第3章 事件現場へ

 抜けるような青空の下、右手に日本海、左手に小高い山々を望みながら、私たち二人を乗せた理真りまの愛車、真っ赤なスバルR1は北陸自動車道上り線を疾走する。

 後部座席は着替えなどの荷物でいっぱいのため、ただでさえ車内スペースの狭いR1は二人乗り自動車と化している。ハンドルを握るのは理真。本来なら車の運転は助手がするのだろうが、運転好きの理真が、こんな気持ちのいい晴れた日にハンドルを譲るわけがない。理真はドライブ中に小説のアイデアを閃くことが多いという。こうしている間にも、早くも行き詰まった連載小説の新たな展開が頭の中に沸きだしてきているのだろうか。それとも事件のことを考えているのだろうか。後ろの荷物の中には理真愛用のノートパソコンも入っている。


 カーナビに表示された目的地、すなわち菊柳きくやなぎ家への到着時刻は十時三十五分となっている。アパートを出たのが八時半だから行程は、ほぼ二時間。昨日の見積もりは間違っていなかった。到着時刻は丸柴まるしば刑事にすでに伝えてある。

 しかし、高速道路を二時間走ってもまだ県内なのである。新潟市内からなら一時間半も走れば東のお隣、福島県の会津若松あいづわかまつ、二時間あれば北のお隣、山形県の鶴岡つるおかまで行けてしまう。南北に長い県土の北側に位置する新潟市から南へ向かうとなれば、走っても走ってもまだ新潟県内という状況になる。

 いつか、西のお隣、富山県に用事があってやはり車で移動したときには、まだ新潟県内なの! と理真が運転しながらちょっと切れていたことがあった。都道府県面積第五位の新潟県をなめるなよ。


「よし、米山よねやまサービスエリアで何か食べていこう」


 次のサービスエリアまでの残り距離数を表示した看板をみつけた理真は、そう言ってハンドルを握り直す。理真は高速道路のサービスエリアで何か食べるのが大好きだ。今朝も高速で何か食べるからと言って朝食を抜いてきたのだ。


 私は軽くそばを、理真はがっつりカツカレーを胃袋に納め、行程は再開した。ここからハンドルを握るのは私だ。理真は助手席のシートをやや倒し、満足そうにコーヒーを飲んでいる。これでもお昼は恐らく、地元のおいしい名物を食べるとか言い出すに違いない。理真のペースに付き合ってものを食べていたらみるみる太ってしまうよ。それなのに当人はスリムな肢体を伸ばして助手席シートに収まっている。別段普段から体を動かしているわけでもないのに。全ての栄養が脳に行くのだろうか、この人は。羨ましい限りだ。


 北陸自動車道の上越ジャンクションで内陸部へ車線変更する。ここからは上信越自動車道だ。中郷なかごうインターチェンジで下りると、目的地まで残りの距離は十キロメートルもない。本当に道中のほとんどが高速道路だった。

 県道十八号線を南下し右手の脇道に入ると次第に建物の数は少なくなり、左右に木々の林立する林道となった。道路もゆるやかではあるが勾配を繰り返す。しばらく進むと何かの事務所らしき建物が見え、そこを過ぎるとすぐ目的地となる屋敷の門が木の間に見えてきた。同時にカーナビが案内終了のアナウンスを告げた。



 古風で趣のある玄関の前には若干の駐車スペースが設けられている。停まっている車は三台。私たちのR1が入ったら、もう満車だ。新潟県登録の自動車は、中越以南は長岡ながおかナンバーとなるが、そのナンバーが付いた車は二台。黒い高級セダンと見るからにガソリンを撒き散らしながら走るような燃費の悪そうなワインレッドのスポーツカー。後部にはすごいウイングが付いている。空も飛べてしまいそう。残る新潟ナンバーの一台には見憶えがあった。新潟県警の覆面パトに違いない。

 玄関の前に立ち呼び鈴のボタンを押す。やがて屋内から足音と共に、少々お待ち下さい、と中年男性の声が聞こえてきた。


「ようこそお越し下さいました」


 玄関のドアを開けた中年男性は、私と理真の目を交互に見て言った後、頭を下げる。恐らくこの人が執事の沖庭晋太郎おきにわしんたろうだろうと思った。濃いグレーのスーツに真っ白なワイシャツ、紺色のネクタイとベスト、いかにもそれっぽい雰囲気を醸し出している。


「こんにちは、私は安堂あんどう理真と言うものですけれど、こちらに新潟県警の丸柴刑事は――」

「ええ、伺っております。どうぞ、お上がり下さい」


 理真が事件捜査に加わるという話が事件関係者に伝わっているか不安だったが、丸柴刑事はどうやら話をつけてくれていたようだ。


「私はこちらで執事をしております、沖庭晋太郎です」


 高級そうなスリッパに履き替えて廊下を歩く道すがら、男性は自己紹介してくれた。やはりこの人が沖庭だった。黒髪と白髪が半々くらいの割合の頭髪は丁寧に後ろに撫でつけられており、ロマンスグレーというのはこれかと思わせる。身長は百八十に届かないといったところか。中肉中背の健康そうな体つきをしている。年齢は六十歳くらいのはずだが、顔つきは若々しく皺もあまりない。鼻の下に整えられたこれまたグレーの口髭は、年相応の外見に見られたいがために生やしているというような印象を受ける。


「丸柴刑事から私たちのことを?」

「はい、探偵が捜査に加わるので了承いただきたいと。奥様も玲奈れいな様も快くご承諾されました。何せ一筋縄ではいかないおかしな事件のようですので、解決に向けて近道が取れるならと」


 理真の質問に沖庭は答えた。過去に幾多のレジェンド探偵が多くの事件を解決している実績があるとはいえ、素人が犯罪捜査の現場に乗り込むことに抵抗を感じる人は当然いる。警察、民間問わず。有名な探偵ならまだしも理真などまだ無名の駆け出しだ。信用されなくとも仕方のないところだが菊柳家の人々は快く向かい入れてくれたようだ。いや、自宅で殺人事件が起きたというのに、快く、というのもないだろう、仕方なくと言ったほうが正しいか。


「沖庭さんは、いかがなんですか?」

「私ですか? 私も大歓迎でございますよ。私、若い時分は探偵小説が好きでよく読んでいましたから。明智小五郎あけちこごろう金田一耕助きんだいちこうすけは私のヒーローでしたよ。それなもので、実際に探偵が捜査を行うところを見られるかと思うと楽しみでして……いや、これは失言でした。奥様と玲奈様が大変怯えていらっしゃるというのに。今の話は、ご内密に……」


 沖庭は右手の人差し指を口に当てた。なかなかお茶目なところもある人のようだ。


「お隣が江嶋えじま様ですね? 探偵とワトソンが両名とも女性というのは珍しいですね。しかも、お二人ともお綺麗な方で」


 沖庭は続いて私に話を向けた。


「はい、ありがとうございます」


 こういうやりとりも、もうすっかり慣れたものだが、やはり少しくすぐったい。そして、私も理真も綺麗と言われたことを否定しないのもお約束なのだ。


「奥様、丸柴様、安堂様がご到着されました」


 そんな会話を交わしながらしばらく歩いているうちに、沖庭はドアのひとつの前で足を止めていた。


「どうぞ」


 ドア越しに上品な女性の声が聞こえた。失礼します、と言って沖庭はドアを開き、私と理真を先に入れるためドアを押さえたまま腰を屈める。室内は十二畳程の和室だった。

 大きな長方形の座卓を囲んで三人の女性がお茶を飲んでいる。ひとりは見知った顔、丸柴刑事だ。私と理真に目を合わせ、来たわね、と、その表情が言っている。残る二人のうち年配の女性、こちらが先ほどの声の主でもある菊柳可南子かなこだろう。白いブラウスに青いカーディガンを肩に掛け、長い黒髪は頭頂で纏められている。

 先ほど沖庭は私と理真のことを綺麗と褒めてくれたが、この可南子も綺麗だ。資料によると現年齢は四十七歳。言い方は変だが、年齢を感じさせる美しさという表現がしっくりくると思う。若作りではない年齢を重ねつつ美しさを保っている。そんなふうに見える。昔の女優のようだ。


「ようこそ。丸柴さんからお話伺いましたよ。よろしくお願いします。菊柳可南子です。こちらは娘の玲奈」


 可南子は立ち上がると一礼して後自己紹介し、隣に座る若い女性に手を向けた。その菊柳玲奈も立ち上がり、ちょこんと頭を下げ、


「ねえねえ、作家の安堂理真だよね? 凄いね、探偵もやってるんだ。私、本読んだことあるよ」


 古風な母親とは対照的なフランクな態度で娘は理真に話しかけてきた。

 母親が「玲奈」と名を呼んで諫める。


「あ、ごめんね――ごめんなさい……」


 玲奈はしゅんとして小さくなった。母親の言うことはよく聞く子のようだ。


「申し訳ありません、安堂さん。失礼よ玲奈」


 可南子は理真に頭を下げ、もう一度娘の態度を諫めた。


「いいんですよ。読者の方と会えて私も嬉しいです」


 理真は、まあまあ、とばかりに両手を振って可南子の頭を上げさせた。玲奈も、ぺこりと頭を下げる。

 菊柳玲奈。二十五歳という年齢を考えると少し幼く感じる。態度だけでなく外見もそうだ。茶色に染め軽いパーマをあてたロングヘアを頭の両側で結んでいる。ツインテールって言うんだっけ、こういうの。フリルが付いたりチェック柄の入ったりした派手目の洋服を重ね着している。膝上十五センチくらいのストライプ柄のスカートに膝下まである紺色のハイソックス。今時の女子という感じだ。


「今、お茶煎れますね」


 腰を屈めて急須を取り上げようとした可南子に理真は、


「どうぞお構いなく。先に現場を見せてもらえませんか?」


 可南子の動きが止まり、そうですね、と立ち上がり直す。玲奈も表情を引き締めた。そう、お茶をご馳走になりにきたのではない。安堂理真は探偵として事件の捜査に来たのだ。丸柴刑事も立ち上がり、


「死体発見現場は庭よ。一旦外に出て回る? 死体発見時と同じ状況を再現するなら奥の廊下から縁側に出るけど」

「縁側からお願いするわ」理真は即答した。



「私たちが玄関の鍵を開けて家に入ると、玲奈は先に上がって奥まで行ってしまったんです。荷物も運ばずに、この子ったら……あ、それで、私と沖庭さんが荷物を車から下ろして玄関を上がろうとしたとき、玲奈の悲鳴が聞こえて、私、荷物を投げ出して急いで声のしたほうへ走っていきました。奥の縁側の廊下に出たところで玲奈とぶつかって、この子、私にしがみついてきて。どうしたの? って聞いたら、庭の方を指さすんです。顔を背けたまま震える指で。私がその方向に目をやると……男の人が倒れていまして。足をこちらに向けて仰向けでした。見るとすぐに分かって……ええ、左腕が切断されているのが……すぐに沖庭さんも追いついて、私と玲奈を居間に落ち着かせて110番してくれました」


 死体発見時の状況を可南子は語った。縁側に立ち、死体が倒れていた庭に目をやりながら。縁側といっても廊下と外は四枚のサッシで区切られている。そのサッシを開け放てば、廊下はそのまま縁側となる。昔は雨戸で区切られていたものをサッシ窓に取り替えたのだろう。そこから見える庭は、私は典型的な日本庭園のようなものを想像していたが、ごく普通の庭だった。土の地面が露出したままで、鯉の泳ぐ池や灯籠もない。あるものといえば柿の木と思しき木が一本のみだった。垣根や柵が張り巡らされてもいない。土の地面は数メートルほどで途切れており、その先はすぐに林となっている。


「殺風景な庭でしょう」私の視線を追ってか、可南子が言って、「その林の向こうまで、いえ、この山一帯が全て菊柳家の所有地なんです。だから、特に柵などの境界は設けていないんですよ。昔はここで畑をやっていたんですが、この家に定住しなくなってからは畑もつぶしてしまい、今はこうして何もない地面が残るのみなんです」


 そういうことなのか。


「死んでいた男性は、皆さん全然知らない人物だということですね」


 理真が可南子、玲奈、沖庭と順に顔を見ながら、その全員に訊いた。

 三人は一様に頷き、代表するように沖庭が、


「はい、最近この辺りをうろついている浮浪者なのではないかと。警察の方もそうおっしゃっていましたし、私どもも、それ以外に考えつきません」


 沖庭の言葉に可南子と玲奈はもう一度頷いた。

 私はこの庭を何もない普通の庭と評したが、ただひとつ普通でないところがある。庭の中央ほどに描かれた人型の白い線だ。言うまでもなく死体の縁取りである。土の地面にテープを貼ることは出来ないため、白いロープを鋲で地面に留める形でその輪郭は表されている。その形はいびつだ。腕の形にしっかりとロープでかたどられているのは片側のみ。もう片側の肩口のところは僅かに盛り上がっているだけだ。左腕が切断されていたことを物語っている。

 沖庭の答えに、そうですか、と返した理真は縁側の下に用意されていたサンダルに足を通し、庭へと下りた。


「丸柴刑事、庭に足跡は?」

「ないわね。見ての通り乾いた固い地面だから、普通に歩いただけでは足跡は残らないわ。ここ数日雨も降っていないしね」


 理真は鞄から写真を取り出し庭の様子を見比べている。昨日丸柴刑事から預かった死体発見当初の写真だろう。それに気が付いたらしい可南子と玲奈は、遠目であるにも関わらず理真の手元から目をそらした。


「お話によると、厳密な死体の第一発見者は玲奈さんということになりますね。玲奈さんの口からも死体発見時の状況をお伺いしてもよろしいですか? 到着するなり、いち早く家に上がったそうですが」

「ええ、さっきママが話した通りよ。庭を見てみたら、その、だ、誰か倒れてて、よく見たら……腕が。それでびっくりして……先に家に入ったのだって、久しぶりに別荘に来てはしゃいじゃったからだし……」


 玲奈は怯えたように可南子の後ろに体を隠した。さらに玲奈を守るように、沖庭が一歩前へ出て、


「お嬢さんはこの別荘に来るのを楽しみにしておられましたから」

「ここは別荘ということになっているんですね?」


 理真は庭から邸宅を見上げながら言った。


「はい、なにぶん町から遠く生活に使うには不便な立地ですので。今は執事である私も含めて、ご家族全員、町中にある新しい家に居住しております」

「今回別荘を訪れることになったのは、何か理由が?」

「特に理由ということもないのですが、二、三ヶ月に一度くらいの割合で数日こちらで過ごすことが習慣となっております。町からは遠いですが自然環境はいいですし、人が住まなくなると家は傷んでしまいますから。まあ、私が月に最低一度は訪れて手入れをしておりますが」

「私、ここ好きよ。ずっと住めと言われたら、ごめんだけど」


 玲奈が言った。もう可南子の後ろから体を出している。


「私も……ここに来るのは好きです。思い出深い場所ですし……」


 可南子は庭を、いや、その向こうの林を遠い目で見つめた。その目は、林も越えてはるか山中まで見ようとしているのかのような遠い目だった。隻腕鬼、間多良春頼まだらしゅんらい。かつての可南子の恋人。私はその名を思い浮かべた。


「そうですか。ありがとうございました」理真は屋内へ戻ろうと縁側まで近づいて、「あ、つかぬことを伺いますけど、表に停めてあった車は、沖庭さんと玲奈さんの?」

「セダンは奥様とお嬢様を乗せて私が運転してきた車です。赤い車は――」


 沖庭が答えている途中に、庭に向かってくる足音が聞こえてきた。誰か玄関に入らず直接家の脇を抜けて庭に来るものがいるらしい。足音からして、ひとりではない。


「お、その人が名探偵? ふーん、美人じゃんか」

「やだ、次晴つぎはる、ああいうのが好みなの?」


 家の陰から姿を見せたのは、男女の二人だった。男のほうはカラフルな刺繍の入ったブルゾンにカーキ色のTシャツ、ダメージジーンズ、赤いスニーカーは踵を履きつぶしている。金色のメッシュを入れた髪、顎には、うっすらと髭をたくわえている。隣の女性は派手な柄のシャツにレースのカーディガンを羽織り、下はホットパンツにエナメルのパンプス。胸元、腕、脚を派手に露出させ、ウェーブのかかった茶色い髪をなびかせていた。


「こちらは次晴様です。今ほどお話しておりました車は次晴様のものです」


 沖庭が理真と私に闖入者を紹介した。この人が源市げんいちの弟である源吉げんすけの孫の次晴。玲奈から見れば「はとこ」となる。


「おばさん、やっぱりこの近くじゃないわ。もっと林の奥に行かなきゃ駄目だな。結局、車で行かなきゃならないみたい」


 次晴は可南子に向かって言った。次晴からみたら、可南子は『おば』ではなく、正確には『いとこ違い』となるのだが、長いし便宜上『おばさん』と呼んでいるのだろう。


「そうですか。次晴さん、あまり奥まで行って迷ったりしないで下さいね」

「大丈夫ですよ、結構山の中の道までカーナビの地図で出てるから。傷が付くから、あんまり山道を車で走りたくないんだけど仕方ねぇな。お宝が出たらもっといい車に買い換えられるしな。じゃ、俺、用事があるんで」


 次晴は回れ右をして庭を出て行った。女性のほうも当然付き従う。


「今の方が次晴さんですか」


 理真はその後ろ姿が見えなくなると、確認するように可南子に質した。


「はい」と可南子は困ったように頷く。

「何か探して――」


 理真の声は玄関から響いてきた爆音にかき消された。次晴の車のエンジン音だろう。タイヤを鳴らす甲高い音の直後にエンジン音は遠ざかっていった。


「何か探しているようでしたが?」


 再び静寂が訪れてから、理真は質問をし直した。


「先代のお宝でございます」


 答えたのは沖庭だった。


「お宝?」

「はい……」オウム返しに訊く理真に沖庭は、「立ち話も何ですから、座敷へ戻りましょう」


 それに皆も賛同し、私たちは居間へと戻った。

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