第19章 隻腕鬼街に現る

 朝だ。時計を見ると六時半。昨夜寝たのが確か十一時くらいだったから、睡眠不足でも寝過ぎでもない、ほぼベストな睡眠時間を取ったことになる。今日から献立に悩むことも、荒れ果てた倉を捜索することもないとなると、いっそう爽快な気持ちになる。いや、まだ理真りまが先々代の骨董品の捜索を続けると言うかもしれないな。その理真を見ると、まだ寝ている。玲奈れいなもだ。

 顔を洗い歯を磨き、今朝は沖庭おきにわにはゆっくり休んでもらって朝食は私が腕を奮うか、と階下に降りていくと、味噌汁のいい匂いが鼻孔をくすぐる。台所へ行ってみると可南子かなこがすでに朝食の仕度をしていた。先を越された。


「おはようございます」


 私の声に振り向いた可南子は、


「おはようございます江嶋えじまさん。すみません。材料、勝手に使わせてもらいました」

「いえいえ、そんなの。こちらこそすみません。朝ご飯作らせちゃって……」

「ふふ、いいんですよ。一応主婦として、沖庭さんにばっかりいい格好はさせられませんから」


 可南子の作った朝食は、ご飯、味噌汁、卵焼き、納豆に焼き魚(消費期限が切れそうで、カレーの具材に使うわけにもいかず困っていたのだ、使ってくれて助かった)という純和風の献立だった。納豆もパックのものを器に入れ替えてネギを和えてある。


「いやー、よく寝た」目を擦りながら最後に居間に姿を見せたのは加藤かとう刑事だった。

「俺も、いつになくぐっすり寝た」最後から二番目に席に着いた中野なかの刑事も言った。

「捜し物が見つかって安心したのかもしれませんね」


 ご飯をよそいながら可南子が声を掛ける。そうだ、今日は理真はどうするつもりなのだろう。見るともの凄い勢いで納豆をかき混ぜている。朝食が終わったら訊いてみよう。

 携帯電話の振動音らしき音が聞こえた。桑原くわばら刑事が目の前に置いた携帯電話からだ。ちょっと失礼、と桑原刑事が携帯電話を手に席を立つ。胸にクマがついた寝間着がキュートだ。桑原さんに合うサイズで残りはこれしかないからと、加藤刑事が見つくろったものだが、恐らくこれは嘘だ。浴衣とかあったはずだ。


「何!」


 廊下で電話に出ていた桑原刑事の鋭い声が聞こえた。うむ……分かった、と電話を切った桑原刑事は居間に戻るなり、


「加藤、中野刑事、行くぞ」


 短く声を掛けて寝室へ向かった。まだ食事の途中だったが、若い二人の刑事はほぼ食べ終える直前だったため、急いで残りを掻き込むと寝室へ向かった。


「何があったんですか?」


 寝室に向かって理真が話しかける。理真は、急いで朝食を片付けようと食べる速度を速めている。私もそれに倣い箸を動かす。


「目撃情報が出た」襖越しに背広に着替える音が聞こえる中、桑原刑事の声が、「隻腕鬼のな」


 居間にいた誰もが箸を止めた。


「どこでですか?」

「町中だ。目撃されたのは昨日の深夜らしいが」


 その言葉は居間に姿を見せてから発せられた。桑原刑事はもう背広に着替え終えていた。


「目撃者はサラリーマンだそうだ。帰宅途中に住宅地で目撃したと言って、今朝になって警察に電話してきた。時間は夜中の一時近く」


 桑原刑事は他の二人が着替え終えるのを待つ間、理真に詳しい状況を話した。理真以外もその話を固唾を呑んで聞いている。


「桑原さん」着替えを終えた中野刑事が顔を出し、「すぐ現場へ向かうんですか? あれはどうします、骨は」

「そうだな……」

「桑原さん」と理真が、「もしよければ、間多良まだらの骨は、科捜研に鑑定に出したいと考えているのですが、私が預かってもいいですか? 県警まで行くので、できればどなたか警察官の方に同行してもらえると……」

「よし、分かった。では、丸柴まるしば刑事に同行してもらうよう話をしておこう」


 桑原刑事はすぐに携帯電話を取りだした。


「仕度しよう」理真は私を見た。もちろんだ。私たちは、ごちそうさま、の言葉を残して二階へ上がった。



 私と理真は新井あらい署まで行き、そこですでに待っていた丸柴刑事の覆面パトに乗り換えて一路科捜研を目指した。

 車中で丸柴刑事から聞いた隻腕鬼の目撃情報は以下の通りのものだった。



 深夜一時過ぎ、接待で繁華街を飲み歩いた帰りのサラリーマン、太田祐二おおたゆうじは自宅近くの交差点でタクシーを降りた。そこから先は閑静な住宅街のため、あまりエンジン音を持ち込みたくなかったし、また太田さんのご主人が飲み歩いて午前様で帰宅したのよ、とご近所から噂されたくなかったためでもあった。もっとも、そういった噂を聞かされるのは主に妻のほうなのだが。交差点から自宅までは徒歩十五分ほど。歩くのは夜風に当たって酔いを冷ます目的もあった。

 ガキン。と聞き慣れない音を耳にして太田は立ち止まった。そこはちょうど十字路で、音は左の道から聞こえたようだ。見るとそこには街灯が立っており、明かりが円形に照らすアスファルトに斧が突き立っているのが見えた。斧の持ち手は明かりの範疇外にあり、何者が手にしているのかは分からない。斧は引き抜かれ、足音と共に斧の持ち主がゆっくりと明かりの中に姿を見せる。灰色のコート、紺色の作業ズボン、白いスニーカー、身につけたものはどれも薄汚れている。顔は見えなかった。コートのフードを目深に被っていたためだ。だが、フードからはぼさぼさの長髪がのぞいているのが見えた。斧は右手に握られており、コートの左袖はゆらゆらと風に揺らめいている。夜風の中を歩くまでもなく一気に酔いが冷めた太田は、悲鳴を上げ脱兎のごとくその場から逃げ出した。結局その悲鳴を聞かれ、太田の午前様は近所に知られることとなってしまった。


「その日は酔っていたせいで幻覚でも見たのかと、深夜だったこともあって、警察に連絡はしなかったんだけど、翌朝の出勤途中、その目撃した交差点へ行って調べてみたそうよ。そうしたら、街灯下のアスファルトに大きな切れ込みがあった。確かに昨夜、自分が見た位置に斧を叩きつけた跡が」

「隻腕鬼……」


 助手席に座った理真は呟いた。以前に矢作やはぎが目撃したものと服装は一緒だ。紺色の作業ズボンに白いスニーカーという新たな情報も追加されている。


「その住宅街を中心に一斉捜索よ。近隣住民に外出禁止令を出そうかという意見も出ているわ」と丸柴刑事。


 車は北陸自動車道を北上し新潟市内へ向かっている。来たときとはちょうど反対の行程のため所用時間も同じ程度。午前中のうちに到着できるだろう。


「大変ね。ごめんね丸姉まるねえ。貴重な人員を借りることになって」

「いいのよ。理真の捜査には極力協力してやってくれって桑原さんも言ってくれてるしね。近隣署から多数増援も来るし。でも、これで山狩りはなくなったかもね」

「そうだね。町中に隻腕鬼が現れたんじゃね。山を下りて町中に潜伏してる可能性が大きいものね……」

「隻腕鬼は、やはりいるの? だって理真の推理じゃ……」


 そう、次晴を殺したのは両腕とも使える人物。隻腕鬼ではありえない、それとも……


「そういえば、今朝はばたばたしてたから詳しく聞かなかったけどさ、科捜研で何を調べてもらうの?」


 私は隣に置いてある箱を見て訊いた。理真は後部座席の私を振り返るようにして、


「DNA鑑定」

「DNA? 何のために?」

「間多良のDANサンプルを押さえておきたい」

「それこそ、何のため?」これを訊いたのは丸柴刑事だ。「この先間多良らしき人物が現れた時、その人物が間多良だと証明するため? でも、DNA鑑定なんかするよりも、もっと明確な見分け方があるわよ、間多良には……」


 そうだ。


「左腕がない」

「そう……なんだけどね」理真はフロントガラスを見つめて、「何だかこの事件は変よ。目隠しされて手探りで知らない道を歩いてるみたい。少しでも何か出来ることをやっておきたいの」

「オーケー、名探偵がそう言うなら私は協力するだけよ。それに、理真が関わった事件で変じゃなかった事件なんてないしね」


 丸柴刑事は笑みを浮かべる。理真も、ありがとう、と答えて笑った。



 事態が事態のため、理真が好きなサービスエリアでの休憩は手洗いを済ますだけにした。その間に丸柴刑事が科捜研に電話をして簡単に訪問目的を告げていた。

 科捜研へ着いたのは、お昼にもまだ時間は十分ある頃合いだった。科捜研こと科学捜査研究所は新潟県警と同じ敷地内にある。私たちは車を降り研究所へ向かう。私が抱える桐箱の中からは歩く歩調にあわせて、カラカラと音が鳴る。


「よう、しおり


 待ち合わせ場所の研究所内の一室に入るなり美島絵留みしまえる研究員が声を掛けてきた。いつもの白衣に、私の丸メガネとは違い楕円形のいかにもインテリ風なメガネが光る。彼女は会う度に髪型がころころ変わる。後ろでおだんご結ってたり、サイドにまとめて三つ編みにしていたり。ツインテールだったり。共通するのは、いつも綺麗なおでこを出しているということ。今日はロングヘアを左右に分けているだけだった。動く度、豊かな髪が弾む。


「絵留。しばらくね」


 丸柴刑事も答える。栞って誰だっけ? と一瞬考えてしまった。丸柴刑事の名だ。美島研究員は丸柴刑事をファーストネームで呼ぶ数少ない人だ。


「理真に由宇ゆうも久しぶりだね。で、骨のDNA鑑定だって?」


 美島は私たちのところへ寄ってきた。丸柴刑事と並ぶと頭ひとつ低い。名前はエルでも体は小さいのだ。しかも童顔で、年齢は三十を超えているはずだが制服を着せたら高校生で十分通用するだろう。


「そうなの」と丸柴刑事は私が抱えた箱に目をやり、「火葬された骨なんだけど……」

「火葬?」美島は特徴的なハスキーボイスで頓狂な声をあげ、「無理だね」

「どうして? 電話じゃ……」

「電話だと、焼けた骨としか言ってなかったじゃん、栞。私はてっきり火事か何かで焼けた骨かと思ってたよ」

「火事と火葬じゃ違うんですか?」私は訊いた。

「そう。DNA採取に必要は細胞は、五百度くらいの熱で燃えてなくなっちゃうのね。火葬場で遺体を焼くときは八百度以上もの熱でじっくり焼かれて細胞はほとんど消滅しちゃうから、DNAを取り出せるような細胞が採取できる可能性は、ほとんどないよ。これが火事とかなら高い熱に晒されるのは短時間だけだから、まだ望みはあるんだけどね」

「……そうなんですか」


 がっくりきた。理真も、うーん、と唸っている。


「でも、まあ、駄目もとでやってはみるよ。他ならぬ栞の頼みだし」

「ありがとう絵留」丸柴刑事は拝むように手を合わせた。

「ありがとう絵留ちゃん」


 理真も頭を下げる。当然私も。年上なのに理真が美島のことをちゃん付けで呼んでしまっているが致し方ない。だってちっちゃくてかわいいんだもん。もちろん私も、絵留ちゃんって呼んでるよ。


「そんな畏まんなって、由宇が持ってるそれがそう? じゃ、机の上に置いといてよ。DNA鑑定の依頼は他からもいっぱい来てるからさ、合間を見てやっとくよ」


 私は、よろしくお願いします、と箱を机に置いた。


「じゃあ、私たちは戻るから」丸柴刑事はきびすを返す。私と理真も後に続く。

「……ねえ」


 部屋を出ようとした直後、背後から美島に声を掛けられた。私たちは振り向く。


「このお骨の主は人間じゃないのか?」

「は?」丸柴刑事は口を開ける。

「ほら、『ロード・オブ・ザ・リング』に木の巨人が出てきたじゃん、この骨は、そういう種族の方?」

「何言ってんの? 絵留」


 丸柴刑事は、ちょっと眉間に皺を寄せながら、つかつかと美島のもとへ戻る。さっそく美島は箱を開けて中身を覗き込んでいた。私たちもそばまで寄って箱の中を覗く。


「何?」「どういうこと?」「……」


 丸柴刑事、私、理真は、それを見るなり固まってしまった。箱の中にあったのは、入っていたはずの骨と同じくらいの長さ、分量に折られた木の枝だった。



 私たちは妙高市へとんぼ返りした。科捜研に来たときと同じく桐の箱を持ったまま。美島に、お昼を食べていけと誘われたが、そんな気分ではなかった。しかし、腹が減るのは人間の宿命だ。次第に空腹を憶えてきた私たちは米山よねやまサービスエリアで遅い昼食をとることにした、期せずして最初に事件現場に向かう途中、理真と寄ったのと同じサービスエリアだ。

 米山サービスエリアは海沿いで高台に位置するため、日本海を眺望できるベンチが設えてある。私たちは軽く食事をしたあと、ベンチに座ってコーヒーを飲みながら日本海を眺めていた。日本海というと荒ぶる海というイメージがあるだろうが、今日のように晴れて凪いだ日は穏やかなものなのだ。


 丸柴刑事が桑原刑事に連絡をとったところ、隻腕鬼、と見られる目撃された怪しい人物の発見には至っていない。また、それらしき人物を目撃、または襲われたという情報もない。菊柳きくやなぎ家の人たちは私たちが出たあとに、すぐに別荘を出て帰宅の途についたそうだ。私たちがまだ林の捜索を続けると思い、荷物などはそのままに食事の片付けだけしていってくれたという。

 箱の中身がすり替えられていたというこちらの話に桑原刑事は心底驚いていたそうだ。しかし、隻腕鬼捜索のてんやわんやで長電話は出来ないといい、戻ったら夜にでも詳しい話を聞くと確認して電話は終わったようだ。


「すり替えられたのは、いつ?」


 日本海を眺めていた丸柴刑事が理真を向いた。


「恐らく、昨日の夜から朝にかけて。昨夜、みんなで箱の中身を見たの。桑原刑事たちと菊柳家の人たちも交えて。そのあと、しまってからだわ。箱は加藤刑事たちの寝室に保管されてたから、あとで色々聞かなきゃならないけどね。少なくとも、朝出掛けることになってからは由宇がずっと持っててくれたから、すり替えの機会はなかった」


 理真は私を見る。私は頷いた。


「何のために?」


 丸柴刑事の続いてのこの質問には、理真は首を横に振り、


「分からない。骨自体が目的だったのか、DNA鑑定を阻止しようとしたのか……」

「誰が? って、これは決まってるわよね。犯人以外にこんなことするわけない」

「犯人って、隻腕鬼? 昨夜は随分と活発に行動したわね。菊柳家の別荘から骨を盗み出し、住宅街に現れる」

「そうね。目的がさっぱり分からないわね」

「……そうなのよね。この事件の犯人は何が目的なの? 死体の左腕を切断したのは? 次晴さんが殺された理由は? 間多良の骨を奪ったのは? そもそも、この事件は何が発端となって起きたのか……」

「そろそろ行きましょう」


 丸柴刑事はコーヒーを飲み干して立ち上がった。私と理真も立ち上がり車へと向かう。最後に振り向くと、霞がかった水平線で空と海の境界を曖昧にした日本海が青い海原を揺らしていた。

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