「忘れられない夏(後編)」2

「それとね、どんなにどうでもいい話をしても、興味ない振りして実は全部ちゃんと聞いてくれてるでしょ?あたしでも忘れてることがあるもん、優しいなぁって思った」



目が離せなくなった。

いつも言い争ってばかりで、こんな風にちゃんと彼女の想いを聞いた事がない。



僅かな光しか発さない外灯にもどかしさを覚える。

もっとよく見たい。彼女が今、どんな顔をして話しているのかを。

この灯りだけじゃ足りない。



「あと、どんな退屈な状況でも先には眠らなくて、あたしが起きるまで帰らないで傍に居てくれ――。」



堪らず彼女を抱き締める。何故か無性に抱き締めたくなった。



初めて一緒に過ごした日と同じ香りがする。

全てを俺の胸の中に収めておきたい、消えてしまわないように。



彼女がそっと背中に手を回し、小さな声を出した。



「だけどあたしは―― 君とは付き合えない」



その時、ズキッと胸が締め付けてくる。


ああ、これか。この感情をしばらく忘れてた。

苦しいほど痛くて、切なくて、どうしようもない悲しみ。

いつ忘れたのか思い出せないこの感情が、今の俺には大きなダメージに思える。


彼女はゆっくり体を離した。

そして俺の目をじっと見つめ、こう言った――。



「でも好き」



この瞬間、全ての思考が停止した。

日本語がよく分からないような状態に陥る。



今、何て言った?



身も心も全て停止していると、彼女が顔を近付け、そっと優しくキスをしてきた。

車道で車が走る音、弱まった蝉の鳴き声、全てがクリアーに聞こえてくる。

顔を離した彼女の表情は、凄く悲しそうだった。

そしてそのまま足早に立ち去ってしまう。



その後姿を呆然と眺めた。



――は?



全くをもって意味が分からない。



まるでファーストキスを奪われた少女のように、呆気に取られながら自分の唇にそっと手を当てる。そして、今起こった出来事の経由をぐるぐると頭の中で回想させた。



付き合えない、でも好き。付き合えない、でも好き。念仏のように何度も頭の中で唱える。



え、俺は告られた?おまけにキスされたんだよな?



ハッとして、我に返ったように家から飛び出した。

目の前でタクシーが走り去って行く。



「ちょっ―― おい、花!」



そういやタクシー待たせてるとか言ってたな、くそ!



部屋に戻り、無我夢中で携帯電話を探した。

見付けて手に取り、初めてアドレスから“離婚調停中”の文字を探す。



「何処だ何処だ」



色んな女の名前がスクロールされる中、やっと見つけ出した。

胸が高鳴るような感情を抱きつつ、力強く通話ボタンを押す。



――



――――電源が入っていない為、かかりません。



オイ!!



怒りの矛先を何処に向けたら良いか分からず、電話を思い切り壁に投げつけた。



「何で電源切れてんだよ、馬鹿じゃねーの!?」



肩で息をしながらそう叫び、そのままベッドにうな垂れる。

目を瞑るとさっきの彼女が脳裏に蘇ってきた。

微かな光に照らされ、俺をじっと見つめる悲しげな表情、彼女の香り、柔らかい唇の感触――。それらを思い出し、髪をぐしゃぐしゃっと掻き乱す。



“でも好き”って何だよ!



凄く近くに居るのに、捕まえようとしても捕まえられない。

こんなにもどかしい気持ちは初めてだった。



そして――



この日を境に、彼女からの連絡は途絶えた。






                    ***




あれから圭太に根掘り葉掘り聞かれた。

バイト先に迷惑掛けちまったってのもあるし、一部始終を正直に話した。

物凄く驚いた表情で聞く圭太に対して、俺もまだ驚いてる所なんだけどな、と思いながらも冷静に告げる。するとこう言われた。



「そんな大輝、中学振りとかじゃねぇ?」



中学とか言われても、とっくに忘れちまって何も思い出せない。

ただ、こんな自分が久し振りだというのは重々承知してる。



本当、何でこうなっちまったのかさっぱり分からない。

あの日は何かが爆発したというか、覚醒したような、不思議な日だった。

なのにも関わらず、当事者である彼女は姿を消している。



毎日しつこいほど連絡があったのに、最後に会ったあの日からもう、10間日は連絡がつかない状況だ。事細かに言うと、ずっと電源が切れている。



本当に、自分勝手にもほどがある女だ。

最初はそう思ったが、こんなにも連絡がないと、まさかあれでサヨナラって事なのか?と、少し別れを予感していたりもする。



講義を受けながらぼーっと窓の外を眺めた。



季節は夏真っ盛りで、蝉がここぞとばかりに泣きわめいている。

脳裏に過ぎるのは、大学の入り口で不機嫌な表情で俺を待つ彼女、会ってすぐに何かしら文句を言う彼女、木陰でたたずむ姿が無駄に美人な彼女。



そして――



『でも好き』



キスをしてきた彼女。



至近距離で見た彼女の瞳、あれは出逢った時からヤバイと思ってた。色んな意味で。



大学生活最後の夏が、まさかこんな事になるなんて思わなかった。

突然彼女が現れ、今まで俺がしてきた生活全てを引っ掻き回し、散らかしたまま何処かに消えやがった。



毎日毎日彼女の事を考えてしまっている。そんな自分に嫌気が差した。

もうあんな女のことは忘れよう。勝手に消えた奴の事なんかを想い続けても、時間の無駄だ。そんな風にして自分に言い聞かせた。



講義が終わってから、すぐに圭太に電話を掛ける。

もう限界だった。綺麗さっぱり忘れ去りたい。

彼女のこと、こんなんなっちまった自分のこと。



「圭太―― コンパをセッティングしてくれ」


「珍しく電話掛けてきたと思ったらなんだよそれ、モテねぇ男みたいじゃん」


「今やモテねぇも同然だろ?学校では俺と関わったら妊娠して捨てられるって噂になってるし――。」



前もって圭太に聞いてはいたが、すげぇ驚いた。

あの時食堂に居た奴等でとどまらず、気付けば噂は学校中に広まっていた。



あの日から学校で女とすれ違う度、痛い視線を感じる。

そして目を合わせると、ビクッと体を飛び上がらせ逃げていく。

そんな日々を繰り返し、心底思った。


あの女、何てことしてくれたんだと。



「それとおまえんとこのクラブ。花さんと俺が付き合ってるって話で持ちきりで、あの女が左手の薬指に指輪してっから、今じゃもう結婚してるって所まで噂が広まってる。って、言ったのはおまえだろ?」


「ああ、そうそう。その通り」



圭太は不謹慎にも笑っている。



こっちは笑い事じゃねぇんだ。その話を聞いた時は、俺の庭が全て荒らされてしまったんだと気付いて、地味にショックを受けていた。気まぐれ我が儘なキチガイ女一人のせいで、行き場を無くしてしまった。



「いつやる?」



俺の問いに圭太がうーんとうなる。

こっちはいつだってOKだ。バイトで多忙な圭太に合わせるのみ。



「今週は今日以外無理だな。あとは全部バイトだし」


「え、今日?」


「予定入ってる?」


「いや、俺は全然良いけど――。」


「んじゃ、また後で連絡する」



噂には聞いていたが、こいつすげぇなと思った。

圭太はとにかく顔が広い。人当たりのいい性格だから、男女共に人気がある。

学校やクラブで知り合った連中とその友達、それはもう数え切れないほどの数だ。

それでいて真面目な性格なので、多くの人に信用されている。

こいつからすれば、初対面同士の仲介なんて容易いことなのだ。

だから圭太に頼み込む男が多いのも事実。



だけどまさか、自分が頼む事になるなんて――。

そんな事、一生無縁だと思ってたのに。

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