墨と恋う

 師は、ながく恋を患っていた。


 まさしく患う、である。常より浮世離れして、ともすればまばたきの隙間の一瞬で、いずこか、花霞の間へ惑いきえてしまうのではないか。そう、ふとした折にこちらが眉根を寄せてしまうほどに、つかみどころのないひと。彼はしかし、かの魔性の美に魅入られるよりも以前は、たいそうきつく、張り詰めた弦のような鋭さと、迷いを見せない直ぐな指先を持つ、凛とあざやかな気性のおとこだった。

 それがこうも靄のように、あるいは消え入りそうな灯の、ぼやりとあわいたよりげのないものと変わり果てたのは、まちがいなくながく恋に患わされたゆえだ。最近では祈るがごとく筆をすべらせる、しかし願う形をいまだ得られずにあがくばかりの青年。そんな師の活力というものは、かれこれ三年ほど、根こそぎかの魔性にすいあげられるばかりであった。

 みどりが咲くのだ。師の筆先から。あどけなく、流れ渡るように色彩がすべりすべり、そしてあやうげな薄紅の花をほころばせる。葉が伸びる。あるいは茎が忍ぶ。紙の上に墨が流れ、梳き跡の残るやわい白の上に黒がよこたわる。角のまろくなるまで磨りつづけた墨を、水に溶き落とした、わずか青みのにじむ深き黒で、濃淡をもってして。師は――恋い慕いつづける魔性の美を、いつかまみえ、魅了されたのだという、山間の水辺に生きぬく植物を、どうにか、どうにか描きのこしたいのだ。ゆえ、無色と、濃淡の墨色だけで、今日とて彼は命を削ってみどりを咲かす。

 もうよいではないですか。こんなに、こんなに、あなたは恋をした。いつか垣間見た情景にこがれて、筆をすべらせたあなたの画は、かそけくつよくあざやかだ。せんせい、せんせいもう、じゅうぶんに、あなたの筆先に、息吹はやどりきっている。

 いつか師へ、背中越しに、押し殺していた声をふるわせたことがある。

 けしてふりむかない彼の、短く無造作にそろえられた黒髪が、陽光を疎んだ生白い首筋にかかっていた。襟元は跳ねた墨の灰色に染まりぼやけ、まるで師こそが、息吹をうしなった画であった。

 そう。きみはそう思うの。

 笑みすらふくんだ、悲鳴じみて逆に落ちつききった静かな声が、私のもとへかえりきた。よわよわしいほどにたよりない息の音が、昼も夜ももはやない、恋をした師が閉じ籠る座敷に、いきづいていた。

 筆を持った指先の動きをようやく止め、眼前に画をひろげた師は。どこかでなにかを失うことで、人間に孵化したばかりのこどものように、たよりなげに、その日いつまでも、画を見つめて座していた。

 師はながく、恋を患っていた。私はながく、師が魅入られた魔性の美を疎んじていた。

 だからこそ。

 三年のうちに師がこれではないと放棄しつづけた、師のいのちが吹き込まれた画をひとつひとつ手にするたび、私は黒と灰と白であらわされたみどりたちに、いつしか親しみすらおぼえるようになった。

 いつか、親に手放された幼かった私に、あのひとはまた命を吹き込んでくれたの。あなたもわかるでしょう。私と、おなじなのだから。と。

 師は、いのちを吹き込むひとだ。そして惜しげもなく、すべてを手放すひとだ。抜け殻だった私をひきとり、生かして、手放し。ただ無色であった紙に息吹を宿しては、手放し。手放し。

 琴線にふれる情景に恋をした師は、私たちを捨て置くばかり。けれども、それでもいいとすら、おもう。

 私たちは、師に命をもらった。師はこれからも、恋した情景を追って、命を削りつづけるだろう。そのたびに同じ運命をたどる私たちは増えつづける。師が恋をしつづけたって、それなら――きっと、さみしくなんかないはずなのだ。



 ……後世、あまた描かれた蓮の連作で知られる、水墨画家に。養われ、育てられ、手放され、恋をし、しかしやがて連作のすべてを贈られた、弟子にして養い子にして従妹である私は。この時まだ、私を生かしてくれたあなたに、おさなくおろかな恋を抱いていた、あなたの作品のひとつにすぎなかった。

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