川面、ゆらゆら。

ziggy

川面、ゆらゆら。


 自転車のホイールが温んだ空気を掻き混ぜる。

 川沿いの下り坂で感じる風は、湿っぽい水草や、岸に打ち上げられた魚の死骸の匂いやらがぐるぐると入り組んで、それ自体が大きな生き物の呼吸みたいだった。

 タイヤに弾かれたアスファルトの欠片が転がるのを横目で追い越して、がたがたと騒ぐ前カゴの中身を片手で押さえつける。足は止めたまま、重力加速度に労働をうっちゃって、頬を撫でつける軽い風圧に目を細めた。

 ちらちらと目にかすめる前髪がうっとおしくて、カゴを押さえていた手を離して掻き上げる。持ち上がった髪はそのまま風で後ろに流れた。

 十数メートル先、犬と散歩する爺さんにベルを鳴らそうとして、ベルが壊れていることに気がつく。仕方ないからハンドルを叩いて無理矢理ベルを鳴らした。迷惑そうな顔の爺さんと、爺さんより老けた顔のゴールデンレトリバーの横をすり抜ける。

 しばらくすると、道路が川沿いから離れ始めた。カーブのところ、いつか車がぶつかったらしいひしゃげたガードレールの間を通り抜けて、舗装された道路を逸れた砂利道に入る。川の横にぴったりつけた砂利道は、さっきよりも前カゴの中身を揺らすが、なんだかもう愉快になってきた。がたがた言うままにさせてペダルを踏む足に力を込めた。

 砂利道はそのままの下り坂で、みるみるさっきまで走っていた道路が頭より上になる。そこから延びた橋が頭上を通りすぎて、砂利道は川岸すれすれになっていた。舗装道路が川から離れていくのと一緒に、マンションや住宅街の影が両側に分かれて遠ざかり、代わって草むらがあたりを取り巻く。キリキリと回る車輪の音を追いかけるように、水面に小さな銀色の魚がきらめいた。

 視線を前に戻すと、ぐいとレバーを引き絞る。ギリギリとゴムのすり減ったブレーキの高い音が川面にこだまして、普通に止まったのに急ブレーキをかけたようだった。

 ざーっと砂利道をこすったタイヤが止まったのは、銀色の通学用自転車のすぐ横。ハゲかけた校章のシールは僕の自転車とお揃いだった。

 周りに木らしい木はなく、鳴き出したばかりの蝉の声はどこか遠くから響いていた。代わりに低い灌木の茂みで水鳥がけらけら笑っている。

 舗装道路から架けられた橋の代わりに、もうほとんど使われなくなった木製の粗末な橋の下は、午後二時の日差しから切り取られたみたいに、真っ黒い影が落ちていた。

 その中で真っ白いコントラストが翻る。

 麦わら帽の下の澄ました表情を崩すでもなく、


「遅い」


 と一言、あいつは呟くように僕をなじった。


 別に謝るでもなく自転車のスタンドを蹴飛ばすように立てて、前カゴに入れたバケツを取り出した。

 あいつも特に気に障った様子もなく、

「ん」

 と手のひらを差し出す。

 僕はバケツの中からペン竿を一本取って、ぽいと投げ渡した。



「マタナゴ」

 釣り糸の先の小さな針にぶら下がった、鈍い銀色の小魚を見る。リールもついていない小さな延べ竿が、魚が暴れる度にくいっとしなった。

「あほ」

 隣からすぐにダメ出しが入った。横目でこちらをじろりと見てから、自分の竿をひょいと持ち上げる。そちらにも一匹の小魚がかかっていた。

「ヤリタナゴ。何べん言や分かんの」

「分かんねえよ。でもないし」

「オスの婚姻色こんいんしょく、ね。ヒレんとこ見たら一発でしょ」

「分かんねえって」

「ちなみにマタナゴはこっち」

「……」

 針から外したタナゴをバケツに張った水の中に放す。すでに数匹の小魚と、黒い大きな二枚貝が中に収まっていた。

 バッテリー式のエアレーションが、水中でぶくぶくと泡を吐いている。

 あいつのほうも魚を外すと、新しい餌のアカムシを取って、器用に針に通した。虫エサに慣れた女だ。大抵嫌がるもんだが。ちなみに僕も嫌だ。

「持ち帰ってからすることは?」

 ひゅっと片手で竿を振って針を水に放り込みながら、あいつが言う。

「えー、塩水浴、場合によって薬浴、それに水合わせ、だろ?」

「薬浴の薬は?」

「あー……なんだっけな」

 釣り糸を垂れながら、こちらを見もせずにため息をつく。淀みにできた小さな渦巻きに、チープな赤いウキがクルクル回っていた。

「あほ。グリーンFゴールドかエルバージュ。この辺で買えるのはそれくらいでしょ」

「……あー。そっすね」

 そもそも僕に釣りを教えたのはこの女だ。魚を持ち帰ってから水槽に入れるまでの処置も、種類の見分け方も。……もっともいくつかはまだ微妙だが。

 こいつはこの川にいる『タナゴ』という魚の仲間を保護している。来年の護岸工事のせいで、川底の二枚貝に卵を生むという妙な習性を持ったこのちっこい魚は、もうこの川では生きていけないのだそうだ。

 それを、誰に頼まれるわけでもなく趣味でやっているこいつも、ずいぶんと奇特な奴だと思う。

 こいつの部屋は、この小魚が種類別に入った水槽が、五つだか六つだか置いてあるらしい。よくやるね。

 僕もアカムシを針に付けると、糸を水に垂らす。

 糸を垂らしている間は別になにを喋るわけでもなく、ただ水面に揺れるウキをぼんやりと眺めている。流れる水の音が妙に鮮明に感じられて、周りを取り巻く緩い風や水鳥の羽音やらが、肌を透過して染み込んでくるような気がした。

「釣りってさ」

 横でぽつりとあいつが口を開く。

「ん?」

「釣りってさ、二面性あるのがいいよね。魚がかかった瞬間は興奮して、アドレナリンどばっと出てる感じがするけどさ、こうして静かに糸を垂れてる間は逆に、エンドルフィン的っていうのかな、静かに満たされてるって言うか」

「あー……まあ、何となく分かる」

 確かに、このじっとアタリを待っている間の静寂は、妙な満足感を感じる。魚がヒットしたときのテンションの上がり幅というのも、釣り独特のものがあると言えるだろう。この二つのベクトルの違った楽しみが、人を惹きつけてやまないのかもしれない。

「一生幸せになりたければ釣りをしろって言うもんな」

「中国の諺だね。一時間幸せになりたければ酒を呑め、三日間幸せになりたければ結婚をしろってやつ」

「あー、それそれ」

 ふと、視界の端でウキがぴくぴくと動き出す。

「お、きたきたっ」

 会話を打ち切ってついっと竿を引きあげるが、伝わってきたのは空しい手応え。ぷらぷらと目の前で揺れる釣り針からは、きれいさっぱりエサが取り去られていた。

「……あら?」

「く、ふふっ……!」

 ぽかんとする僕の隣で、奴は耐えかねたかのように小さく吹き出す。

「あははっ! 何さ、『あら?』って……!」

「ンだよ」

「だって……あんまりマヌケな顔するもんだからさ……くくっ!」

「うっせ」

 ツボにはまったらしく小さく肩を震わせる奴を後目に、憮然として新しいアカムシに手を伸ばす。たぶんエサを取っていったのはクチボソか何かだろう。針からエサだけを持っていく名手だ。

「ったく、笑ってろ……ん。かかってるぞ」

「うん、く、ふっ……分かってるって。ふふっ」

「まだ笑うか」

 ひょいと持ち上げた糸の先で、さっきと同じ形をした小魚がぴちぴちと暴れている。ただし、さっきの灰がかった銀色とは違って、その体は鮮やかな濃いブルーメタリックに輝いていた。

「おー。オスだ。コレ種類なに? ヤリタナゴ? マタナゴ?」

「あほ。これはシロヒレタビラ。ヒレの外縁が白いでしょ?」

 あいつが釣り上げた魚を手のひらに乗せて見せてくる。黒ずんだ濃いブルーは、まるで日が沈んだ瞬間の空を魚の形に切り取ったようだった。

 タナゴの仲間のオスは、産卵期になると鮮やかな体色に変わる。だから『婚姻色』と言うそうだが、まあ平たく言えば女の気を引くために派手になるらしい。物は言い様だ。

「んふー」

 奴は満足げに針から外した魚をバケツに入れると、慣れた手つきで次のエサを針にかけた。

 軽く竿を振って、また川面に糸を垂れる。

「……あのさ」

「ん?」

「何でタナゴなのさ。女が魚飼うっつったら、フツー派手派手な熱帯魚だろ? グッピーとかなんたらテトラとかさ」

「偏見だし。んー……」

 川面に注いでいた視線を宙に泳がせて、考えるそぶり。それから眉尻を下げて、へらっと笑った。

「そだね。でも、ああいうの見た目玩具ぽくて苦手かな。魚に失礼だけど」

「でもこいつらって、あと一月もしないうちにただの地味な魚に戻っちゃうんだろ? 熱帯魚は一年中キレーじゃん」

 何の気なしに言うと、またも「あほ」が飛んでくる。

「そこがいいんでしょーが。一年のうちに、恋の季節だけ必死でめかし込んでるのが、なんともまあ健気でさー」

「そーいうもんかね……」

 川の空気は初夏の日差しに暖まって、生ぬるい風が川の上を渡っていった。まだ六月の末だというのに、遠くからは気の早い蝉の声が聞こえる。本日の最高気温はニュースによれば二十九度。日陰で多少マシとは言え、鼻っ面にぽつぽつと汗の珠が浮かんでいた。

「それにね」

「ん?」

「昔ここにお父さんと一緒に来てね。初めて自分で釣った魚がさ、タナゴ」

「ほー」

「あの日のもちょうど、さっきみたいな深い深いブルーでさ」

「…………」

 ちらりと横目で隣のあいつを見ると、汗ばんだ首筋をするりと雫が滑り落ちるのが見える。暑いのは向こうも同じのようだ。その目は多分静かに竿先を見ているのだろう。視線を前に戻して、僕も川面に垂れる釣り糸に意識を向けていることにした。



 去年より、僕の目線はまた高くなった。ここに初めて釣りにきたときには、僕たちの目線は並んでいたのだが、いつの間にか僕は、あの麦わら帽を上から見下ろせるようになっていた。声も、僕のはあれから低くなったが、あいつは以前のまま。澄んでいて、静かだけどよく通る声。顔立ちもあどけなさを残している。

 今日着てる白のワンピースだって、初めて会った頃からよく着ていたこいつのお気に入りだ。僕だけ進んだような、僕だけ置いてかれたような。

 あのころからあいつは色々と種類の説明やら小難しい魚用の薬品の名前を並べていたが、僕はと言えばただ何も考えずに釣っているだけだったので、結局のところ、何も覚えていないに近い。釣りに要る知識でなければ、正直どうでもよかった。

 もっとも、そんなことも言ってられなくなったわけだが。

「ねえ」

「うおう」

「?」

「いや、なんでも」

 また無意識に横顔を眺めている最中に、急に声をかけられたものだから、つい慌てて目を逸らしてしまった。なんだって逸らす必要がある。

「ねえってば」

「あ、うん。何?」

「今何時?」

「あー、五時半。今日はもうそろそろ切り上げる? 一応目当ても釣れたみたいだし」

「そだね。魚が弱んないうちに帰ろっか」



 カゴのバケツには、行きと違って水が入っている。だから、ゆっくりと自転車を押しながら、帰り道を歩いた。

 六月の長い陽はまだ夕焼けの色を見せず、微かにオレンジに色づくのみだった。

 砂利道を転がる車輪が石ころを踏みつけると、バケツに張った水がちゃぷんと音を立てる。片手で自転車を押しながら、もう片方の手にはふたりとも途中の駄菓子屋で買った棒付きアイス。色ごとにどう違うのかぴんとこないが、そのチープな味もまた、あのころから慣れ親しんだものだった。

 しゃくしゃくと噛んで、口の中で溶けきらないうちに飲み込む。冷たい感触が体の真ん中をすうっと通って消えた。

 隣ではあいつが垂れてきた雫を根本からぺろりと舐め上げる。これも昔から変わらない。こいつはアイスに歯を立てることをいつも嫌がった。最後の一口まで、舐めて消費するのがこいつなりの流儀らしい。

「それ」

 アイスを舐めるのをやめて、ふとあいつが口を開く。

「昔っから変わんないね。アイスをかじってすぐ飲み込むの。頭痛くなんないわけ?」

 文句を言う前に思わず軽く吹き出してしまった。また、同じタイミングで同じようなことを。

「なによ」

「べつに? つーか、このきーんってなるのも含めてアイスの醍醐味だろ」

「……マゾ?」

「ちげーよ」

「あはっ」

 小石を投げるみたいな会話。ポチャ、ポチャ。

 空はまだ夕焼けと言うには青すぎたけれど、風はラムネ色の涼しさを含んでいた。

「なあ」

「ん?」

「どれくらい遠いとこ行くんだ?」

 きゅ。と、小さなブレーキ音が鼓膜をこすった。

 バケツの中の水面が、またちゃぷんと弾ける。

 押して歩く自転車を、ブレーキで止める必要なんてないだろうに。この女はいつも、妙なところで几帳面なのだ。

「ん。そうだね。青春18きっぷ一枚使って、元が取れるくらいかな」

「わかりにくい」

「そうだね」

 バケツは、僕の自転車のカゴに入っている。

 エアレーションの震える音が、耳元で聞こえる気がした。僕たちはまた、どちらからともなく歩き始める。

「上京、じゃなくて。ここよりむしろ田舎に行くんだろ?」

「うん」

「良かったじゃん。きっとタナゴもいるだろ」

「あほ。私の勝手で始めたこと、私の勝手で投げ出したら格好悪いだろーが」

「だから僕が続き引き受けるんだろーが」

 傾いてきた日差しが、川面をきらきらと光らせる。道は少しずつ川を離れ始め、砂利道はいつの間にか味気ないアスファルトに変わっている。川の水音は遠ざかり、道はブロック塀に挟まれていた。

「……うん」

「残りの水槽、今度の日曜に取りに行くからな」

「うん。ちゃんとセットし直すとき水合わせもするんだよ?」

「わーってるって」

「移しかえてすぐに餌あげちゃだめだよ?」

「わかってる」

「フィルター水道水で洗っちゃだめだよ?」

「わかったっての」

「たまには、顔見せてくれないとイヤだよ?」

「…………」

「…………」

「魚の?」

「うん」

「だろーな」

 知ってる。

 キリキリと回る車輪の音が、道に並んでふたり分。隣を歩く白いワンピースの裾を、風がはらりと後ろに流した。

 きゅ、と。また隣で、小さくブレーキが軋む。

「じゃ」

「うん」

 会話はそれだけ。逆方向へとハンドルを切って、T字路が二人を一人に分けた。

 一人になっても、カゴには水が入ったバケツを乗せている。だからゆっくりと押して歩く。今までは、バケツを乗せるのはあっちのカゴだった。背を向けた後で、やっぱりあいつも、自転車を押して帰っていたのだろう。

 キリキリと回る車輪の音は、一つ離れてひとり分。もう一つは足音と一緒に、少しずつ小さくなっていく。自分の音に紛れて、どんどん聞こえなくなっていく。

 バケツに入った深いブルーの魚が、抗議するように一匹跳ねた。

「うるせえな」

 足を止めて、そんな台詞をアスファルトに吐き捨てた。赤みを帯び始めた西日が、僕の影を前に延ばしている。自転車の音はもう聞こえなかった。

 未練がましく、視線を肩越しに後ろに向ける。

「………………」

「………………」

 あいつもまた立ち止まって、道の向こうから僕を見ていた。

 西日を背にしたあいつの顔は、影が差してよく見えない。

 けど、どんな顔をしているのかはわかった。わかってしまった。

 道の向こうのシルエットは、肩が震えていたから。

 肩を震わせて、顔を俯かせて、声を殺して────


「笑うな、バカ」


 僕は唇の形だけでつぶやいた。

 残念なことに、ここで綺麗に泣いちまえないから、僕たちだった。

「……くっ、ふふっ、ははっ」

 自転車の音が聞こえないわけだ。あいつは、僕と同時に立ち止まったんだから。

 道の向こうのあいつと視線を合わせる。あいつも、もう顔を上げてこちらを見ていた。

 にいっと口角をつり上げる。わざとらしいくらいに。

 影が差してあいつの顔はよく見えない。つまりあっちからは、あいつは僕の顔がよく見えるんだろ?

 釣り糸を垂れた淀み、焼け付いたアスファルトの匂い、空を切り取った魚の色。

 違う空を。違う道を。だけど同じ空気を。

 僕たちは。

 僕は。


「じゃあな」


 六月に背を向けた。

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川面、ゆらゆら。 ziggy @vel

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