或る少女の肖像

Lis Sucre

第一話 画家と少女

「ねえ、アルメル。人間が生きていくうえで、なくてはならないものとはなんだと思う?」

 フランシス・ルシエは読んでいた通俗小説から顔を上げ、突拍子もなく尋ねてきた。私は眠気にあくびをかみころしながら、「さあ、なにかしら」と返事をした。

「考えてみたまえ」

 どうして私が? と思ったけれど、答えを出せばこの馬鹿らしい質問もすぐに終わるだろうと思い直し、適当に考えてみた。

「そうね、空気じゃないかしら?」

 ルシエはこの回答がお気に召さないようだった。彼は作業台に散らばるパステルや木炭を押し転がして小説を置き、細い指先でコーヒー・カップを手に取った。そして、腰掛けていた椅子からおもむろに立ち上がると、通りに面した大きな窓の前に立ち、セーヌ川の向こう岸に視線を向けた。

「答えはね、至って単純なものなんだ」

 柔らかな陽光によってルシエの端正な横顔が照らされる。肩まで伸ばしたカフェオレ色の髪に、淡い水色の瞳。長い睫毛は頬に絵筆のような影を落とし、薄い唇はいつも口の端を若干上げて微笑む感じ。好みじゃないけど、悪くはない。いや、むしろ世のご婦人たちからしてみれば、充分すぎるほどに美しく魅力的シャルマンな青年に違いない。

 じっと観察していると、振り向いたルシエと目が合った。

「答えはね、愛だよ、愛。愛が人生のすべてなんだ」

 また始まった。私は軽く溜息をつき、別段興味もないのだけど彼が先程まで読んでいた小説を手に取ってみる。タイトルは『愛という名の方程式』。お気に入りの小説家、アルフォンス・シャレットの作品だ。同作家の出世作となった『恋愛至上主義』を何十回も読み直し、主人公の台詞を完璧に言い回せることはルシエのささやかな自慢であった。臆することなく口にされる普遍的な愛の詩(うた)。胡散臭い言葉が紡がれない日は一日たりとも存在しない。

「愛とはね、容易く定義出来ぬもの」

 だったら最初からしないでよ。

「ちなみに、僕の愛はこのコーヒーよりも熱いのだ。燃え上がる愛の炎は灰になるまで身を焦がすのさ」

「あら、じゃあ結局骨しか残らないのね」

 的確な指摘が癇に障ったようで、ルシエは彫刻みたいな繊細な顔をほんの少しだけしかめて見せた。そして、憐れむような表情を浮かべると、さも悲しげに言った。

「ああ、アルメル。君はそんな考え方しか出来ないから、いつまでたっても本当の愛を見つけることが出来ないんだ」

 私は開いた小説から目も上げずに言葉を返す。「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」

 そうよ。私は自ら好んでひとりでいるだけ。女の人に捨てられるルシエとは違うんだから。

「僕のことは放っておきたまえ。最近の君はなんだか妙に、殺伐とした物の言い方をする。一体何に腹を立てているのだか」

 あなたよ、あなた。あなたが始終おかしな発言をするから、単に呆れているだけよ。

 ルシエはカップをテーブルの上に戻すと、私が座っている長椅子の端に腰を下ろして画板を膝の上に乗せた。

「さあ、休憩は終わりだ。さっきと同じポーズを頼むよ」

 急に真面目な顔をして、彼はパステルごしに私へと焦点をあて始めた。私は言われたとおりに膝を立て、両手を組んで顎をその上に乗せる。

 昼下がりのアトリエに訪れる心地よい静寂。絵を描いているときのルシエは、いつもとても真剣な目をしていた。芸術のことはよくわからないけれど、聖人や天使など古典的な宗教画ばかり見て育った私にとって、現実の女性たちの一糸纏わぬ日常の姿を描く彼の作品は、実に革新的に感じられた。

 印象派の影響を受けたという筆づかいで、ルシエは柔らかな光の移ろいをカンヴァスの中に落とし込む。穏やかで明るい色彩に富んだ絵は私から見て才能がないこともなかったが、そう簡単に世の人々に認めてもらえるものでもないのだろう。それにどちらかといえば、彼は売れない画家というよりはむしろ売らない画家だった。自分が納得のいく絵を描けるまで、一枚の画布も売るつもりがないのである。

 共和制のこの時代、無欲恬淡な青年がなんの苦労もなくこうして画家を気取って暮らしていられるのも、彼が上流貴族だからにほかならない。なんでもパリ屈指の名門の出だそうで、フランシス・ルシエ(忘れてしまったので中略)・ド・ラトゥールと、その名も舌を噛みそうなほどに長かった。

 称号などもはやなんの特権もない単なる記号だとルシエは笑うが、幸運なことに彼にはそれなりの財産が遺されていた。本来ならば社交界の最高位に君臨しているはずの人間が、対岸にあるフォーブル・サン=ジェルマンの大邸宅をわずかに離れ、使用人も伴わずにアパルトマンで自由気ままなひとり暮らし。昨今の上流階級者たちのあいだでは『庶民ごっこ』でも流行っているのだろうか?

 皮相的な道楽にうつつをぬかす富裕者たちの愚かしさったらないけれど、なんとも悲しいことに今の私はそれによって生かされている。

「君は愛がなんたるかをまったく理解していない」

 デッサンを続けながら、大げさな口ぶりでルシエが言う。

「別に理解したくもないわ」

「そもそも、その態度がまずいんだ」

 彼の視線は私の結ばれた手元から上へ向かって移動した。

「陽に当たると黄金のようにきらめきを放つ、美しい琥珀色の瞳。アーモンド色の巻き髪は絹のように滑らかで、ときどき食べてしまいたい衝動に駆られる。頬と唇はまるで花と蕾のごとく淡い薔薇色に彩られ、君はなかなか愛らしいのに実にもったいないものだ。男嫌いもほどほどにしないと婚期を逃すよ」

「だったら、ルシエが私をお嫁にもらってくれればいいじゃない?」

 結婚なんてまったく興味もないけれど、なんとはなしにそう言ってみた。すると、彼は動かしていた手を止めて、驚いたように私を見つめた。

「君が僕にそんな気持ちを抱いているとは知らなかった。君を苦しませるつもりはなかったんだ、アルメル。気持ちは嬉しいけれど――これは嘘偽りなく本当のことだよ? 君の気持ちはたとえようがないほど嬉しいのだが、僕には忘れられない人がいる。ずっと彼女を想ってるんだ。僕のことはあきらめて、もっと素敵な紳士を見つけたまえ」

 彼は私の手を取ると、エレガントな仕草で甲の上に口付けた。

「あなたなんかを好きになるわけないじゃない。冗談に決まってるでしょう?」

 嫌味を込めて吐き捨てると、ルシエは露骨に傷ついた素振りを見せて狼狽した。念のために言っておくが、彼はこんなことでは決して傷ついたりしない。

「愛を弄ぶのはふしだらな娘ジゴレットのすることだよ。そんな道楽は君には似合わない」

 歯の浮くような言葉をやすやすと言ってのける愛の伝道師を睨みつつ、私はどうして自分がこのアトリエで暮らすことになったのか、我が人生の分岐点をしばし思い返してみることにした。



 幼い頃に父に捨てられ、私は港町のうらぶれた孤児院で育った。水平線を見渡せる丘に建つ施設は元々カトリックの教会堂で、老朽化のため教会自体は新たに献堂された場所へ移転し、くたびれた建物は改修されることなく孤児院として残されたのだそうだ。

 院長を兼任していたヴェルヌ神父は見るからに善良そうな背の高い男だった。積極的な慈善活動により、彼は教区の人々から絶大な信頼と尊敬を得ていた。この海辺の孤児院で私以外の子供たちは分け隔てなく愛を与えられ、皆立派に成長した。働き口が見つかれば彼らは自分たちの父である院長に感謝の言葉を残し、それぞれ『家』から旅立った。

 私は特別な子供だった。何がどう特別かというと、ほかの子供たちよりうんと美しい子供だったのだ。こんな自惚れたことを言ったりして愚の骨頂だが、毎晩耳元で聴かされ続ければ、そうなのかと信じたくもなるものだ。

 孤児院では皆が大部屋を共有していたにもかかわらず、私は喘息を患っているという理由からひとり個室を与えられていた。色欲にとりつかれた聖職者が人目を忍んで部屋にやって来られるように……。

 幸いだったのは、院長の趣味が幼稚な人形遊びだったという事実。彼は自分が不能であることに劣等感を抱いていたので、私たちのあいだに体の関係は無かった。ただ、毎晩肌に触れられて、瞼の上や体中のあちらこちらにキスをされた。

 院長を神のごとく慕う子供たちとは口を利きたくなかった。私は使われていない聖堂の懺悔室に閉じこもり、いつもひとりで遊んでいた。幼い私にとって、孤児院から逃げ出そうなどということは思いもつかないことであり、今にも朽ち果ててしまいそうな廃墟同然の建物が、自分の世界のすべてだと思い込んでいた。

 歳を重ねるにつれ、いつしか院長に対する憤りは自分を捨てた父親への憎しみへと刷り込まれていった。パパが私を捨てなければこんなことにはならなかったと、顔も覚えていない父親のことを心の底から恨み続けた。

 ステンドグラスの聖人たちは皆恍惚とした表情で神を崇めていたが、もはや神は私の祈りの対象ではなくなっていた。そのことに気がついたある日、私は衝動的に『家』を飛び出た。

 パリに出てきさえすれば、どうにかなると思っていた。だが、現実は想像以上に厳しかった。女工や洗濯女など勤め口はあれど低賃金ゆえに自活出来ず、似たような境遇の娘たちは愛人を見つけて囲われ者となったり、娼婦のようなことをして生計を立てていた。

 私は彼女たちのようにはなれなくて、家賃を払えずに宿を追い出され途方にくれていた。孤児院でのトラウマが私を意地にさせ、男に体を触らせたり教会の施しを受けるくらいなら、盗みを働いた方がよっぽどマシに思えた。

 警察の目を逃れながらセーヌの河岸を寝床にしていた、そんなある日のこと。私はとうとう耐え難い空腹から罪を犯そうとしていた。身なりの良い青年に目をつけて、彼の所持品を拝借しようと後を尾行することにしたのだ。古物の露店市を興味深げに物色する青年は、立派なシルクハットを被っていた。杖とスケッチブックを小脇に抱え、買ったばかりの携帯用画架イーゼルを担ぐ姿を見る限り、きっと画家を気取った金持ちの放蕩息子かなんかに違いないと思った。

 上等な服に身を包むブルジョワの持ち物が少しくらい減量したところで、なんら変わりは無いに決まっているのだ――そんな風に自分自身に言い聞かせつつ、私はわざと彼にぶつかると、手にした獲物を羽織っていた肩掛けの内側にそっと隠した。

「待ちたまえ」

 男に手首をつかまれて、盗んだ財布が懐から石畳の路地に転がり落ちる。あろうことか私は男の肩に抱き上げられ、すぐそばの路地裏へと連れ込まれた。必死に足掻いて抵抗したが、無駄な努力だった。男は私を地上に下ろし、石壁と杖の間で挟むようにして体を取り押さえたまま、こちらの焦燥感などお構いなしに微笑んだ。

「いいかい? 人のお金を盗んではいけないよ。盗んでいいのは異性の心だけだとよく覚えておきたまえ」

 私はひどく混乱していたので、男の台詞がどんなに気障で馬鹿っぽかったかまったく気づかなかったのだが、今思い返してみるとその寒さに身の毛がよだつ。愛があるから人類はどうだのこうだのと、その後もわけのわからない説教を延々と聞かされたように記憶する。

 パリ警視庁のあるオルフェーヴル河岸は目と鼻の先だった。このまま警察に連行されるのだろうか? ユゴーが描いたジャン・バルジャンのように、刑務所に入れられるに違いない。その後はようやく抜け出したはずの孤児院へと逆戻り?

 ところが、なんとも意外なことに男は私を警察に連れて行く気は微塵もないようだった。彼は腰をかがめてこちらの背丈に合わせると、優しい声でこう言った。

「ねえ、顔をよく見せてごらん」

 空色の瞳が品定めでもするように、じっくりと私の顔を覗き込む。男はテュイルリー公園に飾られている彫刻のように、実に端正な顔立ちをしていた。

「君、名前はなんと言う? よかったら僕のモデルにならないか?」

 唐突な申し出に、私は思わずたじろいだ。

「場違いな格好をしているだろうけど、決して怪しい者ではないから安心してくれたまえ。誘われたマチネで劇場の人々の様子をスケッチしようと思っていたのだが、急に気が変わってね。露天市を見かけて衝動的に馬車を降りてしまったんだ。――ねえ、どうだろう? 君の悪いようにはしないし、モデル代はそれなりに支払うつもりだよ?」

 話の流れから察するに、どうやら男は本当に画家であるようだった。彼は担いでいた画架イーゼルを石壁に立てかけてスケッチブックを開いた。そのとき、ちょうど路地裏に吹き込んできた突風が、男のシルクハットとスケッチブックの間に挟まっていたいくつかの紙をさらうように舞い上げた。

 石畳の路上に散らばる無数の白い紙。そこに描かれていたのは、さまざまなポーズをとる裸の女たち。想像もしていなかった衝撃的な芸術作品にくらくらとした眩暈を感じた。

 男が絵を拾い集めている隙に、私は転がる帽子を蹴飛ばして一目散にその場から逃げ出した。



 画家の財布を盗むのに失敗して以来、私はすっかり怖気づいてしまっていた。それでも、再び盗みに挑戦しようと、大通りやパサージュなど人通りの多い場所を歩いたが、パンひとつ手にすることすら出来なかった。やがて日が暮れて、霧のような小雨が体を凍らせてゆく。

 暖かい季節はいつの間にか街から別れを告げていた。冬がこんなに寒い季節だとは思ってもみなかった。人恋しさからか、知らず知らずのうちに民家の明かりに引き寄せられた。窓越しに見える温かい食事と家族の団欒。そんな幸福そうな情景を見つめれば見つめるほどに、自分の存在が惨めだった。

 世の中はなんて不公平なのだろう。神なんてものは存在しないし、それゆえに奇跡だって起こらない。救いはないのだ。愛されるべくして生まれた者のみが愛され、満たされるべくして生まれた者のみが満たされる。

 空腹なのが輪をかけて、心は絶望の淵を彷徨っていた。希望を抱けず、泣くことすら忘れて夜の街を歩いていると、いつの間にやら歓楽街へ入っていたようだった。

 建ち並ぶ音楽喫茶カフェコンセールやダンスホールへ賑やかな人の群れが流れ込む。通りがかりの馬車の中では、はすっぱな若い娘が男の膝の上に飛び乗ってキスをしていた。路上の暗がりに立つ私娼たちは、男たちの気を惹こうと皆揃って猫のような声を出している。

 私は娼婦にだけはなりたくなかった。常に穢れの一歩手前にいたことで、穢されることをひどく恐れていたのだと思う。院長の嘗め回すような指先の感覚と彼の存在そのものが、頭の中で世の男たちを淫乱な動物へと仕立て上げた。だが、このとき私はまるで吸い寄せられるように、無意識に一軒の館へと足を向けていた。その場所が娼館であることは、差し向かいの家の戸口で眠る酔っ払いがうわ言のように言っていたので知っていた。

 大柄で美人な女将マダムは、私を見るなり失笑した。「あなたみたいに汚い娘は見たことないわ」

 居室に控える裸同然の女たちが、廊下の向こうから面白そうにこちらを覗き見ていた。剥き出しのままの乳房を目の当たりにし、私は慌てて視線をそらす。

「まさか未成年じゃないでしょうね。うちは政府公認だから、厄介ごとはごめんですよ」

 女将マダムは私のことを上から下までまじまじと見つめていたが、気が変わったのか身繕い用の小部屋に入るよう指示してきた。

 体を清めたのは随分と久しぶりのことだった。湯に浸した布で全身の垢を擦り落とし、汚れの無い自分の顔を鏡越しに覗き見る。一体いつからこんな表情をするようになったのだろう。琥珀色の瞳は死んだように光を失い、生気がまったく感じられない。

「思ったとおり、あなたはかなりのべっぴんさんね。身分証明書は適当に偽っておくから、今日からうちで働きなさい。あなたほどの可愛い子ならすぐに一番の売れっ子になれますよ」

 女将マダムはご満悦でシュミーズだけになった私を上から下までまじまじと見つめた。あらわになった胸元を隠すようにして、私は両手で自分の腕を抱え込む。髪はリボンでゆったりと編み込まれ、顔にはうっすらと化粧も施された。

 こんな物を着て、こんな化粧をして、私は一体ここで何をしているのだろう? 私はここで体を売るのだろうか――?

 いっときの感情に流されたとは言え、随分と思い切ったことをしてしまったと後悔した。感傷的なこちらの様子に気がついたのか、女将マダムは私の肩に手を置くと、顔に向かって煙草の煙を吹きつけた。

「やめるなら今のうちよ、お嬢さん。商売する気がないならとっととここから出てってちょうだい」

 どうやら彼女は思慮深い人間のようだった。穢れたくないのなら、無理に体を売ることはない――。瞳が切にそう語っていた。しかし、それらの印象は後から思い出されたことであって、このときはそういったことを考えられるような余裕を持ち合わせてはいなかった。路上で飢え凍えて死ぬのなら、ほかに道はないのだと頑ななまでに思い込んでいた。

 ひたすら首を横に振り続ける私を見兼ね、女主人は「仕方ないわね」と溜息をつくと、秘密の顧客名簿に視線を落とした。

「今夜はルシエさんが来てるから、彼の部屋に行きなさい。あの人は優しい男だから大丈夫」

 そう言って、彼女は二階の一番奥の部屋へ行くよう促した。

 一段ずつゆっくりと踏みしめて上った階段は、終わりがないのではと思うほどに長く感じられた。踊り場を回り込むとき、女将マダムが心配そうにこちらを見上げている姿が目に入った。

 通りすがりの部屋の扉がわずかに開いていて、後ろ手に縛られた半裸の女がお尻を剥き出しにされ、男性客から執拗に鞭で折檻されているのが見えた。猿轡を噛んだ女は私と目が合うと、楽しげに片目をつぶって密やかな合図を送ってきたが、私はそれには応えられず、ただ静かに歩みを早めた。

 あまりの衝撃で心臓は飛び出さんばかりに鼓動を打っていた。気を落ち着かせようと深呼吸を繰り返し、あやつり人形のように不自然な動きで奥の部屋と向かい合う。今すぐこの場から逃げ出したいという葛藤の後、ややあってから覚悟を決めて扉を開けると、大きなベッドの中央でたくさんの枕を背に、ひとりの青年が足を伸ばして座っているのが見えた。俯いているので顔はよく見えないが、まだ若そうだった。

「扉を閉めて、中にお入りよ」

 青年は顔を上げずに声をかけてきた。言われるままに部屋の扉を閉めた途端、急激に辺りの空気が重たくなったように感じられた。

「ここに座りたまえ」

 そう言って、彼は自分が座っているベッドの隣を、手にしていた鉛筆の先で軽く叩いた。

 膝が笑い出すとはこういうことを言うのだろう。私の足は見事なまでに意思と呼応し、ひどい震えに襲われた。恐怖で頭ががんがんした。この男は私をどうするつもりだろう? 院長のように私の体に触れるだけ? いいえ、それだけで済むはずがない。だってここは娼館だもの。

 男はスケッチブックに想像で何かを描いているようだった。こんなことになるのなら、財布を盗り損ねたあの画家に、裸でもなんでも描かせた方がよっぽど良かったに違いない。今更考えても無駄だとわかっていながらも、思い出さずにいられなかった。

 無言でその場に立ちつくしたままの女を不審に思ったのか、青年は鉛筆を持つ手を止めておもむろに顔を上げた。橙色のランプの明かりが、彫刻のような男の顔を照らし出す。その顔を見て、思わず息をのんだ。そこにいたのは、紛れもなく私が財布を盗もうとしたあの画家の男だったのだ。

「驚いたな。まさかこんなところで会えるなんて」

 彼はすぐにこちらの正体に気がついたようだった。屈託のない笑顔を浮かべて近寄ってくると、感激に打ち震えた様子で私の両手を取った。「僕はね、あれからずっと君を探していたんだよ」

 温かい掌の感触と、包み込むような優しい声。その声を聞いた途端、不覚にも涙の粒がこぼれ落ちた。男は一瞬ぎょっとしたようだった。何もしていない相手に突然泣かれ、一体どう思ったことだろう。私自身は、自分がまだ泣くことが出来るという事実にかなり驚いていた。

 不規則な嗚咽で過呼吸になり、体が激しく波を打つ。涙は次から次へと溢れ出てまるで止まることを知らないかのようだった。

 男はしゃくり上げる私の姿をしばらく無言で見つめていたが、やがて、震える体を抱きしめると、そっと耳元で囁いた。

「運命って言葉を信じるかい?」

 髪に飾られていたリボンをほどき、彼は片側を私の小指に結びつけた。そして、もう片方の端っこを器用に自分の指先に結びつけると、悪戯気に微笑んだ。

「男と女の間にはね、切っても切れない糸があるんだ」


 これが、私とルシエの出会いだった――。



 橋の上を疾走する馬車のひときわ大きな騒音によって、遡っていた過去の記憶から現実に引き戻された。昼下がりのアトリエには、いつの間にやら西日が射し始めていた。視界の端では四角い窓の向こうに広がるパリが、夕暮れどきを描いた美しい絵画のように輝いている。

 微動だにせずポーズをとり続ける私を見つめ、ルシエが問う。

「何を思っているんだい?」

 私は画家を直視したまま、表情を崩さぬように呟いた。

「運命についてよ」

 私の口からこんな言葉を聞けたことが、よほど意外だったのだろう。ルシエは驚いたようにパステルを動かしていた手を止めた。そして、とびきり機嫌の良い笑顔を浮かべて言うのだった。

「回り始めた運命の歯車は、もう誰にも止められないのさ」

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