのは、つまりわたしの幼馴染であり、妹の許嫁である
白亜の外壁をまとう
対して、わたしが席についている婦人席では、きっと日本橋の百貨店帰りだろう奥方たちや、あるいは新しい女と呼ばれる新進の女流文士たちや、彼女らに憧れる乙女が、それぞれに華やかな着物、帯、洋装に身を包んで、和やかに談笑をしている。
藍染めの
きっとこのような新進的で華やいだ場所に居ることを、古風な妹も、わたしの存在に眉をひそめる厳格な親族も、好まないだろうと思う。それでも、お稽古事で同じ先生についている顔馴染に、
緊張で固くなる身を少しかがめ、隠れるように息をつき。膝の上で重ねた両手を組みなおした時、卓上ばかりを見ていた視界に、殿方の白い洋装の端が横切る。店に入った時に不慣れながらも注文していた、聞きなれぬ響きの外国の飲み物が運ばれてきたようだった。
「承っておりました、珈琲をお持ちしました」
その、耳慣れた声に。はっとなって顔をあげれば、眼前にはわたしの頼んだ品を給仕する、わたしひとりが闇雲に探しつづけた人が――見目麗しい幼馴染がそこにいた。
「みつけた」
声は、震えてしまってうまく言葉にならない。安堵と、虚脱感が、いちどにわたしの身中を巡った。
すると、
「よくここがわかったね。でも、
「わたしのことなど、どうでもいいわ。みつけた。ようやっと」
飄々として銀盆からカップを差し出す彼は、噛みつくようにきっと視線をあげたわたしの目をみつめ、心底嬉しそうに声を弾ませた。
「そうだね。みつけられてしまった。――でもよかったよ、きみで。佐々原の家は俺を見放してくれた?」
「もう、我関せず、といったところよ」
口惜しいことに、そうなのだ。六人の男児を儲けている佐々原家の当主は、三男が出奔したとさだまるや、そのような不義理な、筋を通さぬ人間は我が家筋にはいらぬといって、以降いっさい
「そう。なら安心できる」
「そんなこと! ……
わたしは咄嗟に、嘘を吐いた。気の強い妹は、許嫁の出奔に苛立ちこそすれ、心配などというそぶりは見せずにいたというのに。
面差し涼しく、穏やかで、特技と言えば洋書をなめらかに諳んじるほどに語学を
つまりは気丈な妹とて、心穏やかではいられなかったのだ。ならば将来の義弟を見失ったわたしですら、紡がれる噂を耳にするたび、ひどく不安定な情をもてあまして――ぎゅっと口元を引き結ぶことしかできなかったのも、きっと不自然ではなかった。
そのような時間は、けれども時が経つにつれ、次第に誰も手を触れないものとなっていった。
「どうして出奔などしたの、
「そりゃあ、あのまま従順にしていたって、欲しいものは手に入らないだろ。佐々原の家で飼いならされて、
それでもわたしにはどうしても、
ゆえ、わたしはいまこうして不慣れな喫茶の店に入り、ひさかたぶりに見えた大切な幼馴染へと、わずかに縋るように、けれど必死に言葉を繰る。
「でも。それでも、
けれど
「戻らないよ。
わたしは咄嗟に、卓上に左手をついて身を乗り出した。そんな言葉、聞けるはずがない。それでも
「それに、絶対に大事にするってなに? 拝坂の中で、その言葉を心底抱き続けてくれるのなんてきみだけでしょう。……
その言葉を聞いて。
「家主の機嫌を取る女が、いつまでも側近くに侍る、なんて。それってさあ、穿って見れば妾とそうかわらないだろ」
わたしにはそれ以上、彼へ言いつのることができなかった。
「
「
「それじゃあ、俺はまだ仕事があるから。それと、
いくらわたしが彼の背中から視線を外せずにいようとも、すぐに
さりとて。きつい、抉るような言葉を吐いた
彼の言葉はどうしたって、わたしの胸に突き刺さる。けれど否定などできはしない。
わたしは、確かに父の長子である。しかし妾腹の娘である。
拝坂の家に婿養子として入った父は、たぐいまれな経営手腕を発揮して、開国よりも以前、徳川の将軍の御世より続く老舗の拝坂を、大きな商社へと育て上げた。けれど正妻は病弱で、夫と過ごすよりも長い時間を臥せっていた。父が、私の母を妾に囲い、拝坂の家付き娘であった正妻とてもがそれを許すのに、そう時間はかからず。そうして、わたしが生まれたのだ。やがて四年後には、正真、拝坂の血筋である正嫡の
いまでこそ、わたしの母も、
それでもやはりわたしは、どうにも希望を捨てきれず。
結局、佐々原の家にも拝坂の者にも
「
「お天道様みたいな色ね」
その
その声音は、幼い頃ともに遊んだ日々のように、彼が好んだ洋書の話をする時のようにかろやかだった。けれどわたしが飲み物に口を付けるよりも前に「先日に、あなたが話したことだけれど」と切り出すと「俺だってきみだって、そんな話、好きじゃないでしょ」と、はりつけたような笑みで一蹴し、すぐにわたしの席から離れるのだった。
その次も、さらに次も、そのようなことばかりが続いた。
華やかな銀座まで出向くのには、やはりずいぶんと勇気が要る。けれどわたしは秋が過ぎ去り、冬の気配が深まるようになっても、彼の働くカフェーへと赴きつづけた。
その頃には、焦りよりも
「体調でも、くずしていたの?」
給仕として姿を現した
その頃しばらく姿を見つけられずにいた
「いや、そうではないよ。ここのところずっと横浜の方に赴いて、忙しくしていただけ」
「……横浜?」
「そう。ねえ、聞いてよ
「では横浜に、移り住むの?」
「そう。勤め先の主人は、このカフェーの常連でね。外国の言葉を扱えるなら、と。ずいぶんと俺を買ってくださったんだ」
「――とても、おめでたいことだわ!」
無意識ながらも咄嗟に、わたしは声を弾ませる。
「お祝いを申し上げますね、
すると、幼馴染はたおやかな声音で「それじゃあ」と、わたしへ告げる。
「祝いの代わりに、帰り道に同道する時間をちょうだい。
わたしが思わずまたたくと、
首をかしげながらも、けれど帰り道という言葉に、わたしはわずかな希望を見出した。
かくてわたしは、はやまる動悸を抑えて、他の給仕の少年が持ってきた、いつもと同じ果実の飲み物で時間をつぶし。そして、言われていたとおりに、半刻の後に、カフェーの前の通りへと出向いた。
大通りからは少々奥まったこの通りを、行き交う人々の姿もまばらだった。冴え吹く風はあわくとも
「こんなところに、通っていたの? 姉様」
その時、不意に馴染ある少女の声が、わたしを呼んだ。はっとしてそちらを向けば、通りの端、脇道のほど近くに停められた人力車の車上から、妹がけわしくこちらを見ていた。
「
「どうしてもなにも。頻繁に外出していらしたじゃない。妙だと思っていたの。それに、この店で姉様を見たなんて、女学校のお友達からも聞かされて。恥をかいたわ」
わたしが
けれども委縮したわたしが一拍遅れて口を開くよりも早く、その視線は驚いたように、わたしの後ろにそらされた。
「――
自分の立場を自覚したうえで、常々そう呼んでいたように……
「
「ええ、そうね。……あなたが、勝手を働いて佐々原家を飛び出してからだから。もう一年になるかしら」
さほど気にした態でもなく、ただ不機嫌さをわずかにあらわすだけで、
「でも、そういうことなのね。よく、わかりました」
そして
「姉様が頻繁にこの街にきていたのも、
「ええ。馴染の方に
「そちらの裏口から出ていらしたわね、
「そうだよ。今は給仕の仕事を」
わたしが常々、反射的に妹へ感じてしまう怯えを堪えて穏やかな声を装うのとは対称的に、
「卑怯者。でも、いい気味ね」
そうして怒りもあらわに、わたしたちへ軽蔑の眼差しをむける。
「ねえ
そして切り裂くように、すべてを終わらせる言葉を吐く。
「給仕だなんて。いいえ、誰彼とも主を定めずに傅いている男なんて、こちらから願い下げよ。――姉様も姉様だわ。妹の許嫁との密会、さぞ楽しかったでしょうね?」
わたしは、
「それでは、
「あたりまえでしょう!」
それなのに茶化すように、煽るように、
激昂でもって、
「
「
「実際どうであったって、あなたは姉に手をあげるのか!」
止めないと、と反射的に思った。
「父様には都合のよいように、言っておいてさしあげるわ」
最後にそう言い置いて、苦々しげな憤りもあらわに、
「
ようやっと、わたしの喉から発せられたのは、妹の名だった。おもわずその背を追おうとして、けれど長くわたしの身を支えていたその腕に、とらえ引き止められる。
「だめ。行かないで」
肩に手を添えこの身を己の方へ振り向かせるかたわら、あの春の日の朝のように、背に揺れ流れる黒髪をかるく手指で梳いて。
「あの時だって、言ったでしょう。俺は、
その言葉と、振り向いて目にした
昔から、わたしと
契機というものが、いつの頃にあったのかはわからない。
成長するにしたがって厭世的な言葉をつぶやくようになった
決して忘れられないひとつひとつが、わたしの身の内で、いつまでも捨てられない
そんな、いつか朽ち散ずはずだった感情がつもりもつれてしまったから。あの春の日に、将来の義姉と義弟という関係は、
「
まだ朝靄の静かに冴えわたる、花信風のそよぐなか、
わたしは彼が最後にあかしていった言葉を、その意味がもたらす変革ゆえにおそれたものだから、いまとて記憶に焼きつくのは、わたしへとあざやかな言葉を紡いだ
記憶に残る響きとおなじ声音で、彼はいま、わたしの目を見て名前を呼ぶ。
「俺はやっぱり、きみがいっとう好きだよ、
まだ春の芽吹きにも時はあるというのに、いまひとたび、あの日のように
「そんなこと」
けれども――けれども、この現実に目蓋を開くがいい。生来みじめで、卑怯なわたしよ。
もう、戻らないのだ。なにもかも、戻れないのだった。
「従順な娘、尽くしてくれる姉、理解ある義姉。
いまとても、己ですら触れること恐ろしい心の底を見透かすように、
「わたしは」
不意に、カフェーで垣間見た洋装の女性たちのあざやかさに、花信風の中で目を細めた感傷が思い起こされた。都合のよい娘でしかないわたしを、もしかしたらわたしだって、厭わしく思っていたのかもしれない。
「ねえ、
「俺のところに来てよ、
あふれ乱れる感情と葛藤、苦しみと愛しみゆえに、慕わしい言葉を受け止めることも、退けることもいまだ選べず。断ちがたい縁のように交わらせた視線を、そらすことができないわたしには。
かつてわたしと同じように家の籠の内にあった、けれど今やわたしとは違い家の加護の内にはない――
そうして、いまや返答を待ち望むその双眸の中心に、泣きだしそうになりながらも恋情を隠しきれずに惑う、飼いならされるばかりだったわたしをうつす人が。
ただただ、まばゆいばかりに自由に――そしていっとう、いとおしく見えた。
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