花信風

 佐々原ささはら家の三男が出奔したのは、花嵐はなあらしとても土に朽ちた、春の午后ごごのことだった。

 以来その行方、杳として知れぬと。かなうならばわたしとても、そのように噂をつむいでまなこをつむり、まことなどつまびらかにせずにありたかった。左様ならば、どれほど心安く彼を偲べただろう。

 いまだわたしの意思を乱雑にもつれさせ、時に心の臓をきりりと縛りつける男。みのるという名をもつ厭世的な幼馴染は、わたしとは近しい将来、義姉弟となるべき間柄の、見目好みめよい青年である。十八という齢にしては、頼りないほどに体の線も細く。また青白い肌に伏せがちな黒眸こくぼうがよく映えたものだから、あかあかとなやましげな口元とあいまって、彼はいっそ憎らしいほどにその眉目、女めいていた。

 そんな彼がふらりと行方をくらましてから、既に半年。当初は慌ただしく、しかし少しばかり苦々しげに彼の無事を案じていた佐々原家の親族たちも、みのるがどこぞに拐かされたでも、なにごとか厄介に巻き込まれたでもなく、若い熱に浮かされて出奔していったのだという事実を知ってからは、溜息まじりに三男の捜索から手を引いた。みのるの失踪から三日後に届けられた彼の直筆の文には、今後ご縁を断ち申し、我が名を家譜より削られたし、と。自ら逐電していった旨が簡潔に記されていたことを、妹は苛立ちとともに、わたしにこぼした。

 こうして銀座の街までひとり出向いてきたのは、つまりわたしの幼馴染であり、妹の許嫁であるみのるの消息、そのよすがを見出したためである。

 白亜の外壁をまとう瀟洒しょうしゃな装いに似つかわしく、西洋の言葉で「白い花」という名を持つカフェーは、しなやかな街角の一画にたたずんでいた。白い洋装の、秀麗で年若い給仕たちがゆきかう店内は賑やかで、通りに面した席では学生たちが討論をしていたし、ひとつひとつ言葉を丁寧に交わし合う文人たちの姿も見えた。お勤めの途中につく一息なのだろう、背広の紳士もカップを片手に休憩をとっていた。

 対して、わたしが席についている婦人席では、きっと日本橋の百貨店帰りだろう奥方たちや、あるいは新しい女と呼ばれる新進の女流文士たちや、彼女らに憧れる乙女が、それぞれに華やかな着物、帯、洋装に身を包んで、和やかに談笑をしている。

 藍染めのつむぎに灰青の帯をしめたわたしは、この場に在ってはどうにも不似合いに思えた。常磐の帯締めに縛られて窮屈な斜め格子の花菱の帯と、そしてマガレイトの束髪に添えたレエスだけが、頼りなくわたしの身を飾っていた。

 きっとこのような新進的で華やいだ場所に居ることを、古風な妹も、わたしの存在に眉をひそめる厳格な親族も、好まないだろうと思う。それでも、お稽古事で同じ先生についている顔馴染に、みのると似た青年をこのカフェーで見かけたと耳打ちされたのだ。その報せはまさに花信風かしんふう。密かに探せど案ずれど、辿りつかなんだあの男の足跡への、たったひとつ希望の花芽が、ほころんだ音信を告げ知らせる風だった。であればどうにも、足は物慣れぬ場所へも向いた。

 緊張で固くなる身を少しかがめ、隠れるように息をつき。膝の上で重ねた両手を組みなおした時、卓上ばかりを見ていた視界に、殿方の白い洋装の端が横切る。店に入った時に不慣れながらも注文していた、聞きなれぬ響きの外国の飲み物が運ばれてきたようだった。

「承っておりました、珈琲をお持ちしました」

 その、耳慣れた声に。はっとなって顔をあげれば、眼前にはわたしの頼んだ品を給仕する、わたしひとりが闇雲に探しつづけた人が――見目麗しい幼馴染がそこにいた。

「みつけた」

 声は、震えてしまってうまく言葉にならない。安堵と、虚脱感が、いちどにわたしの身中を巡った。

 すると、みのるもわたしに気付いたようだった。けれども給仕の白いお仕着せに身を包んだ彼は、一瞬、わずかに目を瞠るだけ。彼はすぐに伏し目がちに微笑して「……ひさしぶりだねえ、縫子あやこ」と、なにごともなかったかのようにわたしの名を呼んだ。

「よくここがわかったね。でも、縫子あやこは珈琲を好きにはならないと思うよ? 苦いものは駄目でしょ、きみ」

「わたしのことなど、どうでもいいわ。みつけた。ようやっと」

 飄々として銀盆からカップを差し出す彼は、噛みつくようにきっと視線をあげたわたしの目をみつめ、心底嬉しそうに声を弾ませた。

「そうだね。みつけられてしまった。――でもよかったよ、きみで。佐々原の家は俺を見放してくれた?」

「もう、我関せず、といったところよ」

 口惜しいことに、そうなのだ。六人の男児を儲けている佐々原家の当主は、三男が出奔したとさだまるや、そのような不義理な、筋を通さぬ人間は我が家筋にはいらぬといって、以降いっさいみのるの行方を追うことをやめた。

「そう。なら安心できる」

「そんなこと! ……悠子ひさこ、だって。あなたを案じていたわ」

 わたしは咄嗟に、嘘を吐いた。気の強い妹は、許嫁の出奔に苛立ちこそすれ、心配などというそぶりは見せずにいたというのに。

 みのるの出奔から二月あまりが経つまでに、妹が通う女学校でも、彼の噂はさざなみのように広まっていたらしい。級友たちに興味本位でみのるのことを尋ねられ、あるいは消沈しているだろうと心配られる日々にあって、悠子ひさこが憶える羞恥と怒りは、そのままわたしへの棘ある態度として、不機嫌に投げつけられた。

 面差し涼しく、穏やかで、特技と言えば洋書をなめらかに諳んじるほどに語学をくし。そんな非の打ちどころのない優秀な、幼少のみぎりよりの許嫁であるみのるに、捨て置かれた十四歳の少女。そんな悠子ひさこの為にわたしができることは、その癇癪を甘んじて受けいれることだけ。なんということはない。ただ、幼い妹が機嫌を損ねる度にあたられていた昔に、一時、戻っただけである。

 つまりは気丈な妹とて、心穏やかではいられなかったのだ。ならば将来の義弟を見失ったわたしですら、紡がれる噂を耳にするたび、ひどく不安定な情をもてあまして――ぎゅっと口元を引き結ぶことしかできなかったのも、きっと不自然ではなかった。

 そのような時間は、けれども時が経つにつれ、次第に誰も手を触れないものとなっていった。みのるの名前も、名残も、佐々原の家内いえうちや、その遠縁であり、近い将来姻戚となるはずであったわたしたち拝坂はいさか家の人々のそばから、ゆっくりと消えてゆこうとしていた。

「どうして出奔などしたの、みのるさん。高等学校を出たからって、父様とうさまの商社で、お勤めすることも決まっていたのに」

「そりゃあ、あのまま従順にしていたって、欲しいものは手に入らないだろ。佐々原の家で飼いならされて、悠子ひさこと結婚して、今度は拝坂の家で首輪に繋がれるなんて。肩身は狭いし、自由もきかない。厭な生き方だよ」

 それでもわたしにはどうしても、みのるが佐々原を離れる前に告げ残した声を、忘れ去ることができず。妹の許嫁であり、幼馴染である同い年の青年が、かの春の日にこの首筋に突きつけていった言葉に急かされるようにして、その行方を密かに追い辿り続けた。

 佐々原季ささはらみのるが、拝坂悠子はいさかひさこと結婚して、拝坂家の跡目を継ぐ。いずれはそうなることとわかりきって、信じきって、いままで暮らしてきた。ずっと。それがいっとう望ましいことだと、いまだって思っている。

 ゆえ、わたしはいまこうして不慣れな喫茶の店に入り、ひさかたぶりに見えた大切な幼馴染へと、わずかに縋るように、けれど必死に言葉を繰る。

「でも。それでも、みのるさん。お願い。佐々原の家に戻ってきて? お婿にいらしてくれるなら――世間からみたら、肩身は狭いかもしれないけれど。でも拝坂はあなたをとても、とても大事にするわ。絶対よ。……拝坂へ、悠子ひさこのお婿に来てくれたら。そうしたらすべて、もとに戻れるわ。まだ、もとに戻れる」

 けれどみのるは今度こそ、穏やかに笑んで、否定の言葉をわたしに突きつけた。

「戻らないよ。拝坂悠子はいさかひさことの結婚なんて、冗談じゃない」

 わたしは咄嗟に、卓上に左手をついて身を乗り出した。そんな言葉、聞けるはずがない。それでもみのるはただ、他の客たちから見えない程度に、わずかにわたしの震えがちな手に長い指を添えて制した。そうしてあかい唇を引き結ぶようにして、彼はひそやかにわたしへと笑まい、口遊くちずさむ。

「それに、絶対に大事にするってなに? 拝坂の中で、その言葉を心底抱き続けてくれるのなんてきみだけでしょう。……縫子あやこは俺が婿に入れば、いずれ嫁に出されるじゃないか。それとも一生、縫子あやこは拝坂の家で、大事な大事な俺の世話でもしてくれるわけ?」

 その言葉を聞いて。

「家主の機嫌を取る女が、いつまでも側近くに侍る、なんて。それってさあ、穿って見れば妾とそうかわらないだろ」

 わたしにはそれ以上、彼へ言いつのることができなかった。

縫子あやこは、縫子あやこの母上みたいに、婿養子の妾になりたいの?」

みのるさん」

「それじゃあ、俺はまだ仕事があるから。それと、縫子あやこにはやっぱり珈琲はおすすめできないし、次は別のものを頼むといいよ」

 いくらわたしが彼の背中から視線を外せずにいようとも、すぐにみのるは、店の奥へと消えてゆく。充分に時間がたってから、消沈と口惜しさと共におそるおそる口にした珈琲はぬるく冷め。己が心中でくすぶる口惜しさと不安のような、ひどく舌を焦がす苦味を、わたしは随分と苦労して嚥下した。

 さりとて。きつい、抉るような言葉を吐いたみのるに、わたしが再び逢いにゆくのに、そう時間はかからなかった。

 彼の言葉はどうしたって、わたしの胸に突き刺さる。けれど否定などできはしない。みのるの言うことは、すべて真実であるからだ。

 わたしは、確かに父の長子である。しかし妾腹の娘である。

 拝坂の家に婿養子として入った父は、たぐいまれな経営手腕を発揮して、開国よりも以前、徳川の将軍の御世より続く老舗の拝坂を、大きな商社へと育て上げた。けれど正妻は病弱で、夫と過ごすよりも長い時間を臥せっていた。父が、私の母を妾に囲い、拝坂の家付き娘であった正妻とてもがそれを許すのに、そう時間はかからず。そうして、わたしが生まれたのだ。やがて四年後には、正真、拝坂の血筋である正嫡の悠子ひさこも。

 いまでこそ、わたしの母も、悠子ひさこの母も死に。わたしたちは親族の手前、明確な待遇の差こそあれど、姉と妹として暮らしている。けれど悠子ひさこが跡取り娘として婿を迎えれば、拝坂の親族への配慮から嫁がずにいるわたしとて、嫁入り先を探して家を出て行くだろう。

 みのるの言うことは、もっともなのだった。

 それでもやはりわたしは、どうにも希望を捨てきれず。

 結局、佐々原の家にも拝坂の者にもみのるの消息を掴んだことを告げられないまま、わたしはふたたび銀座のカフェーを訪ねた。みのるはまだ、再会した時と同じように働いていた。ひとつ違ったのは、わたしが恐る恐る婦人席にかけるのを見るや、彼は注文もとらぬうちに一度奥へと退き、ふたたび客席へ出てくるや、あざやかな色の冷えた飲み物を手際よく給仕してきたことだった。

縫子あやこは、こっちの方が好きだと思うよ」

「お天道様みたいな色ね」

 そのさやかさに驚いてほうと息をつくと、みのるは「オレンジというね、蜜柑に似た、南国の果実の飲み物だよ」と楽しげに声を弾ませた。

 その声音は、幼い頃ともに遊んだ日々のように、彼が好んだ洋書の話をする時のようにかろやかだった。けれどわたしが飲み物に口を付けるよりも前に「先日に、あなたが話したことだけれど」と切り出すと「俺だってきみだって、そんな話、好きじゃないでしょ」と、はりつけたような笑みで一蹴し、すぐにわたしの席から離れるのだった。

 みのるがすすめてくれた橙色の果実の飲み物は、すうと、喉を清かにすべり、酸味がどうしてかあまやかだった。

 その次も、さらに次も、そのようなことばかりが続いた。

 華やかな銀座まで出向くのには、やはりずいぶんと勇気が要る。けれどわたしは秋が過ぎ去り、冬の気配が深まるようになっても、彼の働くカフェーへと赴きつづけた。

 その頃には、焦りよりもおもんぱかる情の方が強くなっていったから、給仕をするみのると二言、三言交わす言葉だって、変化もしうる。たわいもなく、半衿はんえりの刺繍を褒められたり、みのるの現状を気遣ったり。そんなやりとりは、佐々原の家へ帰ってきて、拝坂の家にお婿に来て、などという願いを言いつのるよりも、ずっと心安らいだ。……たった数十秒だけ見え、実のない言葉を交わすだけだと、したって。

「体調でも、くずしていたの?」

 給仕として姿を現したみのるを目にした途端、そんな言葉が口をついて出たのは、寒さもやわらぎ、春の気配もわずか顔をのぞかせてきた頃のこと。

 その頃しばらく姿を見つけられずにいたみのるは、わたしが気をもみながら昼下がりのカフェーを訪うと、少しばかり疲れの見える面持ちで勤めをこなしていた。彼がわたしをみとめた途端に、注文を取るという建前で側近くまで来遣きやり、疲労感に反して晴れ晴れと表情をほころばせるそのさまは、生来の佳人ぶりもあいまって、どうにも儚く見えてしまった。

「いや、そうではないよ。ここのところずっと横浜の方に赴いて、忙しくしていただけ」

「……横浜?」

「そう。ねえ、聞いてよ縫子あやこ。横浜の商社に勤めることになった。貿易商だよ」

 みのるの言葉に、わたしはおおきく目を見開いた。高等学校で学んでいた時分から、ほんとうに西洋の言葉、外国の文化に熱心だったみのる。けれどもこうして離れている間に、その熱を生かせる仕事を、彼は得たというのか。ただはやばやと悠子ひさこと結婚し、拝坂商社を継ぐよりももっと自由に羽ばたけるかもしれないその道を、彼は志すというのか。

「では横浜に、移り住むの?」

「そう。勤め先の主人は、このカフェーの常連でね。外国の言葉を扱えるなら、と。ずいぶんと俺を買ってくださったんだ」

 みのるは、心底嬉しそうにはにかんだ。

「――とても、おめでたいことだわ!」

 無意識ながらも咄嗟に、わたしは声を弾ませる。みのるがさらに遠くへと行ってしまうだろうとか、働きながらも支援者を得、志高く己が道を往こうとしている彼が羨ましいだとか。そんなことを思うよりも先に、みのるが嬉しがることを、わたしも嬉しいと心より思い、その感情だけに突き動かされた。

「お祝いを申し上げますね、みのるさん。ああ……祝いのお品はきちんと後日に持参させて?」

 すると、幼馴染はたおやかな声音で「それじゃあ」と、わたしへ告げる。

「祝いの代わりに、帰り道に同道する時間をちょうだい。縫子あやこ

 わたしが思わずまたたくと、みのるは「もうすぐに、今日の仕事は終わるから。少し飲み物を飲んで待っていてほしい。あと半刻ほどしたら、店の近くの道へ出ていてよ」と、弾んだ声で言い置いて、そのまま注文も聞かずに店の奥へと消えてしまった。

 首をかしげながらも、けれど帰り道という言葉に、わたしはわずかな希望を見出した。みのるはもしかしたら、拝坂とは商いの傾向が異なると言えども、同じ商社の職を得たこの機に、佐々原と、そして拝坂のもとへ帰ってきてくれるのかもしれないと。

 かくてわたしは、はやまる動悸を抑えて、他の給仕の少年が持ってきた、いつもと同じ果実の飲み物で時間をつぶし。そして、言われていたとおりに、半刻の後に、カフェーの前の通りへと出向いた。

 大通りからは少々奥まったこの通りを、行き交う人々の姿もまばらだった。冴え吹く風はあわくとも花信かしんの気配を孕み、わたしの髪をわずかに乱す。カフェーの出入り口からはわずかに離れ、窓辺ちかくに寄り添うようにたたずむと、かたわらの硝子窓越しに、髪を首筋のほど近くで短く切りそろえた女性たちが、カフェーの席で堂々と殿方たちと――文人たちと談笑しているのが見えた。新しい女、と。そう称される彼女たちは、閨秀けいしゅうの作家や画家たちが発行し一時期巷を騒がせた、婦人問題を唱える冊子とともに折々に人々の話題にのぼる。彼女たちのような女性を目にする機会は、このカフェーにみのるに会うために通うようになって以来、以前にもまして増えてひさしい。そのきっぱりとして朗らかな姿を硝子窓越しに盗み見ながら、わたしはどうしてか、ぼんやりとした羨ましさを憶えて目を細めた。

「こんなところに、通っていたの? 姉様」

 その時、不意に馴染ある少女の声が、わたしを呼んだ。はっとしてそちらを向けば、通りの端、脇道のほど近くに停められた人力車の車上から、妹がけわしくこちらを見ていた。

悠子ひさこさん……どうして」

「どうしてもなにも。頻繁に外出していらしたじゃない。妙だと思っていたの。それに、この店で姉様を見たなんて、女学校のお友達からも聞かされて。恥をかいたわ」

 わたしが悠子ひさこのもとへ寄りゆくと、寒空の下、少女はひざ掛けをとりさって、車夫の手を借りかろやかに車上からおりた。海老茶袴をさばき、花咲く小紋の袖と、繻子のリボンで飾った長い黒髪を揺らしてつかつかとこちらへ歩み寄り「こんなところで遊び歩いて」と、きつくわたしを睨めつける。

 けれども委縮したわたしが一拍遅れて口を開くよりも早く、その視線は驚いたように、わたしの後ろにそらされた。

「――みのる

 自分の立場を自覚したうえで、常々そう呼んでいたように……悠子ひさこは、将来の夫の名をためらいなく口にする。振り返れば店の脇の通りから、勤めを終えた洋装のみのるが、わずかに眉根を寄せてこちらへ歩み来ていた。

悠子ひさこさん。ひさかたぶりだね」

「ええ、そうね。……あなたが、勝手を働いて佐々原家を飛び出してからだから。もう一年になるかしら」

 さほど気にした態でもなく、ただ不機嫌さをわずかにあらわすだけで、みのるはかつりと石畳に靴音を重く響かせ、わたしの傍らで立ち止まる。悠子ひさこはぎゅっと口元を引き結んでから、苛立ちをかみしめるようにみのるを見上げた。

「でも、そういうことなのね。よく、わかりました」

 そして悠子ひさこはわたしへと、いや、わたしたちへと、呪詛のように荒立つ声を突きつける。

「姉様が頻繁にこの街にきていたのも、みのるに逢うためだったのね」

「ええ。馴染の方にみのるさんをこのカフェーで見たと、教えていただいて。探しに来たのよ」

「そちらの裏口から出ていらしたわね、みのるは。あなたここで働いているの?」

「そうだよ。今は給仕の仕事を」

 わたしが常々、反射的に妹へ感じてしまう怯えを堪えて穏やかな声を装うのとは対称的に、みのるはさきほどとは打って変わってそっけなく、ただ現状だけを口にした。

 悠子ひさこはどちらもはねのけるようにして、ただ「そう」とだけ答える。

「卑怯者。でも、いい気味ね」

 そうして怒りもあらわに、わたしたちへ軽蔑の眼差しをむける。

「ねえみのる。私、ここであなたには会わなかったわ。あなたの行方を、みつけなんてしなかった。これからだってそうよ。佐々原も拝坂も私も、もうあなたなんていらない。いつまでも私ひとりのものになってはくれないみのるなんて、いらない」

 そして切り裂くように、すべてを終わらせる言葉を吐く。

「給仕だなんて。いいえ、誰彼とも主を定めずに傅いている男なんて、こちらから願い下げよ。――姉様も姉様だわ。妹の許嫁との密会、さぞ楽しかったでしょうね?」

 わたしは、悠子ひさこが誤解していることを悟った。いや、誤解ではないのかもしれない。だって実際、わたしはみのるの在所を知った後とて、誰にもそれを言わなかった。言えなかった。みのるが佐々原へ戻って、やがて拝坂へ婿に来てくれると。そんな本来叶うはずだった関係性に戻れるまでは、明かせるはずなどなかった。だって悠子ひさこの許嫁に戻らないまま、みのるが佐々原に帰ってしまえば――同じことが繰り返されるだけ。定められていたはずの現実に、定まってはならない現実が、塗り重ねられてしまうだけなのだから。

「それでは、悠子ひさこさんとはこれでご縁も切れるのかな」

「あたりまえでしょう!」

 それなのに茶化すように、煽るように、みのるは言葉を操る。

 激昂でもって、悠子ひさこは一足でわたしとの距離を詰め、ぱしん、と。その激しさに身を任せてわたしの頬をはたいた。

縫子あやこ!」

 みのるの、焦りのにじむ声より一瞬遅れて、やけるように肌が痛んだ。思いもよらぬことに呆然としてぐらりと身を傾がせたわたしを、慌てたように彼が支える。なにも、考えられなかった。やがてじんと鈍く沁みひろがる傷みに、片手をあてがうこともできず。けれども悠子ひさこの矜持を知るわたしは、その行動に違和を感じはしなかった。

縫子あやこ姉様、これで満足? それとも残念? いままで私に必死に尾を振って、拝坂の家でやってきたのだもの。こんな恥知らずなこと、なんということはなかったのでしょうね。せっかく跡取り娘の許嫁をたぶらかしたのに、当のみのるは佐々原からも、私からも見捨てられて。拝坂の家を継ぐことなんて、もうできないわ。私が許さない。いい気味ね。いいわよ、あげる。みじめで卑怯な男と女で、お似合いじゃない」

「実際どうであったって、あなたは姉に手をあげるのか!」

 みのるが怒りもあらわに、押し殺した声で悠子ひさこを詰った。

 止めないと、と反射的に思った。悠子ひさこの機嫌をそこねてはならない。それなのにどうしてか声をなくしてしまったわたしの眼前で、悠子ひさこはわたしを謗るように、一度口元を引き結んだ。その後は、その齢特有の潔癖さでもって、自身の頬にすら紅葉を散し、きつく怒りを吐き捨てるのみ。

「父様には都合のよいように、言っておいてさしあげるわ」

 最後にそう言い置いて、苦々しげな憤りもあらわに、悠子ひさこは再び人力車に乗り込む。そしてわたしが止める間もなく、車夫に拝坂の家の在所を告げた。

悠子ひさこ!」

 ようやっと、わたしの喉から発せられたのは、妹の名だった。おもわずその背を追おうとして、けれど長くわたしの身を支えていたその腕に、とらえ引き止められる。

「だめ。行かないで」

 肩に手を添えこの身を己の方へ振り向かせるかたわら、あの春の日の朝のように、背に揺れ流れる黒髪をかるく手指で梳いて。みのるは、まだじわりと熱を帯びたわたしの頬にかるく、いたわるように手を添えて「縫子あやこ」と、わたしの名を呼んだ。

「あの時だって、言ったでしょう。俺は、拝坂悠子はいさかひさこのもとでは生きたくはない。縫子あやこに、拝坂悠子はいさかひさこばかりを追ってほしくない」

 その言葉と、振り向いて目にしたみのるのいたましげな眼差しと、名残惜しげに離されたてのひらの、血の気を失った真白い冷たさに。わたしは、言葉を失うことしかできない。

 昔から、わたしとみのるは両親から大切にはされない子供同士で、時折親同士の都合で見えるたびに、互いに互いを気にかけていた。わたしたちが尋常小学校への入学を間近に控えるようになった頃に、悠子ひさこみのるの縁談の話がまとまった。男女七歳にして席を同じくせず、と。そう言われながらも、わたしたちは折々に将来の義理の姉と弟として言葉を交わした。

 契機というものが、いつの頃にあったのかはわからない。

 成長するにしたがって厭世的な言葉をつぶやくようになったみのるを、わたしが必死にたしなめたことか。それとも、わたしと悠子ひさこの母たちがそれぞれに亡くなって以降、途端に拝坂の家中でつよくなったわたしへの風当たりを、みのるが折々に案じてくれたことか。

 決して忘れられないひとつひとつが、わたしの身の内で、いつまでも捨てられないみのるへの情をいやおうなく育んだ。それでも生涯、義理の姉としてあるために、心中からけっしてあかさずに、いずれ死にゆく想いとして飼いならしていたつもりだった。

 そんな、いつか朽ち散ずはずだった感情がつもりもつれてしまったから。あの春の日に、将来の義姉と義弟という関係は、みのるの花嫁になるはずだった私の妹の知らぬところで、崩されたのだろうと思う。

縫子あやこ

 みのるが佐々原の家を出奔していった春の日。

 まだ朝靄の静かに冴えわたる、花信風のそよぐなか、みのるはひっそりと人目を気にして、ひとりわたしに会いに来た。そしてわたしの首筋に、彼は泣きそうになりながら、隠れるように、ささやくように声をつきつけ、こらえるように笑んで、去り――その午后に佐々原家の三男は、実家さとと袂を別ったのだった。

 わたしは彼が最後にあかしていった言葉を、その意味がもたらす変革ゆえにおそれたものだから、いまとて記憶に焼きつくのは、わたしへとあざやかな言葉を紡いだみのるの肩越しにみつめた、山桜の花枝の影ばかり。変革の兆しも、わたしたちの関係が終わる気配も、そして飼い殺すはずだった感情が芽吹く、その萌しも。すべてはかの、花嵐とても土に朽ちた春の日の朝に、ほころび咲いてしまったのかもしれない。

 記憶に残る響きとおなじ声音で、彼はいま、わたしの目を見て名前を呼ぶ。

「俺はやっぱり、きみがいっとう好きだよ、縫子あやこ。きみが俺のことをどう思おうとも、俺は君に生きてみるということの、まばゆさを教えてもらったんだから」

 まだ春の芽吹きにも時はあるというのに、いまひとたび、あの日のように花信かしん報せる風の中、かつて口遊まれた言葉を一言一句、違えずにささやかれて。わたしが誰にも明かせずに抱きしめ続けた、けっしてあってはならなかった記憶は、今この時の現実と重なった。

「そんなこと」

 みのるがそんな、ほんとうであってはならないことを言うから。現実になってはならないことを言って姿を消したから。彼の言葉が、わたしが必死に閉じ籠め続けた、あわかったはずの情を花ひらかせてしまったから。わたしはこのひととせの間、ひとり、ひどく苦しい罪悪を抱いた。だからこそ、執拗に彼の行方を探し、元の形におさめようとしていた。

 けれども――けれども、この現実に目蓋を開くがいい。生来みじめで、卑怯なわたしよ。

 悠子ひさこみのるを否定した。みのる悠子ひさこを追おうとしない。わたしは悠子ひさこに謗られて、みのるのその視線を、振り払い難く。

 もう、戻らないのだ。なにもかも、戻れないのだった。

「従順な娘、尽くしてくれる姉、理解ある義姉。縫子あやこは、いつまでそんな、他人に都合のいい籠の中で飼いならされるつもりなの」

 いまとても、己ですら触れること恐ろしい心の底を見透かすように、みのるはまっすぐに私を見つめる。

「わたしは」

 不意に、カフェーで垣間見た洋装の女性たちのあざやかさに、花信風の中で目を細めた感傷が思い起こされた。都合のよい娘でしかないわたしを、もしかしたらわたしだって、厭わしく思っていたのかもしれない。

「ねえ、縫子あやこ。最初は拝坂の家にも願い出て、申し込もうと思っていたけれど。こうなった以上はやはり、きみにだけ言うよ」

 みのるは懇願するように、ひとつひとつの言葉を丁寧に紡ぐ。今度はその肩越しへと視線を逸らすことかなわず、わたしはただ彼の伏せがちな黒眸の中に、脆弱におびえる己を見た。

「俺のところに来てよ、縫子あやこ。都合のいい娘として拝坂で飼いならされるくらいなら、そんな場所など、捨ててしまってよ。俺が連れ出すから。いっとう、きみを大切にするから」

 あふれ乱れる感情と葛藤、苦しみと愛しみゆえに、慕わしい言葉を受け止めることも、退けることもいまだ選べず。断ちがたい縁のように交わらせた視線を、そらすことができないわたしには。

 かつてわたしと同じように家の籠の内にあった、けれど今やわたしとは違い家の加護の内にはない――悠子ひさこの婿としていずれ拝坂家を継ぐはずだった未来を、かろやかに手放したみのるが。

 そうして、いまや返答を待ち望むその双眸の中心に、泣きだしそうになりながらも恋情を隠しきれずに惑う、飼いならされるばかりだったわたしをうつす人が。

 ただただ、まばゆいばかりに自由に――そしていっとう、いとおしく見えた。

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