第8章 里中誠

 快晴。気持ちのいい朝だ。窓から差し込む陽光はやさしく、雀の鳴き声もいとおしい。

 私は窓枠に手を突き、抜けるような青空を見上げる。新潟県でこんなに見事な青空は貴重なのだ。思う存分味わう。しかし、ここに貴重な快晴の天気をまだ味わっていない人がいる。私は振り向いて、


理真りま、もう起きるよ。旅館やホテルじゃないんだから。他人の家に泊めてもらってあまり遅く起きるとかっこわるいよ」


 時計の時刻は午前八時、勤め人ならば、もうとっくに就業しているか家を出ている時間だ。だというのに理真はまだパジャマ姿で毛布を抱えて布団の上にうずくまっている。


「今日は日曜日だよ……」


 眠そうな理真の声。そうか、今日は日曜日だった。曜日感覚のないアパートの管理人という仕事をしているので、こういうことはよくある。作家の理真も曜日感覚については似たようなものだと思うのだが。と部屋のドアがノックされ、


「お客様、朝食のご用意ができております」


 お手伝いさんの声がした。はい、すぐ行きます。と答える。まさか、日曜日なのでもう少し寝かせて下さい、とは言えない。朝食の場所は昨夜と同じ広間だと告げ、お手伝いさんは去った。それから理真を布団から引き剥がし、洗顔をさせて人前に出てもよい状態にさせるまで二十分を要した。



「お味噌汁を温め直してきます」


 お手伝いさんは私たちのお椀から味噌汁を鍋にあけて持って行った。すみませんね。

 夕食を食べてから風呂に入って寝ただけなのに、朝はまたお腹がすくから不思議だ。睡眠というのは、それほどカロリーを消費するものなのだろうか? いただきますをして箸を手に取る。


由宇ゆう上越じょうえつ市まで車でどのくらいかかる?」

「三十分くらいじゃないかな」

「じゃあ、新井あらい署に寄ってから行こうか。日曜日だけど当然のように捜査本部は開いてるでしょ」


 そう、いざ事件が起き捜査本部が立ったら日曜も祝日もない。いつも丸柴まるしば刑事たちの働きぶりを見ているから分かる。

 襖が開き、温め直した味噌汁を持ってきてくれたのは、先ほどのお手伝いさんでなく可南子かなこだった。


安堂あんどうさん、江嶋えじまさん、おはようございます」


 あんまりお早くない時間だが、私たちも挨拶を返した。


「皆さんはお出かけですか?」


 理真の問いに可南子は、


源助げんすけ叔父様と康幸やすゆきさんご夫妻はお帰りになられました。玲奈れいなはお友達のところに遊びに行きました。沖庭おきにわが送っていったようです。主人はまだ布団の中です」


 私たち以上の寝坊助がいたようだ。


「お父様は朝のお散歩です。日課なんですよ。一時間くらいかけて近くを回ってくるんです。安堂さんたちは、これから事件の捜査ですか?」

「ええ、警察に行って状況を聞いてこようと思っています」


 理真も、実は沖庭に会い里中をはじめとした関係者についての話を聞くのだとは言えなかったようだ。警察に寄るのも本当のことではあるが。


「日曜日なのに大変ですね」

「一刻も早く事件を解決することが務めですから」


 殊勝なことを言う。日曜日だからと布団でグズってたくせに。


「私は所用で家を出ますけれど、主人は在宅するはずですので、何かありましたら言って下さい。沖庭さんに知らせてもいいですけれど」

「はい、わかりました」


 その沖庭と、これから会うのだ。



 朝食をいただき、身支度を済ませ、私と理真は新井署へと出発した。事前に桑原くわばら刑事に電話しようと思ったが、夜勤明けで寝ているかもしれないと思い、そのまま向かうことにした。


 署に到着し刑事課へ連絡を取る。桑原刑事は起きて在署していた。


「おはようございます、桑原刑事」

「よう、おはよう」


 桑原刑事は刑事部屋の机でデスクワークをしていた。何人か私服刑事や制服警官の姿もある。一様に理真と私に不思議そうなな視線を向けたため、桑原刑事が紹介してくれた。

加藤かとうは丸柴刑事と聞き込みに出てるよ。休日のほうが人が出て繁華街なんかの聞き込みは人を捕まえやすいからな」


 桑原刑事は隅の応接セットへ場所を移動し、私たちに腰をかけるよう勧める。若い制服警官がコーヒーを出してくれた。


「どうだい、状況は」

「昨夜は源市げんいちさん始め、菊柳きくやなぎ家の人たちに会ってきました」

「源市の爺さん、どんなだった? 昔に比べたら随分丸くなったそうだが」

「非常に協力的でしたよ。それで、警察でも菊柳家の人たちにひと通り聴取をしたんですよね」

「ああ、でも、何もないよ。被害者のことは知らないし、腕が切られてたことも見当がつかない。異口同音だったよ」


 予想はしていたが、そうだろう。わざわざ、私は隻腕鬼こと間多良春頼まだらしゅんらいが復讐のためにやったんだと思います、なんて言うわけがない。


里中さとなかさんっていう社員の方にも聴取しましたか?」

「里中? ああ、次期社長の。いや、そこまで範囲は広げていないな。菊柳家の人間だけだ」

「でも、里中さんのことはご存知なんですね。次期社長なんていうことまで」

「ああ、菊柳の爺さんが色々介入してくる代わりに、向こうの情報も入ってくるんだよ。何でも、爺さんのお孫さんと付き合ってるそうじゃないか」

「そうらしいですね。玲奈ちゃんと。でも、里中さん、可南子さんからよく思われていないって、ご存じですか?」

「可南子って、爺さんの娘の。付き合ってる玲奈嬢ちゃんの母親になるわけだ。そうなのか、それは初耳だな。それが事件に関係ありそうなのか?」

「いえ、それはまだ。今の段階では、単なるゴシップです」

「そうか。まあ、何が事件に関わり合いを持つか分からんしな」

「警察のほうはどうですか?」

「警備体制を強化したよ。万が一、隻腕鬼なんてものがいて町中に下りてきて無差別殺傷なんてことが起きないようにな。山狩りを行うべきという意見も強くなってる。何と言っても、左腕を切断された死体が出て、矢作が隻腕鬼を目撃しているという証言があるからな。都市伝説では済まなくなりつつある。源市爺さんが何を言おうが市民の安全には変えられない。それで、ここからは警察じゃなく、俺個人としての話なんだけど……」


 桑原刑事は少し声のトーンを落とし、


「菊柳家の中に、犯人がいると思うかい?」

「どうしてそんな話を?」


 理真の声も釣られて低くなる。


「だってよ、過去の不可能犯罪事件の結末を見ると、定番じゃないか、身内の中に犯人がいたってのが」

「うーん……」理真は唸って、「確かにそういう事件が過去に多く起きているからといって、決めつけるのは危険です。第一、動機も理由もないですよ。菊柳家の人が浮浪者を殺す動機も、左腕を切断する理由も。今の段階ではですけど」

「そりゃ、そうだな」

「でも、菊柳家の人たちが事件とは全く無関係と切り捨てるのも同じくらい危険な考えですからね。桑原刑事、私たちはこれから沖庭さんと会って菊柳家の人たちについて話を聞くんですけど、桑原刑事の目や警察評として、この人物には何かある、という情報はありませんか?」

「……特にないな、そういうのは。みんな源市の威光を恐れているってくらいか。次晴つぎはるっていうぼっちゃんを除いて」

「その次晴さんで思い出した。桑原刑事はご存知ですか? 菊柳家のお宝の話」

「お宝? なんだそりゃ」


 理真は、次晴が探しているという源市の先代が隠したと伝えられるお宝骨董品の話をした。


「……そんな話があるのか。それも俺は初耳だな。まさか、隻腕鬼はそのお宝を守ってる、なんて言うんじゃないだろうな」

「それについては、何とも……」

「まあ、色々なことがある家だな。あそこは」


 腕時計を見た理真が「由宇、そろそろ行こうか」と言ってきたので、私たちは桑原刑事らにいとまの挨拶をして刑事部屋を出た。


 理真の携帯電話に沖庭からの電話が掛かってきたのは、署を出て車に乗り込む直前だった。高田たかだ駅近くの喫茶店の名前を告げられる。理真が電話応対したまま、私がカーナビを操作して目的地にセットする。理真がハンドルを握り署の駐車場を出た。ラジオを付けると、ちょうど天気予報のコーナーで、新潟県上越地域は一日中快晴ということだった。



 指定された喫茶店に入る。店内は外の快晴はどこ吹く風とばかりに薄暗く、最近流行のチェーン店の喫茶店にはない趣のある雰囲気を醸し出している。沖庭によく似合う店だと思った。カウンターの向こうでは禿頭のマスターらしき人物が皿を拭いている。ドアを開けると同時に鳴ったベルの乾いた音とともに、いらっしゃい、というマスターの低音ボイスが響く。直後、奥のボックス席に座っていた客が振り向いた。沖庭だ。私たちは互いに会釈を交わした。


「午前中は玲奈ちゃんを送っていかれたそうですね」


 席に着き、理真が訊くと、


「はい、他に買い物など雑用も済ませました」


 沖庭はテーブルに置かれた小さなカップをつまみ口へ運ぶ。エスプレッソコーヒーを飲んでいるようだ。禿頭のマスターが注文を取りに来た。もうお昼時なので何か食べよう、と理真が言い出す。遅い朝食を食べたばかりだというのに。理真はコーヒーとナポリタン、私はコーヒーだけを注文した。理真はコーヒーは食後にと注文を付けた。


「何からお話ししましょう?」


 マスターがカウンターへ下がってから沖庭は尋ねる。


「そうですね。では、昨夜の続きで、里中さんのプロフィールから」

「承知しました」


 沖庭は理真の要請に応え、鞄から書類を取り出すと、


「里中まこと、二十六歳。出身は山形県庄内しょうない市。家族構成は両親のみ。ひとりっ子です。父親は地元庄内市でホームセンターの事務職に就いています。母親は以前は頻繁にパートに出ていましたが、誠が大学を卒業すると少しして専業主婦になったようです。学費や仕送りの心配がなくなったからでしょうか。地元の高校を卒業後、新潟の大学へ進学、そのまま地元へは戻らず菊柳興産へ入社しています。所属は不動産部。勤務態度は真面目で後輩の面倒見もよく、上司からの信頼も厚い。趣味は映画鑑賞と読書。学生時代の素行にも問題はなく、高校三年生のときには生徒会会長を務めたこともあります。こんなところでございます」


 沖庭は履歴書をテーブルに置いた。菊柳興産入社時に本人が書いたものだろう。最近は履歴書を印刷で作ることが多いが、丁寧な手書きだ。貼られている写真も昨夜見た本人よりも若干初々しい。


「可南子さんどころか、誰からも嫌われる要素がないような人ですね」


 履歴書に目を落としながら理真が言うと、


「全くその通りです」と、沖庭も同意した。

「可南子さんが、他人に自分は里中さんのことを嫌っている、と具体的に口にしたことはあるんですか?」

「一度だけ。嫌っている、という直接的な表現ではありませんでしたが。源市様の選んだ男性と玲奈様がお見合いのようにひとりずつ会っていた頃、お嬢様が、あの人だけはよしなさい、と直接玲奈様におっしゃったことがあったそうです。玲奈様が理由を聞いても、とにかく駄目です、の一点張りだったそうです」

「それでも、玲奈ちゃんは里中さんとの交際を決めた」

「はい、今時、親が反対するからと交際相手を変える若者はいないでしょう。玲奈様も、里中様の人となりを知れば、お嬢様、ややこしいからここでも可南子様とお呼びしましょう、可南子様も翻意してくれるはずだと考えておられたようです」

「しかし、可南子さんの態度は覆らなかった」

「左様でございます」

「源市さんから――」


 そこでマスターが私のコーヒーを持ってきたため、会話は一時中断された。コーヒーのいい香りが鼻孔をくすぐる。理真は言いかけた言葉を続けて、


「源市さんから、可南子さんに言い含めるようなことはなかったんですか?」

「源市様も可南子様にはお甘いですから。玲奈様にせっつかれて、一度話をしたことがあったようなのですが、可南子様の態度は硬く、うまくはいかなかったようです」

「そこまで嫌うというのは、何かないはずありませんよね」

「皆目見当が付きません」

「分かりました。里中さんの話はこれくらいにしましょう」

「お次は何を?」


 理真は少しの間沈黙し、


「先々代が残したお宝なんですけど、次晴さんが探しているという」

「はい」

「ぶっちゃけ、あるんですか? ないんですか?」

「本当のところは分かりかねます。源市様ご自身も、こればかりは明言されないのです。あるといえば、次晴様はますます張り切ってお探しになるでしょうし、ないといえば、やはり会社が危うくなって金に換えたのかと言われる。源市様はそういった弱みを見せることをとてもお嫌いになられますから。そもそもこの話は一族の間でもほとんど立ち消えになっていた話題だったのですが、それを次晴様が掘り返してしまったのです」

「昨日、玲奈ちゃんが次晴さんに言ったことについては、何か思うところはありますか?」

「……玲奈様が? すみません、何かおっしゃっておられましたか?」

「お宝探しに行くという次晴さんに、隻腕鬼に気を付けて、と声を掛けていました」

「ああ、そのことでございますか。玲奈様のお戯れでしょう。玲奈様は次晴様のことをあまりお好きではありませんから」

「ハルちゃん、と呼んでいるんですね、玲奈ちゃんは次晴さんのことを」

「はい、幼い頃は親戚の集まりで顔を合わせると一緒に遊んだこともありましたから、その名残でしょう。次晴様は中学校くらいから素行がお悪くなられて、次第に距離ができるようになりました」


 そこで理真のナポリタンが運ばれてきた。早速食事に取りかかりながら、理真は質問を続ける。


「菊柳家の他の人たちについても、どんな人たちなのか教えてくれますか?」

「承知しました」沖庭はエスプレッソで唇を湿らせてから、「源助様は兄である源市様と違い人当たりの良い方です。昨年度まで会社の役員を務めていらっしゃいました。今は引退されておりますが、時折会社に顔をお出しになり仕事の手伝いなどされることもあります。仕事がお好きなのでしょう」

 昨夜も菊柳興産の作業着姿だったことを思い出した。

「ご兄弟ということで、会社内で源市様に物申せる唯一の方といっていいでしょう。ですが、ご本人もお兄様に意見することは精神的に堪えるらしく、止むにやまれぬ場合だけにやんわりと口を挟む程度でした。それもあって、ご本人はあまり経営面には関わらず、もっぱら現場に注力されておいででした」


 そういえば、昨夜も隻腕鬼について質問する理真と源市を止めたのは源助だった。


「源助様の奥様のトミ様は地元農家の生まれです。専業主婦で会社で働くことはありません。これは源市様の奥様、絹江きぬえ様も同じです。絹江様は昨夜源市様もおっしゃっておられたように病床に臥しておられまして。現在近くの病院に入院されています。お二人とも仕事に直接のお関わりはありませんが、現場へ手作りのお弁当を差し入れるなどなさっており社員からも慕われております。入院されてしまったため、絹江様のおむすびが食べられなくなって残念がる社員もおりましたくらいで。

 源助様のご子息、康幸様は会社の土木部に席を置いております。父親似で現場好きな方です。ひとり息子の次晴様が悩みの種でしょう」

「なかなかのドラ息子のようですね」


 理真はナポリタンをフォークに絡める。


「先ほど、素行が悪いと申しましたが、特に警察のご厄介になるようなことはいたしておりません。ですが、なにせ労働が嫌いな方で、菊柳興産で康幸様の部下として入れたこともあったのですが、一週間と続きませんで。それからも源市様などが職を斡旋して差し上げることもあるのですが、どれも長続きいたしません」

「おまけに宝探しまで始めてしまう」

「はい。次晴様のことがありますので、康幸様は源市様にことさら頭が上がらないのです。奥様の俊子としこ様も、絹江様やトミ様のように社員への差し入れなどを一切されない方で、その負い目もあるのでしょう」


 昨夜の俊子を思い出す。確かに、そういったことをするタイプには見えなかった。もっとも、昨夜の俊子の印象は、次晴のことで夫の康幸と言い合いをしていたことだけだが。


「次晴様のお話の続きなのですが、性格上か、世代的なものもあるのでしょうか。源市様に対して、ざっくばらんと申しましょうか、昨夜のような態度を取られますものですから、康晴様は益々源市様に恐縮なされて」

「でも、それに対して怒ったような素振りを見せなかった源市さんもさすがですよね」


 理真が源市をフォローするようなことを言う。


「ええ、源市様も諦めていらっしゃるのだと思います。そういう世代なのだと。世代間の齟齬そごとでも申しましょうか」

「ジェネレーションギャップですね」


 わざわざ英訳しなくてもいいよ。


光一こういち様は、元より菊柳興産の社員でして、源市様に選ばれて……この辺りの事情は御存じですね」

「はい、一応は。でも、当事の状況を知る沖庭さんの視点で話を聞きたいです。結婚当時の事情について。それから……間多良春頼に起きたこと」

「……承知いたしました。お読みになられた資料と重複する事柄もありますでしょうが、ご容赦を」


 長話になると覚悟したのか、沖庭はコーヒーのお代わりを注文した。今度は普通のブレンドだ。待つ間に理真はナポリタンを食べ終えた。沖庭のものと理真の食後コーヒーが運ばれてきてから、沖庭は話を始めた。


「もう三十年程昔になります……」


 持ち上げたコーヒーカップを口の前で止めた沖庭の遠い目が、コーヒーから立ち上る湯気の向こうに揺れた。

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