第2章 死体にまつわること
話を終えた
「でね、話は戻るけど、今回の事件は、その隻腕鬼の仕業なんじゃないかって、そう言う人がいるわけよ」
「その隻腕鬼って、話に出てきた
「そんなの全然分からないわ。誰も見たこと……見たと言う人はいるのか。会って話をしたことのある人が誰もいないんだもの」
「結局、間多良……
「そうね、死体となって発見されたという報告もないわ」
「事故で左腕を切断された間多良が、山に籠もって人を襲う隻腕鬼と呼ばれる怪人になった。何で? 何で間多良は病院を抜け出したの? 何で山に籠もるようになったの? 何で私は生きてますって名乗りでないの? 何で人を襲うの?」
「知らないわよ。その隻腕鬼ってのも、言ってみれば都市伝説みたいなものだからね」
「ジェットババアみたいな?」
私は口に含んでいたコーヒーを吹き出した。
「何よ、
「何で都市伝説の代表がそれ? もっと他にいるでしょ。口裂け女とか、人面犬とか。私を笑わせようと思ってその名前言ったでしょ」
「そんなことないよ。ぱっと思いついた都市伝説の怪人が、たまたま、ジェットババアだっただけ。大体〈ジェット〉って、取り込んだ空気と燃料を化学反応させて噴射することで動力を得る発動機関のことだからね。何? ジェットババアは高速で走りながら空気を取り込んでいるとでも言うの? そして体内の燃料と化学反応を起こし……」
「どこから噴射するかは言うな」
私は、おしぼりでテーブルを拭きながら釘を刺した。
「で、話は戻るんだけどさ」理真は真面目な表情に帰り、「警察はその工場があった山も捜索したの?」
「したみたいだけど、それほど本腰を入れたものじゃなかったみたい。というのもね、
「えー、どうして?」
「それは後から話すこととも関わってくるんだけど、まあ、源市は地元の名士で警察にも影響力を持っていたから。間多良には捜索を願い出る家族もいなかったし」
「隻腕鬼の噂話が出るようになってから、これは失踪中の間多良かもしれないって、再び警察が山狩りをしたようなことは?」
「それはなかったみたい。逃亡中の凶悪犯罪者ならまだしも、原因不明で失踪した一市民だからね。さっきも言ったけど、間多良には身よりもなく、どうしても探してくれって懇願する家族もいなかったし。都市伝説を頼りに大勢の警官を動員して山狩りをするというのもないだろうしね」
「懇願する家族……その話の中で間多良と付き合ってた
「うーん、間多良が失踪した翌年に結婚してるしね」
「それも解せないよね。一年彼氏が見つからないくらいで、そうそう別の相手に乗り換えたりするような関係には見えない、じゃなかった、聞こえなかったけど、今の話じゃ。ヨーロッパに行っていたという一年で何かあったのかしらね。そもそも、何で国外に?」
「当時は、最愛の人を失って失意の果てにってことで周りは理解したみたいよ。そこのとこの事情は本人にしか分からないんじゃないかしら。でね、さっき理真が言った、隻腕鬼が人を襲う理由ってのにね、ちょっときな臭い話があって」
「ふんふん」
「これもあくまで噂だからね。確証のある話じゃないからね。間多良が左腕を失った事故なんだけど、本当は事故じゃないんだって。その日、本当は工場は休みの日で、当日工場にいたのは間多良と社長の菊柳源市の二人だけだった。間多良は社長に呼び出されて、こう言われたの、『娘と結婚する気があるのであれば、画家になる夢は捨てて、この仕事一筋に生きろ』って。画家の夢を捨てられない間多良は、それを拒否、そうしたら、逆上した源市が電動ノコギリを手にして間多良の左腕を切断。利き腕を奪うことで、もう絵筆を握れないようにした……」
「それって本当なの?」
「だから、噂だって。でも、源市を知る人がこの話を聞いて、あの人ならやりかねないって感想を言ったのは本当。さっきの話だけど、間多良が病院から失踪したとき、源市が警察に本気で探させなかったのも、もし間多良が見つかったら、彼の腕を切断したのは自分だとバラされるからだって」
「えー」
「それで、隻腕鬼こと間多良春頼は源市を恨んでいて、いつか復讐に来る。そんな話も巷間に上がってたの。今度の事件は、隻腕鬼がついに復讐に乗り出した、その先鞭だという話」
「でも殺されたのは全然関係ない人だよね」
「そうね。浮浪者、と決まったわけじゃないけど、まあ、菊柳家の関係者とは思えないわね。たまたま隻腕鬼と出くわしたばかりに犠牲になった。そう考えている人もいるわ」
「であれば、今の隻腕鬼は、出会う人誰それ構わず殺してしまう恐ろしい殺人鬼ってことね。じゃあ、殺した人の左腕を切断するのも……」
「犯人が自分であることの、隻腕鬼の復讐が始まったことを知らせるための証」
「そんなことのためにわざわざ腕を切りますかね。おまけに切断した腕を持って帰るってのも。一筆書いて残しておけばよさそうなものじゃない?」
「当然、警察もそんな噂話を信じちゃいないわ。でも、被害者の左腕が切断されたのは事実よ。その左腕も見つかっていない……」
丸柴刑事はカップを口に運んだが、中身が空だったことに気づき、おかわり持ってくるね、と言って席を立つとドリンクバーコーナーへ向かう。
時計を見るとお昼休みの時間はとうに過ぎ、店内の客もまばらになっていた。理真を見ると、神妙な顔つきで腕を組んでいる。一杯目のストレートティーも、そのほとんどがまだカップに残ったままだ。半分以上吹き出してしまった私のコーヒーもまだ底に残っている。
「今って、何時代だっけ?」
理真は、唐突におかしな質問を私にぶつけてきた。
「何時代ってことはないよ。現代としか言いようがないけど。未来の人が過去を振り返って、あの年代は何時代だったって名付けるものじゃないの?」
「呪われた名家、悲劇のヒロイン、事件の影に謎の怪人。今でもこんな事件が起きるんだね。ちょっと感慨深いわ」
確かに。私は思わず頷いた。
時代が流れ、不可能犯罪の様相も洗練されてきた。昨今の不可能犯罪のほとんどは都会で起きている。名探偵が活躍する不可能犯罪と聞いて一般に思い浮かべられるような、山村の旧家を舞台としたドロドロした血みどろの連続殺人事件というのは今は昔だ。もちろんそういう事件が全く絶滅してはいないがレアケースだろう。
「私よりも、
理真がすっかり冷めてしまったであろうストレートティーの入ったカップを口に運びながら言った。私もそう思った。
本邦における不可能犯罪捜査の草分けは何と言っても
作家
金田一耕助の本格的な活躍が始まるのは、戦後すぐに起きた、『
怪しげな伝説、伝承。怪異としか思えない殺人。それまでであれば呪いや祟りとしてしか片付けられなかった異様な事件に、金田一耕助は推理のメスを入れ、理知の光によって、全ては人間の成した犯罪でしかないことを看破していった。少年探偵団を率いて怪人二十面相と戦った明智小五郎もそうだが、戦後に活躍したレジェンド探偵たちは、旧態然とした体制や、恐れ崇めるだけの伝説を切り払い、『知恵と勇気を駆使して解けない謎は何もない』と私たちに教えてくれたのだ。
私でなくとも、今回の菊柳家の事件には、金田一耕助が手がけた事件の匂いを感じ取るだろう。ここは名探偵
考え耽っている間に丸柴刑事は席に戻っていた。二杯目はオレンジジュースを選択したようだ。もうすぐ本格的な夏が来る。冷たい飲み物がおいしく感じられる季節だ。丸柴刑事のグラスからは、ストローでオレンジ色の液体がどんどん吸い上げられていく。グラス内の容積のバランスが崩れ、氷がぶつかる涼しげな音が鳴った。
「それで理真、いつから来られる?」
「うーん……明日にでも」
連載小説の締切はいいのか。
「じゃあ、到着時間が分かったら電話して。この資料は置いていくから。死体発見現場には発見者の菊柳親子と
オレンジジュースを飲み干した丸柴刑事は鞄を手に立ち上がった。それを見た私は、
「もう行くんですか?」
「うん、県警に調べ物と荷物を取りに来たの。これから妙高に戻るわ。ついでに、と言ったら悪いけど、その足で理真に依頼したってわけ。じゃあ、理真、由宇ちゃん、明日、会いましょう」
丸柴刑事は、ウインクを置き土産に、伝票を取り上げレジへと向かった。ゴチになります。
「
二杯目に炭酸飲料を選んだ理真はストローから口を離して言った。今、理真が口にした丸柴刑事の呼び方から二人の親密な関係が窺い知れる。丸柴刑事は、理真が素人探偵として警察と協力関係になる前からの知り合いなのだ。私は理真に、
「どこぞの作家さんも忙しいんじゃない。連載小説の執筆と事件捜査を同時に抱え込んで」
「私、スロースターターだから」
理真はしれっと答えた。そんな言い方をしたら聞こえはいいが、理真の場合は『もうこれ以上遅らせたら百パーセント間に合わない』という、阻止限界点に差し掛かってから、慌てて作業に取りかかるパターンが多い気がする。まあ、ノートパソコンを持って行って合間に執筆をするのだろう。
「確かに理真向きの事件だけど、他にも理真を呼ぶ理由があるとか言ってなかった? 結局訊けずじまいだったけど」
「まあ、後から訊けばいいでしょ。もうちょっとここにいて資料読んでいこうか」
理真の提案に、もちろん同意する。ドリンクバーで一杯しか飲まずに帰るなどということはありえない。私は空のカップを手に席を立った。私もおかわりは冷たい飲み物にしよう。
資料によると菊柳家は、それこそ犬神家のような大一族かと思っていたが、それほどの大家系ではないようだ。
菊柳興産会長の菊柳源市の両親は子供を二人しか持たなかった。長男源市と、次男
続いて源市。こちらには、妻、
血縁ではないが一族に加えたい人物がいる。執事の沖庭
死体の所見に移る。丸柴刑事の話の繰り返しになるかもしれないが読んでいこう。
死体は死後一日程度経過している。傷口に生活反応がないことから、左腕は死後切断されたことで間違いはない。他に外傷はなし。死因は心不全。服装は紺色の薄手のセーターにグレーの作業ズボン、白いスニーカー。どの着衣もかなり使い古されたものとみられる。セーターの左袖部分はない。犯人がセーターごと左腕を切断して持ち去ったと思われるためだ。
写真も添付してある。まずは死に顔、デスマスクだ。髪の毛、口元を覆った豊かな髭とも、ほとんど真っ白。手入れはされていないと見える。髪、髭ともに艶がなく堅そうだ。やはり浮浪者だろうか。髭に隠れてはいるが、顔には皺が多く高齢であることを感じさせる。目も閉じられており表情は穏やかだ。何か恐ろしい物を見てショック死したとは思いがたい。
続いて問題の左腕。丸柴刑事が語った通り、死体の左腕は二の腕の肩に近い位置で切断されているため、腕としての部分はほとんど体に残っていない。腕の切断面を取り巻くようにセーターの生地がほつれている。理真の助手をしていると、こういう写真や、時には生の死体を目にする機会が必然多くなる。私はこういうの苦手だから、白い骨と赤黒い肉がのぞいた断面がどうこうという生々しい描写はやめるね。でも理真はこういうの平気みたいなんだよなぁ。ストローで炭酸飲料をちゅうちゅう吸いながら、涼しい顔で傷口の写真を見ている。こういうところは探偵なんだなと感心する。
死体の所見に戻ると、所持品はなし。現在指紋の照合中とある。前科があればすぐに身元が分かるのだが。
「だいたいこんなところだね」
理真が資料から顔を上げた。ちょうど炭酸飲料を飲み終えたようだ。グラスの底に残ったわずかな液体も残らず吸い上げようとしているらしく、液体と空気を同時に吸い込む、ズズズというストローの音がする。ドリンクバーなんだから、おかわりに行け。資料の最後にあったのは現場となった菊柳家の住所と地図だ。
「車で二時間、てとこかな」
目的地までの所要時間をざっと見積もると、理真も、そんなとこだね、と返した。道中のほとんどが高速道路を走ることになる。
「じゃ、早速帰って荷物をまとめよう。その前に、もう一杯だけ飲んでいく」
理真は空のグラスを手にドリンクバーコーナーへ走った。私は最後は暖かい紅茶で締めよう。
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