第16話 「鍵」


朝、妻のヨウコを送り出してから玄関をドアを閉めて便所に入った。しばらくして玄関のドアをどんどんと叩くものがいる。不思議なことにチャイムは鳴らさない。まだ便意があるので居留守を使って踏ん張ることにした。すると、ガチャッとドアが開いた音がして誰かが入ってきた。うっかり者の妻が忘れ物を取りに戻ってきたのかもしれない。「ヨウコか、忘れ物したのか?」と便器に座ったまま声をかけた。「ヨシヒロ…」聞き覚えのある声がした。妻の声ではない、数ヶ月前に死んだ母親の声だ。妻が母の声真似をしているのか?と考えて「ヨウコだな? 母ちゃんの真似して驚かしちゃいかんぞ」と言うと「ヨシヒロ、お前玄関の鍵をかけ忘れているよ」と言う。母親の声だ。妻はこれほどそっくりに真似できるほどに器用じゃない。一瞬背筋が寒くなった。幽霊か?それとも泥棒だろうか? でも、確かに僕の名前を言った。やはり妻がふざけているのか? 「誰だ、ふざけるなよ」と言うと、「お前がしっかりしないとヨウコが可哀想じゃないか」と言う。よく見ると便所のドアを少し開けて僕を見ている顔がある。死んだ母だった。「ひゃあああ!」驚いた。座ったまま腰を抜かした。「あたしは心配なんだよ、お前がヨウコに酷いことしてやしないかと思ってさ」「わ、わ、わかったから、早くあの世に帰りなよ。なんで出てくるんだよ、自分の息子を驚かして面白いのかよ」「そりゃ面白いよ、あんたの驚いた顔がマヌケでさ」「あのさ、そのおっかない顔…鏡見たかい?」「お前は何も知らないんだね、幽霊は鏡に映らないんだよ」「鏡に映らない? そりゃ吸血鬼だろう?」「そんなことより、おっかない顔だなんてさ、お前は自分の親に対して酷いことを言うんだね、びっくりだよ、あたしゃ悲しいよ、シクシクシク」「いまどきシクシクシクだなんて泣く奴はいねぇよ、泣いたふりしやがって」「へへへへ、よくわかったね」「もういいから帰ってよ、ウンコが途中なんだよ」「わかったよ、でも玄関のカギかけ忘れてるよ、今は物騒だから危ないよ」「じゃあ、閉めてってくれよ」「お前は何も知らないんだね、幽霊は空いている中には入れるけれど、出してくれないと外に出れないんだよ」「えええ、知らねぇよそんなこと、ったく、めんどくせぇな、ちょっと待っててよ、もう…手がかかるお化けだな…ったく、ウンコも引っ込んじまったよ」「あんたは本当に何も知らないね、あたしは幽霊で、お化けじゃないんだよ」「どうでもいいよ、そんなこと、どれどれ…よっこらしょっと」ドアを開いて便所の外に出た。母が立って微笑んでいる。何故か死んだ時よりも少し若くなっている。「どうでもよくないけどね、今度はお化けなんて言うんじゃないよ」「わかったよ、早く帰りなよ、あ、親父は元気かい。相変わらず郵便配達してるのか」「まだやってるよ。お前が死んだら郵便配達のあとを継ぐんだよ」「え、やだよ。あんなこと俺にはできないよ」「親が死んだあとも相変わらず親不孝な息子だねぇ」「待ってよ…お茶飲んでいきなよ、今お湯を沸かすから待ってて」「そうもしていられないんだよ、こっちにいられるのは3分だけなんだってさ」「へぇ、そうなの。ま、いいよ、また来てよ、でも今度来る時は知らせてよ、いきなりはびっくりしちゃうからさ」「今度はいつ来られるかねぇ…約束できないけど、うん、また来るよ」「また鍵を開けておくからいつでも入って来なよ」「ああ、わかったよ、ヨウコをいじめるんじゃないよ」「いじめたことなんかないよ、早く帰りなよ」「あたしが出たら鍵を閉めるんだよ、何かあっても空気みたいなあたしたちにはあんたを守ることなんかできないんだからさ」「空気…確かによく見ると母ちゃんの向こう側が透けて見えるわ」「だろ、それじゃ気をつけるんだよ」「うん、また来てね」「あいよ、じゃあね…」玄関のドアを開けて外に出ると母親の姿はもう見えなかった。

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