◆第十五章 Stage5(エントランスⅠ)

 本日のディナー、山羊のステーキ。


 道中出会ったスケープゴートを、こんがり焼いて完成。味付けは塩のみ。


 スケープゴートは常に番で行動する山羊のモンスターで、捩れた立派な角と、片方が黒、もう片方が白い毛の色をしていることが特徴だ。片方が倒されるともう片方が必ず逃げることで有名。薄情に思えるが、生存競争を生き抜くための知恵である(二匹で勝てない敵は一匹でも勝てないから)。新たな番を見つけた際、同色だと片方の毛が生え変わる際、色が変わるという。オフィウクスの解説より。


「で、味は?」

「美味しいよ、きっと」とエリー。

「お前それしか言わねーじゃん」

「美味しいかも、って思うから狩りが捗るんだよ。ほら、上手に焼けたよー」


 焼けた骨付き肉に被りつき、喰い千切り、咀嚼。そして一言。

「美味いッ! 命の味だッ!」

 こいつの味覚は当てにならない。

 と思っていたが、オフィウクスが率先して喰っている。こちらに気づき――。

「言わなかったか? スケープゴートは美味いんだ。まがりなりにも山羊だしな」

 食べてみる。確かに美味い。迷宮に幽閉されて以降喰ったものの中で、一番美味しい。

「これかなり美味しいわね。知ってたらもっと狩ってたのに」とテール。

「肉の詰まった道具袋ぶら下げてボスと戦うつもりだったのか?」とオフィウクス。

「良いじゃないか、美味しいんだから」とレオ。


 三者三様に味を楽しんでいる。

「本当、美味しいですね、これ。なかなかです」とアリエス。

「魔物の中にもこんな味のするものがいるものなのだな」とライブラ。

「山羊にしては臭いが少ないし、柔らかい。油も乗ってる。良く考えたら、約七年は外敵のいない環境で育つ訳だろ? だったらここまで美味しくなってもおかしくないな」とジェミニ。

「そうだな。俺はスケープゴートを外で見たが、こっちで会った奴の方が大きかった」

 オフィウクスが食事中にこんなに喋るなんて、意外だった。


 エリーが肉の捕獲を欲張ったお陰か、喰いきれないほど肉はあった。それでも誰もが腹を抱える中、エリーだけは喰い続けた。

「あー、お腹一杯。やっぱ肉だね、肉! 肉喰わないと人間じゃないよ! そう師匠も言ってたし」

「幸せそうな所悪いが――大事な話がある」

 オフィウクスが言う。皆がそちらを向いた。

「えー、消化に悪い話は嫌だよ?」

「安心しろ。食後のデザートに相応しい話題だ」

「じゃあどうぞ」


 やや間を置いてからオフィウクスは切り出す。

「――今夜、投票で最もミノタウロスだと思われる人物を選んで殺すべきだ」

 場の空気は凍る。誰もが口を開かない。真っ先に口を開いたのライブラだったが、それをレオが制した。語気が強かったからだ。代わりにレオが口を開く。


「……本気かい?」

「冗談で言う訳がない」

「考えを聞かせてくれ」

「はっきり言うぞ。九割九分、俺たちは明日七人になる。半分の数だ。それは周知のことだ」

「否定はしない」他に否定意見はなかった。

「今いる八人の内訳は、前衛四人、後衛三人、非戦闘員一人。ミノタウロスは斧を使っていると推測されるので、ミノタウロスがてこずるのは前衛四人だけ。だがその四人は宝石をロクに持ってない。それどころかラッシュすると肚を決めれば、宝石を使ってくる。つまり殺せば殺すほど強くなって襲ってくる。手がつけられん。しかも皆殺しにする必要はないと来た。途中でアリアドネを殺せば終わりなんだからな。」

「まさかと思うが、宝石を強奪した過去を忘れていないだろうな?」とライブラが目を細め言う。

「ビスケスを失ったのが完全な計算違いだった。昨夜二人同時に失ったのも痛い。だが前衛に信頼できる人間がいなかったのも事実だ」


 今、この場で白なのはオフィウクスだけ。ただし、九割の確率で、だ。


「話を戻す。最悪今夜、明日の晩は間違いなくミノタウロスはラッシュをかける。つまり、皆殺しに走る。どのタイミングで決行してくるかは不明だが……。その前に俺たちは、ミノタウロスを見つける必要がある。となれば――投票で減らすことを考えなければならない」

「アリアドネのことはどう考える?」今度はレオが尋ねる。

「考えていない。というか、考えるな」

「どういう意味だ?」レオは驚きを隠さない。他の面々も同じだ。

「皆臆病になっているが、正直そんな心配をしているような状況ではない。俺たちとミノタウロスの状況は対等だと思っている人間がいるかも知れないが、違う。ミノタウロスに殺してはならない人間はいない。実質殺し放題だ。だが俺たちは違う。圧倒的に不利だ。もし一人でも多く生き残ろうと思うなら、しかない」

「そ、それ――リスキー過ぎねーか? 『オール・オア・ナッシング』ってことだろ?」

「互いにギャンブルを強いられているという点だけは、平等だ」


 嘘だろ――いつの間にか、そんなに事態が逼迫していたのか。


「ちょっと待ってよ。ミノタウロスがヘマするかも知れないじゃない」とテールは言うが、オフィウクスは冷めたように言う。

「見せたか? 一度でも。今更それに頼るのか?」


 所作からミノタウロスを探るのは不可能。確かな事実だった。現に怪しい人物を思い浮かべられない。


「オフィウクスは――仮に投票するとして、投票先は決めてるのか?」

「決めている。今のところ、疑い得るのはたった一人だ」


 嘘だろ――俺には全然分からないのに。


「誰だよ」

「言えるか馬鹿。これ以上敵に情報は与えられん」


 それもそうか――しかし、一人? 一体誰が――。いや、オフィウクスの言うことだから、ブラフ? でも、確かにミノタウロスが一人いる以上、疑わしいのが一人というのは、有り得ないことでは――。


「で――どうする?」

「どうする、とは?」とレオ。

「多数決だ。流石に独断で殺してミノタウロスやアリアドネだと思われたくないんでな。多数決による『民主主義的な総意』を以て、疑わしき人物の『処刑制度』を設けたい」


 首筋に汗が流れた。

 多分、これは分水嶺だ――。

 生きるか死ぬかの、分かれ道だ。

 多数決処刑制度に肯くか否か――それが俺の、俺たちの生死を決める。

 一体、どちらを選べば――。

「時間は設ける」

 オフィウクスは薪を一本取り、火を移す。

「この薪が炭になるまで。それがタイムリミットだ。十分だな?」

 誰も異論は挟まなかった。挟む余裕がないだけかも知れない。

「俺の話は以上だ。続きは薪が燃えてから」

 オフィウクスはそれきり黙った。焚き火を睨み続けている。


 皆は焚き火の周りを離れ、各々行動し始めた。


 俺も一人になる。


 俺たちの中に一人、ミノタウロスがいる。それは間違いないことだ。

 俺たちの中に一人、アリアドネがいる。これも間違いないことだ。


 俺たちは八つの宝箱だ。ミノタウロスの入った宝箱を見つけなければならず、アリアドネの入った宝箱を見つけてはならない。

 共に確率は八分の一。八つの宝箱の内、一つが命という名の財宝。一つは死という名のミミック


 いや――違う。問題はそこじゃない。最も重要なことを失念し始めていた。


『ハズレ』の事。ハズレの宝箱を開く。空でした。残念。それで終わる訳じゃない。その軽挙妄動で一人の人間が死ぬ。四日間共に過ごした人間が、今すぐ近くにいる誰かが、共に死線を潜り抜けた仲間が――死ぬ。違う、殺す――。


 それでも――生きる覚悟があるか?


 生きたい。それは間違いない。断言できる。だが生きたいという本能を同じくらいに殺したくない。


 兵士の考えることじゃない。でも――無理なものは無理だ。


 八分の一。逆に言えば、八分の七、否――四分の三の確率で無実の人を殺し、八分の一の確率で無実の『人々』を殺すということ――。

 だが殺さなければ――勝機は無くなる。殺される確率が上がる。ミノタウロスの蹂躙の生贄になる。俺がミノタウロスならば、頃合を見計らって全滅に追い込む。それが最も勝ち筋がある。逆に言えば――そこが隙か。だが勝てるのか? 勝機を確信したミノタウロスに。二度も勝ち抜いたミノタウロスに。二十人は殺しているであろう、殺戮のプロフェッショナルに――人一人殺したことのない人間が――勝てるのか。

 そう言えば――皆はどうなんだ。人を殺したことがあるのか。あるのなら、また違った考えがあるのか――。でも、人を一人殺したことがあるからって、二人や三人も殺して良い訳じゃない。ならなんの意味もないのか、結局は自分の価値観で決めることなのか――。

 仮に、殺して。生き残ったとして。皆は俺たちをどう思う? ミノタウロスを殺した英雄と崇めるか? 誰もが褒めるか? 両親さえも? 半分以上の人間を殺しておきながら? でも戦争なんてそんなものじゃないか? いや、ミノタウロスの存在は伏せられている。なら賞賛さえされない? だがレオなら国を救ったことそのものが誉れだと言うんじゃないのか? なら讃えられれば人を殺して良いのか? この考えは戦争そのものの否定じゃないのか? 俺は兵士なのにそんな権利があるのか? 人と戦い殺して生きるために入隊したのに、こんなことを言って良いのか? 殺人に意味が無いなんて――言って良いのか?

 そもそも人が人を殺して良いのか? 兵士という存在自体が悪じゃないのか? でも戦わなければ生きられない。殺さなければ栄えられない。生きるためには何かを犠牲にするしかない。それは他人か? 自身の人間性か? 殺すこと自体は人間性の内に入らないのか? 散々色々な人間が色々な人々を殺してきておいて、今更人を殺すなんて人間じゃないなんて言うつもりなのか? 人殺しは人間の業であって逃れられない定めであって人間性の一部なんじゃないのか? そうやって言い訳をして人を殺して良いのか? 殺された人にも国があるし家族がいるし恋人だって未来だって過去だって記憶だって心だって夢だって色々なものがあるのに勝手に奪って良いのか? 自分のために奪って良いのか? 大切なものを踏み躙って良いのか? なら自分はどうなんだ。俺はそれで良いのか? 殺されて良いのか? 俺にだって国があるし家族がいるし恋人はいないが未来だって過去だって記憶だって心だって夢だって色々なものがあるのに全部何もかも一切合財奪われても良いのか? 他人の幸福のためにみすみす奪われて良いのか? 大切なものが踏み躙られても良いのか?

 ――だから人を殺すのか?

 殺して生きて良いのか?

 平気なのか?

 平気じゃなければ殺しても良いのか? 苦しい、辛い、悲しい、やりたくない、そんな泣き言さえ言っていれば懺悔さえしていれば後悔さえしていれば泣いて赦しを乞えば人を殺しても良いのか? 全部ひっくるめて「仕方ない」という一言にまとめて心の中で謝りつつ人を殺して良いのか? 殺しておいてごめんなさいで済ますのか? それをやられたらどんな気持ちになる――?


 でも生きたい。


 どうすりゃ良いんだよ――。

 そうこうしている内に時間になった。

 正確には、もうすぐ薪が炭になりきる。もうすぐタイムリミットだ。考えはまとまらない。

「――あの、コズミキコニスくん」

 抱えていた頭を上げる。――アリエスだった。


「えーと、何?」

「……もう決めましたか?」


 アリエスは泣きそうな顔をしていた。俺は緩く首を横に振る。


「……ですよね」

「その……宗教的には、どうなんだよ、こういうの……」

「さぁ……」

「さぁって――」

「流石にこういう問題にまで、神様は頼れません……」


 発端が神の復讐だからな……。


「じゃあ、そっちも決まってないのか」

「はい」

「……なんでこんな事に」


 また頭を抱えてしまう。


「こんな事になるなら、兵士になんてならなけりゃ良かった。待遇とか見栄とか、そんなこと考えないで――作物でも何でも作ってりゃ良かったんだ……!」

「コズミキコニスくん……」

「俺は戦うために兵士なった。でも仲間と疑いあったり、殺しあったりするために兵士になったんじゃない。金や名声、待遇や保証が目当てじゃなかったと言えば嘘だけど……でも仲間を殺したくて兵士になったんじゃない。なのにこんなの間違ってる! 仮にミノタウロスを殺すことが、国の平和に繋がるとしても、こんな人間の心を踏み躙るようなことが赦される訳がない! 俺悔しいよ……! 世の中には色々な奴がいるだろう。そりゃ無責任な奴だっているさ。俺だって責任感が強いとは言わない。でも自分の失敗を他人に押し付けて自分は安全地帯にいるなんて、どうかしてる。俺は憎い。国王が憎い……! 自分さえ良けりゃあ良い。そんな自己中心的な考えしか持っていない、無責任なあの野郎が憎いッ……!」

「コズミキコニスくん、声が大きくなってます」


 アリエスの言葉に冷静さを取り戻す。周りを見た。レオはいない。あいつは――まだ国が云々言うつもりなのだろうか……。


「――私も憎いです」


 一言耳打ちしてから、アリエスは焚き火に向かった。投票時間だ。


 焚き火の周囲に皆集まり、オフィウクスから説明を受ける。

「壺を八つに割って陶片を作った。この中には字を書けない者もいるから、『処刑制度』に賛成の者は『○』、反対の者は『×』と陶片に刻むように。また不正を防ぐために、陶片にはそれぞれ名前を刻んだ。誰がどちらに投票したかも公開する。賛成、反対の票数が同数だった場合、陶片を入れ直して最初に引いた陶片に書かれた内容に従うことにする。投票はこの壺に入れて行う。妙な仕掛けがないことを確認してくれ」

 壺が回されてくる。古いものだが、何の変哲もない壺だ。妙な仕掛けが施された跡はない。壺は一周回ってオフィウクスの手に渡り、オフィウクス自身も確認する。最後にレオに渡り、レオも確認する。

「発案者の俺はこれ以降壺に触れないことにする。開票者はレオだ。では陶片を配る」


 全員に陶片が行き渡る。


 陶片にはオフィウクスの達筆な字で『コズミキコニス』と刻まれている。下半分は空白。ここに『○』か『×』を刻み込む――。


 処刑に賛成なら『○』。反対なら『×』。


 俺は――考え抜いた答えを刻む。


「刻み終わった者から壺へ」

 レオの元に行き、壺の中に入れる。


 全員の投票が終わった。


「ではレオが開票する。頼む」

 レオは肯き、壺の中から陶片を一つ掴み取り出す。確認して、こちらに公開してから読み上げる。


「『ライブラ』――『反対』」

 ライブラは静かに肯いた。


 レオは次の票を読み上げる。

「『アステール』――『反対』」

 開票が続く……。


「『オフィウクス』――『賛成』」


「『アリエス』――『反対』」

 ついに俺の番になった。


「『コズミキコニス』――『反対』」

 反対、四。賛成、一。次は――。


「『アクエリアス』――『賛成』」

 賛成、二。


「『レオ』――」

 どうなる……?


「『反対』」

 決まった――反対、五。


「最後まで頼む」

 オフィウクスに従い、レオは最後まで開票を続ける。


「最後。『ジェミニ』――『反対』」

「組み立ててくれ」


 最後の確認として、レオが八つの陶片を組み立て一つの壺に戻す。元通り、一つの壺になった。不正はない。


「『反対』多数で、『否決』とする」

 処刑制度の否決が決まった――。

 すぐ壺に別の陶片が入れられる。部屋割りの陶片らしい。一枚引いてからオフィウクスが言う。

「俺はもう寝る。明日会えたら会おう」

 去り際に――。


「意外だ。お前は『賛成』すると思った」


 とレオに言う。レオは肯いてから言った。

「僕もそう思った。『賛成』しようと。そう思った瞬間怖くなった。何かを切り捨てて何かを得ようとする冷静な自分に気づいたからだ。こんなのは人間の感情じゃない」

「……そうか」


 オフィウクスは去って行った。


 皆は沈黙し焚き火を見つめ続ける。レオが立ち上がり、壺の中身に手を伸ばした。

「僕も休むよ。……今日は疲れた」

 レオが去った後、エリーが欠伸をし始める。

「お腹いっぱいになったら眠くなっちゃった。じゃあね」

 エリーも部屋に。

「私も――考えたいことがある。じゃあな」

 ライブラもエリーと間を置いて部屋に向かった。


 焚き火の周りには四人が残された。


「……何で皆反対したの?」

 テールが誰ともなく呟く。

「……賛成できるかよ、こんなの……人がして良い事じゃない」

 俺は本音を言った。ここで賛成してしまうのは、とても怖いことだと思った。仮に「最善」の結果を引き寄せたとしても、自分自身が怖くて仕方がないと思った。

「私も……同じです」

 アリエスが呟く。


「僕だって……死にたくはない」ジェミニも焚き火を弄りながら呟く。「死にたくはないんだぜ? でも――こればっかりは、無理だよ。僕は、もっと自分が自己中だと思ってた。けど……無理なんだ」

「……ビスケスって、すごかったのね」


 皆の答えを聞き、テールは火を見つめたまま呟く。


「ビスケスがいた時には、何とも思わなかった。ただどうかミノタウロスを見つけて欲しい。そう思っていた。でもビスケスがいなくなった途端、投票がとても怖くなって。すごく罪深いと思うようになって……。私、ちょっと見下してたの。占いとか、当てにならない、って……。でも――ビスケスの力には、すごく救われてた……。あんなに小さかったのに、すごかったのね、あの子」

「ビスケスだけじゃないさ。すごい奴らばかりだった……」


 キャンサーは忠義深い奴だったし、カプリコーンは危機的状況でも前向きだった。スコーピオンは凄腕だったし、ヴァルゴは竜に立ち向かった。サジはパズルでヒントを与えてくれた。誰もが全力だった。自分のためだとか、他人のためだとか、目的や主義は別々だっただろう。だが全力で戦ったことに変わりはない。全力で戦って尚――。


「勝ちましょう」


 テールが言う。


「皆のためにも――ミノタウロスに勝たなくちゃ」

「どうやって?」ジェミニが言う。

「何か策があるのか?」

「ないわ。でもオフィウクスが言ってたことは、悔しいけど嘘じゃない。私たちは明日、間違いなく半分になる。そうなればレッドゾーンに入る。いつミノタウロスに皆殺しにされてもおかしくない人数よ。ってことは逆に、ミノタウロスとの決着の時でもあるってこと。その時こそ――」

「最大の勝つチャンス」


 俺の発言にテールは肯く。敢えて「最期の」とは言わなかった。

「勝ちましょう。絶対。勝って外に出るのよ」

 テールは立ち上がる。


「そうと決まれば、寝るしかないわ。特にすることもないしね」

「え?」


 ジェミニが何やら驚いた顔をする。


「ん? 何? ジェミニ」

「いや、その……」

「どうしたの? 私何か忘れてる?」

「いや、だから……、――の続きは……」

「んー? よく聞こえなーい」


 こいつも良い性格してる。


「だ、くそっ、なんだよ、聞きたくないならそう言えよ!」

「ゴメンゴメン、ジョークジョーク!」


 ジェミニは立ち上がる。


 物語は大詰。オイディプスが化物スフィンクスを倒し、新たな国の王になったところから。


 国は救われた! 飢饉も、疫病も、なくなった! 新たな王が! 新たな英雄が! 国を救ったのだ! 誰もがそう思った。ほんの数年の間は……。再び異変は訪れた。これまで通りの飢饉、疫病、災厄が国を襲った。スフィンクスはもういない。確かに殺した筈なのだ。何故国に災厄が? 


 疑問に思ったオイディプス王は神託を受けることにした。そして神託を受けたところ、衝撃の事実が判明した。国に災厄が訪れるのは、国に「実の父を殺し実の母と姦通した者がいるからだ」と。


 オイディプス王は驚き、急いで犯人探しをし始めた。国を災厄に陥れる罪人を見つけ出し、裁くことを決めた。だが幾ら探しても犯人は見つからない。業を煮やしたオイディプス王は再び神託を受けることにした。一体罪人は誰なのか、と。すると恐るべき神託があった。「オイディプス王、王の国に災厄を齎す罪人の正体は――貴方です」と。


 オイディプスは当然否定した。「馬鹿な! 私の両親は遥か遠くに暮らしている。私は父を殺した憶えはないし、母と交わった憶えもない! いわれのない罪だ!」と。


 しかし、その神託を聞いて泣き崩れた者がいた。神に祈り助けを請う老人がいた。その老人は数十年以上国に使えた家臣だった。オイディプス王は、何故そこまで苦しんでいるのか、老人に問うた。老人は言った。「王様、王様……お許しください。私は、先代の王様の命令に叛いたのです」オイディプス王はそれが今回の一件とどう関係するのか分からなかった。だが話を聞いていく内に、苦しみの理由が分かった。


 老人は続けた。「数十年前、王様は恐ろしい神託を受けました。『お前の息子は、実の父であるお前を殺し、実の母であるお前の妻と姦通する』と。恐ろしくなった王様は、私に息子を遠くの山に殺して捨てるように命令したのです。しかし殺す段になってから、私は赤子あまりにも可愛くて可愛くて――殺せなかったのです」と。王は激昂する。「それがどうした! この一件と! 私が疑われていることと! どう関係があるのだ!」


 老人は言った。王様、赤子を殺す前、私は髪留めで足を傷つけました。もし――仮にもし――王様がその時の赤子であるとすれば――足に、髪留めでつけられた腫れの痕がある筈です。王は自身の足をみた。そこには――確かに腫れの後があった。


「そんな――そんな馬鹿な……! 私が育ての両親の元を離れたのは、先代の王が受けたのとほとんど同じ神託を受けたからだ! 私こそがこの国の捨て去られた王子だったと!? だとすれば――まさか! 道行で誤って殺してしまったあの男! あの男こそが我が父だと!? そんな馬鹿な! 私は実の父を手にかけるばかりか、野垂れ死にさせてしまったというのか――!? おぉぉぉぉおおぉぉぉおぉおぉぉぉっ……! なんと罪深い! ということは、王妃こそが、実の母親!? なんということだ……!」王は絶叫し、慟哭した。


「おぉ、神よ。何故このような仕打ちを……これが運命なのか。これが罪人として生まれた私の運命なのか……!? 生まれた瞬間から父を殺し母を交わる罪を定められ、追放されて尚帰還した! 化物を殺したと思えば、代わりに化物となり、災厄を退けたと思えば、代わりに災厄となる。そういう運命だったというのか……。そうだったのだ。全ては定められていた! 私は生まれついての罪人で、化物で、災厄だったのだッ……!」


 ジェミニの叫びに皆黙った。


 静寂。ジェミニは深く、礼をする。


 俺から拍手を始める。他の二人も拍手をする。たった三人の拍手ではあったが、全員の拍手だった。


「御静聴、ありがとうございます……」

「薄々感付いてはいたが、清々しいほどの鬱エンドだったな……」


「悲劇」である以上、バッドエンドなのは避けられないのだろうが……。


「こんな穴倉に閉じ込められてるんだから、もっと明るい話にしてくれても良かったのに……」とテールは素直な感想を隠さない。

「仕方ないだろ。悲劇が好きなんだよ。喜劇なんて二流、三流だ」

「あ、そーやって観客のニーズ考えないで劇作家になろうとしてる訳?」

「観客に媚を売れば売るほど芸術は堕落する」

「良いジャン、面白ければ。こう、王子様とお姫様が――」

「童話でも読んでろよ」


 喧々諤々の口論の末――。


「疲れた。寝るわ」

 テールは自室に向かう。

「はぁ……。じゃ……。……また明日な」

 ジェミニも間を置いて自室に戻る。


 アリエスと二人残される。


「……面白かったですね」

「え?」

「その……劇」

「あぁ……そうだな」


 全然面白そうな顔をしていない。


「どう思います?」

「オイディプスを?」

「はい」

「……運が悪かったとは思うぜ。良かれと思ってやったことが全部裏目に出たんだからな。でも――」

「でも何です?」

「最初に自分は養子だって認めてれば、こうはならなかったんじゃないか?」


 静寂。

 言ってはいけないことを言ってしまったかも知れない……。


「でも、小さな子に自分が捨てられたことを受け入れさせるのは……」

「それが最初で最後の試練だったんだろうな。その試練を乗り越えられなかった結果が、あれなんだろう。――人生の陥穽って奴だ。まぁ、失敗しないで生きられるほど、人間有能じゃない。神様だって、無様に失敗する。でも――」

「でも?」

「一度の失敗で全てを奪うのは――傲慢だとは思う」


 それで『オイディプス王』の話は終わった。


 まだ焚火は燃えているが、そろそろ寝なければ。


「寝る。明日が正念場だろうからな」

「待ってください」


 鋭い声で呼び止められる。アリエスは俯いている。押し出すように言う。

「――勝てると、思いますか?」

 アリエスの声は震えていた。


「……分からない。実際に剣を交えた訳じゃないし……。ただ、難しいとは、思う」

「今夜が、最後かも……知れない」


 アリエスの膝は振るえ、小さな掌は割れんばかりに握り締められている。

「……。――死にたくない」

 掠れた声で最後の方は聞き取れない。

「恩は返すさ」

 アリエスは涙目でこちらを見た。

「命を救って貰った恩は返す。俺はアリエスを護る。絶対にだ」

 自信はない。薄っぺらな何の確証もない言葉だ。勝機など欠片もないのだから。それでも――言わずにはいられなかった。

 アリエスは何も答えなかった。

 薪が燃える音が続く。大分時間が経った。


「寝るわ。お休み」

「はい。お休みなさい」


 今日も一段と疲れた。早く眠りたい。

 自室に向かう。明日もこの路を行ける保障はない。明後日は? 明々後日は? いつ死んでもおかしくない。それは兵士も同じこと。戦場でも同じこと。同じことだが――納得できない。何故? 恐らく――俺たちは救われていないからだ。

 部屋に辿り着き、戸を開け中に入る。疲れた、寝よう。


 戸がノックされる。急いで振り向く。まさか――もう。


 剣を抜き、戸を開く。ゆっくりと――いつでも戦えるように構え――アリエスの顔を見た。まさかアリエスが? だが向こうは戦闘態勢を取っていない。ただこちらを伺いながら立っているだけだ。


「どうしてこの部屋が?」

「あの……すいません、後をつけました」


 気づかなかった。疲れている証拠だ。

「お時間、宜しいですか?」

 肯き、戸を開く。ミノタウロスではないだろう。ミノタウロスなら、寝込みを襲う方が確実な筈だ。

「で、何の――」

 抱きつかれた。

「――アリエス?」

 泣いていた。肩が震え始めて、嗚咽が聞こえる。


「おい、アリエス、どうしたんだ――?」

「怖いんです……」


 端的に言う。声が震えている。


「もう私――分からないんです。何もかも……」

「……気持ちは分かる。俺だって――」


 死ぬのは怖いし、誰がミノタウロスなのか分からない。これからどうすれば良いのかも――。


「……――て」と囁く様な呟き。

「え? 今、なんて――?」

「――助けて、ください」


 潤んだ瞳に上目遣い。訴えてくる力に抗えない。

 アリエスの髪に指を入れる。流れる美しい髪。そのまま頭を掴み、抱き寄せて口付けをした。瑞々しい唇の柔らかさに自我が蕩け、虜になって行く。服を剥ぎ、露出された美しい肌に唇を這わせ、輪郭をなぞって行く。

「……あぁ、待って――」

 アリエスが囁くように懇願する。

「戸を……閉めてください……」


   *


 無防備なアリエスに毛布をかけ、俺は服を着た。同じ部屋で眠ることは禁止されている。だから俺は外に出なければならない。剣を手に取って外に出る。戸を閉め、その前に座る。ここで眠るしかない。他の部屋に入ろうとして誰かいたらまずいし、誰かいなかったとしても、アリエスをここに放置することになる。ここならミノタウロスが来たとしても、アリエスを護れる。――己の命と引き換えに、宣言通り恩を返せる。

 剣を杖にするように抱き、先程までのことを考える。アリエスは、どうして俺に――。二日目の時も、俺を助けてくれたし……どこかで会ったことがある? 記憶にない。だとすれば、純粋な好意故……? そうだったとして、先の選択は正しかったのだろうか……。だがアリエスの乞う瞳と肉感的な体の前に理性は熱されたラード同然に溶解した。俺もアリエスの要求に全力で応えたいと強く感じた。正しかったかどうかは分からないが、正しい正しくないという枠組みを超えて本能がアリエスと絡み合い結びつくことを求めたのだ。きっとアリエスもそうだろう。

 そこまで考えると急に心が軽くなった。安心しきってしまい、緊張が抜ける。睡魔に襲われ、あっという間に船を漕ぎ、意識が――不明瞭に――。

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