第5章 忘れられない夏(後編)
「忘れられない夏(後編)」1
久々に帰った1DKの狭い部屋で一人、頭を抱え込んでいる。
胸に手を当ててみると、心臓がバクバクいっていて、このまま呼吸困難でぶっ倒れそうだった。何も考えたくなくて、駅から猛ダッシュしたせいもある。
動揺する男は無様だ。そう思っていたが、今はそんなこと考えれないほど落ち着かない。無意味に立ち上がったり座ったりを繰り返し、そして最終的には大きくため息を吐く。
なんで俺、あんなことしちまったんだろ。
後悔と驚きが入り混じった気持ち。こんな感情は初めてだ。
あの後――
キスしてしまった後、彼女は慌てる様子なくただ一言「どうしたの?」と言った。
「どうしたのって、花さんのがどうかしちまったんじゃないの?突然はっちゃけたりしてさ」
「言ったじゃない、あたしは君みたいになりたいって。それに君も、今からそういう生活したらって言ってくれたし」
それで?
それでクラブ行きたいって言い出だして、そこら辺の男に付いていこうとしたのか?意味分かんねぇ。
「つうか、俺みたいになれとは言ってないし、そもそも俺ならもうちっと相手見極めるっつーか何つうか」
「言いたいことが少しも見えないんだけど」
「とにかく、花さんにああいうのは似合わねーってことだよ」
すると彼女は分かり易く怒った表情を見せた。
しかめっ面をし、口をぎゅっと結びながら睨み付けて来る。
「何それ?君はあたしの何を知ってるの?あたしだって、寂しかったり誰かに甘えたりしたい事くらいあるよ」
「俺じゃ駄目なわけ?」
ポロッと出た。
言ってしまってから驚いてしまう。何も考えずに即座に出た言葉だった。
彼女は目の前で目を丸くさせ、きょとんとしている。
「何なのさっきから?意味分かんない」
「や、いつも一緒に居んだからさ、俺に甘えりゃいいじゃん」
本当、しつこいくらい一緒に居た。関係を持った女とでさえ、あんなに一緒に居たことはない。楽しいことばかりじゃない。それどころか、苛付く事や腹立つことばかりだった。なのに会ってしまっていたのは、脅されてたせいもあるけど、やっぱり心の何処かに期待があったからだと思う。
しょっちゅう俺に会いたがるし、信用してるとか言い出すし、
気があるんじゃないかと思う節が多々ある。
だが彼女は真っ直ぐに見つめてきて、こう言い放った。
「君は―― 良い人だから駄目」
頭に血が上ってカッとなった。
「俺が良い人?おまえ馬鹿じゃねぇの?何が俺は最後のプレゼントだよ、そういう言葉とか全部誘ってたんだろ?」
クソ腹立つこの女。散々人のこと振り回して好きだっつー態度見せておいて、何が良い人だから駄目だよ。
ムカツクんだよ。
もう我慢ならない。怒りに任せて強引に彼女の肩を抱く。
無理やりキスしようとするも、じたばた抵抗された。
そして思い切り突き飛ばされてしまう。
彼女は困惑した様な、だけど何処か悲し気な顔を見せる。
それを見た俺は――
「もういい」
そう言って立ち去った。
そして今――
頭を抱え込んでいるという状況になる。
あんなの物が手に入らなくてぐずるただのガキだ。なんでそこまでして彼女を手に入れたいんだ?惚れちまった、とか?いやいやいや、勘弁してくれよあんなイカレ女。だけど―― あんな女を受け入れてやれんのは、俺ぐらいなんじゃねぇか?
大体良い人だから駄目って何だ?
巷で良く聞く、良い人なんだけど恋愛対象にはならないっていう、あれの事か?
大抵の女は落とすことが出来た。
だからまさかそんな事を思われる日が来るなんて、思ってもみなかったことだ。悪夢に近い。
何なんだよ、あの女。
彼女の記憶と自分の記憶を全て消し去ってしまいたい。
動揺は消えないものの、徐々に鼓動を打つスピードが落ちていった。
目を閉じて、冷静さを取り戻そうとしていたその時――
コンコン
静かな部屋に突然、ドアをノックする音が響いた。
勢い良く振り返り、睨み見るようにじっと扉を見つめる。
誰だ?そう思いながらも、ふと壁に掛かった時計に目を移した。
もうすぐ今日という日が終わろうとしている。
こんな時間に宅配やセールスは来ない。
圭太か?とも思ったが、クラブの閉店時間は深夜2時。だからまだ働いてるはずだ。だが他に思い当たらない。何故なら俺の家を知っているのは、あいつか家族ぐらいだから。
恐る恐る扉に近付き、覗き穴を覗いてギョッとした。
勢いよく扉を開けてみると、そこには彼女が居たのだ。
七瀬 花が。
驚きすぎて声が出なかった。ぽかーんとしてしまい、ただじっと彼女を見つめる。
すると、ばつが悪そうに片手を上げてきた。
「よっ」
何がよっだよ、神出鬼没すぎるだろ。ここまでくると恐ろしい。
唾をごくんと飲み込み、やっとのことで声を出した。
「なぜ此処が?」
「あ、言ってなかったっけ。ラブホに一緒に行ったあの日、君の鞄の中をあさったじゃない?その時に携帯電話の請求書を見つけてね、住所が書いてあったから、何かの為にと思って手帳に控えておいたの」
控えておいたのって、何を普通に言っちゃってんの?
「そういう事、恐いから止めてくれませんか?」
「だけど今、役に立った」
犯罪めいた事をしておきながら、少し誇らしげな表情を見せている。
心底呆れたが、まあ今となっちゃそんなことはどうでもいい。
それよりも聞きたいことがあった。
「何で来たの?」
「タクシーで。今そこで待っててもらって――。」
「じゃ、なくて」
誰がこの状況で交通手段を聞くんだ。
彼女と心が通じ合ったことはない。ついでに言うと、考えていることも行動も全て理解できない。改めて考えても、そんな相手とよくもまぁ一緒に居られたなと思う。それは自らの意思ではなかったからだ。
だが、今やその日々なんてどうでもいいと思えるほど、何処かで彼女を求めている。そんな自分さえも理解出来なくなっていた。
自分と彼女に対して、呆れるようなため息を深く吐いた。
「だから、何の用で此処に来た?」
「あ、うん」
彼女は顔を俯かせ、戸惑うように口篭る。
その様子をじっと見つめていると、意を決したように顔を上げた。
真剣な表情で真っ直ぐに見つめられ、冷静を装ってはいるけど内心ドキドキした。
何を言い出すのか検討もつかないからだ。
「前に言ったよね?あたしと付き合ったら、君が可哀想な事になるって」
「ああ、今はその意味が分かるよ。俺に負けじと花さんが軽いからって事だろ?」
「本当、君は全然分かってない。あたしはもう傷付きたくないし、誰かを傷付けたくもないの。君は凄く、良い人だから」
「だからそれ何だよ。俺が良い人?有り得ねぇだろ、何を見てそう思ったんだよ」
「君を―― ちゃんと見てたよ。ここ何日か一緒に居て、ずっと見てきた」
彼女の瞳が揺らぐ事なく俺を捕える。それに捕まると逸らす事が出来なくなるんだ。出逢った時からそうだった。強くて何処か危険で、だけど悲しさも
「いつも一緒に居た。我が儘で自分勝手なあたしを、文句を言いながらも君は受け入れてくれた」
夜風が彼女の長い髪を揺らしていた。
夏の香りがする風。今思えば、この香りを感じ始めた頃に彼女と出逢った。
毎年毎年感じることだった。だが今年は、その夏風に乗って彼女が現れる。
そのせいなのか、この夏しか傍に居ないかもしれないという儚さを何処かに感じることもあった。
いつも傲慢な態度なのに、自分の想いを告げる彼女は何処か小さく見える。
このまま消えてしまうのではないかと思えるほどに。
廊下にある小さく灯る明かりだけが、彼女を微かに照らしていた。
もっと強い光で照らしてくれ、じゃないと消えてしまいそうだ。そんな風に思った。
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