8 -眠れぬ夜-
結局、サクラとの関係はそれほど変わることはなかった。
帰りを部屋で待っていることはなくとも、部屋に遊びに来るようになったからだ。
来てもいいとは言ったものの、こんなに頻繁に来るとは正直予想外だった。
俺の部屋に気軽に来るような奴は他にいない。ミルトでさえも用事がなければ寄りつかない。
本当にサクラは変わり者だった。
使用人の仕事だけでなく、料理人の仕事を手伝ったりと、サクラは周囲の連中とすっかり打ち解けているらしい。
しまいには、ミルトの恋愛事情にまで首を突っ込もうとする始末。
その小さな身体にどこまでの活力がひそんでいるのか。
日々を楽しそうに過ごしているならそれでいいか、とは思うが。
心配していたことが馬鹿らしく感じられるほどに、サクラはこの砦にも、俺の日常にも溶け込んでいた。
そして、嵐の夜のこと。
そろそろ寝る時間というころに、サクラは俺の部屋の戸を叩いた。
「隊長さん、一緒に寝ましょう!」
強引に部屋に入り込んだサクラは、威勢よくそう言った。
最初は耳を疑った。
だが、サクラならどんな無茶なことを言い出してもおかしくない。
俺の部屋にいたときには一緒に寝ていたのだから、このくらいの無茶はむしろ、サクラらしいですませられてしまう範囲かもしれない。
とはいえもちろん、到底その願いを叶えるつもりなどなかったが。
「……なんの冗談だ」
とてつもなく低い声が出た。
きっと今の俺は隊員ですら逃げ出すほどに怖い顔をしているだろう。
だというのに、サクラは一歩も引かない。
「冗談じゃないです。本気も本気です」
「なおさら悪い」
「ダメなんです! 雨とか風とか雷とか、音が気になっちゃって気になっちゃって、一人じゃ寝れそうにないんです」
緑色のうさぎの描かれたバスタオルを、サクラはぎゅっと強く抱きしめる。
まるで、それしかすがれるものがないとでもいうように。
どうやらサクラは本当に、嵐を怖がっているらしい。
「そこでなぜ俺と一緒に寝るという発想が出てくるんだ。同室の奴にでも頼め」
「まだそんなに仲良くなってないのに、一緒に寝るなんてできません!」
「俺ならいいのか?」
「すでに深く交じり合っちゃった仲ですし」
俺は思わず沈黙してしまった。
それが最初の夜のことを指しているのは、言われずともわかった。
サクラがあのときのことを大して気にしていないのは知っているが、俺は今でも後悔していることなのだ。
あの情事を匂わされてしまうと、どういう顔をしたらいいのかわからなくなる。
「そんな嫌そうな顔しないでくださいよ。さすがに傷つきます」
「嫌なのではなく、反応に困っているんだ」
しょんぼりとするサクラに、俺はため息をつく。
あのときのことを忘れてはいけない、というのはわかっている。
きっと一生後悔し続け、だからこそサクラを守ろうという意志が強まる。
ただそれは、俺の心のうちで静かに決意すればいいだけのことで。
こうして簡単に、しかもあっけらかんとした様子で口にされてしまえば、困るとしか言いようがない。
「反応に困るようなことでした? だってほんとのことなのに」
「そういうことを、恥ずかしげもなく言われて困らない奴はいない」
「あ~、そこはあれです、個人差があるんですよ。私は思ったことをはっきり言っちゃうタイプなだけです」
それは少しわかる気がする。悲しいことに。
サクラは変わっている。彼女のような女性は、少なくとも俺は初めて見た。
あけっぴろげで、計算ではない無邪気さを持ち、人の心にどんどん入ってくる強引さまであり。
そのくせ、変な遠慮や我慢をする、大人の面もたまに見せる。
どこかアンバランスで、危なっかしくて目が離せない。
サクラ・ミナカミという人間は、そういう人間だ。
「どうやら俺はそのタイプとは合わないらしい」
サクラの自由奔放さは、今や俺の頭痛の種だ。
もう少しおとなしい性格をしていれば、と思うことは少なくない。
俺が言ってどうにかなる性格なら、そもそも苦労はしないのだろうけれど。
「えっ、そんなことないですよ! だって私と隊長さんの相性バツグンじゃないですか!」
「どこがだ」
「身体の……ごめんなさい冗談です睨まないでさすがにちょっとばかし怖いです」
俺がギロリと睨みつけると、サクラはあわててそうまくし立てた。
怖い、と言いながらもそれほど怖がっているようには見えない。
サクラには何を言っても無駄な気がする。あっさりと受け流されてしまう。
「……お前と話していると調子が狂う」
俺はもう一度ため息をついた。
サクラを相手にすると、簡単に自分のペースを崩されてしまう。
大人の余裕なんてどこかに行ってしまって、振り回されてばかりだ。
どうして自分のペースが保てないのかは、わからない。
単にサクラが、他人を巻き込むことに関しては天才的だというだけなのかもしれない。
「それ、あっちでも言われたことありますよ。家族は慣れちゃってたみたいですけど」
慣れることのできた家族はすごいと思う。十年以上も一緒に暮らしていれば当然なのかもしれないが。
きっと俺は、どれだけ経とうとサクラの破天荒な行動に慣れることはないだろう。
「俺は寝る。お前も部屋に戻れ」
話を切り上げて、俺は寝室に行く。
サクラは諦めずに寝室までついてくる。
……わかっているのか? 男の寝室に入るということを意味を。
この部屋で過ごしたことがあるから忘れているのかもしれないが、寝室は一番の個人的な空間で、人が素に戻る場所だ。
女が男のプライベート空間にずかずかと入り込んで、無事ですむと思っているんだろうか。
うさぎが狼の巣に自ら転がり込むようなものだ。食べられても文句は言えない。
荒んだ心地で、俺はベッドにどかりと腰を下ろす。
「だから、一緒に寝てほしいんですってば」
「却下だ」
即答すると、サクラは泣きそうに顔を歪めた。
「お願いします、後生ですから~!」
がばり、と勢いよく頭を下げるサクラ。
声音もその様子も、いつもの彼女らしくなく、必死で余裕のないものだった。
思わずじっと見つめていると、サクラは顔を上げた。
サクラは膝を折って、すがりつくように俺の袖をつかむ。
俺しか頼る者はいないと、本気さを訴えかけてくるうるんだ黒色の瞳に、俺はギクリとした。
「もうこの際、床でもいいので近くで寝かせてください!」
「……どうしてそこまで」
本当に嵐を怖がっているのは、見ていればわかった。
けれど、今回の嵐は災害を引き起こすほどのものではない。きっと夜中のうちに雨も上がる。
何をそれほど怖がることがあるのか、俺にはわからなかった。
「子どものころにですね、兄と二人で山で遭難しかけたことがあるんですよね」
そしてサクラは、どうして嵐を怖がるのか、子どものころの体験を話し出した。
子ども二人、急に崩れた天気のせいで、山で遭難した話を。
幼いころの記憶というものは、忘れたいものほどいつまでも残るものだ。
何度も何度も思い起こすことによって、恐怖を上乗せしていきながら。
暴風雨や雷、そういったものに過剰反応してしまうんだろう。
それはもう無意識的なもので、サクラ自身にもどうにもできないのかもしれない。
「人の気配があれば、少しは安心できるんです。一緒にいさせてくれませんか?」
まっすぐに俺を映す、月のない夜のような色の瞳。
この瞳には、ずっと弱かった。どうしてか、勝てる気がしなかった。
どんなにおかしな言葉も、はちゃめちゃな行動も、結局は許してしまう。
ありのままのサクラを、最終的に受け入れさせられてしまう。
目を合わせていられずに、俺は視線をそらした。
これ以上見ていたら、闇色の瞳に吸い込まれてしまいそうで。
何か、気づいてはいけないことに気づいてしまいそうで。
それをごまかすように、俺は前髪をくしゃりとかき回してから、わざとらしいため息をはく。
「……仕方のない奴だ」
こいつには敵わない。それだけは十二分にわかった。
俺はきっと、どんな無理難題でも、サクラの願いなら叶えようと思ってしまうだろう。
そんな魅力が、彼女にはある。
「えへへ、隊長さんはやっぱり優しいです」
にこにこと無邪気に笑うサクラを横目に見ながら、俺は布団をめくってベッドに上がる。
真ん中よりも奥に寄ってから、ぽんぽんと隣を叩く。
入れ、と言うように。
「床で寝かせるわけにはいかない。風邪でも引かれたら困るからな」
「じゃあ、お邪魔しま~す」
迷う様子も見せずに、サクラはするりとベッドに入り込んだ。
うさぎの描かれたバスタオルを枕代わりにして、そのまま横になる。
サクラは、俺の隣にいれば安心、とばかりに無防備な笑みを浮かべている。
その表情をなぜだか見ていたくなくて、俺は照明を消して横になった。
「ありがとうございます、隊長さん」
「……気にするな」
隣から聞こえてきた声に、俺はそう返すことしかできない。
ぬくもりが届かないくらいには、距離は開いている。
それでも、サクラの気配に胸がざわついた。
前に一緒に寝ていたときはそんなことはなかったというのに、いったいどうしたというんだろうか。
落ち着かない。なかなか眠気がやってこない。
意識が、隣に集中する。
隣に手を伸ばしそうになって、何をしているんだと自分を制した。
サクラはただ、嵐が怖いから俺と一緒に寝たいだけだ。
それ以上の意味は何もない。必死な様子をこの目で見ただろう。
触れていい理由は、どこにもない。
悶々としているうちに、嵐はひどくなっていき、雷の音はどんどん近づいてきていた。
明日、念のため被害を確認したほうがいいかもしれない。町が心配ということもあるし、森の中はいつ戦闘になるかわからない場所なのだから、土砂崩れなどで地形が変わっていないか、知る必要はあるだろう。
仕事に関することを考えて頭を冷やそうと苦心する。
そんな時、空が光ってすぐに、大きな音を立てて雷が落ちた。
隣に寝ていた少女が、ガバッと身体を起こした。
雷の音に驚いて目が覚めてしまったんだろう。
「ご、ごめんなさい……」
サクラは隣に寝る俺を見て、しゅんと肩を落として謝った。
きっと、起こしてしまったとでも思っているんだろう。
ずっと起きていたと言うのも嘘くさく聞こえるだろうし、何より理由は話せない。
それよりもすべきなのは、サクラの不安を取り除くことだ。
このままではきっと、嵐が収まるまでサクラは眠れない。
「どうすれば安心する?」
俺は上体を起こし、サクラの頬へと手を伸ばした。
触れて気づいた。彼女が小刻みに震えていることに。
見上げてくる瞳は、暗闇の中でさらに黒々として見えた。
もう、手遅れかもしれない。
なぜか、そんな考えが頭をよぎった。
自分でも意味はわからなかった。わからないままにしておいたほうが、いいような気がした。
「……ぎゅって、してもらってもいいですか?」
一瞬、誘惑されているような気分になった。
けれど、さっきからの余裕のなさを思えば、そんなつもりではないのはすぐにわかった。
単に人肌を感じることで安心したいんだろう。
そういえば嵐の夜はいつも母親と一緒に寝ていたと言っていた。
もしかしたら母親に抱きしめてもらいながら寝ていたのかもしれない。
震える身体を抱き寄せて、ベッドに横になる。
何か言葉をかけようかとも思ったが、何も思いつかなかった。
すでにベッドの中はあたためられている。けれど今は、心なしか暑くすら感じる。
それは腕の中のぬくもりのせいかもしれない。
自分のものではない熱源に、先ほど以上に落ち着かなくなった。
「えへへ、あったかい」
サクラは何を思ったのか、俺の胸に頬を寄せてきた。
ぞわりと、背筋を這い上がってきた何かに、俺はわずかに身体を震わせた。
それは、名前をつけるならば、肉欲。
唐突に理解してしまった。俺はサクラに欲情している。
目の前が真っ赤に染まるような感覚がした。
駄目だ、いけない。彼女は精霊の客人で、守るべき存在だ。
そんなふうに、よこしまな目で見ていい相手ではない。
身勝手な欲望をぶつけてはいけない。
わかっていても、本能というものはどうしようもなかった。
男というのは俗物な生き物だ。
一度その肌のやわらかさを、声の甘さを知ってしまっていれば、ふとした瞬間にそれが思い起こされる。
目のつく範囲にいるかぎり、けっして忘れることはできない。
こうして触れてしまえば、余計に。
いつのまにか、サクラの震えは収まっていた。
安心しきっているのが、力の抜けた身体から伝わってくる。
そんなに信用するな。
男の腕の中で無防備に寝たりするな。
小さくやわらかな身体を抱き寄せながら男が考えることなんて、どこまでも低俗なものなんだ。
もっとしっかり、服の上からではなく直に、触れたいだとか。
吸いついて、噛みついて、甘やかな声を聞きたいだとか。
欲望のままに貪ってしまいたい。その肢体に、俺を刻みつけてしまいたい。
こみ上げる衝動を堪えるためだけに、一晩を使った。
おかげでその日は、当然、一睡もできるわけがなかった。
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