第9章 三十年前の事件

 娘の可南子かなこに意中の男がいるらしい。源市げんいちからそう告げられた沖庭おきにわは、同時にその男の調査を命じられた。

 可南子の通う大学を訪れ、まず遠目に見た調査対象の男、間多良春頼まだらしゅんらいの印象は、穏和でやさしい絵描き。肩までのばした髪と絵の具で汚れた服が芸術家としての自分を演出しているようだった。可南子と二人でキャンパスを歩くところも見た。厳格な父や、使用人である自分らには決して見せたことのない笑顔が新鮮だった。


 間多良の年齢は当時二十七歳。東京の美大を出て就職するも職場や仕事先の人間関係に疲弊し退職。知り合いに新潟の大学で美術教師の助手としての仕事を紹介してもらい移り住んだ。教授ら大学関係者、東京での勤め先でも人間的な評判は悪くない。引っ込み思案なところがあり、組織の中で生きるには向かない性格なのではないかとは、間多良の調査に行った東京で間多良と同僚だった会社員から沖庭が聞いた言葉だ。あいつ元気でやってますか、と逆に間多良の近況を聞かれもした。両親はすでに病気で他界。商社に勤めるサラリーマンと専業主婦だった。両親とも高齢になって授かった子供だったため、随分とかわいがられて育てられたようだとも聞いた。


 沖庭は一度、学内のテラスでたまたま隣に座った偶然を装い間多良と直接接触して会話を交わしたことがある。声が小さく、俯き加減に話すその姿に、これでは社会人を務めるのは容易でないだろうと感想を持った。しかし、こと絵画のこととなると目は輝き、弁も滑らかになり、将来は画家になって絵を描いて過ごすことが夢だと語る。そんな間多良に沖庭は好感を持った。普段、源市ら押しの強い商売人に接する機会が多い沖庭には新鮮な人物だった。恐らく可南子が彼に惹かれたのも同様の理由なのではないかと感じた。


 もう少しの間、偶然出会った他人として色々話を聞き出そうとした沖庭だったが、場所に大学内のテラスを選んだのがまずかった。不意に背後から、沖庭さん! と声を掛けられる。振り向くとそこにいたのは可南子だった。仕方なく沖庭が自分の身分を明かしたときの間多良のきょとんとした顔が忘れられない。


 沖庭は、調査対象はお嬢様の相手として申し分なし。との報告を源市におこなった。両親からの遺産など財産と言えるようなものはほとんどなく、金銭面で拠り所のない人物であることが唯一の懸念材料だったが、源市はそれは問題としなかった。いずれ菊柳興産のトップに立つ男なのだ。金は後からついてくる。源市は早速間多良を呼び大学の仕事を辞めさせ、菊柳興産へ入社させた。それは以前資料で読んだ通り、半ば強要されてのものだった。沖庭は後ろめたい気持ちを持ったという。可南子のほうは、いずれこうなることを覚悟していたのか、沖庭が思っていたよりも素直に間多良の入社を受け入れた。どんな仕事をしていても絵は描けると二人で話しているのを沖庭は聞いた。


 いざ始めてみれば仕事は順調だった。配属先が菊柳家(現在の別荘)の近くの伐採加工工場だったことは源市の配慮だったと沖庭は思っている。出勤、帰宅の道すがら、間多良は可南子と出会うことがままあった。人と喋ることの少ない木材のせん断、加工の業務は、人付き合いの苦手な間多良には合う仕事だった。可南子の婿、すなわち会社社長となるためには人付き合いも徐々に憶えていかねばならないが、今は二人は幸せな関係を享受していた。


「そんな中、事件は起きました。間多良が入社して半年ほど経ったときのことです」


 沖庭のコーヒーはほとんど手を付けられていなかった。湯気はとうに消えていた。



 五月の連休最終日だったその日、沖庭は菊柳家の書斎で雑務をこなしていた。庭のほうから足音が聞こえ、縁側から家の中へ上がり込む音がした。妙に思い駆けつけてみると、それは作業着姿の源市だった。額に汗を浮かべ居間の電話の受話器を取ろうとしている。何事が起きたのかと尋ねた沖庭に源市は、「間多良くんが怪我をした」とだけ語り119番のダイヤルを回した。庭から入ってきたのであれば、源市は工場のほうから来たのだと沖庭は思った。今日は祝日で工場は休みのはずだが……源市の作業着に所々赤いものがついているのが気になった。救急電話を終え源市は庭に出る。沖庭も当然あとをついていった。


 源市の向かった先は、やはり工場だった。そこで見た光景は一生忘れられない。壁に床に飛び散った血が異様な模様を描く中。間多良はうずくまって倒れていた。左腕にそこらにあったらしいタオルや作業着を巻き付けて。荒い息使いが聞こえ、わずかに胸が上下する以外は微動だにしていない。菊柳興産の作業着はグレーだったはずだが、左腕に巻き付けてあるそれは真っ赤に染まっていた。少し離れた場所には刃にべっとりと血がついた電動ノコギリが放り投げてあった。「間多良くんが手元を狂わせてな」瀕死の間多良を見下ろし、泰然自若といった面持ちで源市は言った。冷や汗を流し脚も震えた自分と比較して何て落ち着きようだろうと、沖庭は恐ろしく思った。電動ノコギリの横にさらに何か落ちている。それが何であるか認識したとき、沖庭は耐えきれずその場にへたり込んだ。作業着ごと切断された間多良の左腕だった。


 通報から十五分ほどで救急車は到着した。可南子は連休を利用して大学の女友達と旅行へ出かけていた。携帯電話などなかった当時、可南子が間多良を襲った災禍を知ったのは、その日の夕方、家に帰り着いてからだった。話を聞き沖庭の運転する車で病院へ駆けつけ手術室の前で待つ間、可南子はずっと泣き通しだった。手術中のランプが消え、ストレッチャーに乗せられた間多良が出てきて、その体にすがると、さらに涙はあふれ出た。「命に別状はない」主治医のその言葉を聞いても、沖庭の反応とは裏腹に可南子の顔は晴れなかった。失ったのが間多良の利き腕だと知っていたためだろう。病院へ向かう車内で、可南子は沖庭に何度も確認していたのだ、失ったのはどちらの腕か、と。


 面会謝絶の状態であったが、無理を言って可南子は間多良の部屋に付き添った。沖庭は病院の宿直室を借りて眠った。間多良の付き添いで病院にいたのは、その二人だけだった。


 看護婦に揺り起こされた沖庭は、朝になったことを知った。しかし、看護婦が沖庭を起こしたのは朝を告げるためなどではなかった。「間多良さんがいません」起きがけで頭が働かなかった沖庭は、看護婦のその言葉の意味をすぐには理解できなかった。間多良の病室に駆けつけた沖庭が見たのは、毛布がはぐられ空になったベッドと、まだ少し中身の残った点滴。そして、放心したように椅子に座った可南子だった。


 入院患者の失踪として病院は警察に届けを出した。警察により周辺の捜索が行われたが間多良の行方は掴めなかった。


「当時を思えば」沖庭は冷めたコーヒーに口をつけ、「警察の捜索は本腰を入れてのものではなかったと感じます。恐らくは源市様が口を挟んだのではないでしょうか。本気で探す必要はない、と」

「失踪したのは、娘の婚約者、ひいては将来の自分の後継者なのにですか」

「……安堂あんどう様も御存じでしょう。間多良が左腕を失った原因にまつわる噂」

「……あの噂は、やはり?」

「いえ、源市様は当然、そんなことは誰にも口にいたしませんし、目撃者も証拠もありません。ですが、その後の源市様の間多良に対するそっけない対応を思うと……」

「おまけに、源市さんの気性を考えれば、ありえない話じゃない、と」


 沖庭は黙って頷いた。可南子との結婚の引き替えとして筆を折ることを強要された間多良。それを拒否したために源市に利き腕を切断されたという、あの噂。


「それから可南子さんは海外へ行ってしまったんですよね」


 理真りまもすっかり冷めてしまったであろうコーヒーに口をつけた。


「左様でございます。間多良が失踪してから、お嬢様は大学にも行かれず、すっかりふさぎ込んでしまわれまして。ほとんど食事も取られないため体調をお崩しになられ、病院に数日入院されることもございました。

 あれは、間多良の失踪からひと月程度経ったころでしたか。お嬢様が旅行へ行くため荷物をまとめたいので手伝ってくれとおっしゃいまして、私は、気分転換となって気持ちを取り戻すいい機会になるかと喜んでお手伝いしたのですが。家までご友人が迎えにこられて、私どもは、てっきりそのご友人と旅行に行かれるのかとばかり思っておりました。ところが、出掛けられた翌日、お嬢様のお部屋を掃除した家政婦がベッドの上に書き置きを発見しまして。『海外へ行き、一年経ったら戻ってきます』という内容でした。私は慌てて迎えにきたご友人に連絡を取ったのですが、そのご友人は、お嬢様に駅まで送ってほしいと頼まれただけだと。行き先は聞いていないとのことでした。旅行会社や航空会社を調査したところ、どうやらお嬢様はヨーロッパ行きのチケットを購入されたことが分かりました。私は、それを知った源市様がすぐさま連れ戻すため私にお嬢様を追わせるものと思っていたのですが、意外なことに、お嬢様の好きにさせてやろうとおっしゃいました。奥様の絹江きぬえ様は、さすがにご心配をされて、何とかならないかと源市様におっしゃっておられましたが、源市様が説得されたようでした」

「可南子さんはおひとりで?」

「分かりません。ご友人らも初耳のようでした。誰にもお話になっていなかったのではないかと」

「可南子さんがヨーロッパへ行った理由は何だったんですか?」

「間多良を失った悲しみからでしょうが、本当のところは分かりません。事情が事情ですので、源市様も追求はなされなかったようです。話は戻りますが、私があの噂を信じる理由もそれなのです。お嬢様が旅に出た理由が、間多良を失った失意によるものであるなら、源市様がお嬢様を追わなかったのも、自分が間多良の利き腕を奪ったことに対する後ろめたさからなのでは、と」

「私も話しを戻しますけど、間多良さんの口からは、工場で何があったかを聞くことはできなかったんですよね」

「ええ、怪我をして病院に搬送されるまでは、とても口をきける状態ではありませんでしたし、手術が済みずっと眠ったまま、気が付いたらいなくなってしまっていましたので」

「そして、一年経って、約束通り可南子さんは帰ってきた」

「はい、ある日、玄関口から『ただいま帰りました』と懐かしいお声がしまして慌てて出てみると、お嬢様が立っておられました。駅からタクシーで帰ってこられたようでした。お嬢様は、まるでいつも大学からご帰宅されていたように自然に家へ上がり、お部屋へ入られました。私は、すぐさま会社におられた源市様に電話でお知らせしました。源市様も最初は驚かれていましたが、すぐに、『そうか』とおっしゃっただけだったのですが、奥様の絹江様はさすがにそうはいきませんで。さきほど玄関にきたのがお嬢様だとお知りになるや、お嬢様のお部屋へ飛んで行かれまして、しばらくお二人で話しをされていたようです。居間へお戻りになられると、絹江様は夕食の献立を豪勢な料理に変更するよう家政婦にお申しつけになられました。

 その晩、源市様がご帰宅されますと、お嬢様はこれまた自然に『おかえりなさい』とお声を掛けられて。源市様もお嬢様のお姿をご覧になられると、さすがに驚いた表情をされましたが、それは一瞬でした。『ただいま』と、これまた自然にご対応されまして。その夜は、じつに一年ぶりに絹江様も交えてご家族三人で夕食をおとりになられました」

「可南子さんは、どこへ何をしに行っていたなどは……」

「誰にもお話になっておられません。私の知る限りには、ですが。絹江様などは非常に気にされておりましたが、源市様がその話題に言及されませんので、自然とその話はご家族の間でされなくなりました」

「そして、源市さんの選んだ婿候補、光一こういちさんと結婚した」

「左様でございます」

「可南子さんは、すんなり受け入れたんですか。光一さんとの結婚話を」

「疑問に思われるのは理解できます」


 沖庭は神妙な顔をして、


「私どもも意外でしたから。さすがに源市様も、光一様を始めとした婿候補の話をお嬢様になさるときは緊張したご様子でした。ですが、お嬢様は『分かりました、ひとりずつ会ってお話します』と」

「すんなり相手は決まったんですか? 今の、玲奈れいなさんと里中さとなかさんのように」

「玲奈様ほどではございませんでしたが、トラブルもなく、お嬢様は光一様をお選びになりました。光一様はとても良い方です。人との会話も話題に事欠きませんし社員からも信頼があります、穏和な方ですが、言うべきことは言う。社長として申し分ありません」

「間多良さんと似たところはありますか?」

「……いえ、外見的にも、性格的にも、間多良とは違います。出身も地元ですし。ご兄弟が大勢いらっしゃるとかで、婿入りにもご家族から反対はなかったそうです」

「光一さんは、間多良のこと、可南子さんとの関係は……」

「御存じです。お付き合いされる前に、お嬢様がお話しされたそうです。それについて何か言うことはなかったようです」

「過去の男性遍歴は気にしない……あ、すみません、下世話なこと言って」

「いえ、光一様は本当に気にはされていないようです。ついでに、玲奈様も御存じです」


 昨夜、理真が隻腕鬼のことを話そうとしたときの一同の反応を思い出せば、一族全員が承知のことなのだろう。理真もそれを沖庭に質すと、やはり、その通りとの答えが返ってきた。


「安堂様」沖庭は自分の腕時計に目を落とし、「申し訳ありません。私、家の用事などありまして、もうそろそろ……」

「あ、すみません、長々と。とても参考になりました。ありがとうございました」

「それでは、この資料は置いていきますので。江嶋様も、失礼いたします」


 沖庭は会釈し、私たちの分の伝票まで手にしてレジへと向かった。年配者の顔を立てて、ここはご馳走になっておこう。


「ふう」と、理真はひと息ついて、「何だか色々聞いちゃったけどさ」

「うん?」

「事件と何がどう関係あるのか全然分かんないね。隻腕鬼殺人事件の捜査というより、菊柳一族の秘密を暴く、ってほうがしっくりくるような」

「分からないことだらけだからね。被害者が誰なのか、なぜ左腕を切断したのか、そもそも、犯人の動機、目的も」

「菊柳家の内情にばっかり詳しくなって。探偵というより家政婦みたいだわ、私」


 家政婦さんという職業を誤解していないか?



私も小腹がすいたので何か食べることにして、メニューの中から、やきそばを注文した。店内にも客の姿が目立ち始めた。食べ終えたら出ることにしよう。理真は、ちょっとくれ、と、私のやきそばを少し突っつきながら沖庭の置いていった資料を見ている。本当によく食べる探偵だ。


「今日はみんな、何してるんだろうね」


 資料に目を落としたまま理真が呟いた。私は今朝の可南子との会話を思い出しながら、


「可南子さんは用事で出掛けるって言ってたね。源市さんは家にいるはず。もうさすがに散歩からは帰ってきたでしょ。玲奈ちゃんは沖庭さんが送って友達のところだね。沖庭さんは、さっきまで一緒だったし……あと、行き先が分かってる人は……次晴さんか」

「宝探しね」


 昨夜、明日、すなわち今日も宝探しに行くと言っていた。


「あとは、私たちが今何をするべきか、だよ」

「うん」理真は資料を閉じて、「一旦戻って対策を練ろう」



 対策を練るといったが、菊柳家に戻った理真が実際にやったのは、ノートパソコンを開いて原稿の続きを書くことだった。その前に担当の編集者に電話を入れて、締切を延ばしてくれるよう交渉をしていた。


「もう、安易に書き直しとかしないよ。原稿用紙にインクで魂を刻むくらいの気持ちでやるから」


 昨日の沖庭とのやりとりに感化されたのか。鼻息荒くノートパソコンに向かった。その間、私が沖庭の持ってきてくれた資料を見ることにする。

 里中誠の履歴書。他の婿候補のデータをまとめたものなどがある。ひと通り見てみたが、私見ではあるが里中が一番美男子のようだ。玲奈も面食いなところがあるのだろうか。これで性格が良ければ付き合わない理由がないのではないか? そもそも異性とお付き合いするつもりがない場合を除いて。里中本人はどう思っているのだろうか。玲奈とは相思相愛だそうだが、恋路を阻むものは恋人の母親。まるで一昔前の恋愛ドラマだ。里中の親も同じように玲奈を嫌っているということはないだろうか。いや、そんな話があれば沖庭が教えてくれたはずだ。私もすっかり殺人事件関係なく菊柳家の内幕に興味をそそられちゃってるよ。理真のことをとやかく言えない。

 そういえば、理真の仕事の進み具合はどんなだろうか……しばらく見ているが、結構頻繁にバックスペースキーやデリートキーを押しているみたいだぞ。書き直しまくっているではないか。魂の一筆宣言はどうした。


「あー」理真はキーボードから手を離し伸びをして、「ちょっと休憩。何か飲むものでももらってこよう」


 ついでに私も一緒に台所へ行くことにした。

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