第2話
「わたし『子ども』が好きなの」
そんなことをわざわざのたまう人間を、信用出来ないと大城は、常々そう思っていた。
男女問わず、である。
『子ども』というジャンル、くくりの中にあるものが好きなのだろうか。
大城は、理解できないと思った。
それは、異性に対する媚びなのだろうか。
はたまた他者に対して、自分を好印象に見せる画策だろうか。
しかしながら『子どもが苦手』、はたまた『子どもが嫌い』とのたまう人間も信用できないと思うようになった。
それは、クソみたいな女上司との出会いによってそう思うようになった。
つまりはクソみたいな人間を信用するなという、良い教訓になったということである。
そのクソみたいな女上司は、コミュニケーションがそもそもで苦手だと言う。
致命的だ。どこかへ行ってしまえ。
苦手だと言って居直られることほど、煩わしいものはない。
苦手で、他者へ迷惑をかけると思うのなら、部屋にでも籠っていればいいじゃないか。
他者へ迷惑をかけているなんぞ微塵も思っていなくて、むしろコミュニケーションが苦手な自分に周囲の人間が合わせて、気を遣って話しかけてくれればいいとか思ってるクソみたいなやつなのだろう。
うぜえ。
そもそもで、対象物に対して好きでも嫌いでもどちらでも良くないだろうか?
もう好きだとか嫌いだとか言っていること自体に疲れた。
ああ、どんなに疲れていても、そのクソみたいな女上司に関しては嫌いである。
そこだけは譲らないで主張することができる。
子どもに話をもどすのなら、子どもを育てるというのは産んでしまった者の義務であり、好悪など業務に支障を来すだけではないか。
同様に、そんなことをわざわざのたまう類いの人間も、大城のことを理解することが出来ないだろう。
たぶん、そんなに意識して発言したことでないんだろう。
『子どもは宝だ』とか『格別の配慮が必要だ』とか。
街中で子どもと出会すと、かならず「かわいいですね」とか声をかける人間がいる。
それは余計なお世話かもしれない。子どもだから無条件でかわいいというものでもない。
他人と分かり合える日は、未来永劫来ない。
他人がどんなことを思っているかなんて、わかりっこない。
そんな淡い期待は抱かないに超したことはない。
ただ、子どもということばを借りて言うのならば、子どもは、われわれが思っている以上に大人だ。
そして、われわれ大人だと思われている部類の人間は、往々にして、子どもである。
未発達で、未成長で、未熟である。
自分の幼少期を鑑みてもそうである。
子どもの頃の自分のほうが、頭が良かった気がする。
いや、断然、良かったと思う。
記憶力が格段に違う。
大城の場合は、とくにませた子どもと言えたかもしれないが。
だが、そのように思う人も、少なくはないだろう。
歳をとればとるほど、概念に固執していくようになる。
常識という無意味のかたまりに、柔軟性が奪われていく。
女の子というのは、ませた生きものである。
生まれながらにしてオンナと言われる所以もある。
彼の会話の中には、ちょいちょい金銭面が絡む。
あと、昔の彼女の話題。
大城には金銭面よりも、それがなにより鼻持ちならない。
ちいさなヤキモチだろう。
大城は、そんな自分に自嘲的な笑みを洩らす。
鼻持ちならないが、真に受けるほどでもないので、「そうなんですねー」と流している。
これが彼の望んだベストな反応かはわからない。
きっと彼はもっとわかりやすいヤキモチを望んでいるのだろう。
彼の望みどおりにはなりたくないなんていうプライドもある。
すべての主導権を彼に握らせようなんて、さらさら思わない。
恋愛において、どちらが優位な位置に立つかは重要である。
大概、そのポジションの決定は最初のうちに決まる。
これはあくまで動物的感覚である。
迎合すれば、相手にすべての主導権を譲ることになる。
主導権を持つ人間と、持たない人間。
それらが自ずと示しだす答えは分かりきったものだろう。
たとえば、選択肢を相手に委ねる人間がいるとしよう。
それは、やさしいように見えて、まったく違う。
ただの狡猾な人間である。
自分で決定することを恐れ、責任逃れをする無責任者である。
そういった人間は、仮になにか問題が起こったときに、すべてを他者のせいにするだろう。
そして自分は悲劇のヒロインを演じる自己愛者。
人間は、あくまで自分本位な生きものだ。
やさしい人間、善い人間に見える人と言うのは、そう見える努力をしている。
そういう無理をしているのだ。
それは自分の美学から来る理想であるからかもしれないし、他人から望まれるからかもしれない。
ありのままの自分であるということはない。
根っからの善人なんぞ、性善説を信じる人間でない限りあり得ない。
根っからの善人でさえ、この歪んだ世界では曲がっていく。
彼、彼女は努力している。生きづらい世の中で。
大城の目には、少なくともそう見えるのだ。
そんな人たちに尋ねてみよう。
「あなたが本当に求めるものはなにか」
「あなたが本当に望んでいるものはなにか」
ほろ酔い気味になった人が話題を振る。
話題はシーソーのように、あっちに行ったりこっちに行ったりする。
大城は、その話題の行方を静かな目で眺めている。
「よくさあ、『きみは、ぼくの初恋の人に似てるんだよ』とか相手に言っちゃう人いるけど、それって駄目だよねー」
「ああ、あるある!『きみは、俺の好きだったデリヘル嬢に似てる!』とかね」
「いや、デリヘルはさすがに駄目でしょ……いろいろと」
「デリヘルに対する差別はいけないよ」
「差別とかじゃなくてさあ」
「じゃあ、キャバ嬢ならいいの?」
「どっちもたいして変わらんわ」
そんな会話が聞こえてくる。
この会話から推測するに、二次会はキャバクラコースとかあるんだろうなあ、とぼんやり思う。
「ね、大城さんもそういうの、イヤでしょ?」
彼がこっそり大城に尋ねて来た。
大城と彼の視線が絡み合う。
大城は、その人間の口から自分以外の人間の名が出たり、それを匂わせることばが出たら、すべて同等のものだと思っている。
彼が大城に個人的にそう尋ねてきた心理を追いつつも、感情をこれ以上他人に振り回されるのはごめんだと、心が嘆いていた。
なんて詩的なことを言ってみたものの、心中は『なんていう会話を乙女の前でしてんだよ。くっだらねー会話をただちにやめろよ、こちとら呆れて会話聞いてるってわかってる?はいれないよねーそんな会話。っていうかそんな会話しかしないのかよ。ゴミだわゴミ。さっさとキャバクラでもデリヘルでも行けや。そしてそっから二度と出てくるな。そしてわたしの前に二度と顔を出すな。見たくないもうそんな顔。初恋の相手に似てようが似てまいが、どうだっていいわ。そんな感傷に浸る気分にもなれないわ。帰宅したあとの家事の手順とか、家のシミの数とか数えていよう』と散々であった。
それに、各々が経験した似たものを求めることが悪いこととは思えない。
大城は、新しい人間関係よりも慣れ親しんだ人間関係のほうを好ましいと思う。
どうせこのひとたちもそんなに長くは続かない人間関係だ。
なつかしさ。郷愁。懐古主義。
忘れられるのなら、忘れてしまえばいいし、忘れられないのなら、忘れないでいるしかない。
デリヘルと同レベルがイヤとか、そういう次元ではなく、好きなひとの頭のなかに一瞬でも他のことがあるというのが許せない。
大城が重要視するのは、いつだって心理のレベルなのだ。
一般的に考えれば他者が話題に出てくるのは仕方のないことだけれど、自分といっしょに居るおなじ空間で、おなじ時間を過ごしているなかで、わざわざことばにしたのにはいったい全体、どういう意味があるの?と思ってしまう。
本当に望んでいるのは、他者が介入しないふたりだけの世界なのだ。
これってヤンデレ的思考なのかなと思い、あまり公言はしない。
しかし、考えの根本に持っているものは、そう簡単に変えられるものでもない。
さした理由はないのだろう。
大城は、そう結論を出した。
いまのように真面目に考えていると、大城自身だけが疲弊することになる。
なので、考えること自体を放棄するほうに転向する。
大城は、自分が考え過ぎてしまう傾向にあることをよく理解していた。
ゆえに、彼に尋ねられても、曖昧に「そうですねえ」と返すことしかできなかった。
思っていることはたくさんあっても、所詮、この程度の言葉に留まる。
彼はおそらく、はっきりした確証が欲しかったはずだ。
大城は、これは自分が恋の駆け引きのための回答なのか、それとも純粋な回答なのか、否か、また自問自答を繰り広げる。
オスカー・ワイルドは、こう言っている。
「男は愛する女の最初の男になることを願い、女は愛する男の最後の女になることを願う」
男性と女性の考えかたは、およそ正反対だ。
人間同士が分かり合えるというのは、幻想だ。
つがいになるのに、分かり合う必要はないのだろう。
生活をともに出来さえすれば良いのだ。
男性は、初恋の人を美化したがる。
幻想化して、手の届かない存在として自分のなかに大事に保管している。
男性とは、そういう生きものである。
ゆえに、「初恋の人と似ている」とは、恋愛対象としての範疇には入っていると言える。
幻想はあくまで幻想で、見ていれば見ているほど、切なくなる。
決して触れることもできない、遠い想像。
一方、女性が「初恋の人と似ている」と言った場合はどうか。
女性は過去よりも現在を生きる存在である。
ゆえに、女性がそのようなことを言った場合、もう「興味の無い相手」ということになる。
そのひと言をいう女性の表情に注目してほしい。
きっと、想像したとおりの表情を浮かべているだろう。
まあ、でも、女性で「あなたは、わたしの元カレと似ているわ」だなんて言う人は、なかなかいないだろう。
過去の過ちを学習し、同じような人と付き合って失敗するのはうんざりしているはずである。
これまで付き合ってきた男性とは違う相手を望む。
男性は「初めて」が好きで、女性は「最後」が好きである。
時間軸さえぶれた二人が巡り会える場所など、存在するのだろうか。
いったい、どこで交わり合うのだろう。
好きなタイプがわりと固まっているのは男性で、結局は、よく言われている母親のようなものを求めている。
究極にマザーコンプレックス、いわゆるマザコンなのだ。
これは動かしようがない。
ついで、『癒し系』や『天然系』と相場が決まっている。
柔軟に好きなタイプが広がっていくのは女性で、それゆえに段々と恋愛のハードルが上がっていってしまう。
非婚晩婚化が進み、離婚率も高く、男性も女性もバツイチの人も余っているのだから、本気で探せばいくらでも相手はいるのだろう。
究極のところ、高望みをしなければ、相手なんぞ腐るほどいる。
余りもの同士がくっつけば、世界みんなハッピーになるのではないだろうか。
他人が考えるほどそう簡単にいくものではない。
他人が思う以上に当人は、妥協したくないものなのだ。
そんなプライドが自分の心のなかに占めてしまい、苦しむだけだ。
結局のところ、ただただ欲深いのだ。
あらゆる煩悩を捨てれば、世の中は生きやすくなる。
そして生きることにもあまり執着を持たなくなる。
社会的な名誉がなんだ?
思い描いたような幸せがなんだというのだ。
あまり思考が不健康なほうに進むのも、良くない。
人間は生命活動を続けるためには、意欲的でなければならない。
求めなさい、さすれば与えられんという言葉もあるように、自分から積極的に欲しがることが大切なのかもしれない。
物わかりの良いふりをして、求めないのは間違っている。
求めることを、早々と諦めてしまうのも、もったいない。
人生は、なにかを成し遂げるためには短い。
短い人生のなかで何が成し遂げられるのだろうか。
さて、彼はなにを望んでいるのだろう。
よりどりみどりで、選びたい放題ではないか。
それでも彼のお眼鏡にかなう人間はなかなかいないのだろうか。
大城は、この考えにまで至って自嘲的に笑った。
そんなこと考えたところで、どうしようもないではないか。
一次会がお開きになる。
メンバーが分かれて、千々に散る。
そのことに一抹の寂しさを感じる。
わかれの場面は、どうであっても苦手だ。
苦手だから、引き摺られてしまう。
本音は帰りたい一心の大城と言えば、案の定なにも言うことが出来ず、割り当てられたグループのほうに拉致される。
こういうときに
「わたしは帰る!帰ります!」
と、強気に言える女性になれたら、どんなにか良かったことか。
大城は、心のなかでそう思う。
「キャバクラに行くのは、男の性だね」
なんてみんなで話しながらも、大城の中ではまた考えが巡る。
キャバクラに入れあげるくらいなら、キャバクラを経営したほうが効率的だと考える。
職場の彼らは、とても建設的な考えをする。
オフの場面でもこんなふうに思考を巡らせている大城よりも、である。
考えをいつも頭のなかで巡らせている夢見がちな大城とは、別個な人種だと思う。
職場は似たもの同士の集まりになることが多いというが、大城の職場では、大城は浮いた存在だった。
富、名声、権力、女……。
なんだかギャングみたいなそんな類いのようだが、そんなものが彼らのプライドを形成する。
彼らは、大城が思っているより、ずいぶんと虚栄的で、表面的な見栄えの良さを重視する。
それが、彼らのなかの社会性なのかもしれない。
どこに行ったって、だいたい同じ。
実績、成績、収入、報酬、数字、ブランド性……。
異性に対しても、同性に対しても、ひどく冷静に観察することが、大城の考えでは、いかなる場合においても必要なように思う。
査定の目は厳しい。
異性間で緊張するのは、そのせいだろう。
同性間ではまた違った緊張をする。
この緊張のちがいを肌で感じられることの出来るひとはいるだろう。
査定されている最中は、気が気ではない。
人間は相対的な生きものであるから、評価や比較が何よりこわい。
キャバクラに話を戻すとしたら、キャバクラの人は常に、その身体と顔、姿形を査定され、値をつけられている。
キャバクラのことを、『娯楽』という人間がいるかもしれないが、その遊びは金に直結している。
自分の労働した賃金をそこに支払っている。
金を払って、対価を得ないのは間違っている。
キャバクラでいったい、彼らはなにを得ているのか。
自分のなにより貴重な時間を費やしているのだ。
得るものが、多くの快楽より上回っていなければおかしい。
肉体関係で得られるものも、確かにあるが、それほどの快楽だろうか。
儲けられるのであれば、儲けるに越したことはない。
大城の考える、彼らの思考はそのようなものだと思っていた。
ビジネスマンは、そのように考えるように思っていた。
その考えは始終付いて回るものだ。
彼らのなかにも、やはり疑似恋愛をしたいという願望があるのだろうか。
大城は至極楽観的に、そんな気持ちが彼らにもあれば良いじゃないかと思う。
なにも金がすべてじゃない。
金を欲するときがあるのもまた確かだが、必要最低限で順繰りすれば、それで良い。
どんなに有能なコンピュータにだってエラーはつきものだ。
ハプニングは、人生において香辛料のようなものである。
例えば、そんなビジネスの中に恋愛感情が芽生えてしまったのなら育てるに他ならない。
ただ、総体的に考えると、キャバクラはあまり建設的ではない。
キャバクラ嬢には、あまり品の良さがない。
品があるといえば、クラブとかになるのだろうが、所詮水商売は水商売。
水商売を否定するのではなく、彼女たちはあくまで商売なのだ。
商売に感情は伴わない。
特に、恋愛感情は皆無である。
恋愛感情を持ち込むのは、人間としてはありだとしても、商売としては、失格である。
商売はあくまで商売だ。
商売の気持ちを伴わない恋愛をしたいということだろうか。
その場だけの、その場限りの。
そんなのって寂しくないだろうか。
ずっとは重たいのだろうか。
寂しがりの大城にはわからない。
友情を築く、お喋りをするにしたって、その制度は必要なのだろうか。
キャバクラは、隙間産業なのだろう。
寂しい人間の心を埋めるための。虚栄的な心を満たすための。
夜の世界とは、そんなもので満ちていると思う。
偽った、寂しい人が多い。
昼間も昼間で、たしかに理性的と偽っているが、夜は夜でまた違った偽りがある。
夜は、一般的に性的に解放されがちだと思われているが、月を見ていれば、不安になるように、感情的な何かには偽りが生じていることに気付く時間だと思う。
一番、自分が自分に問いかけることが多い時間だろう。
自己反省に、嘘偽りはないだろうか。
大城は、寂しがりだが、どうも彼らとは相容れない。
夜の世界の人と、夜の時間をともに過ごそうとは思わない。
それなら率先して自分ひとりの時間を選ぶ。
自分ひとりでいても、やること、したいことはたくさんある。
本当に人寂しく感じるのはいったい、誰なのだろう。
すべては時と場合による。
恋愛を例にとるならば、恋愛をしたいから恋愛をする、というわけではない。
そんな肩に力が入った状態で良い恋愛が出来るとは思えない。
恋はふとした瞬間に落ちてしまうことだってある。
すべてが計画通りにいくことなんて、そんなうまい話あるはずがない。
だからこその人生で楽しいのだろう。
シーソーや天秤のようにゆらゆらと揺れ動く心。
人の感情は複雑である。
自分のためだけではなく、相手をよく慮ること。
恋愛に関して言えば、結果と必ずしもコミットするとは言えないのではないだろうか。
最終的には、自分の気持ちの持ちようである。
恋愛のコミットは、やはり結婚だろうか。
はたしてそうなのだろうか。
視点や発想の転換。
誰もがぼんやりと抱く結婚生活や相手へのイメージがある。
しかしながら本当は、何がよい結婚で、なにを持ってして幸せと言えて、自分と合う人とはどんなものなのか、よくわからなくて戸惑っていることが多い。
譲れない条件を一つに絞ることは大事で、子どもが欲しい夫と子どもが欲しくない妻ではどちらかが妥協するか、もしくは破綻するのが普通である。
自分の気持ちの向かうところはどこなのか、はっきりさせておくことは大事である。
結婚が必ずしも、その人を幸せにするとは限らない。
結婚は制度的で、束縛的だ。
相手を名のある関係に停めることになる。
束縛気質だから、相手と結婚する。
それは違うと思う。
制度的には相手を停めておくことは出来るが、気持ちは離れていくことが出来る。
それは、根本的な浮気対策にはならない。
相手がお金持ちだから結婚する。
それは、もうビジネスだ。
感情が伴わない。
恋愛をするか結婚をするかで、先ほどのキャバクラの話のように、感情をどのように位置固定するかが決定される。
最初から感情を伴わなければ、上手く行くことが多いだろう。
だがしかし、そこにはあくまで感情を参入させてはならない。
感情を抱いたとて、それは抹消すべきものとなる。
でなければ、その感情がすべての足枷になってゆくことになる。
大城は彼と、その深さのある話をもちろんしていない。
どのようなシチュエーションになれば、そのような話になるのか。
誰かとそんな話をする日が来るのだろうか。
そこはシビアなところだから、探り探りになるのかもしれない。
自分の思っていることをありのままにすべて話すのが良いこととも思えない。
話すことによってより深く分かり合えるわけでもない。
そう、彼は結婚に関して、一度は失敗しているのだから、慎重になるのも無理はない。
「失敗するのはこわい?」
「もう二度と、失敗したくないなんて思っていない?」
若いときには失敗するのがかっこわるいと思っていても、若いときになら許されるのだから経験しておいたほうがよい。
大城は、比較的子どもに好かれる。
子どもに好かれる人間と言うのは、一般的にいる。
おそらく、子どもに好かれる、ある一定の条件を満たしているのだろう。
大城は、そのことで彼に勘違いをされていないかが、すごく不安になっていた。
子どもは嫌いではないが、望んではいない。
通りすがりの幼い子は、大城と目が合うと、満面の笑顔で手を振ってくる。
大城は、自然と頬が緩んで、その子どもに手を振り返す。
そんなとき、大城は、自分の幼い頃の思い出に思いを馳せる。
切ないような懐かしいような、そんな感慨に耽る。
それは、大城の幼少期のトラウマが深く関係している。
大城の両親の不和だけは、どういう話の経緯かはわからないがなにかの話のおりで彼に話していた。
隠し通せないことは事前に、飾るように話してしまったほうが、自分が傷つかない。
その大城の話が上手に伝わっているかは、依然として謎である。
大城の家庭は、不仲だった。
今となっては珍しいものではないが、家庭崩壊である。
あたたかい家庭には憧れがあるが、知らない。
ゆえに、家庭には言い知れぬ不安を抱いている。
大城は都度、過度な幻想を家庭に抱いてはいないだろうか、と自問自答してみる。
何事にも理想を抱きすぎると、崩壊する。
自分にその理想を守れるなどという驕った思いを抱いてはいけない。
大城の家庭は、特殊だった。
家の中ですら、ビジネスが成り立っているようなものだった。
恐ろしく役割分担がはっきりしていて、各々、割り当てられた役を演じきることを強いられていた。
子どもは子どもであり、親は親。
母親は母親の仕事を、父親は父親の仕事を。
古風といえば古風であって、それでいて家庭の温かみはあまりなかった。
両親の子どもに対する振る舞いも嘘くさくて、ひどく嫌だったのを覚えている。
今になって思えば、両親もどのように愛を注いだら良いか、わからなかっただけなのかもしれないと大城は考えた。
イヤだと思ったのも、思春期の親への抗いがたい反抗心かもしれない。
大城が大人になった今、彼らの不器用さを理解し、受け止められるようになった。
家族でのあたたかい思い出とは無縁だが、それも大城にとっては良かったのかもしれない。
ただ難点をあげるとすれば、その代償的なものを、他者にほんの少しでも求めてしまうことである。
他人にあたたかいものを感じると、大城は、それが自分に与えてもらえるのではないかと、即座に勘違いするのだ。
人と人との間で感じられる温度に、とても感動を覚える。
それは過剰とも言える反応である。
自覚があるだけに、つらい。
自分の求めているものが、人の温もりだとしたら、
それはいつか自分を傷つけるものにもなり得るのだから。
特殊だった、と言った。
自分のことだけを特殊だと思うのは、誰しもある。
だが、それはごく一般的だとも言い換えられるのである。
上手く行っていないことに対して引け目や後ろめたさを感じるのは、実に日本的と言えるだろう。
みんな一緒が普通だと思いすぎる傾向にある。
共通でありたいと願いすぎる。
変わっていること自体は、個性だと捉えることも可能である。
わたしは、そのような環境で育った、ただそれだけで良いはずである。
このように記載すると同情を得られるかもしれないし、何より、他人の理解が早いのである。
大城の中ではそのような計算が成り立っている。
しかし、最初は良いかもしれないが、同情からは何も生まれない。
大城は、彼に自分のことを話した。
自分のことを話すのは正直、怖い。
受け入れられるかどうかわからないから。
仮にありのままを話して受け入れられなかったとしたら、と思う。
偽った自分を好きでいてもらいたいとも思わないけれど、きらわれたくもないというのが本音だろう。
彼は、大城が言ったことに対して、掘り下げることも、言及することもなかった。
それは興味が無い、ということではなく、ただ静かに聞いてくれていた。
そのことにすごく受け止めてもらえたような、助けられたような気持ちになった。
たくさん話すのは、得意ではなかった。
すぐにいっぱいいっぱいになってしまう。
そうやって苦労して築いた距離も関係も、もしかしたら簡単なことで崩れてしまうのかもしれない。
大事なものが壊れてしまったことがある人間は、そうやって多くの物事に臆病になってゆく。
かと言って、現状維持でいられるほどのんびりしていられるわけでもない。
時は刻一刻と過ぎて行って、年だけ経ってしまう。
焦りがないと言えば嘘になる。
この焦燥感は何にも代え難い。
世の中にはいろんな経験をした人がいて、同じくいろんな経験をしてきた自分との出会いを待っている人がいる。
そのように世界は出来ている。
彼との関係の中では皮肉なことに、彼よりも彼の子どものほうに、大城は共感を覚えてしまった。
「自分と、とてもよく似た境遇の子かもしれない」
彼の子どもは現在、彼の姉に面倒を見てもらっているそうだ。
彼の姉は、それはそれはとてもかわいがっているそうである。
まるで自分の子どものように。
そう、大城にとってそれは、まったくもって昔の自分を見ているような気分になるのである。
両親が忙しいとき、ほぼ、大城は祖母や叔母の家に預けられていた。
大城自身が家に居たいと望んでも、それは許されなかった。
当時は、なんと過保護なことだろうと思っていたが、やはり親としては子どもを家に一人置いておくのは、さまざまな不安があるのだろうということを客観的に知った。
自分で彼に話しておいて、彼の自分に向けている感情が同情だとしたらどうしようと思い悩む。
「これだから自己開示は好きじゃない」と、大城は一人ごちた。
それでも信用した人には、自分の一番の弱みを見せられる人間でいたい。
それが、心の距離が縮まる方法だと言うのなら。
なぜ彼を信用したか、大城には依然としてわからない。
普段なら論理的に考える大城が、直感的に行動したのは彼だからである。
多くの世の女性も、彼にそうやって寄って集るわけで、本当に溜め息しか出ない。
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