5 -無条件な信頼-
「魔物の血って、人と同じ色をしているんですね」
夕食のあと、サクラは思い出したようにそう言った。
いい機会だからと、魔物がどんな存在なのか、彼女に説明することになった。
といっても、俺も詳しく知っているわけではない。
山のようにある仮説やなんかは、魔法師団の連中にでも聞かなければわからないだろう。
間違った知識を広めるわけにはいかないと、確証のない情報は基本的に表には出てこないようになっている。
階級と今の地位ゆえにいくつか有力な説は知っているが、一般人よりは詳しい、という程度だ。
それでも知っていることを話せば、サクラは興味深そうに聞いてくれた。
血の気の引いていた顔には、飯を食べたからか赤みが戻っていた。
「神話では女神の穢れた血から生まれた、となっている。そのため更なる血を求めて人を襲うのだと」
子どものころに読まされた神話の内容だ。
今の俺には、どれだけ時の権力者に都合よく作られた神話だったのかがわかる。
本当に神がいるのなら、欲深い人間に治世を委ねるはずがない。
神から国を治める権利を与えられたとすることで、王政の正当性を広めようとする。
この上なく単純でわかりやすい意識操作だ。
「女神さまなのに、穢れてるんですか?」
サクラは不思議そうに首をかしげた。
この国の神話も、この国の社会も知らない、彼女らしい素朴な疑問だった。
「血そのものが、穢れだということだ」
そう答えて、思わず自分の手を見下ろしてしまった。
幾度となく血に濡れたこの両手。
きっと、拭おうと洗おうと落ちないほどに、俺の手は穢れている。
「血にまみれる軍人は穢れの塊ということだな」
自分の手を見下ろしたまま、俺は自嘲の笑みをこぼす。
時折思い出すのは、軍人になると決めた時のこと。
俺が十八、あいつが十四の時。
元から仲のよくなかった従弟との確執が、はっきりと目に見えるようになったのは、きっとあの時からだ。
『せいぜい血で身を穢せばいい』
従弟は、そう俺のことをあざ笑った。
剣で、己の力だけで生きようとする俺を、愚か者だというように。
腹が立つよりも先に、ああ、そうか、とどこかすっきりとした心地になった。
自らの足で立つ力を得る代わりに、この身は穢れていくのだと、彼の言葉で理解した。
けれどそれも致し方ないと、欲しくもない権力のせいで心を腐らせるよりはいいと、納得して軍人になった。
その選択に、後悔をしたことは一度もなかった。
なかった、はずだった。
「隊長さんは穢れてなんていませんよ」
サクラはきっぱりと、そう言いきった。
その黒い瞳はまっすぐに俺を見つめている。
まるで、自分自身を嗤ったことを責めるように。
サクラは、十年以上も前の従弟の言葉を、真っ向から否定した。
「隊長さんは人を守るために自分にできることをしているだけです。そんな隊長さんが穢れているなんて、ありえません! 隊長さんはきれいです」
どうしてそこまで、というほどの語気の強さに、俺は言葉を失った。
ありえない、と断言し、きれいだと臆面もなく口にする。
なぜそんなふうに自信満々に言いきれるのか、理解できなかった。
お前は俺のことを何も知らないだろう、と。
一昨日のように言うこともできたはずだ。
現に、サクラは本当に何も知らない。
俺の階級も、俺が背負っているものも、俺の微妙な立ち位置も知らない。
たった数日で何を知ることができるというのか。
それでも……不覚にも、うれしいと感じてしまっていた。
もしかしたら俺は、ただこうして、そのままの自分を認めてほしかったのかもしれない。
「ほら、裸体もきれいなものだったし!」
……は? 裸体?
俺は目を点にした。
たしかに最初の夜にすべて見られているわけだが。
傷痕だらけで、きれいも何もあったものじゃなかっただろうに。
いや、問題はそこではなく。
とりあえず言えることといえば。
「……お前は残念な奴だな」
俺はそう告げて、深いため息を吐いた。
その前までの言葉との落差がひどすぎる。
ある意味、どちらも衝撃的だったという点では変わらないけれど。
「ひ、ひどいです隊長さん!」
サクラは眉尻を下げ、情けない声を上げる。
本当に責めているのか、彼女がどこまで本気なのかはわからない。
あるいは、最初から全部が全部、本気なのかもしれない。
少しは本音を隠せと言いたくなるほど、あけっぴろげな彼女だから。
「だが、それも含めて悪くはないと思う。少し……救われた」
俺のその言葉に、サクラは不思議そうな顔をした。
何を大げさな、とでも言うように。
大げさなどではなかった。真実、俺はサクラの言葉に救われたのだ。
軍属になって、後悔したことなどなかった。
それでもいまだにくすぶっていた何かしらはあったのだろう。
サクラの言葉は、それをきれいさっぱりとまではいかないまでも、減らしてくれた。
真正面から俺を肯定してくれた彼女に、自分の決意は間違ってはいなかったのだと自信を持つことができた。
彼女には、それがどれだけすごいことなのか、わかっていないのだろうけれど。
寝る支度を終えてから、また今日みたく不安なまま待たせることのないようにと、必要なことを話しておく。
警笛の聞き分けは、ここで暮らす者には特に重要な情報だ。
使用人仲間から聞いていないことが不思議なくらいだが、俺が話してあると思っていたのだろう。普通なら最初に教えておかなければならないことなのだから。
普段は当然のように聞き分けている音を改めて説明するというのは難しかったが、大まかにでもわかればいい。
強い魔物が近くに来る場合は、魔力の流れなどからたいてい数日前にはわかるものだ。
とにかく、警笛が鳴ったら絶対に外に出ないこと。それだけは何があっても守れと言い含めておいた。
サクラは使用人が帰ってくるのが遅れるのではと心配していたが、そんなことはない。
この程度の来襲は日常茶飯事だ。そのたびいちいち避難させていては砦生活が立ち行かなくなる。
今回はただの残党狩りだと説明したら、サクラは驚いていた。
あの真っ赤な返り血を思い出しているんだろう。
話の流れで、どうしてあれほどの返り血を浴びることになったのか言ってしまった。
あまり本人のいない場所で言うことではないと、口にしてから気づいた。
「その人、きっと隊長さんに感謝してますね」
「どうだかな。きつく叱責したから、恨んでいるかもしれない」
かばったときの真っ青な顔を覚えている。
怒鳴ったら、その顔からはさらに血の気が引いた。
命を失うところだったと、守られてから、怒られてから理解したんだろう。
腹から出した怒鳴り声には迫力があっただろうと、自分でも思う。
恐怖の記憶が一つながりになることはよくあることだ。
自分の叱責もその恐怖の一つになってしまわないといいが。
いや、怖がられて、恨まれて、そして命を大切にしようと思ってくれるなら、嫌われ役を買うのも悪くはないかもしれない。
「ちゃんとわかってますよ。隊長さんが命を救ってくれたんだって」
サクラがそう言うのなら、そうかもしれない。
そうだといい、と俺は思った。
嫌われるよりは、ありがたがられるほうが何かとやりやすいし、気も楽だ。
「隊長さんはやっぱり、人を守れる人です」
サクラはどこか誇らしげにそう言って、にっこりと笑った。
買いかぶりだと言っても、彼女は聞かない。
どうしてそんなふうに、簡単に信用できるのか。
本来は人を守るための軍人が、その力で人を傷つけることなど、よくある話だというのに。
もちろん俺はそんなことは絶対にするつもりはないし、隊長職である以上、もしそんなことをすれば確実に重い罰が待っている。
けれどサクラの信頼は、そういったことによるものではないのだろう。
サクラと出会ってからたった数日。
それだけで、どうして彼女はこんなにも俺を信じているのか。
俺には不思議でしょうがなかった。
自分も何かできたらいい、とサクラは言った。
その気持ちはわからなくもないが、戦いは男の仕事だ。
女には女の戦う場があると思っている。差別するわけではなく、単純な区別だ。
それはきっとサクラもわかっているんだろう。
けれどサクラの話を聞いて驚いた。
それほどに平和な世界に住んでいたのかと。
この国にも一部そういった女性もいるだろうが、だいたいの者はナイフを持っていたり、護身術くらいはたしなんでいたりする。
最終的に、自分の身を守れるのは自分だけだ。
魔物という脅威がある以上、少しは戦うすべを知っている女性が少なくなかった。
「争いのない国にいたのなら、この環境はきついものがあるだろう。ある意味ではここは前線だ」
「たしかに血は見慣れませんね」
サクラは何かを思い出すように目を伏せた。
きっと、まぶたの裏には、昼間見た赤く染まったシャツが浮かんでいるんだろう。
どれだけ衝撃だったのかは、血に慣れてしまっている俺にはわからないが、今の話からするとよほどのものだったはずだ。
「でも、隊長さんがいますから」
隣に座る俺を見上げて、サクラは笑ってみせた。
無理をしているようには見えなかった。
「もし何かあったとしても、隊長さんはきっと私のことを守ってくれますよね。だから大丈夫です」
どうしてサクラはそこまで無条件に俺のことを信じているのか。
同じ疑問を抱くのはこれで何度目になるだろう。
どうして、なんて考えたところで、答えは彼女の中にあるのだから、俺にわかるわけもない。
けれど。
その信頼を、うれしいと感じている自分がいる。
その信頼に、応えたいと思っている自分がいる。
そのことだけは間違いなかった。
「……そう言われては、守らないわけにはいかないな」
無意識に、頬がゆるむ。
サクラが少し目を丸くして、それからほにゃりと笑みをこぼした。
その笑顔を守りたい、と思った。
義務としてだけではなく。
俺自身の、意志として。
もしかしたら自分は今、めずらしく笑っているのかもしれない。
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